転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



一年前と同じ箇所が扁桃炎になり、微熱プラス腹部不快、
つまり扁桃炎と大腸炎のセットという、定番の不調だ。
こういうときは、とりあえず寝るしかない。

ということで、きょうは朝から寝たり起きたり。
海堂尊『チーム・バチスタの栄光』(上)(下)を昨夜読み、
主人が貸してくれた映画のDVDも観て、
きょうはその続編『ナイチンゲールの沈黙』(上)(下)も
寝ながら読み終えた。

後者の小説に、傑出した歌い手が、自分の歌声に乗せて、
心の中にある情景を聴き手に強力に伝える、という描写があった。
ある種の歌手は、歌うことにより、まるで人前で裸になるように
聴く者に向かって、自分の心の中にある映像を
意識的あるいは無意識的に見せてしまうものらしい。
聴覚を通して視覚的な体験を実現させるわけだ。

ちょっとエスパーめいているが、わからないこともない。
なぜなら、確かに、ある種の演奏を聴くとき、私は、
自分が根本から揺さぶられるのを感じることがあるからだ。
それは音楽で良い気分になったなどというヌルい話ではない。
もっと強烈なものを否応なしに突きつけられる感じだ。
ポゴレリチを怖いと思うのはそういう点だ。

だがまあ、彼の演奏をどんなに心を澄まして聴いたとしても
彼の前夜の行動が聞き取れたりなんてことはないわけですが(爆)。


ということで、今夜は引き続き、
『ジェネラル・ルージュの凱旋』(上)(下)、行きます。

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仮説  


転落死高校生にリレンザ処方=使用の有無は不明-保護者に注意喚起・厚労省(時事通信)
『長野県松本市で県立高校2年の男子生徒(17)が転落死した事故で、男子生徒にインフルエンザ治療薬「リレンザ」が処方されていたことが29日、厚生労働省の調査で分かった。使用の有無は不明という。』『同省は同日、リレンザなど薬使用の有無にかかわらず、未成年者のインフルエンザ患者は高熱を出してから最低2日は、1人にしないよう保護者らに注意喚起する通知を製薬企業に出した。』『男子生徒はインフルエンザで学校を欠席していた。集合住宅5階の自宅ベランダから転落したとみられ、27日朝に見つかった。同日夜、リレンザが処方されていたと、医療機関から製造販売元「グラクソ・スミスクライン」を通じ、厚労省に報告があった。』

薬よりも、インフルエンザそのもののせいで異常行動が出るのでは、
と私は以前から疑っているのだが
2007年11月22日:「タミフルがなかった頃」)、
作用機序が違う(だろう)タミフルとリレンザと、
どっちを使用しても患者が高いところから飛ぶのであれば、
それは薬のせいではなく、やはり、病気のせいではないのだろうか?
飛んだ患者全員に共通しているのは、服用した薬の成分ではなく、
罹っていた病気の種類のほうだからだ。

実は私は今、約五ヶ月ぶりに左の口蓋扁桃が炎症を起こしている。
慢性扁桃炎で、ひどいときには毎月のようにおかしくなっていた私が、
夏以来、五ヶ月も扁桃炎を起こさなかったのは素晴らしいことで、
今、ちょっとくらい咽喉がどうこうなっても全然不思議ではないが、
イヤなのは、これがインフルエンザの始まりだったら、ということだ。
私は薬の威力を信じているほうなので、もしそうなったら
タミフルでもリレンザでもアマンタジンでも大歓迎だ。
幸い、私はオバさんなので禁止はされていないだろう。

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先日来、小指が痛い。右手の小指が。
あなたが噛んだ、ワケではなくて、
とあるスケールを弾くのにヘタな練習をしたからだ。

コトの起こりは、例のクレメンティのソナチネ作品36-3だ。
第一楽章の真ん中あたりに出て来る、スケールの最後の音を、
どうにかして、もっと意味のある音にしたいと、ある日思った。
スケールの切れ味を良くして、洗練させたい、と。
弾き手としては小学生以下の私だが、聴き手としてはオバさんだから、
自分として「かくありたし」という理想は、一応あるのだ。
それで、上がるにつれてクレッシェンドで弾いてみたが、
最後を強打するだけでは、単に余裕のない音になってしまうし、
かと言って、丁寧に離すようにしても、ぼやけてしまって駄目だった。

