転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



きょうはハロウィーンの日らしい。
いつからこれが日本でこんなに有名になったのか。
私が子供の頃は、こんなお祭りは、日本には無かったはず。
我が家では娘が東急ハンズで買ってきたカボチャの飾りを
このところ窓に貼っている。なんと脳天気な。

あれはいつの頃だったか。
学習塾をやっていたときだったかな。
教室でハロウィーン・パーティーをしたのだが、
ゲストで呼んだアメリカ人女性が、カボチャ持参で、
実に器用に、ジャック・オー・ランタンをつくってくれて
子供らは大喜びしたものだった。

皆が、捨てるなというので、しばらくジャック・オー・ランタンを
そのまま教室においておいたら、ある日のこと急激にカビて、
文字通りおぞましいオバケになったのも忘れられない思い出だ。

***********

前回の塾テストで娘が久々に超弩級なドツボ成績を取ったので、
私は、今、暗い(--#)。
これから晩ご飯をしなくてはならないので、
料理をするのがイヤで、尚更、暗い(--#)(--#)。

***********

「暗黒大魔王」って『チキチキマシーン猛レース』ですか、
と某氏からメールを頂戴し、
いえ「暗黒大将軍」です、『グレートマジンガー』の悪者か、
『仮面ライダー』特別番組で小学生を誘拐してたヤツです、
等々返信したが、どっちへまわってもロクなものではないのだった。

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いじめられた、というような深刻な話では全然ないのだが、
思い返してみると、私だって、子供の頃、
ヒトから不愉快なことを言われた体験は、あった。
ただ、昭和40~50年代の田舎では、皆、決して陰湿ではなかったし、
やんちゃな男子らにだって、随分と愛嬌があったように思う。
泣いたり泣かされたりは身近でもよくあったが、
当時は、自殺するという事件になったりは、しなかった。

私は小学生の頃、神戸から転校して来たために、広島では、
言葉が違うということで、当初、いろいろ言われたものだった。
私の言葉を笑う本人らが、
「わしは」「ほうよのう」「わりゃ、~じゃ」
と昔話の爺みたいな口調で喋っているのは噴飯モノだと思ったが、
そのうち、当の私自身が
「いけんじゃろ」「~なんよ」「ほいじゃけ」
と広島弁が止まらなくなったので、この話はウヤムヤになった。

それから、昔から肥満していたので、
「でぶ」「ぶー」等は、クラスの男子からよく言われた。
私は、全然我慢強くもなく、いい子でもなかったので、
そういう物言いをした子らのことは逐一、詳細に、親と先生に告げ口した。
案の定、ヤツらは叱られていたので、いい気味だと思ったものだった。

チクった私にヤキを入れると、男子らが昼休みに相談しているのを、
なんの幸運か偶然、立ち聞きしてしまい、それによると、
校庭に呼び出し、全員で雪玉をぶつけて袋叩きにしちゃる、
みたいな計画だったので(真冬だった)、こりゃ捕まったらオシマイだと、
その日は「帰りの会」が終わるや否や走って学校を抜け出し、
翌日また、朝イチで先生に、この件をチクってやった。
その後、口の悪い男子と放課後、タイマンで勝負してからは、
私のあだ名が「暗黒大将軍」になってしまい、閉口した。
母の言い様じゃないが、縁談に差し支えそうだった。

このとき闘った男子の配下にいたヤツと、後に中学になって、
学校はもう別々だったにもかかわらず隣町の学習塾で再会して、
でも恋が芽生えたなんてことは勿論なく、
それどころか、初日の授業で皆に先生から紹介され、
「○○よし子です」
と自分で名前を言ったら、すかさずその男が、
「○○ワル子、て言うんよの?」
とチャチャを入れた、という事件があった。
ったく、初めての、他校の男子も大勢いる前での自己紹介に、
なんとゆーことをしてくれるんじゃっ、と私の眉は釣り上がったが、
でも、もうアンタなんかより私はオトナなんじゃけね!
と思って、そのときはスルーした。


