叔父の家族葬は、列席者5名であった。
まさに文字通りの家族葬。
叔父の兄姉たちは既に故人で、配偶者の叔母も先月亡くなったので、
叔父の子供たち2人のほかは、甥と姪(私)、叔父の従弟、
という顔ぶれであった。
形式的に来た人は皆無だったのだから、
本来的な、心のこもったお弔いであったとは思うのだが、
少子化の今後は、そもそも葬儀自体が消えて行くのかもしれない、
ということも感じた。
そもそも「お葬式」は、弔いであるとともに、世間への挨拶であった。
人ひとりがこの世から消えるにあたり、
気付いたら行方不明になっていた等の居なくなり方ではなく、
「某月某日、これこれの事情で故人となったことを確認し、遺体はここにあり、
このように関係者で手続を踏んで埋葬することになりました」、
と、世の中に対して明白に公表するのが葬儀だった、筈だ、
と私は思っている。
そのために、職場関係や御近所などにも連絡が回ったし、
遺族が把握しきれていない交友関係もあったことを考慮し、
新聞広告まで出して広く通知することを心がけたりした。
しかし「家族葬」が一般的になってからは、
世の中への公表の意味合いが薄らいで来た。
葬儀日程を即座に広く知らせることをしなくなったし、
世間の側も、自他ともに「親しい」と認める場合以外は、
家族中心の場に、わざわざ立ち入ることをしなくなった。
家族葬では、香典や花などを辞退することが多いので、
あとになって訃報を聞いた人たちも、
香典持参であらためて挨拶に出向くことはしないし、
御焼香を…と言いたくても仏壇のない家が既に普通になった。
更に、年賀状が廃れつつある昨今、喪中葉書を見る機会も減った。
そのうえ時代とともに非婚率が上がり、少子化が進んでいる。
我々の親世代は4人きょうだい以上の家族構成もまだあったが、
我々の年代だと2人きょうだいくらいが多く、
その下の世代では子供を持たない選択をする人も増えた。
近い将来、「家族葬」は故人とその子供(たち)だけ、
という形態が珍しくなくなり、それならきちんと火葬しさえすれば、
別に「葬儀」などの形式も要らないではないか、となるのではないか。
そうでなくても日本人は実質的には無宗教が多い。
遺体や遺骨がなくなったら天国に逝けない等と思っていないし、
「墓じまい」も増加しているから、
焼いた後は樹木葬や散骨などで終了、でもいい。
きょうだいが一人あるかないかの環境で育ち、
独身で子供も無かった人が、一定年齢以上で亡くなった場合、
関係者も既にこの世にないとなると、家族葬も成立せず、
自治体が火葬だけして終わらせるケースも増えそうだ。
通夜も告別式もなし、墓は生前の指定がなければ合葬墓など。
著名人でもなければ、世間に大々的に通知する機会も必要もないから、
何かの拍子に友人知人らの間で「死んじゃったんだ…」と知られたり、
あるいはそれすらなく、いつの間にか見かけなくなって、忘れられる。
それが悪い、という問題提起ではなく、
そういう流れは避けられないのだろうなと私は思っている。
報道されるような事件で死亡した場合は別だが、
一般的な経過で亡くなった人は、特段の挨拶や公表などなく、
いつの間にか、人知れず、消えて行く。
遺言があり、成年後見人の指名が為されていれば
天涯孤独でも、私的な意味での死後の始末はつけられる。
日本に関しては、いわゆる「葬式」なるものは
今後、一部の人達だけのものになって行くのだろうと、
5人きりの葬儀に参列していて、強く思った。
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