その後、レッスンのとき、この箇所について、
先生のお話から私なりに理解したのは、
スケールの最高音(楽譜でいうと高いド)は強い音には違いないが、
ただ強打するのではなく、直前のところで、一瞬、
・・・という間もないほどの瞬間だが微細な区切りを入れ、
それから改めて「ド」を、丁寧な力を込めなおして打鍵する、
という感じだった。
スラーだからと言って、同じ調子のまま勢いで同じ音で行っては駄目で、
盛り上げてきて、最後の音だけ瞬間的に音色を違うものにする。

確かに、これなら、きらん♪と輝くようなスケールになりそうだ。
・・・と、わかった気はしたのだが、
さて実際やってみると、なかなか思うようには弾けなかった。
テンポの速い箇所で、いろんなことを一瞬か、それ以下で
次々としなくてはならないのだ。私の技量では難しすぎた。
更に、次の小節はフォルティシモで始まっていて、
ここも無造作に強打したのでは、乱暴な音になってしまうから、
再度、力と気持ちを込め直して出発せねばならない。

スケールで変な失速はしたくないし、最高音はキメたいし、
短い休符の後の次の小節も、余裕のあるイイ音で始めたい。
ということで、まずはゆっくり弾いて、
一応感触を確かめたところで、徐々にテンポを上げてみた。
錯覚かもしれないが、二日目くらいに良い感じになって来た。
まだまだ理想には遠いが、前と違うものにはなった、と思った。
それで調子に乗って、一番いいと思うテンポまで上げて、
気分良くやっていたら、更に二日後、右手小指にキたことがわかった。
自発痛は全く無いが、鍵盤に強く当たると、指先が鈍く痛い。

これだから年寄りの冷や水なんだ、とナサケなかったが、
無理な弾き方であることを体が教えてくれるのだと思うことにした。
楽器演奏の大きな部分は筋肉の運動だけれども、
ウサギ跳びをシヌほどやっても関節を痛めるだけ、みたいなもので、
やみくもに負荷をかけて耐えれば鍛えられる、という感覚は誤りだ。
鍛錬になり、かつ指を痛めない弾き方を覚えることも、
大事なテクニックなのだなと改めて思った。

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昨日、舅のお墓を掃除したあとお線香をあげていて、思ったのだが、
仏教の作法の問題はともかくとして、舅のためには、
お線香より煙草に火を点けて供えたほうが良いのでは(爆)。

舅宅には、私が仏壇に供えたピースが、
まだ封も切られていないまま、放置されているのだが、
眺めていてもどうなるものでもなし、
あれを今度、舅の墓に持ってきて、燃してみよう。
一度にやったら勿体ないから(殴)、お線香さながらに、
毎回、二本ずつ立てて、火を点けるのだ。
舅は、お線香より和むに違いない。
それとも骨(コツ)じぃになってからは更正できていて、
「わしゃ、線香のほうが、今は、良ぅなったで」
と言うかな。ふっっ、まさか。

さすがに舅宅の仏間で煙草を焚く気には、なれず(ケムくて)、
やるとしたら、やはり墓しかないと、思うのだが。
遠目には、掃除のあと墓場で一服つけているオバさんがいる
というふうにしか、見えないだろうな(逃)。

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一昨日、主人が『ガラスの仮面』43巻を買ってきた。
毎度のことだが、新刊を読む頃には、私は前の巻が、
一体どういう話でどこまで行っていたかを完全に忘れている。
なんせ四年前から話が進んでいなかったのだから。

それで、今回も42巻のおさらいをして、そうそう写メね、
と思い出して、やおら43巻を読んだ。
アホの小野寺が、またピント外れな宣伝や妨害を工作しては、
亜弓さんの不興を買っていた。
この大河ロマンの裏テーマは「小野寺のアホ」ではないかと
私はこのところずっと思っている。
彼は、北島マヤを、彼女の芸歴の一番最初から直接知っているのに、
未だに全く把握できておらず、彼の立てる対策は常にズレまくりだ。
私はこれほど頭の悪い登場人物をほかで見たことがない。
きっと私は小野寺という男のことは一生忘れないだろう。

