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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



『真景拝み屋怪談 蠱毒の手弱女〈冥〉』が出たので、
早速買って読んだ。
『真景拝み屋怪談 蠱毒の手弱女〈天〉』の第二部。
毎日忙しいのに、これの御蔭で夜更かしをしてしまった。

話が壮大過ぎ登場人物が超多く、こちらの頭も良すぎるので(爆)
一読しただけでは、筋を追うのみで終わってしまい、
改めて、以前のシリーズに戻って確認すると、
「そうだった、そういう設定があったよな(汗)」
と思い当たるところが多々ある。
第三部が出るまでに、何度も復習して身につけて(^_^;
おかないと、話の大事な箇所をあれこれ見落としそうだ。

2014年2月に作者が湖姫の家に呼ばれて、
「深天の闇」を一緒に覗いた逸話が折に触れて出て来るのだが
私はこれまでの全巻を読んでいる筈なのに、
その話がどこに書いてあったか、そもそも書いてあったのかどうかも
今のところ突きとめられていない(恥)。
読者の私まで湖姫の目の威力で記憶を封じられているのか(違)。
ほかの本に登場している伊吹さんのことは、
そのほうの記憶が新しかった御蔭もあって、
即座に気付いたのだがな(^_^;。

amazonのレビューを読むと、名刀で闘うところが
『鬼滅の刃』みたいだという指摘があるが、
私は『鬼滅――』を読んでいないのでその部分には既視感は無い。
ただ、これはさすがに実話怪談の範疇ではないよな~~、
という、既刊のシリーズとは異なる読後感は、私にもある。
登場人物が皆さん超人で、私には別スケール・別世界の話である。
それゆえに楽しめているので、無問題ではあるけど(^_^;。

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郷内心瞳の最新刊『真景拝み屋怪談 蠱毒の手弱女〈天〉
(角川ホラー文庫)を先日読み始めたのだが、
話の下敷きとして触れられるエピソードのあれこれを、
私は確かに知っている筈なのに、詳しい中身が即座には思い出せず、
それが度重なるにつれ、これでは面白さ半減だと反省し、
以前読んだ『拝み屋念珠怪談 緋色の女』『奈落の女』を
まず、読み返すことにした。
これらは、一連の物語として続いているのだ。

新しい読者が『蠱毒の手弱女』から開始してもわかるように
文章内容にはひととおりの配慮が為されているのだが、
私は以前からシリーズとして買い続けている読み手なので、
「この話は、………どっかで知っている(汗)」
「この人は、…前の、……何の話のとき出てきた人だっけ(汗)」
と感じるところがあると、どうしても確認したくなってしまう。

ときに、COVIDに感染すると脳をやられ、
言語能力が落ちるという報告が以前から各種論文に出ており、
後遺症となって残っても軽度だと本人には自覚がない、
等々の指摘もあるところなので、
私も昨年夏に罹ったために読書能力が鈍ってきたのか、
と一旦は考えたのだが、この日記を辿ってみると、
最初に『奈落の女』を読んだとき、
これが『緋色の女』の続きだと気付くのに時間がかかり、
若い頃は、前に読んだ本の内容を忘れるなど、あり得ないことだったのに
と嘆いていたのが、コロナ罹患前の2022年7月だったことがわかった。
3年も前に、既にこのザマだったのだ。
良かった、とりあえず普通の老化現象だったようだ。
いや、良かったかどうかわからんが(汗)。

その、2022年夏の『奈落の女』読了時点で、私は、
『おそらく1年後にまた、これの続きの『○○の女』(多分)が出るのだろう。
今度こそ、来年まで忘れないようにしなければ』と書いているのだが、
案に相違して2023年夏には『○○の女』は発売されなかった。
それから郷内氏の新刊はしばらく途絶え、この3月にようやく、
シリーズとしては続きとなる『蠱毒の手弱女〈天〉』が出て、
来月は更にその続編の『蠱毒の手弱女〈冥〉』の発売が既に予告されている。
そしてこの2冊で完結せず、もう1冊出て三部作となる予定らしいということも
昨日、Xの『郷内心瞳&STAFF』さんのポストで読んだ。

というか、そもそもの話として、郷内氏の著作は、
氏の二作目の単行本であった『拝み屋怪談 花嫁の家』(2014年)からずっと、
ひとつの物語が、様々にかたちを変えつつも断続しているのだ。
大きなエピソードは、その都度、謎解きがあって一応決着しているので
特に気にしなければ、途中だけ読んで終わることもできるのだが、
続きものとして読むと、実は驚くばかりの大巨編なのだった(汗)。
5年程前にあらしちゃん(松緑)の日記で知った作家さんなのだが、
えらいものに手をつけてしまったことよ。
こうやって適度に?忘れるので、読み返せばまた怖さもひとしおで
一度買えば何度でも楽しめるって言や、まあ、そうなんだが(^_^;。

