転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



今回の花は、葬儀屋さんが花束にして下さった白百合。
普段は私は匂いが嫌で百合は極力買わないことにしているのだが、
これは香りのない百合で、有り難かった。
花の姿としては、百合は大変に優美で素晴らしい。
時間差でひとつひとつ花開いて行くところも、
長く楽しめるのでとても良い。
かたい莟(つぼみ)が徐々に開き、盛りを迎え、やがてしぼんで終わる、
……大過なく過ごせたなら、どの命も同じということだねぇ。

さて、本日も半日のみ休暇。
午後からは、12月に予定されている年越祭の案内状作成の仕事がある。
尤も、「○時○分までに!」という分刻みのシバりまではなく、
○日までに終わっていれば良い、という緩い締切の範囲でやるので、
この作業は私はさほど嫌いな仕事ではない。
しかし、数百枚の紙を、印刷して折って組んで封入して、の反復は、
肉体労働としてそれなりのものではある(^_^;。

そして、明日からは村の例祭とその前後の準備片付けがあるので、
途中で朝帰りの日も含む怒濤の五連勤である。
私は喪中!と称して家に籠もっていたいのが本音だが、
父が若い頃から懸命に奉仕を続けていた村の神社なので、
やはり今年の例祭も、盛大に執り行うことができるよう、
力を尽くすのが父への供養というものであろう。
神主さんも3人、お願いして、大祭式で行うことになっている。
「今年から献饌(=御供えものを祭壇に上げる作法)も
全部正式にやろうよ」
と祭員の神職さん等が先日、打ち合わせされていたので、
もしかして、いつにもましてハデな祭典になるかもしれない(汗)。
鯛の尻尾を逆に上げたりしないよう、気を付けなくては(大汗)。

コロナ禍前同様に、神楽・露店・御神輿・餅まきなど、
余興もフルに行うことになっており、
子供会からの参加人数の集計や、お弁当や餅や菓子の発注、
道路使用許可願の提出など、総代会としても仕事が多い。
父の通夜祭の前々日あたりから私は若干、風邪気味で、
この十日ほど、熱は全然なかったが、咽喉の痛み→咳→鼻炎と経過して、
今、まだ鼻炎や咳がうっすら残っているのを感じている。
あともうちょっと頑張らないと終わらないのだが……。

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十日ぶり?もっとか?で今日は半日お休み。
こんなまとまった休息時間は久しぶりだ。

詰め詰めの仕事の隙間に、狙いを定めて別の用事をはめこむという、
テトリスのような毎日だ。
昨日は神社での七五三行事のあと、夕方6時からの巫女舞稽古まで
1時間45分、空いていたので、母のいる某サ高住にタクシーで往復した。
呼んでも直ちには来ない田舎のタクシーだから、
時間を逆算して、行事の合間に早めに手配の電話をしておいた。
こうして綿密に予定を組んで動いているときに、
いつでも良いような用事で訪ねて来る人が居たりすると、
邪魔じゃ!と内心で噴火し、作り笑顔をしつつも私の口調はキツくなる。

昨日は幸い、誰も来ず電話も入らず、
5分も無駄にせずサ高住への往復が叶った。
ピースはピタリとはまり、片付いたのである。
こういう離れ業も、実家からサ高住への近距離往復だから可能だった。
きょうの半日の休日をこれに充てていたら、
中区の自宅マンション発着では、サ高住まで片道1時間半かかって、
私の貴重な半日の休暇がすべて消費されてしまうところだった。

幸い、母は元気にしていた。
夕食時間前で、既に食堂に来てテーブルについており、
機嫌も良く、穏やかで、父が居なくなったことは理解していなかった。
これまで2人で生活していた自室は、父のベッドが消え、がらんとしていて、
私はつい先日までそこに居た父を思い、さすがに胸をつかれたが、
母はそれを気に病んでいる様子もなかった(^_^;。
父が居なくなったことはわかっている筈なのだが、
「さっきまで体操しとってんけど(=例の誰もやらないテレビ体操か)、
飽きたし、そろそろ御飯やなと思ぅて、ここ(食堂)に来とぉねん」
というのが母の報告であった。
不安や悲しみが続かず、認知症って随分良いものだなと思った(^_^;。