****************

さて、漫画関連では、このあと、ほかの楽しみも続くので嬉しく思っている。
まず、『デトロイト・メタル・シティ』の7巻が2月13日発売予定だ。
もともとコミックスを買っていたのだが、
去年夏に映画化されたのが予想以上に気に入って
あれ以来、今回の新刊発売はいつにもまして待ち遠しかった。
映画のほうのDVD(2月13日発売)も欲しいと思っている。

もうひとつ、以前から愛読している『カッパの飼い方』も
12巻が2月19日に出るそうだ。
皆が長らくオスだと思っていたヘラクレスが実はメスで、
いよいよ出産というところで前巻は終わっていたが、
あれからどうなっただろう。
たまごが生まれた、という話はネットでチラリと見たのだが。

そうそう、マニアの皆様、
黒執事』の6巻は、まさに本日発売でございましたが、
広島では明日になると思われます。
おや、今回の表紙は、ファントムハイヴ伯爵シエル様でいらっしゃいますのね。
セバスチャンは、何処に?

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娘の話。

娘「きょうねきょうね!音楽の時間に、歌舞伎のビデオ見たよ!」
私「ほー。何を見たのかな。暫(しばらく)か?」
娘「違う~。えっとね、勧進帳!」
私「弁慶がな、ぎなたをもって・・・」
娘「え?」
私「いや、なんでもない。こっちのことだ」
娘「・・・・・(^_^;???」

私「で、誰の弁慶だった。團十郎か」
娘「うん、市川團十郎だった」

そう言ってから娘は自信がなくなったらしく、
ノートを取り出して、自分がメモってきたものを見た。

娘「そうそう。合ってる。團十郎。
 そんで、源義経が、ばんどう はちじゅうろう
私「それは八十助(やそすけ)じゃ」
娘「失礼しました」
私「郎、じゃないし(--#)」
娘「うそーーー!!郎だったよ!!」
私「見間違いじゃ。歌舞伎に八十郎なんておらん。
 まあ、八十助は今は三津五郎(みつごろう)だけども」
娘「じゃあ、混ざったんだよ

混ざるかっっ、普通!!

娘「今、三と五の入った名前の人になったとは習った」
私「んだから八十助が坂東三津五郎を襲名したのだ」
娘「わかった。で、富樫が、おがみ きくごろう

おのえだ、おのえっっ!!!
聞いてりゃ、さっきから、
マトモなのは成田屋(團十郎)だけじゃないか(--#)。
そこの、手元のメモには、一体何が書いてあるのだ!?
よりによって音羽屋の旦那さん(尾上菊五郎)を間違えるとは(-_-)。
常日頃、キミわたしの話なんも聞いとらんのね

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中学や高校の頃の私は、深夜放送を聴く趣味はなかったが、
例外的に、NHK-FMの『サウンドストリート』はよく聴いていた。
一番好きだったのは、甲斐よしひろで、
彼の日はかなり熱心に聴いて録音も長い間残していた。
曲やアーティストについて彼の語る言葉も興味深かったし、
ご本人のライブもときどきあって、これも面白かった。
そもそも私は、もっと以前のAMの『若いこだま』の頃から
甲斐よしひろの語りがとても好きだったのだ。
大ファンまでは行かなかったけれど。

もうひとり、渋谷陽一の日も結構聴いた。
こちらは、ご本人の文章にはもっと前から注目していたのだが、
ラジオが気に入ったのは、この人の企画そのものに魅力があったからだ。
渋谷陽一は、私が常日頃なんとなく「いいな」と思っているものを、
いつも、率先して取り上げてくれる人で、しかもその切り口が、
「そうそう、そういうのが聴きたかったんだよ!」
と思う、心憎いほどファン心理を掴んだものだったのだ。

その、懐かしいサウンドストリートが、
先日来、少しずつ、WEB上で復刻されている。
NHK青春ラジカセ:サウンドストリートがよみがえる!