……と、これは私の側から一方的に語った思い出話だが、
あのときの男子らに、話を聞くことが出来たら、
暗黒大将軍という太った女がおって、ワシらはひどういじめられた、
と述懐するのだろうか。もしかして。
いじめた側(って、男子ら?私?)には自覚が全然ないのが常だからして。

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必修逃れ公立高校、286に…文科省調査(読売新聞)
『全国の高校で卒業に必要な必修科目が教えられていない問題で、文部科学省は28日、公立の全高校を対象に行った緊急調査の結果を公表した』
『兵庫県を除く46都道府県15政令市の3892校のうち、必修逃れの高校は31都道県2政令市286校。このうち284校が、教育委員会に虚偽のカリキュラムを提出していた』

この話題をあまり引っ張っても、
現在の私には、直接の利害関係は無いのだが、
娘がこれから中学高校と年齢が上がっていくことを考えると、
やはり関心を持たないではいられない。
今後は、家でも常に最新の学習指導要領をヒモといて、
履修科目の数と内容を確認していかねばならないという気がする(^_^;)。

で、先日書いた『どこの誰がなんの目的で最初にチクったか』とともに、
今、もうひとつ、すごーーーく疑問に思っていることがある。

『この話が進むとともに、なぜ公立の話題だけになって行くのか。
私立はどうなっているのか』。

我が家はこれから、娘を私学にやるかもしれないのだ。
報道の最初の頃、私立高校のことも少し出ていた筈だが、
最近は専ら、公立高校の調査結果の話だけなので、かえって不安だ。
普通に考えて、問題のある学校が、公立で全国286校もあるのなら、
私学だって同じくらいの割合で出てきそうなものだが、
話題にのぼらなさすぎるように思える。
・・・・・そんなことないですか(^_^;)?


追記:私の疑問はおかしくなかった。
必修漏れ、私立高は 遅れる実態調査(朝日新聞)
『高校の必修科目の履修漏れ問題では、私立校の実態は公立校ほど明らかになっていない。文部科学省は27日から公立校の調査の途中経過を発表し始めたが、私立については未着手。都道府県では、すでに終えた自治体がある一方、検討中の自治体もあり対応に温度差がある』
『履修科目が学習指導要領に基づく点では変わりはないが、公立高校は教育委員会が「設置管理」するのに対し、私立は都道府県が「監督」するにとどまるためだ』

それこそ不公平では(^_^;)?

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ポゴレリチblogのほうに、26日のニューヨーク公演の批評を、
例によって物凄い勢いで日本語に置き換えて並べただけ、
という訳で、UPした。
もう、訳のヘタさ加減・不正確さ加減については、開き直ることにした。
だって、ここで、誤訳のない読み応えある和訳ができるくらいなら、
それは商品価値があるわけで、私はこんなところでウロウロしていない。
シロウトが趣味でやっている訳ということで、許してくらはい(逃)。

さて22日のヴァージニア公演に関する、ワシントンポスト評から続けて、
このニューヨークタイムズ評を読んでみて思ったのだが、
ポゴレリチが今回のアメリカ公演でどういう評価を受けているかというと、

・なんの曲かわからないほど遅いテンポ設定で、意味不明
・聞こえないような弱音とたたきつけるような強音の、どちらかしかない
・ゆえに、彼は演奏家として狂ったと思う

アメリカの評論家(とりあえず二名)には、
ポゴレリチの演奏は酷評する以外にないものだったようだ。

まあ確かに、私のようにシツコく追跡するビョーキの人間はともかく、
十年以上まえのポゴレリチに、自分なりの好みの衣装を着せて、
思い思いに理想化して待ち受けていた聴衆にしてみれば、
ポゴレリチの現状に対しては、拒否感のほうが強いだろうと思う。
私は、ちょうど一年前のポゴレリチの演奏しか聴いていないから、
先夜のアメリカ東海岸での演奏会がどのようなものだったか、
実際にはわからないわけだが、昨年の様子を思い浮かべてみれば、
「昔の彼のようなのが聞きたかった」人の場合には、
今の演奏会を受け入れることは到底無理だろうということは想像できる。