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咳もおさまり、あとは鼻粘膜がぼんやり腫れている程度で
ほぼ何も困ったことは無くなってきた。
先月23日にお籠もり生活に入ってこのかた、
やることが、――というより、やっても良いことが少ないので、
娯楽読書に撤して過ごしている。

島崎今日子『森瑶子の帽子』(幻冬舎文庫)
田辺青蛙・中山市朗・正木信太郎『メトロ怪談』(竹書房怪談文庫)
重松 清『いとしのヒナゴン』(上)(下)(文春文庫)
曽野綾子『花束と抱擁』(新潮文庫)
曽野綾子『わが恋の墓標』(新潮文庫)
曽野綾子『二十一歳の父』(新潮文庫)
足立正勝『死刑執行人サンソン』(集英社新書)
三木大雲『怪談和尚の京都怪奇譚 積徳の旅編』(文春文庫)
林 真理子『下流の宴』(文春文庫)
森 雅裕『モーツァルトは子守唄を歌わない』(講談社文庫)

出たばかりの新刊に加え、いつか読もうと思って積ん読にしていた本や、
懐かしい本の再読も含めて、これだけゆっくり楽しめたのは久しぶりで
なかなか有意義であった(殴)。

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SNSで偶然この本についての感想を見かけて、
懐かしい名前に興味を覚え、買って読んでみた。
作詞家・安井かずみを、私自身、世代的にそれなりには知っている。
彼女の書いた数々のヒット曲が流れる時代を、リアルタイムで体験したし、
その後の、加藤和彦との華麗で豪奢なDINKS生活についても、
バブリーだった当時、雑誌記事などで目にしていた。
あのようになりたいと憧れたことは一度もなかったが、
時代感覚を体現する、究極の偶像であることは強く感じていた。

安井かずみに関して私が当時、抱いていたイメージは、
ほっそりした、強くて格好いい女性で、特徴的な濃いアイメイク、
公私ともにリッチで、センスがあって、そしてヘビースモーカー。
あれだけのヒットメーカーだったから、印税も多分とてつもなくて、
我々が想像もできないような贅沢な暮らしをされているのだろうな、
等々と、別世界の人として感じていた。
御夫君はこれまた稀代の作曲家でありパフォーマーである加藤和彦で、
この人のことも私はザ・フォーク・クルセダーズの頃から観ていたので、
なんとまあお似合いなのだろうかと感心したものだった。
ちなみに彼が8歳年下。翔んでる女の結婚はこうでなくては、みたいな(^_^;。

『安井かずみがいた時代』では、彼ら二人を知る26人の証言者たちが
それぞれの関わりの度合いに応じて、各自の印象や思い出を語っている。
人間とは多面的なものであり、彼らの証言はそれぞれ断片的なものだから、
いずれの話もその断面においては真実であろうし、
仮に、安井かずみ・加藤和彦それぞれが回顧したり証言したりしたとしても
それだけが絶対的な事実や真実であるとも限らないだろう。
理想的なカップルと持て囃された二人の内面は、如何様であったか。
年齢も年収も社会的地位も「上」であった安井かずみが
夫婦関係において女王様であったのも本当だろうし、
反面、昭和の前半に育った彼らが「男が大黒柱」「夫唱婦随」のような
古典的な規範から自由になっていなかったこともまた、嘘ではないだろう。

様々に貴重な証言が収められているのだが、
私としては、吉田拓郎の述懐がとても印象に残った。
1970年代初期、沢田研二の『危険なふたり』が売れていた頃、
かまやつひろしに、パーティーがあると誘われて安井かずみの部屋へ行ったら、
「スリー・ディグリーズの『荒野のならず者』が流れていて、
コシノジュンコさんが踊りながら出てきたんです。
とんでもないものを見たって思いましたね。
当時のスーパーモデルたちがいて、みんなで輪になって座って
音楽を聴いたり、踊ったり、お酒を飲んだり。
あの時代らしく無茶苦茶やっていて、
夜中になると男も女も裸になってプールに飛び込むんです」。
70年代流・進歩人的「パリピ」の極み(汗)。
そりゃ広島から出てきた拓郎が「東京」にショーゲキを受けた筈である(^_^;。