渋谷陽一の『クイーン特集』、これはもしかしたら、
実家を探せば、当時の録音テープが残っているかもしれないのだが、
あのときの放送は、英国BBCの協力を得て、
クイーンのメンバー、とくにブライアンとロジャーが大半だったが、
彼らのラジオ用インタビューの録音をそのまま流したものだった。
今、サイト内にある復刻版では、BBC部分はカットされ、
渋谷陽一が訳しながら説明するところだけになっているが、
本当は、メンバーの声がじかに聴ける内容だったのだ。
ブライアンの美しいイギリス英語に聞き惚れ、
ロジャーのハスキーな話し声に胸をときめかせたものだった。

そして、私にとって嬉しいことに、このたび、
同じ渋谷陽一の担当の、81年忌野清志郎の回がUPされた。
ルージュ・マジック以前、RCがブレイクし始めた頃だ。
残念ながら、私は当時はこれを聴いていなかった。
まだ清志郎に注目していなかったのだ。
やはり渋谷陽一は「いち早く」情報を届けてくれた人だった、
と今更ながら思った。

『サウンドストリート』の復刻は続いているようなので、
このあともとても楽しみだ。

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今、残念ながら詳しく書く時間がないのだが、
「ヨイトマケの唄」のメッセージというのは並大抵ではない、
と、きょうは、改めて思った。

特に、級友からいじめ抜かれて学校を飛び出した主人公の少年が、
母親の働く姿を見て泣きやむところの描写が、凄い。
母親の仕事のことや、家が貧乏であることを理由に、
少年は学校で理不尽なイジメにあっていたのだが、
男たちに混じって日雇いの肉体労働に従事する母親を見て
心打たれ、涙も忘れ果ててしまう。

そして、彼が何を思ったか。

少年は、自分を虐めた級友の残酷さを恨んだのではなかった。
自分たち家族を救わない社会の不公平さを糾弾したのでもなかった。


少年は、学校へ戻るのだ。

 勉強するよ と言いながら
 勉強するよ と言いながら

美輪明宏:ヨイトマケの唄(YouTube)

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娘の通うA女子中は、昨日が入試、きょうが合格発表だった。
娘が受験した二年前には、A中の発表は自宅宛の郵送通知のみで、
私は試験の翌々日、何時になったら速達が来るのかと
家でジリジリと待っていたものだった。
が、その翌年、つまり昨年から、A中はなぜか、
校内掲示とネット発表、というふうに方法を変更した。
走って見に行ける距離に住んでいる我が家など、
当時から掲示をやっていてくれれば、早くて確実だったのに。

娘にそう言うと、掲示発表というものを見てみたい、と言いだした。
なるほど娘のときは、ほかの併願中学も郵送による通知ばかりだった。
唯一、B中だけが、掲示とネット発表だったが、
ネットで見たら娘はシッカリ落ちていたので(爆)、
直接、学校まで行って掲示を確かめたりは、もうしなかった。
だから娘も私も、合格者の番号が貼り出されている光景を、
まだ見たことがないのだった。

それで、夕方、買い物に行くついでに、ふたりでA中を見に行った。
なにしろ近所だし、スーパーまでの途中に学校があるのだ。
もう発表時間を若干過ぎていたので、
A中の近所まで来ると、たくさんの親子連れが、
発表を見終わって、てんでに帰って行くところだった。

女の子がニコニコしながら歩いていて、
後ろからお母さんがこれまた笑顔で、携帯電話で話していて、
ああ、この子は合格していたんだな、とわかった。
正門前では、娘さんとお母さんが笑い合いながら並んで立ち、
お父さんが声をかけて写真撮影しているところも見かけた。
そうかと思うと、今着いたばかりらしく、
息を弾ませ小走りに門を通り抜けていくお父さんと
その後ろをついて来た真剣な面持ちの女の子もあった。

正門を入ってすぐの広場になったところ二箇所に、
合格者の番号が貼り出されていた。
続けて何番か抜けていて、また番号があって、
数人分番号が続いたり、十人以上抜けている箇所があったり、
そのあとはまた、とびとびにあったり、抜けたりしていた。
番号の向こうに、ひとりひとり、受験生だった女の子がいる、
と思うと、抜けている箇所には胸が痛んだ。
この学校への思いは、それぞれ違うものがあったかもしれないが、
当日まで頑張り、一生懸命に試験を受けに来たという意味では、
どの子も、皆、同じだった筈だからだ。