それにしても、どっちの評でも必ず言われるのが、

・彼はカルト・フィギュア
・頭を剃った
・会場が真っ暗

・・・・このへんが21世紀のポゴレリチを表現するキーワードなのだな(爆)。

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地元の方には、「某」も何もないもんだが(^_^;)。

広島市内で、公立以外の共学の中高一貫校ということ、
この国立大学教育学部附属と、あとは私学に一校あるだけなので
(もうひとつ、数年前に開校した私立共学中学があるのだが、
そこはインターナショナルスクールの感じで娘の希望とは違う)、
受験生の親として、一応の関心は持っていた。
幸い、自宅からもかなり近いところだし、
話を聞いてみるだけでもと思って、出かけた。

ここは、世間的な評価として非常に「自由」な学校だ。
子供たちの自主・自律の精神を育んでくれる、
という意味では素晴らしいし、伝統に裏打ちされた教育方針だと思う。
反面、学校が細かく干渉しないので生徒の実態は野放図にも見える。
また、教育学部附属ということで、先駆的な実験校であり、
教育機関であると同時に研究機関としての使命があるので、
新しい教授法を最初に試される場であり、
常に教育実習生の「練習台」とされる学校でもある。
ちなみに、学習指導要領には厳密に従っているので、
中学での高校学習の先取りはしていないということだ。

あるクラスで、入学後に取ったアンケート調査によると、
ここに入学した理由の第一位は、「安いから」(爆)。
確かに、ここは国立であって私立ではないので、
義務教育の中学に関しては入学料も授業料も要らない(^_^;)。
入学理由としての次点は、「受かったから」と「共学だから」が同位。
この学校の良さとして生徒達が挙げているのは、やはり「自由」、
次いで「先生が良い」であり、
逆に、悪いところであると生徒が指摘しているのは、
第一位の意見で過半数を占めた「校舎がボロい」、
その次は、生徒たちにも自覚があるようで「だらしない」。

この学校は、偏差値的には大変高く、男女とも、
中学受験段階での優秀児たちが集まる学校とみて良いと思う。
それだからこそ、実験的な教授法にも生徒たちはよく応えるし、
自由を甘受すると同時に責任も持て、という指導が通用するのだろう。
うちの場合、『受かるワケねー』という次元なので(殴)、
そもそも私にはほとんど現実味のない説明会ではあったのだが、
想像していた以上に、生徒の自主性にまかせる部分が大きく、
学校に規範を求める私とは、相容れない面が多いことがわかった。
言うまでもなく、こういう教育のあり方を、
客観的な立場から否定するつもりは毛頭ない。
ただ、私の趣味とは違う、ということがわかっただけのことだ。
勿論、もしも娘が、この学校に是が非でもと執着するようなら、
もともとダメダメ、・・・じゃない、駄目でもともと、
ということで、受けてみてもいいとは思っているが、
娘は娘で、「女の子の学校に行きたい♪」ヒトなので、
おそらく、受けるとは言わないのではないかと思う。

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以前書いたように、私は、ちょっとしたアンネ・フランク・マニアだ。
現在、流通している『アンネの日記』(文藝春秋社刊)は
深町真理子氏による新訳版とも言えるもので、
これの前に、戦後すぐに皆藤幸蔵氏の訳で出た旧版があって、
それの初版本を、私は長い間探していた。

これまで私は、同じ皆藤氏の旧版のうちでも
昭和50年に出た改訂版のほうしか持っていなくて、
初版がどういうものだったかに、非常に興味があったのだ。
それが、このほど、ついに見つかった。
写真の、『光ほのかに』という邦題のついているのが、その本だ。

正確には、昭和27年に出版された初版第一刷があって、
今回手に入れたのは、それの文庫本バージョンだ。
文庫は昭和29年に第一刷が出ていて、
それの翌年の第三刷にあたるものが、
先日、某ネット・オークションに出品されていたので、落札した。

企画としては文庫サイズとはいえ、ケースがあって、とても綺麗だ。
漢字が旧字体になっているし、言い回しも古めかしいものがあり、
のちの改訂版でかなり細かく手を入れられていることがわかった。
私はこの皆藤氏の書かれた日本語がとても気に入っているので、
初版と改訂版の二種類を較べることが出来るようになったことは
とても嬉しい。

