転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



私の素晴らしい4連休が、きょうで終わり……(爆)。

インフルに罹ったことが良かった筈はないのだが、
こんなに大手を振って寝たいだけ寝ていたのは久しぶりで、
本当に素晴らしい、極楽とはこのことかという4日間だった。
体は文字通りの「極楽」ではなかったが、心は「桃源郷」であった。

現実世界のアレもコレも放置・放棄で、
枕元にCDプレイヤーと本を持ち込み、
忙しくて日頃聴けないCDを聴き倒し、読みたいものを読み、
寝たいだけ寝て、食事は主人に買って来て貰い(爆)、最高だった。
体調不良の時の私の療養音楽は大抵モーツァルトなのだが、今回も、
 ピアノ四重奏第1番と第2番(ピアノ:イェルク・デムス)、
 ピアノ協奏曲第9番・12番・21番・27番(ピアノ:フー・ツォン)
をとりわけ繰り返し聴き、
モーツァルトの音楽には天空の星々がちりばめられているのだなと感服した。
『俯仰して宇宙を終せば 樂しからずして復た何如』
(寝転んで宇宙を見渡し、こんな楽しいことが他にあるか)
と陶淵明が言ったのはこのことかと(違!!!)心足りた思いであった。

しかし、私がこんなことを言っていられたのは、
予防接種してあり、かつ、イナビルを速やかに使ったからであって、
かつて二十代で、マトモにインフルに罹ったときの苦痛を考えると、
医学の進歩は素晴らしいとしみじみ思った。
インフルなんか罹ったことない、と妙な自信を持っていた24歳のとき
予防接種を受けていなかった私は、ある日咽喉の違和感から発熱に至り、
39度近い高熱が以後4日間続き、手持ちの風邪薬でそれをごまかしながら、
悪寒と灼熱地獄の繰り返しに耐えることになった。
一人暮らしで、高熱になったら最後、医者に行く気力も失ったが、
行けていたところで、タミフルもリレンザもない時代だった。
微熱にまで下がったあとも、何も飲み込めないほど咽喉が痛み、
絶え間ない咳と完全な鼻閉で息が苦しく、まともに夜も眠れず、
「確かにスペイン風邪で人が死んだ筈だ。これはキツい…」
と夜更けに布団の上に正座して苦悶しつつ、考えたものだった。

「インフルかもと思ったら、医者に行くより家で寝ていろ」
と、良識あるお医者様方が時々、Twitter等で発言されているが、
正しいかもしれないがそれでは患者が辛すぎる、
と私は正直なところ思っている。
確かに、普通に体力があればインフルですぐ死んだりはしないし、
大半は日にちの経過とともに、いずれなおるに決まっているのだが、
なんの投薬治療も受けず、確実にインフルと診断をして貰うこともなく、
数日間とはいえひたすら高熱に耐え続けるのは、並大抵ではない。
そもそも、体の苦痛が度を超すと、文字通り七転八倒で、
横になってゆっくり休むことなんか到底出来ないのだ。
また昔の私がやったように、家にある風邪薬をインフルのとき使うのは
脳症などを起こす危険がないわけではない行為だ。
インフルで解熱したいなら、アセトアミノフェンを服用すべきで、
これの市販薬はタイレノールというのがあるが、
家に常備している人はそんなに多くないのではないか。

私の思う、最も苦痛のないインフルの治し方は、
インフルかもと疑った時点で、近所の内科に連絡して指示を仰ぎ、
発症から48時間を経ないうちに受診し、抗ウィルス剤を貰う、だ。
もともと私は医療機関が嫌いでないほうではあったが、
今回のことで私はその考えに確信を持った(^_^;。
医師の診察と検査により、インフルだと言って貰えるだけでも、
原因が特定できて、まず一段階、心身ともに楽になる。
「インフルエンザの場合、早めの受診より、基本は自宅安静です」
というtweetを昨日も見かけたが、それに従った場合、
以後数日間の苦しさは完全に患者持ちになり、私には耐え難い。
今年のインフルでは、早めに対処して貰ったからこそ、
私の症状は速やかに改善され、文字通り「寝て」過ごすことができた。
これこそ本来の休息というものだったと思っている。
インフルになっておいて、こんなことで勝ち誇っても仕方ないのだが、
これが、今の私の実感である(^_^;。

