私は概して、平仮名より漢字が好きだ。
その最たるものは、例えば「子供」という表記で、
私は「交ぜ書きが嫌い」という理由も相まって、
これを「子ども」と書くことを意図的に避けている。
また、私は補助動詞も、自分の好みにより漢字で書くことが多い。
例えば、「○○を下さい」と、何かをくれるように言うときと、
「○○をしてください」と、行動についてお願いをするときは
同じ「クダサイ」部分でも働きが異なる。後者が補助動詞だ。
これらに関して、特に公務員の書く公文書においては、
単独の動詞としては「を下さい」と漢字が当てられるが、
補助動詞では「をしてください」と平仮名書きにするのが
明確な決まりになっている。
しかし私は、敢えて、それに従っていない。
自分の趣味により、補助動詞でも漢字で書くことを、
この日記では自分に対して許している。
急いでいるとき等、ワープロソフトの変換に逆らわないこともあるので、
厳密に必ず漢字にしている、というほど強固に一貫したものではないのだが、
吟味できる時間的余裕があるときは、漢字を当てていることが多い。
理由は、平仮名で書くと、音そのものが表記に現れる気がして、
生々しい、というのが私の生理的な感覚だからだ。
私は自分の書いた文章の中で、あまり「音」を「見たくない」。
一般的な感覚が、そのようなものでないことは承知している。
単に私がそう感じるので、平仮名書きにごく僅かな・微かな嫌悪感がある、
というだけのことだ。
日常特によく遭遇するものとしては、
「~をして『下さい』」、「~をして『戴く』」のほか、
「出来て『来る』」「死んで『行く』」なども私個人の趣味で漢字で書いている。
尤も、ビジネス文書や挨拶状、答案など、公式的な意味合いを持つ文章では、
私もきちんと、補助動詞部分は平仮名で書くように努めている。
そのくらいの柔軟性は、一応、保っているつもりだ(^_^;。
日本語には厳格な正書法は無いので、私的な文章をどう彩るかは、
個人の趣味を優先しても良いであろう。
補助動詞を平仮名で書くというルールがなぜ一般的かというと、
その言葉が動詞だったときの本来の意味を既に失っているから、
というのが、文法的な妥当性を背景にした理由なのだが、
私は本来の意味を持っていたときのかたちで書くほうが好みに合うのだ。
すみませんね。
振り返って考えてみると、「音を見たくない」問題に加えて、
私は子供の頃から、「濃い」ページが好きだった。
漢字が多く、行間や字間が広くなくて、隙間無く埋めた感じのする印刷に、
とても美しいものを感じて、そういう本は特別に大切に扱ったものだった。
文庫だったら昔の岩波とか新潮とか。
楽譜でも全音ピアノライブラリーのが特に大好きだった。
内容はともかく(爆)1ページにぎっしり印刷してあるから(笑)。
中二病の頃など、文章を書くときは、可能な限り、
辞書で調べてでも書ける箇所はすべて漢字で書いていた。
形式名詞(「~する事」「~な時」)や接続詞(「但し」「或いは」)、
副詞(「既に」「随分」)、連体詞(「此の」「来たる」)等々も、
私は常に漢字で書くようにしていた。
また、改行したあとの見た目に強いコダワリがあって、
新しい行の半分以上は埋めるように、表現を工夫したりした。
白い部分を可能な限り少なくしたかったのだ。
ひとえに、自分にとってそのほうが美しかったから。
当時の日記帳は凄いよ(汗)。
長ずるに及んで視力がダメになり、今は老眼もあるので、
フォントサイズの小さいものは軒並み無理になってしまったが、
やはり、漢字で隅々まで埋めた感じのレイアウトのが好みではある。
「平仮名」という「一文字が一音」の剥き出しの世界を「漢字」で包み、
同時に、紙や画面の白いところを丁寧に埋める、みたいな感覚だ。
ラノベの類いをあまり読まないのは、内容以前にまず、
全体的に見た目が白っぽくて、「大事に読みたい」気分が湧きにくいからだ(^_^;。
この日記の表記に関しては、そういう「ぎっしりにしたい」ヘキと、
それでも見に来てくださる方々があるのだから自己中が過ぎてもいけない、
という自己抑制との、中間地点で揺らいでいる部分が、しばしばある。
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