施設の職員さんのお話では、母はいずれ1人部屋に移動することになるのだが、
ついては、今の部屋に残っている父の衣類や持ち物、それに、
2つ買って搬入したチェストのうちの1つを、引き取って貰いたい、
とのことであった。
1人部屋は今より狭いので、入りきらないのだった。
その事情はよく理解できるのだが、さて、
このあと、秋祭→七五三→年越祭→正月行事→節分、と続く神社の繁忙期に、
続々・果てしない物語』が開幕しようとしているのに、
それらと並行して一体全体どの暇に、私はその作業をやれば良いというのか。

「部屋代が払えるなら節分が終わるまで2人部屋に居てもいいですか」
と私は施設に訊きましたね(^_^;。恥も外聞もないが、更に時間がないので。
そのための費用が惜しくない訳ではないが、
むこう半年分の2人部屋料金くらいは、私でも用立てることができる。
施設関連の引き落とし口座は、母名義のものにいずれ変更されるのだし。
タクシーもそうだが、今の私は「時間を金で買う」。
究極的に、過労死するか金を払うかと問われれば、
迷わず後者ですよ、預金が底をつくまでは。
それくらい、私の毎日は逼迫しているのだ。

施設側の答えは、有り難いことに、基本的には「OK」であった。
「でも2人部屋の必要な入居者さんが、新たに来られるかもしれませんよね」
と私が言ったら、もしも、それまでに施設側としてそういう事態が生じたら、
職員さんたちの手で、今ある荷物は入る限り新しい1人部屋に移し、
はみ出た分は一時保管、あるいは着払いで私のところに送付する、
等々の方法が採れるそうだ。
すみません、最悪、そうなるかも(爆)。

前にも書いたが、私はこういうとき、
自分のクローンというか、コピー・ロボット的なものが欲しい(^_^;。
マスクしてれば不用意に鼻を押されることも少ないだろうし、
コピー・ロボット@『パーマン』も、この際結構、良いんじゃね(^_^;?
私が神社仕事から離れられないこれからの季節に、

・母の部屋に行って、衣類その他仕分けし、段ボールに詰める
・前にもお世話になった○○運送に電話をして日取りを決める
・サ高住の職員さんの御都合もお伺いする
・突発的に何かあっても対処できるように、
  その日は自分の時間をゆとりを持って確保しておく
・当日は、早めにサ高住に行って待機する
・運び出しに立ち会い、終わったら先回りして実家に行く
・到着した荷物を実家で受け取り、指示して旧台所などに搬入して戴く
・受け取った荷物を、あらかた、整理し収納しておく
・期日までに支払あるいは振込をする

これらの仕事について、他人に対して必要な程度の愛想をもちつつ対処し、
私の決定したことだけを遂行して貰いたいのだ。
よけいな工夫や気遣いは一切無用なんで、私の命じたことだけ(^_^;。
身内が行かないことには、原則的に私物に手出しできないし、
実家の鍵も開けられないから、とにかく現場に居て、代理で動いて欲しい。

自分なりに思考したり、私と異なる意見を言うような、
能力のある(爆)きょうだい等は必要ない。
自分は犠牲だけ払って、万事、私の事情を最優先にして
動いてくれるきょうだいなどある訳がないのだから、きょうだいなど居たら、
話し合いや意見調整が要るぶんだけ、よけいに時間がかかり、仕事が増える。
そうでなく、私に一切逆らわず、私の決めたとおりにやってくれる、
私本人のコピーに居てほしい。
完コピでなくても務まるから、少々なら劣化版OK(^_^;。
何か問題が起こったときは、全部、私が悪いということで全然構わないので、
こちらが自分の仕事をやっているときに、同時進行で、
私の決めたことを果たしてくれる存在が欲しいものであるよ(^_^;。

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父93歳が21日(土)の昼に亡くなった。

前夜、見舞ったとき、呼吸が途切れがちになっていたが、
その都度、呼吸再開していたので、一旦、私は帰宅した。
表情は穏やかで、なんの痛苦も無さそうだった。
翌21日の昼前だったか、看護師さんから電話がかかってきて
「呼吸停止している様子です」とのことだったので、
タクシーで某サ高住に主人とふたりで向かい、
部屋に入ってみると、父の顔は、昼寝のときと変わらない長閑さだったが、
体全体の印象が、一目で「これは死んでる」とわかるもので(爆)、
あのまま眠りながら逝ったんだなと、私は深く納得した。