拓郎は、その時代の奔放な安井かずみを知っていたから、
のちの加藤和彦との結婚には驚いたと言っている。
拓郎は加藤和彦とも音楽仲間であり、彼の才能を唯一無二と評価していた。
しかしそれゆえにこそ、加藤和彦の「優し過ぎて弱い」面も
彼なりに昔から感じていた。
拓郎は、加藤が自分より先を歩いてくれる女を求めた気持ちは理解できるが、
「歴戦の兵(つわもの)のZUZU(安井かずみ)が
なんでそんな頼りない男に熱をあげたのか。さっぱりわからない。」
結婚以来、安井かずみは、生活も趣味も交友関係も大きく変わってしまい、
加藤和彦の曲でなければ詞も書かなくなり、二人だけの世界へと耽溺してゆく。
それを拓郎は痛ましい思いで眺めた。
日本一ゴージャスなのに、内実は空虚な二人が、
懸命にその作り事のような関係を維持している、と拓郎の目には映った。

この本の終盤には、実妹のオースタン順子氏、
渡邊プロダクショングループ会長の渡邊美佐氏による、
安井かずみの内面に更に深く迫る証言も収録されており、
それらもまたなかなかに読み応えがある。
結婚生活は17年間だった。
安井かずみが肺がんで没して、今年で30年、
その後、加藤和彦が軽井沢で自死して、この秋で15年。
安井かずみ・加藤和彦夫妻は、実際、抜きん出た才能に恵まれ、
当時の先端を行くほど国際感覚にも優れており、
華やかで充実したライフスタイルを顕示して時代を駆け抜けたが、
光と陰が表裏一体であったこともまた、この本を読んで強く感じた。
月並みな言い様だが、眩しいほどのきらびやかさがあればあるほど、
その陰の部分の闇も深かったのだろう、と読み終わって思った。

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先日来、ふと思い出して、萩原葉子の『輪廻の暦』を読み返していた。
事実そのままとは限らず、自伝的「小説」である、という観点で読んでも、
著者の思春期から壮年期に至る日々は並大抵ではなく、
苦難の連続であったことが伺われるのだが、
私を惹きつけてやまないのは、そうしたことどもがあってもなお、
中年になってから社交ダンスを始め、幾度か教室を変えながらも稽古を続け、
六十代で初めて自由な時間を得、自分主体の生活を確立した、
……という、彼女の人生後半から終盤にかけての物語だ。
『出発に年齢はない』という彼女のモットーそのものである。

葉子(小説の中での名前は「内藤 嫩(ふたば)」)が、ダンスを選んだのは、
昔、母親が踊っていたのを覚えていたから、というのがあるようだが、
直接の動機は、腹部手術を受けたあと体の具合があまりにも悪いので、
踊って体を動かし元気になりたい、と考えたことであった。
開始当時は四十代であったが、1回目のレッスンでは尋常でなく疲れ、
異常に発汗し、帰宅してから寝込み、風邪をひいて発熱もして、
二度目のレッスンに行けるようになるまで2週間もかかった。しかし、
「初めての人は、だいたい、どこか故障するの」
と先生に言われ、教室に通うことを義務と思って稽古を重ねるうちに、
やがて週に二度は通えるようになり、疲労感が取れるのも早くなり、
ついには風邪もひかなくなった。
日頃は口の悪い母親からも、
「どうしたの!スタイルが良く健康そうになったじゃないの!」
と指摘が入ったほどだった。

事実としても、萩原葉子は62歳で母上の介護を終え、
本格的に解放されるのだが、そのあたりから、
「ひたすら自分のためにのみ時間を使って生きている」
というライフスタイルを確立し、
「やっと青春が来た」
と実感することになった。
たゆまず稽古を続けたダンスはますます上達し、七十代でアクロバットを試み、
「息もできないほどの運動量のレッスン」を楽しんだ。
高齢になっても体重管理にはストイックで、飲み屋などでは知らない人から、
「ダンサーですか」と言われるほどの姿勢や体型になった。
ダンスで一人六役を務めたいという発想から、演劇にも興味を持ち始め、
その他、オブジェや絵画などの制作、楽器演奏、乗馬にも打ち込んだ。
萩原葉子は最終的に、84歳で病没するのだが、
80代になってもモダンダンスに熱中していたそうだ。

いや~~、自分の時間を持てない老年女(=私)の、星ではありませんか。

私が強調したいのは、年寄りになってもダンスで痩せられる、という話ではない。
いや、それが目標でも全然いいのだが(笑)、話はそこに留まらず、
まさに御本人の言われる通り、「何歳になっても何でも始められる」ということと
「修練の方向が誤っていなければ、開始が遅くとも相当なレベルに到達できる」
ということ、の二点だ。
いくつになっても、トシだから今更無理、などということはないし、
何事であれ、本人比での上達は大いに望めるのだ。
趣味によっては、月謝以外にひととおりの資金力が必要な分野もあるが、
葉子だって暇と金がありあまって道楽に身をやつした(笑)のではない。
文筆で暮らして行くことが、なんとか叶うようになってからでも、
離婚した身で、狭い部屋で息子と母と妹を養いつつ頑張って来た。
その中でダンスを始め、地道に自分の生活を作り上げていったのだ。