インターネットがなかったら、こういう本を自分で探し出すことは
かなり困難だったと思い、改めて、時代に感謝している(T.T)。

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必修漏れ、35都道県254校に 多くの科目で発覚(朝日新聞)
『卒業に必要な必修科目の履修漏れが全国の高校で相次いで見つかっている問題で、履修漏れは当初発覚した世界史以外にも保健、情報など多くの科目に及ぶことがわかった。大学受験優先の方針から、これらの時間を利用して数学など他の科目を教えるケースが目立っており、本来あるべきカリキュラムが曲げられている様子が浮かび上がる。実態を隠すため、県教委に虚偽の報告をしている学校もあった』

昨日も書いたが、私にとっては、
以前から誰でも了解していると思っていたことだったのに、
どうして、今、突然にニュースになって出てきたのか、が謎だ(^_^;)。
本当の本当に、今まで誰も知らなかったとゆーのですか??
私はそのほうが信じられません!!
理社のどれをやってどれをやらないかなどというハナシは、
80年代初頭からあまりにも当たり前に見聞きしたので、
私は、各学校がそういう「融通を利かせる」のは合法の範囲なんだと、
つい先日まで勝手に納得していましたよ(^_^;)?

少なくとも、同じ普通科でも学校ごとに随分と選択科目の内容が違う、
ということは、私ごときでさえ、自分が高校を卒業した直後から
いろいろな人の話を聞いて、知っていたのだ。
80年代はあれで良かったのだろうか?
ここ数年の改訂だけを問題にしていれば済むのだろうか?
(一応、自分の修得単位数は大丈夫だろうという前提のもとに・爆)

それと、もうひとつ。
『東京都立八王子東高は、3年生320人のうち181人が必修の倫理を履修していなかったが、都教委に提出した教育課程届では全員に履修させると報告していた。全員に倫理の教科書を買わせ、通知表でも実際に選択した別の科目の成績を倫理の欄に記載。こうした操作は少なくとも00年度から続けられていたという』

教育委員会に出した書類には、オモテ向き、不備はなかった、
ということだろうに、授業の実態がその通りではない、などと、
最初に発覚した学校は、どういう経緯でそれがバレたのか(爆)。
っていうか、そういうことをきちんと把握できる人というと、
学校内部から教育委員会へと繋がっている立場の、
管理職とか教務とかに関係ある人でないと難しいのでは?
学校の組織にはあんまり詳しくないのだけど、各学校内で、
履修科目数が適正かどうかは、どういう部署がチェックしているのだろう。
或いは、「ワタシの科目が冷遇されている!」と憤懣やるかたなかった、
現場の先生が告発なさったか。・・・違ってたらすみません(逃)。

最初にこの問題をおおやけにしたのは、誰なのだろう?
生徒?保護者?卒業生?教職員?教育委員会?その他教育産業従事者?
外側から学校の様子を眺めていても簡単にわからないことだと思うので、
地域の人が真相に気づいて、とか、マスコミが嗅ぎつけて、
・・・などというのは、ちょっと想像しにくいのだが、どうなのだろう。
「教務主任、これヤバいですよ」
などと、どこかの学校の職員室で教職員が喋っているのを、
コッソリ物陰で聞いていた人(←謎)がいて、新聞社に電話したのか??

学校だけの責任にして責め立てる風潮には与しないが、
生徒や保護者が単に気づいていなかったのだとすれば、
それは無理もない面があると思う。
だって、修得単位数がこれでいいかどうか、
学習指導要領に照らして、本人や家族が計算して確認している、
という事態は、普通、ないのではないかと思うからだ。
「この三科目のうちから、一つ選択しなさい」等々と学校が提示したら、
特に疑問もなく「そんなものか」と受け入れるのは
生徒や親の側からしたら、ごく当然のことではないだろうか。
それとも、生徒会や保護者も、実は違法を承知したうえで、
敢えて進路保障のためにと、こういうカリキュラムを望んでいたのか?

