転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



元宝塚男役トップ・和央ようか、国際結婚!お相手は02年冬季五輪開会式作曲の米国人(スポーツ報知)
『元宝塚歌劇団の宙組トップスターで女優の和央ようか(46)が国際結婚することが30日、分かった。お相手は2002年ソルトレークシティー冬季五輪の開会式曲も手掛けたブロードウェーミュージカルの米国人作曲家フランク・ワイルドホーン氏(55)。交際10か月で今年1月に婚約し、来年挙式する。』『元宝塚のトップスターとブロードウェーを代表する作曲家のゴールイン。ありそうでなかった大型カップルの誕生だ。和央は「温かく穏やかな人。私が私でいられる」と静かな口調で喜びを語った。出会いは宝塚の退団公演「NEVER SAY GOODBYE」(06年)をワイルドホーン氏が手掛けたこと。「ドラキュラ」(11、13年)など何度も一緒に仕事をしてきた。』

朝、ニュースを流し読み……、というつもりでネットを見たら、
『元・宝塚…』という文字だけが最初に目に入り、
ん?誰がどうした?とクリックしようとして、ギョーテンした(O_O)。
んなっ、なんとっっ、たかこ(和央)さんが、ご結婚!!
それで慌てて(←なぜ慌てる?)本文を開いてもっとビックリした。
なななんと、あのワイルドホーン氏と!!!??

たかこさん、おめでとうございます~~~(^^)!!!!

2007年秋にこの日記を書いたとき、引用元の記事を読みながら私は、
ワイルドホーン氏がたかこさんをかなり高く評価していることが感じられ、
ファンの欲目の逆で「それはさすがに勿体なさすぎる御言葉では」(爆)と
彼の賛辞を畏れ入って拝読したものだったが、考えてみたら当時から、
ワイルドホーン氏は、いたくたかこさんがお気に入りだったのだな(^^)。

和央ようかと結婚するワイルドホーン氏「私は世界一ラッキー」(スポニチアネックス)
『ワイルドホーン氏は大学時代から作曲を始め、99年、「ジキル&ハイド」「スカーレット・ピンパーネル」「南北戦争」の3作品がブロードウェーで同時上演される快挙を達成。故ホイットニー・ヒューストンさんの世界No.1ヒット「ブロークン・ハート」などポピュラーソングも作曲。結婚歴があり息子が2人いる。』『結婚についてワイルドホーン氏は「毎朝目が覚めると、私と同じ価値観と情熱を持った美しい貴子(和央の本名)がいる。私は世界一ラッキーな男だ」と文書でコメントした。』

いいですねぇ、御馳走様でございます(^^)。
たかこさんに関しては、私はなんとなく、
もしかしたら演出家の先生と結婚されるようなこともあるかな~、
などと、これまで想像したことはあったのだが、
よもや一気にアメリカまで飛んで行かれることになろうとは、
こちらの予想なんか軽く超越されてしまった(^_^;。
これからの結婚生活の経験はきっと、彼女にとって、
私人としても舞台人としても、価値あるものとなるだろう。
どうかどうか、末永くお幸せに……!!

いや~、それにしても私にとってこの件は、かつて、
『マリコさん(元・星組トップ麻路さき)、結婚してブラジルに行くんだって!』
と聞いたとき以来の途方もなさだったね(爆)。

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・季節問わずジャケット着用、靴は必ずヒールのあるパンプス、
というのが職場の決まりなので、仕方なく従っていたら、
この三ヵ月をかけて両足の裏に小さめながら魚の目が成長しつつあり、
昨日はついに、左足の外くるぶしの剥離骨折跡に神経痛が起きた。
「慣れん格好するけぇ」
と主人に笑われた。その通りだ(涙)。
更に、そういうビジネススーツ的なナリで外に出るためには、
下着も最低限、ちゃんとしていないといけないわけだが、
胸だの腹だの締め付けられるのは窮屈でならず、
土曜日の勤務が終わると、私はかなり肩凝りを感じるようになった。
まったく、この20年がいかにダラけた生き様であったか、だ。

・今夜はフィギュアスケートの世界選手権のエキシビションがあり、
我が家でも主人がそれをテレビで観ていた。
私は少し離れたところで、洗濯物を畳んだりアイロンをかけたりして、
あまり画面を見ていなかったのだが、途中で不意に、
乳首を柔らかく使っているのが良いですね」
という信じ難い解説が耳に入って、物凄い勢いで振り向いてしまった。
見たら、女子の某選手の演技中で、
画面には彼女の巧みなステップワークが映っていた。
……と、そのとき私の斜め前にいた主人が、
「びっくりした~。足首、か~~(^_^;」
と言った。
おまえもか