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ある程度予想していたことではあったが、インフルエンザに罹った。
なぜ予想できていたかというと、21日の帰りの新幹線で、
とても近い席にいた女性が、マスクなしで、
名古屋から岡山まで激しい咳をし続けていたからだ。
これはウツるな(^_^;、とその時点で私は覚悟した。

思った通り、24日の夜から胸元に何か炎症のある感じになり、
咳払いしてもすっきりせず、やはりあの人から貰った風邪ではなかろうか、
と思っていたら、25日には倦怠感が強くなり、熱を測ると37度、
微妙かなと思いつつ、午後3時半、昼寝して起きたら発熱38度、
これはアカンとその時点で会社に電話をし、
「とりあえず明日は行けない。これから近所の内科に行って検査して貰うが、
もしインフルだったら27日土曜日も出勤してはいけないことになるだろう」
という主旨の報告をし、マネジャーの了解を取った。

それから、いつも血圧を診て貰っているかかりつけ内科に電話し、
「昨夜から風邪症状があり、さきほど熱が38度になったので、インフルかもしれない」
と告げ、検査のタイミングなど尋ねて、夕方5時過ぎに行くことを決めた。
待合室でほかの人に接触するのがマズいと思い、がっつりマスクして行ったら、
予め伝えてあったため、すぐに衝立で囲んだ奥のベッドに案内された。
それからしばらくして診察があり、検査を受けたら果たしてインフルAと出た。
ちなみに私の隣には、もうひとつ衝立で囲まれたベッドがあり、
そこにいた女性はインフルBと診断されているのが聞こえた(^_^;。
会計もその衝立の場所で済ませ、領収証と処方箋を貰って、
その足で薬局に寄り、イナビル吸入、解熱剤のアセトアミノフェンを受け取り、
治療そのものは終了となった。

職場に再度電話をして報告し、25日26日と寝て過ごした。
予防接種をしてあったお蔭か、イナビルが効いたのか、
熱は結局そのあとは37度7分が最高で、さほど高くならず、
症状は、倦怠感と咳、咽喉痛、腰痛、頭痛、という状態で、
3日目の今朝は36度に下がり、かなり元気になった。
出て来いと言われれば、出勤できる体調まで回復したが、
インフルAとわかった以上は、むしろ出歩くほうが
会社と社会の(笑)迷惑だろう。
混み合う土曜日に、申し訳ありません同僚の皆様・お客様<(_ _)>。

現時点では、普通の風邪くらいの鼻炎と咳の症状はまだあり、
また過去の経験から、インフルは一度解熱しても再度発熱することがあると
わかっているので、このあともごろごろして養生しようと思っている。
予定通りなら、次の出勤日は30日火曜日で、
その間、4日間も会社に行かなくて良く、何もしなくて良い、
というのは私にとって素晴らしい話だった。
こんなに、誰はばかることなく連続して休めるなんて、
体力的にはともかくとして、精神的には極楽と言える状態だ。

休暇だ、休暇だ~~(滂沱)!!

追記:28日日曜日には熱が37度1分まで戻った。
もう最初ほど倦怠感はなかったが、やはり一筋縄では行かなかった。

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19日(金)の午前中に、両親と某介護付有料老人ホームを見に行った。
これから施設見学に行くよ、と朝、出発前に告げたら、
昨年6月の入院で集団生活と大部屋住まいの窮屈さに懲りていた父は、
「老人ホームなんか絶対に行かん。ワシは、このまま家に、おる」
と、まるで先日の貴乃花親方みたいに(爆)ふんぞり返った座り方をし、
テコでも動かぬ体で反抗したが、
脚の不自由な母の、いざというときの入居先を探すためだからと説得して、
…というかある意味騙して(爆)、父も一緒にタクシーで連れ出した。
母のほうは健康状態への不安から、「皆から構われたい」願望があり、
最初から施設入所については結構積極的だった。