母94歳は、ここ数日、さすがに父の様子を心配はしていて、
「点滴しとぅねん。ずっと寝とぉし、なおらへんな」
等と、一応の理解はしていたのだが、
不思議なことに、この日は取り乱していなかった。
私が到着したときも、母はロビーに出てテレビを観ており、
「なんも面白い番組が無いねん」
と、いつもの台詞で苦笑いをしていた。
スタッフさん方も、父が亡くなったことを今、母に理解させる努力は、
積極的にはされなかったので、私ももう、そのままにすることにした。
母はそれから入浴の時間が来て、ロビーから直接に車椅子で連れて行かれ、
お風呂が終わって部屋に戻ってきたときも、父のベッドには目もくれず、
介助されて自分のベッドに戻り、疲れたらしく、そのまま寝入った。

私は二人のいる部屋で、総代長に電話をかけて報告をし、
葬儀屋さんを紹介して貰い、自宅への搬送に始まる今後の段取りを話し、
神葬祭の斎主になってくださる神主さんにも電話をかけて
日程の打ち合わせをし、葬祭場を押さえ、等々と
事務手続を進めていたのだが、母は寝入っているのか、何の反応もしなかった。
葬儀屋さんが来られて父を搬出するときも、母はむこうを向いていた。
眠っているのだろうかなと思ったが、私も敢えて、声はかけなかった。
あの「気づかなさ」加減こそは、長生きのご褒美なのだろうかなと思った。
怖いことも不安なことも、何も深く考えることなく居られるというのは……。

そこからはもう、怒濤であったorz
実家に戻って座敷に父を寝かせたあとは、
通夜祭・遷霊祭・葬場祭の打ち合わせと、
親類縁者や御近所等々への連絡その他で、
私の2台のスマホは鳴りっぱなしになった。
葬儀屋さん等のプロフェッショナル以外は、
「葬式に慣れている」人間など普通居ないとは思うが、
とにかく、感覚的に全然わからず見当もつかない事柄を、
次々とカンだけで即座に決定せねばならず、忙し過ぎてマイった。
しかも一人娘で本家の直系であるため、私が喪主なのであった。
父は立場上、挨拶の要る方面が多かったので家族葬には出来ず、
一般葬になったため、尚更おおごとであった。

しかし、結果として、本当に大勢の方々が、
父に別れを告げるために集まってくださり、
久しく行き来の途絶えていた親族とも久しぶりに会うことができ、
故人の力というのは大きなものだなと有り難く思ったりもした。
娘も東京から来たので、家族揃って父を見送ることも叶った。
御近所の方々や総代会の面々にも大いに力になって戴いたし、
神葬祭を務めてくださった神主さん方にも大変にお世話になった。

父はこのような高齢になるまで、とりたてて病気もせず、
最期は典型的な老衰の経過を辿って、ほぼ覚悟した通りになったので、
家族としての私には、全く動揺は無かった。
嘆き悲しむような段階はとうに解脱していたという感じがする(^_^;。
むしろ「本当に良かったねえ」というのが今の私の、父への気持ちだ。
自称「晴れ男」の父に相応しく、
通夜祭の日も葬場祭の日も抜けるような秋晴れであった。
20日に死んだらポゴ氏の誕生日やな(殴)、
と思っていたが、それも一日ズレた(爆)。
……結局覚えやすくて、良かったかもしれぬ(^_^;。

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その後、父に関して、事態は大きくは動いていない。
父は、目覚めることがなくなり、尿量も減りつつある。
SpO2は90を切ることが増えて来たし、
無呼吸の時間も出てきたので、状況だけを見れば呼吸不全だが、
本人が仰向けに寝ていて、表情も穏やかなので、酸素吸入はしていない。
大変ゆっくりな速度での、点滴だけは継続して貰っているが、
手足のむくみもあるので、最低限という感じだ。
口を開けていることが多いので、覗いてみたが、
痰は絡んでおらず、口内は乾き気味だろうが色は悪くなかった。