合格発表の末尾は1060番台で終わっていた。
今年も志願者数は1000名を超えていたのだ。
「あたしの受験番号、確か1000番台だったんだよー」
と娘が言った。
そうだった。出願開始直前に私が大カクランしていて出遅れ、
期日には間に合ったものの、娘の受験番号は限りなく大きかった
同じ小学校出身の友人の間で、四桁の番号を持っていたのは娘だけで、
受験票を見せるたびに、皆で、かなりウケてくれたものだった(^_^;。


追記(1月26日):整頓が良いんだか悪いんだかわからない娘が、
入学当時の書類の入った封筒を見つけ出してきた。
それの表に彼女の受験番号が印字されていた。1073番だった。
娘らは学校で昼休みに合格発表の掲示板を眺めて、
自分のかつての受験番号が載っているとかいないとか喋ったそうだが、
今年の合格者の末尾は1060番台だったから、
今年だったら娘は落ちていたことがわかった(爆)。

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姑は、このところ、特養で変わりなく過ごしている。
ほぼ寝たきりで、胃瘻を通して栄養や水分を取り、
昼夜問わず痰の吸引をして貰って、ウトウトしていることが多い。
目が覚めると、話しかけるような声を出してくれる。
状況の理解は難しいようだが、目は合うし、笑顔も出る。
平熱の日を見計らって、機械浴で入浴もさせて貰っている。

2005年11月に特養に入った頃は、すでに認知症ではあったが、
活発に(一方通行気味でも)会話できたし、食欲も旺盛だった。
一時期はベッドの柵に足を乗せたり、
寝返りを繰り返したりして、自分で体位を入れ替えることも出来た。
それが、ほんとうに目に見えないほど少しずつだったが、
発音が曖昧になり、動作も緩慢になった。
2007年秋頃には、固形食が難しくなり、ミキサー食に変わり、
この頃からむせる回数も増えた。体重が落ちた。

それでも、去年の夏まではほとんど変わりなく、
姑は一日の大半を、車椅子に座って起きていることができたし、
スープやムースのようなものなら、喜んで食べていた。
が、8月下旬に食事を誤嚥して呼吸困難になったことから、
肺炎を起こしてしまい、入院することになった。

肺炎が落ち着いたあと、胃瘻造設の手術を受けたが、
結局、姑は、11月に退院できてからあとも、
夏以前の状態にまで戻ることはなかった。
入院で三ヶ月近くもベッドで過ごしたので、
退院後も結局、寝たきりになってしまったのだ。

こうして少しずつ衰えて行くのかなあと、
きょうも、姑の寝顔を見ながら、思った。
この三年で、姑は明らかに衰弱したし、病状も進んでしまった。
だが一方で、いつも言うことだが、姑が穏やかに過ごせていて、
苦痛が少ないのであれば(皆無であるのが理想だが)、
私としては、特にリハビリなどしなくてもいいと思っている。
年齢が高くなれば、枯れるように老いるのはむしろ自然なことだからだ。

社会復帰を目指す若い人なら、つらいリハビリを繰り返す意味もあるが、
姑は既に、このところ何年も車椅子生活だし、食事も全介助だった。
体が痛いのに我慢して車椅子に座り続けたり、
むせかえりながら食事の自力摂取に努めたりすることが、
果たしてどれほど姑を幸せにしただろうかと考えると、
私は、もう今の段階では、積極的な訓練など、
別にしなくていいのではないかと思うのだ。

欲を言えば、もう少しだけ慢性気管支炎が落ち着いて、
外泊、無理なら外出程度の時間でもいいから、
自宅に戻れるようになるといいのにな、と思う。
それも姑には負担になるだろうか?
なんとなく、家に帰ってみるのは良いことのように思うのだが、
私の自己満足だろうか。
痰の吸引が頻回なので私ひとりで対処できないかもしれないが、
ヘルパーさんや訪問看護など、外泊でも自費で良いなら頼める筈だ。
温かくなったら、この点を、
園の主治医の先生に相談してみたいと考えている。

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