行った先は、両親の住まいから車で10分ほどの
比較的新しい有料老人ホームで、もちろん個室で自由度も高く、
介護度に応じて生活介助が受けられるところだった。
職員さんに案内をして頂きながら、
母は車椅子で、父は杖を使いつつ自分で歩いて、
居室や食堂、レクリエーション活動の部屋や庭でのお散歩コース、
詰所や理美容室など、施設内を見学した。

経営母体は某病院なので、現在治療中の疾病については勿論のこと、
入居後に新たに検査や治療・投薬が必要な状態になっても、
至近距離の、同じ系列施設内での受診ができ、入院加療も可能で、
支払さえ継続していれば老人ホームのほうの部屋も維持され、
看取りまで継続してケアして貰えるそうで、
内容に見合う料金だと納得できるなら、
これ以上、快適な施設生活はあるまいと私には思われた。

果たして、想像よりずっと綺麗で明るい部屋や設備を父は気に入り、
「そうか~。こういうところに家を持つことを、考えんといけんね」
と、見学中にすっかり宗旨替えした(汗)。
更に、担当の方から案内を受け終わると、父は自分から、
「私もここに入るには、どうしたらええですか」
と質問するまでになった(汗)。
私が半ば騙して連れて来たので、父はこの時点でも飽くまで、
まだ母のための施設探しの気分だったのだ。
いやはや、来て良かったな(大汗)。
勿論、母とセットで一緒に入って貰うのが私の最初からの希望だよ。

肝心の母のほうは、24時間、詰所に職員さんがいて下さることと、
何もしなくても食事が出てくることを知り、満足していた。
今は、昼には数時間、ヘルパーさんが来て下さるものの、
主として夕食調理のためであるし、足腰が痛くて眠れない夜も、
湿布を貼ったり座薬を入れたりなど、
自分でできなければ我慢するしかない状態なのだが、
ここではナースコールひとつで、とりあえず返答して貰え、
場合によっては処置もして貰えるなどとは、
母にとって天国にも等しい話だった。
また、三食、待っているだけで温かい食事ができて来るし、
食事や入浴の時間に定めはあるものの、レクその他の活動は自由参加で、
基本的に自室で好きなように暮らせる、というのも母の希望に適っていた。

ということで、二人が一応、見学の範囲では満足した様子だったので、
私は入居の方向で話を進めてくれるよう、施設に頼んだ。
それにはこれから、入居審査が必要とのことだった。
まず、生計を異にする身元引受人が必要で、結果として私がなったが、
自営または会社等の勤務をしていて、勤続年数3年以上、
という条件があり、私は勤務先の会社に入って5年目だったのでOKだった。
両親の状況以外の点でも、今のタイミングでちょうど良かったのだな、
と、この巡り合わせをありがたく思ったりした。

19日はそれで一旦終了し、本日、私が改めて担当の方と面談をして、
両親それぞれのこれまでの経歴や病歴、
現在何で困っているかや、家族として私が施設生活に望むこと、
等々の聞き取り調査を受けた。
また、入居審査に向けて主治医からの紹介状も必要で、
母は腰痛を診て頂いている整形外科、
父は糖尿病でお世話になっている内科に、
それぞれ書いて頂くようお願いすることになり、それらは、
きょう施設からの帰りに、私が各クリニックに寄って依頼してきた。

このあとは、施設の空室状況にもよるが、
受け入れ体制が整い次第、専門の担当の方が両親宅に来られて、
直接の面談をし、その内容と主治医からの紹介状とを合わせて、
定例の検討会の場に出し、入居の可否が決定されるということだった。
現在の家庭生活のケアプランを立てて下さっているケアマネさんには、
施設への入居希望があることを私から既に報告してあるのだが、
施設のほうからも電話で、経過報告をして下さっているとのことだった。

90歳近い両親なので、私としては機能回復とか自立とかは、
もう、あまり望んでいない。
二人がそういうトレーニングを望むなら否定はしないが、
何をおいても快適に、できるだけ煩わしいことがない状態で、
のんびりと毎日を過ごして貰えれば、私は何も文句はない。
何もしないと早く衰えるという考え方もあるだろうが、
88歳と89歳にとっては、もう「遅かれ早かれ」の次元ではないだろうか。
本人たちがキモち良いのであれば、もう、いいんだよ(^_^;、
ボケるに任せていたって(爆)。