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・『音楽の友』4月号『海外レポート』p.155に、城所孝吉氏の、
『ポゴレリチのリサイタル』という文章が掲載されている。
2月12日ベルリン・フィルハーモニーホールでのリサイタルについてで、
『80~90年代の独創的なポゴレリチに、さらに凄みが増した』
『非常に構成感があり』
『「オーケストラ的」ではなく、あくまでピアノで一次元超越した音響』
『「新しいポゴレリチ」に、深く安堵させられた』
等々の肯定的な内容で、ファンの私としてはとても嬉しく思った。
ときに、私はこのところずっと、自分のためにも、
昨年末の来日公演の感想を書いて残しておきたい、と思っているのだが、
最近はパソコンに向かう時間そのものが激減しているので
現状ではなかなか難しい。……が、なんとかしたい(大汗)。

ととろお(のべれ助ってん)‏@novelletten様が
Twitterで教えて下さったお蔭で知ったのだが、
名古屋しらかわホールのサイトがリニューアルされて、
アーカイブのコーナーで、しらかわメイトの機関誌『ムジかる』の
バックナンバーが読めるようになっていた。
ポゴレリチはここで2012年5月と2013年12月に公演しているので、
各々、当時の公演情報を見ることができる。
とりわけ、2012年の公演の扱いは大きかったので、
2011年Winterの号には来日前メッセージが、
2012年springの号にはリサイタル案内の記事が掲載されている。
実を言うと、私は2011年の暮れ、この機関誌とチラシ欲しさゆえに、
入会金を払ってしらかわメイトのメンバーになった。
その頃、ポゴレリチが本当に来日するかどうか、
私はまだ、かなりの不安を持っていたので、
これだけ事前投資してキャンセルされたりしようものなら、
「すげー高いチラシだったな(--#)」
ということで終わるのだな、と覚悟までしたものだった(^_^;。
今となっては思い出で、幸せなことだと思った。

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(備忘録的、練習記録。3月26日現在)

本番まであと一ヶ月ほどになったのだが、
技術的課題がまだまだいくつも残っている。
冒頭4小節、まずここが最初にして最大の難所だ。
特に、2小節目の二拍目から3小節目にかけての中声~低声の部分に、
F#―E―D#と、「下がって」行く旋律が隠されていると思うのだが
(これを私に聴かせ、感じさせたのはポゴレリチなのだが・汗)、
技術のない私がそれを音型として表現しようとすると、かなり聞き苦しい。
……いっそ、無かったことにして高音だけ聴いて弾こうか(爆)。
こういう序奏のついたものは、ベートーヴェンの32曲のソナタの中には
ほかに見当たらないのではないかと思うが、どうだろうか。

ここが済めば、音楽的には多少気楽になれる気がするのだが、
ハズすのではないかという箇所が次々と出て来るのは、勿論このあとだ。
33小節目の右手の上行アルペジオ、35~36小節目の下行アルペジオは、
「次、気をつけてちゃんと弾く箇所だ」
などと思ったら最後、途端によけいな音を触ってしまう(汗)。
39小節目の左のスケールも同様で、「臨時記号だ注意しよう」、
と考えるとかえって違う指が出てしまって、そこから転ぶ(大汗)。
日頃、漠然とした感覚優先で、
構成など考えずにやっているからこういうことになるのだろう。
最近は毎日、できないフレーズばかりを抜き出して左右別々に弾き、
速度を変えたりリズム練習をしたりしているのだが、
練習の方法として、手に覚えさせることと頭に覚えさせることの
バランスをもっと取らなくてはと思っている。

45小節目からは、アナリーゼができない素人の弱みが露呈して、
自分でも何を弾いているのか、実はほとんどわかっていない(殴)。
右手のスケールと変形アルペジオみたいな流れに乗っかって、
左手のタンタタン・タンタタンが展開している、
……という程度の理解で弾いている。申し訳ありませんん(T_T)。
一方、これの次に、両手ユニゾンのスケールになだれ込むところは、
私なりに弾きたいものが一応あるので、気持ちは入るのだが、
それゆえ、途中で突然に確信に満ちた弾き方に変わる、
みたいな変な具合にならないように、
もうちょっと(←ちょっと、かよ!)勉強して弾かなくてはと思っている。