……ということで、還暦目前の私はそれでは、何を始めましょう(^_^;。
こういう本を読んで励まされたならば、
やはり、六十代から何かを始める、七十になってからでも開始できる、
と考えて、先行きに希望と生き甲斐を見出すべきであろう。
前々から書いている通り、語学は私の生涯の楽しみであろうと思うが、
そのほかに、何か全く新しいこと、が、もしあるならば。

それでふと思いついたのが、日舞である!
いつぞや、あらしちゃん(松緑)が言っていたのだ、
高齢化社会において、健康法としての日舞というものを大いに奨励したい、
……みたいなことを。
近い将来、私は藤間流に入門し、以後十年、いやもっとかかるか、
自分なりにだが本気で稽古に勤しみつつ、積み立てに励み(爆)
最後に御家元・藤間翫右衛門(=あらしちゃん)のお宅で、名取免状試験に臨む。
萩原葉子が七十代で、ダンス教師の肩につかまって空中倒立していたことを思えば、
私が家元から名取の免状を受ける夢をみたって、許されないことはなかろう。
冥土の土産に、四代目松緑の前で踊るのである。
どうだこれ。老後の徒花として最高ではないかね(殴蹴)。

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・待ち侘びた休暇だ……(滂沱)。予定では今日から4連休。
やっと、やっと、連休のかたちでお休みを取ることができた。
きょうは冷やした部屋に籠もって、本を読んでいる(笑)。
テレビは勿論、語学以外のラジオも、音楽も、何も無しで
誰も来ず、それはそれは静かで素晴らしい。
このような御時世になっては、自宅で過ごす時間を増やすことが、
私のように無能な者にでもできる、最大の医療支援だと思っている。
出歩いたせいで熱中症になったり怪我したり感染したりする、
という事態くらいは、避けるように努めるのだ。
外に出て用事をする以外に選択肢の無い日もあるから、
せめて休日くらいは……。

・郷内心瞳『奈落の女』(角川ホラー文庫)を読み終えた。
拝み屋さんである著者のところへ、最初は相談客として来た女性が、
著者の提案もあって、様々な人から怪談実話を蒐集することを開始し、
やがて、それらをまとめた『取材レポート』を完成させ持って来てくれた、
という設定で、かたちとしては百物語的な怪談集なのだが、
見た目以上にボリュームがあり、実に読み応えがあった。
最初、あまりよく考えずに読み始めて、
「あれ?この話・この人は、なんだか微かに、知っているような……」
と思う箇所が途中からいくつか出てきて、半分くらい進んでから、
この本が、1年前に発売された『緋色の女』の続きなのだと気がついた。
郷内氏のはシリーズが複数あるので、無頓着に読み出すと混乱する。
今回の結末は、話がこれから更に展開することがわかる終わり方だったので、
おそらく1年後にまた、これの続きの『○○の女』(多分)が出るのだろう。
今度こそ、来年まで忘れないようにしなければ(^_^;。
こういうところで私は近年、自分の老化を実感している。
若い頃は、前に読んだ本の内容を忘れるなど、あり得ないことだったのに、
最近は、うっかりすると同じ本を二度買いそうになることすらある。
『この商品の前回の購入日は、20**/*/**です』とamazonが教えてくれる。
リアル本屋さんだと、気付かずにレジに並んでいるね(汗)。

・寝る前にホラーを読むのは精神衛生に良くないと考え(笑)、
布団の中では曽野綾子『夢に殉ず』を、ここ数日、久しぶりに読み直している。
曽野綾子なら精神衛生に良いのか、については異論もあるかもしれないが。
これは初版が1994年と書いてあるが、私は文庫になったものを、
今治か松山の古本屋さんで買ったのではないかと思う。
肯定的に描かれている登場人物たちは、誰も皆、ものごとを、
突き放して眺めることができる人たちで、著者の人生観が垣間見える。
私が曽野綾子を読むようになったのは高校生の頃だったが、
大学生になってもまだ、私は本当の意味で、曽野文学がわかっていなかった。
今ならわかるのか、と言われるとアレだが(汗)、
こちらもトシをとった分だけ、「そんな訳あるか!」というような不条理も、
「致し方なく、そういうものなのだ」と見ることができるようになった。
高校2年の夏休みの読書感想文に『誰のために愛するか』を選んだものだったが、
今にして思うと、あのときの感想文はあまりにも稚拙で表層的であった。
当時は一応、書けた気になって提出したものだったが、
「恥の多い生涯を送って来ました」のは、誰も彼も、だな(^^ゞ。