支払は、これが20年間だったらきついが、10年ならイケるだろう、
という範囲だった。……常識的に行って、なんとかなるだろう(^_^;。
きょうだいが無いので、金銭的なこともすべて私の一存だ。
相続人が私だけなので、両親の貯金が老人ホームにすべて費やされようが、
仮に、その上に不足分を私が支払うことになろうが、私さえ良ければOKだ。
誰の意向も伺う必要はないし、文句を言って来る人も居ない。

とりあえず、きょうできることは、やった。

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1月21日(日)の公演を観た。
菊五郎劇団の国立劇場を観ないことには、
私の正月が来たことにならない!

全四幕の中に時代物あり・世話物あり・曲芸あり・ドリフあり(笑)、
仕掛けも大がかりで総花的に楽しく、
例年以上にスケールの大きな娯楽作品になっていた。
冒頭、音羽屋の旦那さん(菊五郎)の登場の第一声が、
低く昏く深くて、聴いた瞬間に魂抜かれた。

更に、あらしちゃん(松緑)が、声も姿も動きも、
足先指先、目線の先まで、実に実に格好良かった(感涙)!!!
新年早々、私好みの松緑をふんだんに観ることができ、最高だった!!!

菊之助はもう、どの角度から見ても音羽屋のプリンスの面目躍如。
こんな匂い立つような跡継ぎとして、見事に生い立たれようとは、
長年の音羽屋ファンとして感無量でございます。よよよ(T_T)。

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意図的に予定を一切入れず、きょうは、寝た。
今週は日曜に主人が東京出張をして、私はフリーになり
結構わがままに過ごしたのだが、まだ完全に疲れが取れていなかった。
それで、朝7時半、主人を送り出してから最低限の掃除と洗濯、
それにゴミ出しをして、布団に戻り、そのまま昼の12時半まで寝た。
夢も何も見ない熟睡だった。
それからまたなんとなくウトウトし始め、次に目覚めたら午後3時半だった。

午後のほうの惰眠では、私は夢を見ていた。
高校生の娘にくっついて、このワタクシが娘と同じデザインの制服を着て、
娘の学校に「1日体験入学」するという、噴飯モノの設定だった。
私は夢の中で、一生徒として、音楽の授業を受けたり礼拝に出席したりして、
「また来月も来ます」
などと、ハタ迷惑なことを笑顔で発言していた。

どうして夢にそんなものが出て来たかというと、
今朝、ゴミ出しのときに、家の前を、大勢の小学生の女の子たちが、
娘の母校のA女子中学に向かってぞろぞろと歩いているのを見かけて、
ああ、きょうはA中の入試なのか……、と気がついたのが理由だと思う。
そのとき私の頭の中で、娘自身の入試の頃や、入学してからのいろいろが、
走馬燈というほどちゃんとしたものではなかったが、極めて断片的に、
それぞれ数秒ずつ蘇ったので、寝てからそれが再度浮かんで来たのだろう。
「体験入学」は眠りに落ちる前に読んでいた漫画『テレプシコーラ』の
「無料体験レッスン」が元ネタか(^^ゞ。

ともあれ、天気も良く、寒すぎることもなく、
きょうは試験を受ける日としては、悪くなかった。
無事に入試に出て来られただけでも、まずは半分合格したようなものだ。
受験のときは必死になって当然だが、所詮は合否なんて時の運、
結局は入学した学校が母校になり、そこでの6年間が、きっと楽しい思い出になる。
中学や高校なんて、まだまだ、ゴールでもなんでもない。
お嬢ちゃんたち、みんなみんな、前途は洋々だ、元気出して頑張ってねぇ、
と、孫の受験でも見守るような心境で、改めて思った(爆)。