というわけで、これはどこのどなたが最初に言い出して、
今回のような全国展開の出来事になったのか、
と私はその点をとても知りたいと思っている。
言うまでもなく、不正が明らかになり今後是正されていくのは、
完全に良いことだと私だって思っているのだ。
ただ、去年までは黙認していたのに、今年の今になって初めて言う、
というところに、誰かの何らかの意図があったのではないだろうかと
純粋に疑問に思っている、ということだ。


それと、これは今回の本筋からは外れるが、
先日来の虐め問題のときも思ったのだけれど
本当に、教育委員会というものは、必要なのだろうか(逃)。

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履修不足:10県65校、生徒数は1万2000人に(毎日新聞)

『富山県立高岡南高校で発覚した履修単位不足問題で、新たに青森、岩手、山形、福島、石川、福井、愛媛、広島、栃木の各県の公私立高校でも必修科目を履修せず同様の単位不足になっていることが分かった。単位不足はこれで10県65校、生徒数は約1万2000人に上った。中には、履修を装った報告書を教育委員会に提出する「架空履修」もあった。各県教委や学校は単位不足の3年生が卒業できなくなるおそれもあるとして、3年生への補習授業を検討するなど対応に追われ、文部科学省も全国調査を行う』

なんで今さら、これが話題になるのか、私は不思議だ。
だって、私が高校生だった頃から、こういうことはもう、
あちこちで見聞きしたことがあったからだ。
いや、だから何も問題がない、などと言うのではなくて、
ニュースになるタイミングに関して、純粋に疑問に思っているのだ。
本当に、今まで誰もこの実態を知らなかったとは、到底思われない。
今になって急に話題にし始めたことのほうに、何か意味があるのか、
と勘ぐりたくなるくらいだ。

私が高校生だった頃、・・・と言うとつまり四半世紀前だが、
私の学校では、三年生になって初めて文理選択が決まるまでは、
社会は地理B(高1)・世界史(高2~3)・倫理社会(高2)、
日本史(高3)・政治経済(高3)(「現代社会」の無かった頃だ)、
と進路に関係なく全員が履修させられたし、
理科だって生物Ⅰ(高1)・地学Ⅰ(高1)、物理Ⅰ(高2)・化学Ⅰ(高2)
と、これまた文理関係なく、もちろん進学だろうが就職だろうが
進路希望には全く配慮なしに、全員が等しく履修させられた。
文系でも、理科のどれかひとつは高3になってⅡが必修だった。
お陰で、受験科目だけから言えば、私などは、
英語・現代国語・日本史、以外のすべての科目は必要ないもので、
単に、学校のカリキュラムに「つきあっているだけ」という気分だった。
授業はちゃんとあったのに、よく内職してました。ごめんなさい(逃)。

だが、他校の知人や、あるいは大学進学後に知り合った他県の友人は、
「地理なんてやったことがない」
「地学?共通一次で取る人がいないから、そんな科目、学校で無かった」
「文系は物理の授業なんてないでしょ」
等々と、実にテキトーな人がとてもたくさんいた。
物理が十段階評価の「3」だったり、
化学で学年ビリになったりした経験を持つ私にとっては、
あの苦しみは、もしかして必要のないものだったのか?
と考えると羨ましい限りだった。

だから私は、世の中、そんなもんかとずっと思っていた。
私立には、「英会話」とか「宗教」、場合によっては「仏語」などの
私には全然、経験のない珍しい科目がいろいろとあるようだし、
公立高校だって文理選択が二年生からという学校もあるようだから、
どの科目をやってどれをやらないということは、かなり自由なんだろう、
と自分なりに勝手に解釈していたのだ。

だが、このごろのニュースを見ていると、
どうも、ああいうのは、イケナイことだったのではないかと思われる。
地理がなかった・物理なんて知らない等々と
ヘーキで言っていた彼らは大丈夫だったのだろうか。
この話を突き詰めていくと、実は高校を卒業したことになっていない、
という大人が、今の日本には物凄くたくさんいるのではないか、
と、このところの連日のニュースを見ていて、思った(^_^;)。
それとも、私が高校生だった時代の学習指導要領は今とは全く異なり、
必修科目はずっと少なく、あるいは選択の幅が広く、
それが近年になって急激に厳密なものになった、ということなのか?