・COVID感染拡大が止まりそうもないので、
とりあえずKF-94マスクを買い足し、
更に、ロキソニン、メジコン、アズノールうがい薬、OS-1、
を、今後の、視野に入れておくべき自宅療養用に揃えた。
これらはいずれ、風邪でもインフルエンザでも必要になるものだし。
体温計とパルスオキシメータは元から2つずつあるので、
突然の故障や電池切れ!という心配は、ほぼ、ないだろう(汗)。
もしもの発熱時は、かかりつけ医もしくはコールセンターに電話、
のほか、徒歩圏内の発熱外来を二箇所、チェック済み。
連休だからと言って、ワタシは間延びだけをしている訳ではなく、
コロナについては、常に臨戦態勢であるっ(自画自賛)!

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きょうは久々に何も予定を入れていないので、
家で一日ゆっくりと過ごそうと思っている。
読みたいムック本や文庫もあることだし(^^)。

『輸入住宅スタイルブック』(ネコ・パブリッシング)は
ここ数年、出るたびに買っており、最新号Vol.26が先日、発売になった。
私は家を建てるような境遇でないので、単なる目の保養本だが、
インテリアはヒントになることも結構ある。
以前買っていた『憧れの輸入住宅を建てる』(リクルート)が
500円で良かったのだが、休刊になってしまったので、仕方なく(殴)
『輸入住宅スタイルブック』1870円のお世話になっている。

『「英国の住まい」に暮らす。』(主婦の友社)は少し前に出た本で、
中身は、雑誌『BonChic』にこれまでに掲載された写真が多かったが、
大型本でないところがポイントであった。
――なんといっても、寝転んで眺められる(笑)!
インテリア関係は、とかく美しい写真で読み手を魅了する意図があり
写真も大判になりがちで、そのために私には扱いづらいことが多かった。
寝そべった状態で、ハードカバーの大型本を捧げ持って読んでいたときに
手が滑って本の角で顔面を強打したことが、一度ならず、あった(汗)。
顔より本のほうを心配したぞ、どうかなったかと思って(^_^;。
その点、この『「英国の住まい」に暮らす。』は軽くて便利だ。
こういう「小さいインテリア本」を、私は待ち望んでいたのだ。
毎晩、眠りに着く前に、優雅な室内装飾を眺めるのは最高だ。

『闇塗怪談 瞑レナイ恐怖』(営業のK著、竹書房怪談文庫)は、
あらしちゃん(尾上松緑)のブログで知った怪談本シリーズで、
この夏に出たのがシリーズ第9弾だ。
10冊で完結するそうなので、残り1冊というところまで来た。
日本では暑くなると怪談、と世の中が決まっているので(笑)
このほかにも、『怪談狩り 山の足音』(中山市朗著、角川ホラー文庫)と
『拝み屋備忘録 怪談死人帰り』(郷内心瞳著、竹書房怪談文庫)は
いずれも夏に合わせて新刊発売予定で、既に予約注文してある。
こういうものに書かれていることが果たして本物なのか・実話なのか、
について取り沙汰する人がよくあるが、そこは私はどうでもいい。
読み物として、怪談として、私好みかどうかだけがポイントだ。
木原浩勝氏の怪談系の新刊は最近、見かけない気がするのだが、
書かれていないのだろうか?

ちなみに私は、自分にとって意味があると思う本は「紙」で買っている。
年寄りなので、紙のほうが疲れず、内容もまっすぐに入って来て心地よい。
一方、情報さえあればいい、読み流す程度の執着しか無いものは、
最初から電子書籍で買っている。
紙で買った本は、帯を外さず折り目もつけないほど大切にするものが多いが、
電子書籍で買うようなのは、エラーで開かないとか、
最悪飛んでしまう等のトラブルがあっても、私の心が騒がない本ばかりだ。

漫画は、「量」を読みたいのもあってさすがに「紙」は卒業し、
ここ数年はネットの無料漫画で読むことが大半だ。
大抵の作品は途中から有料版になる訳だが、
課金してまで読みたいと思うものは、多くはないが、皆無でもない(笑)。
しかし更に進んで、「紙」で買い直して末永く手元に置きたい、
とまで思う漫画には、さすがに滅多に出会わない。
「紙」の漫画本は、既に絶版になっているような、
私にとっての不朽の名作ばかりが、今、家の本棚に残っている。

ともあれ、明日からはまた月初めで神社関係が忙しいので、
きょうは束の間、ひんやりとした自室で心地よい読書の一日、
としたいと思っている。
昼間は照明も要らないし、テレビはもとから観ないし、
自分のための調理など最小限しかしないから、節電の極み。