追記:(1月19日) 夜もまた10時半から寝入って翌朝6時半まで、本当に素晴らしくよく寝た。
最高の休日とは、ひとりきりで、予定なく誰にも邪魔されず、
ひたすら「寝る・寝る・寝る」ことを言うのであると
私は前から思っていたが、やはりその通りであるとの思いを強くした(^_^;。
これほど幸せな思いになったのは久しぶりだった。

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今年(以降)の私的懸案事項は、以下の通り。

1.両親の入る施設の選定・入居手続
2.山の上の墓の始末および移転
3.実家の売却+神棚の行く先の決定
4.実家が代々やってきた地元八幡様のお世話係の引き継ぎ

今年はこれらにひとつずつ、しかし決して無理はせずに、
できる範囲で手を付けて行きたい、と思っている。

88歳と89歳のペアは、まだできる・なんとか暮らせる、
という次元で、ずっと自宅で生活して来たのだが、いくらなんでも
そろそろ行き先を確保しておかなければならないと思う。
ケアマネージャーさんとも相談の上、実家近くの、
介護付き有料老人ホームへの入居を、今、検討している。
ふたりがもし70代だったら、この先20年、どうかすると30年近くも、
有料老人ホームに居て貰うのは経済的に厳しい、
と私は考えたに違いないが、何しろ既にほぼ90歳なので、
常識的に言って、残り年数は10年あるかどうかだろう(汗)。
本当は私のマンションの近くに移ってきて欲しいのだが、
「知らないところへ行きたくない」
と二人が言うので、そこは私が譲歩することにした。
私の側に、経済的・身体的・時間的な負担は残るが、仕方がない。
入居が決まっても、自宅を処分するわけではないから、
外泊等で家に帰ることは今後も可能で、それを考慮すれば、
確かに自宅から遠くないほうが何かと心強いだろう。

何であれ、今後、親が倒れるとすれば突然に決まっているし、
90歳にもなって寝付いたら、そう簡単に元通り元気になると期待もできまい。
そのようなときに、至近距離でもなく自家用車も持っていない私が単独では、
かたや病院かたや自宅の、90歳夫婦の世話を同時にすることは無理だ。
去年の6月に父が半月入院したときでさえ、
私は病院と実家を毎日バスを乗り継いで訪問し、シにそうになった。
ああいうのは、もう御免だ。
ということで、今週後半に某施設へ、説明を聞きに行く予定にしている。

墓については、車で行ける道がないどころか墓参りイコール登山、
否、控えめに言ってもハードなハイキング、くらいの場所に墓所があるので、
私は早いこと先祖代々の墓をまとめて、地上の霊園に降ろしたい、
とずっと考えている。
そのための業者さんも、霊園の候補も、
実家と親しい某家のおじーさんに教えて貰い、目星はつけてある。
そのおじーさんも2年前、家の古い墓地を整頓し、
車で行けて管理人のいる某霊園に、一家の総墓として造り直されたのだ。
父はかなり以前から、自分の墓は自宅の裏の竹藪に造ってくれ、
などとタワケたことを言っており、私が霊園の話をすると返事をしないので、
同意しないという意味だと思うが(汗)、もう構っていられない。
自宅敷地内に墓を建てるなど論外だ、どれほど手続しても通るまいよ。

山の墓へ行く道を知っている者もだんだん少なくなりつつあるので、
私が動けなくなったら、訪れる者もなく凄まじい有様の墓地になるだろう。
それ以前に、両親が亡くなっても、あそこに墓石を上げること自体が、
現在はもう無理だから、親を葬ることもできない。
昔は遺体を家の若い者が背負い、…戦後は遺骨を親族が持ち、
石屋さんが新しい墓石を担いで、皆で登山したという話なのだが、
今時、そんなこと誰がするのか(--#)(--#)。
墓石を最後に墓所まで上げたのは、昭和42年に祖父が亡くなったときで、
あれから既に半世紀経っているのだ。
当時みかげ石を命がけでかついでくれた石屋さんだって、もう死んどるワ(爆)。