66小節目からは、コード進行としてちゃんと把握しきれていないため、
これまた、自分の中で一瞬でも何かが狂ったらワケわかめだ。
子供の頃に、和音の転回形など多少は習ったことがあるのだが、
極力、そういう学習も反復練習も避けて通ろうとしていたので、
そのツケは今シッカリ残ってしまっている。
あの頃は、今週のレッスンを叱られないで乗り切るのが最大の目標で、
まさかテレーゼみたいなものを将来弾くようになるとは、
思ってもいなかったんだよね(殴)。

95小節目後半からは、10小節ほどずっと左手16分音符が続き、
転調に継ぐ転調のスケールとアルペジオの連続になっているので、
半端なエチュードより私にはずっとキくという感じがする。
これだけ黒鍵を多用するのも、普段の私にはあまり無いことだ。
私は最近では、全音ハノンの4ページ5ページを開いて、
出ている22種類の『変奏の例』に従ってここを練習している。
ハノンは果たして、そういう使い方をするものだったかどうか不明だが、
私にとっては、いくつになっても頼るのはハノン先生なのだ。
16分音符で刻む4分の4拍子、ってハノンの21番以降と同じ絵ヅラだし。
このあたり、右手はほぼ、拍の頭の和音だけなので
左手がどういうリズムになろうと、左右一緒に弾くことが可能で、
そうするとテレーゼがなんと、
8分の6拍子とか4分の3拍子になったりして、なかなか愉快だ。
っていうか全然別の曲だ。
この練習は我ながら結構気に入っている(爆)。

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(写真は、南座最寄りの京阪電車『祇園四条』駅の、
劇場側出口の前に設置されていた、今回の公演案内。)

御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)』という演目を
私は今まで全く観たことがなかったのだけれども、
今回、『(しばらく)』の衣装を見た途端、まず「???」と思い、
30秒ほどかかって、その違和感の理由がわかった。
柿色の長素襖ではあったのだが、例の巨大袖についている家紋が、
團十郎のところの三升でなく、菊五郎の替紋の四ツ輪だったのだ。
アソコが四角くない暫(爆)って初めて観たぞ。
音羽屋の松緑が演るとこうなるのかと、今更知った。
大薩摩の肩衣にも多分、四ツ輪がついていたのだろうと思うが、
私の席から私の視力でそれを確認するのは無理だった(^_^;。

(参考:歌舞伎十八番のほうの『暫』の衣装→歌舞伎「暫」風俗博物館))

『暫』も『芋洗い勧進帳』も、いずれも期待以上の見応えがあった。
存在に大きさと躍動感が漲り、松緑の陽の魅力が全開になっていて、
荒事ならではの楽しさを堪能させて貰った。
こういうものを見せられると、歌舞伎十八番としての『勧進帳』も
近いうちに松緑の弁慶で観たいものだなと想像してしまったが
(私はまだ松緑が演るのを観たことがないので)、
しかし『芋洗い』版の、素直で愛らしいくらいの弁慶のほうが、
今の松緑の持ち味には合っているのかもしれないとも思った。
歌舞伎十八番のは、うんとオッサンな弁慶もアリだと思うが、
芋洗い弁慶は、若くてお茶目なところに魅力がないと駄目だ。

それにしても、このように極限の体力勝負みたいな演目を、
昭和54年に二代目松緑(当代松緑の祖父。当時六十代半ば(O_O))
が務めていたことを番附(=筋書)の上演記録で読み、畏れ入った。
紀尾井町のおじさま、人間離れしてスゴ過ぎです。
ちなみにそのときの義経は、辰之助。
……ぁああああ、そうだったのか。観ていない(涙)。
当時の自分を殴りたい心境だが、
1979年4月というと私は中学3年生だったので、いくら痴れ者でも
国立劇場まで歌舞伎を観に行く身分ではなかった。
しかし、年月が流れ、辰之助の長男が暫も弁慶も立派に務める姿を
今やアラフィフの私が応援できるようになったのだから、
これはやはり幸せというものだなと、昨夜は思った。

松緑の全力投球の『暫』『芋洗い』を続けざまに観せて貰い、
いやもう、昼には二度目の『素襖落』も満喫したし、
ここまで楽し過ぎて私は眼福満腹、容量オーバー、
……と思ったところへ、菊之助の『京鹿子娘道成寺』がこれまた絶品で、
観劇にも別腹というものがあったことを実感した(爆)。
いや~、菊之助のこのところの美しさ、あれは一体何なのだろう。
思えば、この南座三月公演の制作会見の席上で松緑は、
「(『御摂勧進帳』は)菊之助さんの道成寺に繋がるように、演る」
という意味のことを言っていた筈だ。
それも確かに実現されていたことを、私は最後に感じた。

諸々、詳しいことを書く時間が取れたら、いずれ、また。

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きょうしか動ける日はないと思い、決行した。
遂に観た!
南座、昼夜通し!