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StayHome中のお楽しみと言えば、なんと言っても本だ。
夏は怪談(笑)。
昨年は、同じく怪談趣味のあらしちゃん(尾上松緑)が
ブログで推薦していたのがきっかけで郷内心瞳を知ってハマり、
この夏に出る氏の新刊も、目下、順番に買って楽しんでいる。
まず『拝み屋念珠怪談 緋色の女』『拝み屋備忘録 怪談火だるま乙女』
の2冊が7月中に相次いで発売になった。
もう1冊、『拝み屋奇譚 災い百物語』が来月出るはずだ。
同じく、あらしちゃん推薦の「怪談社」の文庫本も併せて買ってみた。

私は、心霊スポットに出かけて写真を撮るとか、
自室で「ひとりかくれんぼ」をやってみる等の趣味は、
全くこれっぽっちもないのだが、怪談を読むのは昔から好きだ。
郷内先生の仰るところの「安全な恐怖」を楽しむ派である(^_^;。
何しろ昭和の半ばに、「ノストラダムスの大予言」「日本沈没」が流行り、
ユリ・ゲラーの来日で大騒動した時期に、多感な子供時代を過ごしたので、
ある種のオカルトが、今なお私の娯楽の原点に生きているのだ。
小学生時代の夏休みには『お昼のワイドショー』で放映される、
『怪奇特集!!あなたの知らない世界』が大好きで欠かさず観ていたものだ。
バブル期以降の木原浩勝&中山市朗『新耳袋』シリーズだって全巻持っていて、
決して断捨離の対象にしたことはないくらいだよ(笑)。

一方、インテリア趣味の本としては『輸入住宅スタイルブック』VOL.24。
数年前まで私の目の保養本であった『憧れの輸入住宅を建てる』が
採算が取れなくなったからか?、全く発刊されなくなったので、
最近は上記『スタイルブック』を季節ごとに楽しみに買っている。
私の実際の自宅のテイストとは異なるものも多いのだが、
ヒントになるところは多いし、何より眺めていると夢が見られるので
このテの欧米風インテリアの写真が掲載されている本は、とても楽しい。

写真にあるあとの一点は、書籍類とは関係がなくて、韓国製マスクだ。
この1年半というもの、様々な不織布マスクを使ってきたのだが、
デルタ株の流行が始まって、twitterでしばしば言及されるようになったのが
このKF94という種類のマスクで、試してみたくて買った。
着けてみると、確かに密着度が違うのがわかった。
鼻の上から顎の下までサイドもピッタリしていて、
外したあと軽く、顔に跡が残るくらいだ。
素材はN95ほど高密度ではないので、息苦しいとまでは感じない。
のっぺり気味のクチバシ(笑)のように中央が出ているので、
呼吸しやすいのと、口紅などが付着しにくいのは良い点だと思う。
人の多いところに行くには、こういうもののほうがアテになるだろう。
私の行動の範囲内では、今日からすぐ必要ということはないが、
いずれ出番があるかもしれないし、買ってみて良かったと思っている。

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昭和40年代の前半、幼かった私は毎晩、
『暮しの手帖』に連載されていた『お母さんが読んで聞かせるお話』
を聞きながら、眠りについていた。
タイトルの通り、読んでくれていたのは母だったが、
当時、フルタイムで働いていて多忙だった母は、
実際には毎晩私に読み聞かせをする時間も体力もなかったので、
週末などに、このお話の朗読をテープに吹き込んでおいてくれて、
私は寝るときに、母が居なくても、それを再生して聞いていたのだった。

 実は、父が読んでくれたものも何本かはあったのだが、
 ハッキリ言おう、父の朗読は、母ほどには巧くなかった(逃)。
 小さい私なりに父に悪いなとは思ったが、母の録音のほうが聞きやすかった。
 父とは、ビーチボールを使った『アタックNo.1ごっこ』が定番だった。
 父が本郷コーチや猪野熊監督になってビーチボールを投げ、
 私が鮎原こずえになってレシーブしまくるのである。
 これにも私は大変夢中になったものだ。母とは出来ない遊びだった。
 人間、誰しも得手不得手は、あって当たり前なのだ(汗)。

閑話休題。
何しろ昔のことなので、最初はオープンリールを使っていて、
空のリールにテープを自分で巻き付けて再生を開始する作業など、
両親と一緒になって私も子供なりに覚えたものだった。
録音するときには、母はよく、最初に私にタイトル部分を言わせた。
自分の声が記録されて、残る、というのは新鮮な体験だった。
多忙な生活の中で、私が何を喜ぶかをよく見抜き、
それに応える工夫を怠らなかった我が母は、
(今はアレだが・爆)実に聡明な人であったと有り難く思い、感服している。