しかし、それらの仕事にもまして、
実家の後始末が、作業的には一番大変だろうなと予想している(汗)。
両親は戦前戦中に過ごした世代のせいか、何も捨てることができず、
ボロでもゴミでも全部、取っておく人達で、
しかも引越をしたことがないので、実家にはモノが山ほどあるのだ。
実際の生活で使っているのは寝室とダイニングキッチンくらいなのに、
座敷・中の間・玄関・奥の和室に手間の和室・古い台所・土蔵・納屋、
などがあって、築100年、もはやオバケ屋敷さながらだ。
だいたい、部屋数の多い家に少ない家族で住むのは家として凶相なんだよ(--#)。

自分自身があの家に住んでいた頃は、そんなものだと思っていたのだが、
18歳で親の家を出て以来、私は主として都会の集合住宅で暮らすようになり、
人の念が籠もっていない、カラっとした住居にすっかり慣れてしまったので、
今となってはもう、実家の、開かずの間になっている納戸付近など、
近づくだけでも、特に気色悪い感じがする。
明治時代からあるような家屋なんて、
両親のほかに何が棲んでいることだろうかと思うだけで憂鬱だ。
そうそう、古い家の常として井戸もあったよそういえば(汗)。
痕跡だけではなく、今も生きていて水の出る井戸だ。
井戸は祟るので怖い。きちんと祓って終わらせなくては。

神棚は複数の神主さんにお尋ねしたところ、
神社に納めて焼けば良いという人と、
心配なら祈祷して貰って処分すれば良い、という人があり、
どちらにしても、さほど大変なことではなさそうなのだが、
内部に、仏教でいうお位牌みたいなのが何体かあるので、
あれは私がマンションに持って帰るか、
親戚に頼むかしなくてはならないだろう。

地元神社のお世話係も、今はとりあえず私が父の代わりをしているが、
私はもう、結婚して姓が違い、昔風に言うなら家を出た身なので、
地元のどなたかにお譲りして、身を引きたいと願っている。
だいたい婚家は安芸門徒なんだよ(^_^;。
しかし、さすがにいきなり「一身上の都合により辞めます」
というわけには行かないので、総代会できちんと話し合って、
どなたに次をお願いするのか、決めて引き継ぎをしなくてはならない。
これは私ひとりの努力や工夫だけではなく、地元の方々の協力が要る。

希望としては、以上の4項目を還暦までに仕上げてレポートを書き(違)
人並みの余生があったならば、60代からは私は、
主人と自分のことだけ考えて暮らせる身になりたい、と考えている。
墓と家の始末は特に、残したままでは娘を困らせることになるので、
私の代で決着をつけておかなくてはならない。
主人は主人で、舅姑の家を片付けて売却しなくてはならないのだが、
あちらは既に、家の墓はお寺の墓地の中に主人が建てたし、
地域で何かお役目がある等の問題もなく、
やはり都会の人は簡単で良いよなあと、思わずにいられない。

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金曜の夜から主人が三泊四日で東京出張に行った。
確か、去年のこの時期も同様の仕事があった筈なのだが、
広島がかなり気温が下がって冷え込んでいるときに、
主人は東京へ、まるで避寒に出かけたようなことになった。
LINEによると、目下、東京は日差しがあって温かく、
コート不要とのことだった。
昨夜、主人は娘と会って、和食メニューの夕飯を共にしたそうだ。
私が手を下さなくても、家族がとても幸せにしている、
……私にとって理想的だった。

そして、きょう日曜日は私は会社が休みで、完璧な休日になった。
朝は一度、いつもの5時半に目が覚めたが、
朝の用事をする必要が何も無かったので再度寝入り、
目覚ましもかけず自然に任せて、10時半頃に本当に起きた。
家の中はテレビも鳴っておらず、静かで、
何時までに何をせねばならないという制約もなく、
私はパンを焼いてコーヒーを淹れ、時間無制限の朝食を取った。
ああ、最高だ。和む(T_T)。

主人は明日の夜まで帰って来ないので、今夜も夕食の支度は要らない。
何時に何を食べようが食べなかろうが、私が不満でなければOKだ。
誰も訪ねて来ないし、私に話しかける人も居ないから、
相手の要望や気持ちを考慮した返答をする必要なども、全くない。
今、私は自分が何をしたいかしたくないかだけ、気にしていればいい。
ラクだ、ありがたいことだ(T_T)(T_T)。