(前回、三階から観たので、きょうは久々の一階席)

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・昨夕は酩酊状態というほど眠くなったので、
10時前から布団に入って、爆睡した。
なんという稀な幸福!極楽だった。
今でも思い出すのだが、小学生の頃、私はあまり眠らない子で、
夜になったら寝なくてはいけないというのが面白くなかった。
夜何時になろうとも、無理に寝なくていい、
という身分になったらどんなに良いだろうと思っていた。
我ながら短慮であった。
夜8時や9時から寝ても差し支えない、などという境遇は、
その後の人生でそうそう許されないものになることを知らなかった。
ちなみに娘も今、布団を我が伴侶と呼ぶほど愛しているので、
いくらでも寝られた筈の赤ん坊のときに、
自分はなぜ、寝グズりなどというくだらないことで
時間を浪費したのか、と悔やんでいる。
あの頃は、寝付きがいいというだけで褒めそやされたのに。
今となっては、よく寝ると「いぎたない」と言われるのが関の山だ。

・お彼岸だったので、朝から主人と一緒にお墓参りに行った。
ふたりで墓掃除をし、花を供え、お参りをした。
いつもは人の少ない墓地だが、きょうは墓参の人が多く、
お寺の駐車場もいっぱいだった。
多分、仏教的に言えば、じーちゃんもばーちゃんも既に、
今頃は何かに生まれ変わっていて、墓石の下には誰も居ないのだが、
それでも、墓所が亡き人を偲ぶよすがになり、
そこに集まることで家族たちが仏様に思いを馳せ、
ごく自然にお念仏を唱える機会になるのだとしたら、
やはりお墓参りには意味があるということになるだろう。
……と思って、きょうは特に念入りに、じーちゃんの気に入るように、
墓石の上台・中台の境目や蝋燭立ての下まで雑巾で拭いた(笑)。

・ベートーヴェンのソナタ『テレーゼ』の第一楽章を
4月下旬のピアノの会で弾くことにしているのだが、
現時点ではまだ、できているとは到底言えない(汗)。
思い返せばこの曲は、ほぼ1年前に譜読みを始め、
なんだかんだとずっといじりまわして来て、
今や、当初のモタモタした弾き方に較べたら、
音がどうにか自分の中に入って来た感覚はあるのだが、
ここ数ヶ月は仕事があって時間が取れなくなったのもあって、
未だに、仕上げにかかるような段階に到達できていない。
年末にポゴレリチにヤられ、私の意欲が減退したのも響いた。
技術的にも課題が相当残っていて、悩ましい状況だ。
そろそろ本腰を入れなくては……。

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娘は昨日の午後、横浜に戻って行った。
午後1時過ぎの新幹線で広島を発ち、夕方5時半頃には、
『今アパートに着きました。部屋は無事です(笑)』
とメールして来た。
一ヶ月ほど無人だった娘宅だが、何も変化は起きていなかったようだ。
そのまますぐにサークルの『一年会』に行くという話だったので、
帰った当日として、とりあえず晩ご飯の心配は無さそうだった。
長かった春休みもこれでほぼ終わり、
娘は再び気ままな一人暮らしになり、そして我が家もまた、
以前通りの静かな(殴)日々の生活に戻った。

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小川直也長男が高校王者!父譲りの巨体で攻めまくった(スポニチ)
20日、柔道の全国高校選手権第1日目に、
おーちゃんの息子さんが優勝、高校チャンピオンとなった。
以前はクラシックバレエを習わせていらしたそうなのだが、
無差別級などという体格に恵まれていては、
こりゃもう、バレエじゃないだろう(爆)。
この記事のあと、21日の団体戦でも優勝して、二冠達成も実現できた。
世界に出るなら、この年齢からあとの伸びが大切とは思うが、
現時点の到達点としては、とりあえず言うことなしなのではないだろうか。
一方、73キロ級では20日、古賀稔彦氏ご長男が決勝で敗れて2位になった
古賀ジュニアは無念準V 父・稔彦さん「相手が数段上だった」)。
今や、こうして往年の名選手の二世たちが活躍する時代が来たかと、
私の世代としては感無量だ。
菊之助や松緑の活躍を眺めるのに似た気分だね(^_^;。