その中で、面白かったのは『きつねの建築師』を録音したときで、
終わって、再生しようとしたらテープが機械に絡まって困ったことになってしまい、
両親が苦心惨憺してテープをほぐして、どうしても取れなかった箇所は切断して、
セロテープで貼り直して修理した、という出来事があった。
そうしたら、テープの傷んだ部分は若干、音が飛んでしまい、
タイトルが「きつねのンちくし」になって、
私はそれを巻き戻しては、わざと何度も聴いて笑い転げたものだった。
劣化したテープにも、それはそれで私は愛着があった。
やがて何年か経った頃、世の中にカセットテープというものが登場した。
これで格段に扱いやすくなり、自在に再生できるようになり嬉しく思ったものだった。
カセットになってからも、母の朗読のコレクションは増え続けた。

『お母さんが読んで聞かせるお話』が私に与えたものは、
今から思えば、計り知れないほど大きかった。
幼稚園に入るか入らないかの頃から、小学校を卒業するくらいまでの年月、
私はほぼ毎晩、母の録音した『お母さんが読んで聞かせるお話』を聴き続けたのだ。
母が目の前で生で読んでくれることよりも、
私は既にかたちの決定している「録音」を聞くことをより好んでいた。
当時の私は、ライブよりレコーディングが好きだったとも言えるし、
当時から私は、反復という行為が性に合っていたのだ、とも言える。
母は多くの物語を録音してくれたが、私には特にお気に入りのものがいくつかあり、
筋も展開も決着もよく知っている話を、飽きもせず幾度でも聞いたものだった。
そこで覚えた言い回しは数え切れないほどあり、
私の日本語表現の基礎になった部分が、かなり大きかったと今でも思っている。

さて、きょう、この話を持ち出したのには理由があるのだ。
実は先日、某SNSで友人が、藤城清治氏の影絵のことを話題にされたので、
「『お母さんが読んで聞かせるお話』の藤城清治の影絵がとても好きだった」
と私が何の気なしに書いたところ、別の友人某氏が、
「その物語を祖母が書いていました」
と仰ったのだ。
なんと、幼い私がこよなく愛した物語の数々、あの文章のひとつひとつを
現在の私の友人の、お祖母さまにあたる方が、お書きになっていたのだった。
半世紀を経て、ここでこのように繋がろうとは!

そのお祖母さまとは、富本一枝氏のことである。
『お母さんが読んで聞かせるお話』は、初代の書き手がこの富本一枝氏で、
のちに香山多佳子氏に引き継がれるのだが、
うちの母は『暮らしの手帖』のバックナンバーを創刊号からずっと
たくさん保管して持っていたので、富本版『お母さんが―――』のほうを
録音に使用していたのだった。
私は今回の巡り会いにあまりにも心打たれたので、ネットで古書を探し、
『お母さんが読んで聞かせるお話A』『お母さんが読んで聞かせるお話B』
の二冊を、先日、買い求めた。
『暮らしの手帖』での連載そのものは昭和二十年代から始まったものだし、
書籍となったのも初版が昭和47年という本なので、影絵はまだモノクロだ。

問題の(笑)『きつねの建築師』も収録されていた。
そのほか、今も私の記憶に残る物語がいくつもあった。
まさに、「雀百まで踊り忘れず」、私は今、やろうと思えば、
当時の母の、神戸弁風味の朗読を再現することが可能である(笑)。
それと同時に、私がその後に職業上の必要から習得した、
共通語アクセントによる音読も、必要とあらば、できる。
娘が小さかった頃、私は彼女に絵本の読み聞かせをしたが、
そのときはこの二分冊を使うことを思いつかなかった。
というか、昔の『暮しの手帖』が手元に残っていれば良かったな
と漠然と思い出したことはあったが、
どうやって手に入れたら良いかわからず、現実的なこととして考えなかった。
娘が小さかった頃はまだ、インターネットが日常的ではなく、
これらをamazonや楽天で探すという方法が、なかったのだ。