***************

いつも新年には、自分の勉強の計画を立てているのだが、
親介護の比重が増してきてからは、もう勉強らしい勉強はできなくなった。
あまり事前準備の要らない試験という意味で、とりあえず今年は、
TOEIC S&Wの公開テストを、一度は受けたいと考えている程度だ。
去年もそう思っていて、結局、会社から言われてTOEIC SpeakingのIPだけ、
秋口に受けることになったので、今年はせめて、それをもう一歩進めたい。
TOEIC L&Rを毎月のように受験していた頃からすれば、まるでシオらしい話だが、
受験料もS&Wになると1万円くらいかかるから、「数打てば」とは行かないし、
今は時間的にも、日曜日を何度も試験に費やすことはできないのだ。
だから、とりあえず「どこかで一度は」というのを、最低限の目標にしておく。

その他、懸案事項としては国連英検特A級と、仏検準1級が、
ここ数年来の積み残しなのだが、これらは継続的な受験勉強が必要なので、
今の私では、時間的にも能力的にももう、無理がありすぎると思う。
国連英検は私などにとっては、もともとが難関であったうえ、
国連の現状や昨今の国際問題についての勉強や暗記が要るし、
そもそも英語力自体が、ごく限られたビジネス英語以外は日常使っていないので、
数年前より格段に落ちていると自分で感じている。
なんとかしたいが、「腰を据えた」勉強など今はもう全く不可能だ。

更にフランス語となると、仏検2級を取ったのが5年も前で、
もう一度2級の手前あたりから出直さないと話にならないだろう。
ここまで落としてしまったのは残念ではあるのだが、
仏検サイトなどで目にする合格体験記には、
会社を定年退職されてから本格的にフランス語学習に取り組まれ、
努力の末に仏検1級に到達された方とか、
大人になって初歩から10年くらい学習を続けられ、
ついに単独語学留学の夢を実現された方などの話が出てくるので、
私も、人生にはいろいろな時期があるのだと受け入れて、
これからも断念せず、学びたい気持ちだけは持ち続けていたいと思っている。

ひとつ僅かに期待しているのは、
来月、転勤でうちのオフィスに来るカナダ人が、
英語とフランス語の両方を使う人だと、同僚からの事前情報で聞いたので、
彼と職場で強引なフランス語会話をすれば、
私の仏語力も少しは目覚めるのでは、ということだ。
尤も以前、別のカナダ人が言っていたところでは、
カナダのフランス語は18世紀の入植者が持ち込んで以来、独自の発達を遂げ、
フランス本国とは違う面が出て来ており、パリの人が聞いたら「?」と思うような、
不思議な言い回しもあるとのことだったが、……この際、構っていられない(汗)。

広島に着任した途端、なぜか変なオバさんが壊滅的なフランス語で絡んできて、
カナダ人は意味が分からず、さぞかし困惑するであろうね(汗)。

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12月31日以来、昨日まで、怒濤のような何かが身辺を過ぎて行ったが、
私はその大半が、時間の経過として実感できていない。
毎朝5時起きで、山奥の寒村に通い倒して一週間、
神社の奉仕と老親の世話に従事していたために、
私の中からは適切な季節感など吹っ飛んだのだ。
ひたすら寒かったのは覚えているが、毎日いつでも寒かったので、
ただ寒い日の次の日も寒い日でその翌日もやはり寒かった、だけだった。
東京から娘が帰省していた筈だが、私はそのほうの記憶も無いに等しい。
娘が居間のソファで本を読んでいた姿は思い出せるが、
「それはお盆のときの話でしょ」ともし誰かに言われたら、信じられる(爆)。

ともあれ、実家の村のあれこれが一区切りつき、
一昨日、俗世に戻り会社に出勤したときの嬉しさと言ったら、なかった。
I'm home! I have come back alive!! と私は感涙にむせんだ。
英語なんか半月近く喋っていなかったので、
英語での思考順序も、発音で使う調音点も、何もかもが久々だった。
正月休暇が終わって仕事に戻って来て
「ただいま~!!!」と感激する人間は普通ではなく、
now at workだよ、Are you OK ヨシコさん?
と同僚カナダ人が笑ったが、あの現代の秘境に較べたら、
ビル街があってバスと市電とJRが行き交う市街地は天国だった。
お客様と忙しくやりとりしながら、「これだよ、これこれ!」と
私は日常を取り戻した手応えに、小躍りしそうになった。