河合楽器、楽譜出版社を買収 販路拡大狙う(日経)
『河合楽器製作所は20日、楽譜出版や楽器製造・販売を手掛ける全音楽譜出版社(東京・新宿)を買収すると発表した。買収額は非公表だが、十数億円程度とみられる。同社は全国の楽器店に販売網を持っている。河合楽器は商品の大半を直営店で取り扱っており、今後は全音楽譜出版社の販路も活用する。』

日本のピアノ学習者ならば、全音の楽譜を使ったことのない人は
まず居ないだろうと思う。
全音版は安価で丈夫で入手しやすく、幅広い楽曲が扱われており、
かつ日本語解説がついていて、私も大変お世話になってきた。
河合に併合されると、今後、全音の楽譜そのものは変わるのだろうか。
長く馴染んだあのデザインやレイアウトに変化があるとしたら、
やはり、なんとなく寂しいという気は、する。
楽曲によってヘンレ版やパデレフスキ版を参照することの重要性は、
今では私なりによくわかっているのだが、
全音は幼い頃からの長い友人みたいなものだったので、
何でもまず全音で探してから…、みたいな感覚は相変わらずある(^_^;。

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18日・19日の一泊二日で、フォローアップ研修に行って来た。
11月の採用時研修で一緒だった仲間とも再会し、
「あの日から4ヶ月、挫折せずクビにもならずここまで繋がった(T_T)」
と互いの健闘をたたえ合った。

職場でやっていることをトレーナーの前で再現するデモをやり、
山ほど駄目出しをされ、やり直しを要求され、
更に来期から担当できる仕事を増やせるように新しいことを習い、
座学があってワークショップがあって、
夜には個別面談でシボられ、二日間ヘトヘトになった。

唯一良かったのは、今回は寮で一人部屋が与えられたことだった。
新人でなくなって扱いが上がったのか、
それとも単に部屋が余っていただけなのかは、不明だったが、
ともあれ、寝ようと思った時間に電気を消して布団に入ることができ、
朝は目が覚めたら遠慮無くカーテンを開けたりできて、
生活時間帯に関して気を遣うことがなく、ラクだった。

今月採用になった人達が今、採用時研修を受けている最中で、
同期の友人(私とほぼ同年齢)は、
二日目の朝、寮の玄関で二十代とおぼしき新人達と出会い、
「おはようございます!トレーナーの方ですか(^^)?」
と元気よく挨拶されたと言っていた。
「だったらどんなにいいか(T_T)。わたしゃアナタ方と同じ立場よ」
と友人は泣いていた。

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18日(火)19日(水)に本社(県外)で研修があるので、
これから私は怒濤の多忙週間に突入する予定だ。
要求されている事前準備がまだまだ終わっておらず、
研修関連で今週前半が全部つぶれる上、土曜日は通常勤務なので、
その準備のためにまた、週の後半がすべて費やされることだろう。
採用時研修のように1週間もあるわけではなく、一泊二日なので、
行った翌日には帰れる、ということを心の支えにしよう(T_T)。

「(実務開始から)3ヶ月間頑張ったら、多少ラクになりますよ~。多少ね」
という、職場の先輩(経験4年・二十代・爆)の言葉を励みに、
オバちゃんひたすら頑張るのみ(^_^;。
現在、その3ヶ月目が半分くらい過ぎたところだ。

****************

ときに先日、同僚アメリカ人のW氏が言うには――
W「今時はさ、どこの会社の会議室もホワイトボードじゃない?
 昔は濃い色の板とチョークだったんだよねえ。学校とか、全部」
私「はい。そうです(学校は今でも黒板なのでは……??)」
W「どうしてホワイトボードが世の中に普及したか、知ってる?」
私「チョークは私達の健康に悪いかもしれないと私は記憶しています」
W「吸い込んだら呼吸器官に良くないってこと?」
私「はい、まさにそれが、私の意味していることです」
W「石灰石だよ。自然のモノだもん。悪くはない。
 むしろ、ホワイトボードで使うマジックのほうが、
 プラスチックだから環境破壊になるよ」
私「それでは、なぜ私達は今ホワイトボードを持っていますか」
W「それはね――」
私「はい」
W「世の中を動かす、社会上部の人間たちの、黒い企み……

ニャントロ星人かよ(--#)

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