下の写真は、今回手に入れた『お母さんが読んで聞かせるお話A』『同B』と、
オープンリールの音に聞き入る、2歳半の私(!)の姿である。
 

こうした出会いが「紙の本」の時代のものであったことを、私はとても嬉しく思っている。
母の本棚の『暮しの手帖』を、幼い日に私は自分でも引っ張りだして、開いていた。
『お母さんが読んで聞かせるお話』だけでなく、
『暮しの手帖』お得意の、様々な実験のページも私なりに眺めていたものだった。
電気掃除機の性能比較とか、石油ストーブの安全性テストとか、
理解できようができまいが、写真を見るだけでも面白かった。
もし時代が違って、これらが母のタブレットの中に仕舞われたデータだったら、
母の留守間に幼稚園児の私が自由に開いてみることは、多分なかっただろう。
そして、56歳になった今また、私は当時と変わらぬ『お母さんが―――』のページを、
目の前に広げ、懐かしい絵や音や声や匂いの記憶を蘇らせている。
神戸に住んでいた頃の家の、襖の柄とか、西日の射す床の色合いなども。
あの家も風景も、とうにこの世に存在しなくなった。
阪神大震災で壊滅的な被害に遭ったからだ。
しかし、絵や文章は、こんなかたちで人の心に残り、
それにまつわる周辺の風景までも、いつまでも消えることがないのだなと、
大変感慨深く思っている。

富本氏は、画家としても婦人運動家としても名を残された方だが、
私にとっては純粋に『お母さんが読んで聞かせるお話』の書き手であり、
物語の世界に遊ぶ楽しさと、日本語表現の面白さ・多彩さを
卓越した技術をもって丁寧に教えて下さった、人生最初の師であった。
そして、私はなんと、この方の御孫さんと、
そうとは全く知らずに偶然からネットで出会い、
ただ気が合って、もう何年も前からお友達になっていたのであった。
50年以上経ってしまったが、富本一枝氏に、心からの御礼を申し上げたい。
本当に、ありがとうございました。
幼少時には貴女様と、長じては貴女様の御孫さんと、
得難い、楽しい時間を共有させて戴いて、今日の私があります。
ご縁の不思議さ、素晴らしさに、強く心打たれる思いです。
貴女様は私の人生に、なんと多くのものをもたらして下さったことでしょうか!

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先日、舅宅で地盤調査の人たちを待っている間に、
所在なく、主人が昔使っていた部屋の本棚を眺めていたら、
偕成社『少年少女 世界の名作』シリーズが目に入ったので、
その中からディケンズ『大いなる遺産』を選び、何気なく読み始めた。
……ら、面白くてやめられなくなってしまい、
測量作業が終わったあともしばらく舅宅の仏間に留まって、
結局、最後まで読んだ。
どういう物語であるかはわかっていたにも関わらず、
この本の、余分なもの(爆)をすべてそぎ落とした構成はあまりにも見事で、
かつ文章が用意周到であり、ついつい、引き込まれてしまったのだ(^_^;。
奥付によると、著者:北条 誠、昭和43年12月10日 発行、定価280円。
北条 誠は、NHK大河ドラマ第一作『花の生涯』(1963年)の脚本家なのだね。

発行年から察するに、こうした本は主人が小学校低学年だった頃に、
舅姑が選んで買い与えたものだったのだろう。
このシリーズは文字通り「世界の名作」を、
高垣眸・柴田錬三郎・香山滋・高木彬光など、日本の名だたる書き手たちが
子供向けにわかりやすい物語として、整理しまとめたという、
今考えるととてつもなく豪華な内容になっている。
帰って主人に訊いたら、果たして、彼はこれらを子供の頃に愛読していて、
ここでハマって原作の翻訳を読んでみたらガッカリ、
という「名作」も結構あったとのことだった。

原作の成立年代によっては、編集者など居ない時代のものだったり、
初出が新聞の連載小説だったりして、冗長な内容になっていることも多いし、
また作家本人が、ストーリーテラーとしてさほどの腕前でないこともあり、
いくら優れた翻訳者の手に掛かったとしても、
どうしようもない(爆)作品だって本当はいろいろとあるのだ。
そう思いませんか(汗)。
そこを、磨かれた感覚を持つ現代日本の文章家たちが、
高度に解釈し練り直したのがこのシリーズなのだから、
読みやすく面白いのは道理なのだった。

というわけで、私はこのところ、舅宅から持ち帰ったこのシリーズを
毎晩の読書の友としている。
漫画並みの速さで読めて、ページをめくるたびに面白い(笑)。
完訳本は根性を鍛えるトレーニングには良いかもしれないが、
文学に触れる楽しさを教えてくれるのは、むしろこのような、
上質の児童文学なのではないか、と私は齢五十にして知った思いだ。
言っちゃナンだが、ゲーテの『ファウスト』とか、
私の頭じゃ、訳本を読んでも何の話か皆目わからんもんね(殴)。
大昔、宝塚で翻案『天使の微笑・悪魔の涙』を観たとき、
『ファウスト』にこんなことが書いてあったのか?
と私は本当に道に迷ったのだぞ!?

このシリーズにかかれば、シンドい原作も稀代のスペクタクルに早変わり。
ましてやデュマあたりを柴錬が料理しなおしたなら、こりゃ痛快の二乗だ。
今夜は『国性爺合戦』、いきます!(笑)

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