経管栄養も人工呼吸も希望しないことは、再三、伝えてある。
「痛くないのがいちばんいい。ほかのことは寿命に任せる」
というのが、父本人の以前からの希望でもあった。
食べなくなり、目覚めなくなり、呼吸が間遠になり、排泄が途絶えがちになり、
……ひとつひとつ、体が終わりを迎えようとしている。
「見回りのタイミングでないときに、呼吸停止になられるかもしれませんが――」
と看護師さんは心配されていたが、それならそれで構わないと私は返答した。
隣のベッドには、65年連れ添ってきた愛妻(爆)も居るのだ。
93歳が、老妻のそばで、静かに、眠りながら逝ければ、このうえないことであろうよ。

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父93歳の具合が、このところかなり、よろしくないので、
このあとの展開によっては、私はしばらく消えるかもしれません。
失礼の段、どうかお許しくださいませ。

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ここの日記の更新が無いということは、
つまり、前も書いたが私が昼間、家に居ないということだ。
多忙過ぎてどうにもならない。出ずっぱりである。
帰宅して晩ご飯や入浴が終わったらもう就寝時間。
秋祭シーズンが年々キツくなっている(^_^;。
七五三どころか、既に正月の予約をサバく時期に入ってきたし。
ホントに誰か電話番だけでもやってくれないかしらん。

折悪しく、父93歳の具合もあまり良いとは言えない。
昨日も某サ高住に寄ってみたが、父は点滴されつつベッドに寝ており、
目覚めてはいても、とろんとした様子で、目は合うが会話は難しかった。
顎や舌、口の周辺の筋肉を使うために物凄く努力が要る、
という様子になっていて、食事も経口摂取はほぼ出来ていない。
ゼリー状のものを何口か飲み下せる程度で、
それもすぐに途中で無理になるので、誤嚥が心配な状態だ。
スタッフさんのお話によると、腰に褥瘡ができかけているとのことだった。
マットをあて、入浴のときに清潔にして特殊な軟膏を使っているが、
体動そのものが減ったので、なかなか管理が難しい。
16日(月)に皮膚科の専門の先生の診察があるそうだ。

母94歳のほうは、誤嚥性肺炎さえ起こさなければ特に困ったことはなく、
車椅子生活ではあるが、心身ともに穏やかで、自由に暮らしている。
昨日の昼食も常食で、ほぼ完食だった。
私が来れば満面の笑顔で喜ぶし、スタッフさんとのお喋りも楽しくできるが、
記憶が長く定着することはなく、すぐに眠くなって、うたた寝している。
日常の不満を電話で私に訴えることも、もう、全く思い出さなくなった。
完全にボケ倒しているのではなく、私のことも自分の状況も、
ひととおりは理解しているが、首尾一貫した思考は長続きしなくなっている。

両親とも、本人達にとって主観的に苦痛なことがないのであれば、
別に何も問題はないのではあるが。
90も半ばになればトシに不足は無いので、ラクでさえあれば万事OK。
父が、眠ってばかりいる・食事をしなくなる、のは典型的な老衰であり、
93歳にとって、それ自体は悪いことではない、むしろとても自然なことだ。
……とは思っているのだが、冒頭に書いたように、
私は基本的にこのあとも多忙で、およそ節分までは体が空かない。
今すぐ来いと言われても、どうにもならない時期が巡って来るので、
今すぐ来いと言われるような状況に、できたら、ならないでほしい(逃)。

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涼しくなってきたので、この秋として最初の花を買った。
花束の王道「ピンクの薔薇」。ちょっと張り込んだ(笑)。

毎日があまりに忙し過ぎて、時間が飛ぶように過ぎて行き、
さっき午前中だった筈なのに、もう夕方だ。
およそ実感の3~4倍以上の速度で時間が経ってしまう。
私が「先々週くらいの話だったか?」と感じる出来事は、
軽く数ヶ月前、どうかすると去年のことだったりする。
せめて切り花くらい、買いたいと思ったとき、即、買わないと(--#)。
いつか買おうなどとゆっくりしていたら、
この調子だと3~5年くらいすぐ経ちそう。

実はこの花を選ぶときも、私は一瞬だが変な錯覚をした。
オンシジウムの花束を眺めていて、
「星空のイメージだよな~、こういうの」
と思い、
「これから七夕になるから、いいかもな」
と考えたのだ(爆)。
今、涼しいのは、夏前の梅雨時だからという気分になっていた。
そして一瞬で自分の誤りに気付き、
「いや、んな訳ない、七夕なんかとっくに済んだじゃないか、
これから来るのは(=涼しい、夜の何かは)お月見だったよな」
と考え直し、それもまた既に過ぎたことだと気付いて愕然となった。

今、何月、というかこれから季節は何になって行くんでしたっけ???