そして夕方、仕事を終えて帰るとき、
市街地の百貨店の入り口や店内に松飾りや繭玉があるのに気づき、
「なんで、こんな感じの飾り付けがしてあるんだっけ…?」
と真面目に思い、数秒考えてから、
「そうか、正月か、今……」
と理解した。
山奥の神社にも門松があり、会う人には「おめでとうございます」と
幾度となく挨拶をしていたが、それらはご奉仕のルーティーンであって、
私の思っている「お正月♪」とはほぼ関係のないものだったのだ。
家族がいて、こたつでごろごろしながら『ガキ使』で笑って『紅白』を観て、
蕎麦や雑煮を食し、朝寝坊し、起きたらなんとなく近所の神社に初詣に行く、
テレビのお正月特番を家族と観ながら、またのたのた過ごして、夕方になり、
……というのが、普通のお正月じゃなかったっけ?
そんなの全然やってないのに、「お正月」が来たと言われても……!!

そして、今朝起きたとき、とても寒くて、
「今から季節は冬に向かうんだっけ?これから春になる途中だったっけ?」
と布団の中で真剣に疑問に思い、最近のことを順番に思い出しながら、
「百貨店に正月飾りがあったから今は1月の初めで、ということは季節は冬で、
このあともっと寒くなる。2月3日が節分だからそこから暦の上では春……」
と頭の中で復習した。
今は、2018年、平成30年、になったばっかりだ、1月初めだ。
冬のまっただ中で、このあとしばらくも、やはり冬だ。
どうすればこのことが頭から抜け落ちないようにできるだろうか。
起床時に毎日、唱えるべきだろうか。
こんなあやふやな状態では、今後、私はふとした気の緩みから、
「急に涼しくなって来たので、冷えがこたえますね」とか
「今年はついに、何々できなかったんですよ~」などと、
新春としてはどう考えてもおかしい挨拶をしてしまう危険性がある。

ときに、先日、人からたまたま聞いた話によると、
私は今年「八方塞がり」という年回りに当たっているそうで、
全方位に障りがあり、何もできないらしい。
これは算命学の「天中殺」みたいなものかなと思うのだが、
そうであれば、私は今年は(も)、自分で何か打開しようと考えず、
ひたすら言われるまま命じられるままに動くのみだ。
運気が上向きでないときは、長いものに巻かれるのが得策だと思う。
しかし一方で、ネットで調べてみると「かに座」の私の2018年は、
加速度的に勢いを増していく年、ということになっており、
また「九紫火星」としては、公私ともに絶頂期で、
……ということは、ここを境に後は「下る」だけという意味でもあるが、
とにかく今年は仕事が発展したり何かに抜擢されたりで、
得意になったり大胆になったりしがちらしい。
そこで慢心すればするほど、この後が悪くなるということだろうね(汗)。
四柱推命だと「新しい自分に向かって努力する勇気が湧いて来る時期」。

まあ、概論としての占いで言えることなんて、そんなもんだわね、
基本的に恵まれない運勢だという前提にして、
あまり勝負に出たりせずに大人しく過ごそう、
……と確認する、年の初めなのであった(^_^;。


追記:11月の祭りのとき、鯛がお供えされたまま2日目に傷んでしまった、
という反省があったので、今回は私なりに気をつけ、総代長様にも、
元旦の歳旦祭が終わったら鯛だけは下げましょうと進言した。
総代長様もそれは完全に同意して下さり、更に、
「そういや、祭りのときの鯛ね、○○(=某総代さん)が持って帰ったんじゃが、
まあ『腐っても鯛』いうのはホンマじゃったらしいで」
と仰った。えええええ~~(^_^;!?詳しく聞く勇気がないよ、それ(^_^;。

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