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ポゴレリチblogのほうに、22日のヴァージニア州ジョージ・メイソン大学での
演奏会の批評記事を凄い勢いで和訳してUPした。
早いことに意義がある、という感じで、訳の内容はザツだ。
・・・・すみません<m(__)m>。
書いたのはワシントン・ポストの音楽評論家であるティム・ペイジで
(私にとってペイジといえばジミー・ペイジに決まってるが)、
テッテー的な酷評をして下さっていた。

Yahoo!のポゴレリチGroupのほうでは、メンバー諸氏により、
このような批評をされるポゴレリチの現状が嘆かわしいという意見と、
ペイジ評などを鵜呑みにするわけにはいかないという意見との、
両方が書かれていた。
また、楽器の演奏ができない批評家に何がわかるか、という否定論と、
実績のある批評家なのだから彼の言うことは傾聴すべきだ、
という反論も、それぞれ投稿されていた。
中には、ペイジ評を読んで、自分は予定していた演奏会に行くのを
もうやめようかと思う、という投げやりな(^_^;)カキコまであった。

これらの点について、私は少々、言いたいことが、あるのだが(^^ゞ。
よく、ポゴレリチ本人も、演奏家でない・専門家でない批評家に、
あれこれとわかったふうなことを言って貰いたくない、
などと発言しているようなのだが、
私は、そういう考え方はいかがなものか、と常々思っている。

自分は一切、楽器の演奏ができなくても、
この世には、他人のしていることを見たり聞いたりして、
そのことについて、解説したり分析したり意見を書いたりして、
それにより、人々に何かを投げかけることのできる人種がいるのだ。
演奏することではなく、喋ったり書いたりすることのほうのプロ、
それが批評家だと私は思っている。
勿論、批評するためには、楽器を聴く耳を持っていることは重要だし、
更に、感覚だけでは駄目で、専門的な知識も前提とされるけれども、
現実に楽器の演奏そのものは、できなくても構わないと思う。

「自分が弾けないくせに、俺の演奏に関して、つべこべ言うな」
というのは、演奏家の陥りやすい「考え違い」だと私は思う。
演奏家は確かに、楽器を弾くことについては専門家であるし、
他人の演奏についても専門性の高い見地から分析できるだろう。
しかし、一旦、演奏家となってしまった以上は、
純粋に「聴く側」だけに身を置くことは難しいだろうし、
また自分の聴いたものを評論という形態にして提供することに関しては、
彼らは必ずしもプロではない。
演奏家以上に、・・・もしかしたら演奏家本人が気づかなかったことさえも、
指摘し分析し、一般の読者にそれを問いかけることこそが、
プロの批評家の仕事であり存在意義だと私は思っている。

ろくに楽器を弾けない者がステージにあがるのは認めない、
というのは当然だが、批評という独立した分野のプロが書くものを、
「楽器ができないくせに」で否定するのは、違うだろうと私は思う。
批評家の多くは、確かに『弾き手』としてはプロではない。
しかし彼らは『聴き手』としてのプロなのだ。


ということで、私は、ピアノを弾けない評論家が、
ポゴレリチのピアノをケナしていても、全然問題はないと思っている。
だからと言って、彼らの言うことや書いたものが全部妥当で、
一般読者はそれをすべて受け入れて従うべきだ、とは考えていない。
お金を払って聴くのは、我々ひとりひとりなのだから、
実際に自分の耳で聞いていないものについては、
自分の感想や判断など、あり得ようはずもない。
批評がひどかったから、自分では聞きに行かずに、ただ落胆している、
というのは愚の骨頂だと私なら思う。

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こんな映画が制作されたなんて。
観たい観たい観たい観たい~(T.T)!
うっかり予告編を見て朝から泣きそーになってしまった。
フレディの話す英語を久々に聞いたと思った。

フレディ・マーキュリー 人生と歌を愛した男

・・・妹さんがソックリなのでウケました(殴)。


Another One Bites The Dust(QUEEN)(YouTube)
私の観た(聴いた)最後のフレディに、時期的に最も近い映像。


追記:DVDが出るようなので、予約した。
 しかし大画面で見たら、相当、泣いただろうな(^_^;)。

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