手帳とカレンダーを見て、改めて自分で確認した。
既に秋。これからもっと涼しく、ひいては寒く、なる。
寒くなったら、じきに年末が来て、あの正月奉仕の日々がやって来るのだ。


うそ~~~。
正月って、三か月くらい前にやったばかりよ??(大汗)。

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両親は、8月末に、某病院の上階に位置する某サ高住に住み替えし、
以来、特に問題なく過ごせている様子ではあるが、
先月下旬から父のほうが眠ってばかりいるようになった。
声をかけてもハッキリと目覚めることが少なくなり、
いくらでも寝ているので、ほぼ、ベッド上の生活になった。
床ずれ予防のマットとクッションを搬入する由、
さきほどケアマネさんから連絡があった。

父は食事が進まないので、適宜、点滴をして貰っているが、
この先回復しなくても、私としては胃瘻(いろう)などは考えていない。
9月24日に行ったとき、最近は食事もせずに眠っていることが増えたと
スタッフさんからお話があったが、あれからも改善している様子はなく、
9月28日と10月2日に私が行ったときは、どちらの日も、
父は仰向けでこんこんと眠っていて、全く目を覚まさなかった。
特に苦痛がある様子ではなく、呼吸も穏やかだった。

「お父さん、よう寝てはるわ。ようあんだけ寝られるね。どないしたんかね」
と母が言うので、
「トシやから、仕方ないやろ(^_^;」
と私が答えたら、母は、
「トシ言うたら、私のほうが上や」
と案外、マトモなことを言った。
合ってる(^_^;。母のほうが一つ半くらい年上だ。
転姑ばーちゃんは、ヘルパーさんに向かって「うちは58よ。若ぅ見えるけど」
と言ったりしてオモシロかったのだが、母にはそういうところは無い。

母は現時点では特に問題はなく、私が行くのは大抵午後なので
日課としてはロビーに出て過ごす時間帯になっていることが多く、
雑誌を見たり、リハビリの塗り絵をしたりしている。
サ高住への引越を考えた理由は、直接には、
母の誤嚥性肺炎が頻回になったからだったが、
父のほうも今や、常時点滴みたいなことになったので、
どちらにとっても良いタイミングだったな(汗)、と感じている。

両親ともこれまでのところは、私のことは認識しており、
面会に来たのに「どなたですか」、的な珍事は起こっていない。
しかし二人とも精神活動は衰え、鈍化していて、
目の前の状況は一応わかるが、何かを総合的に判断することは無理だし、
以前の出来事を時系列に沿って思い出すことももう出来ない。
母の文句がほぼ無くなったので、私としては有り難いが(殴)。
愉快でたまらん毎日とは言えないが、心身の苦痛もとりたてて無さそうで、
93歳と94歳のペアが同じ部屋で最後まで(だろう)ともに過ごせ、
人生の終末期としては、まあ「アリ」かな、と思う、今日このごろです。

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ふと気付いたら、前回の歯科受診は5月初めで、
なんと5ヶ月も放置していたのかと焦って、歯医者に行った。
全体をチェックして貰ったが、歯肉溝は2ミリ、部分的に3ミリで、
動揺度はゼロ、虫歯もなく、特に問題は無かった。
全体をクリーニングして、仕上げ磨きをし、フロスをして、終わった。
連日忙しくて疲れていたので、歯磨きして貰いながら寝そうだった(爆)。

「右顎の関節症は、その後どうですか?」
と先生に尋ねられたので、
「なおりました!」
と即答した。
7月後半、転夫ころもんのコロナ騒動で1週間+α、一切の仕事を断り、
誰にも会わず自宅で思い通りに過ごしたら、あっという間に改善したのだ。
「夏に一週間、休んだときから、痛くなくなりました!」
という私の話に、先生は、さもありなんという様子で頷かれた。
「やはりストレスによる食いしばりが原因でしたね」

それで、痛みがないならマウスピースを作る必要までは無いとのことで、
右顎の負担を軽減しつつ噛み合わせを調整する顎の運動を教えて頂いた。
異音がある程度であれば、これで改善が見込めるということだった。
今も軽い異音は残っているので、やってみようと思っている。

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