転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



クローゼットを整理していたら、期限切れの、
私の独身時代のパスポートが出てきた。
これを最後に使ったのは93年の新婚旅行のときで、
以来、全く海外旅行をしていないので、
私は今の姓での旅券申請をする機会が無いままだ。

このパスポートを取得したのは89年で、
まだ「数次旅券」と「一次旅券」の区別が一般的だった頃のことだ。
数次旅券は5年用、一次旅券は一回の旅行のみ有効だった。
若かった私は、『これからバンバン旅行してやる!』と思って、
奮発して数次旅券のほうを申請した。が、写真で失敗した。
パーマをかけたばかりで、物凄く頭が噴火していたのだ。
生まれて初めて取得した国際的な身分証明書の写真は、
よりにもよって、見た人が皆、笑うようなモノになった(泣)。

試しに、今さっき、娘にその写真を見せたら、
私が何も説明しないのに、開口一番、
「パーマ、失敗したときの?」
と言いやがった。
やっぱり、いつ誰が見ても、そーゆー写真なんだ(大泣)。

私は、だいたいが証明写真では良い思い出がない。
大学に入って初めて持った学生証の写真は、
三白眼で睨んでいて、皆が「怖い」と言ったし、
就職のときの履歴書に貼ったものは、どうしてか、
古色をつけたような、明治時代の写真みたいな色調で、
できるだけ早く、お焚きあげ供養が必要な感じだった。

23歳のとき取得した運転免許証だって、ひどいものだった。
あのときのことは、今思い出しても腹が立つのだが、
私が行った免許センターでは、免許証用の写真を撮るのに、
なぜかわからないが、カメラのレンズの上あたりに、
ここを 見ないで下さい
という日本語が大書してあった。

それまで、視線がずれてカメラ目線にならない人が、
この免許センターでは多かったのかもしれないが、
それにしても、こういう注意の仕方は、ヒドいと思う。
見ないで下さいったって、それを理解するまでは、どうしたって、
まず、何が書いてあるかと、文字を読んでしまうじゃないか。
私が「見ないで下さい」を読んでいる最中に、
無情にも、シャッターは、切られた。
できた写真の私は、寄り目気味に上方を眺めた顔で、写っていた。

そもそも、自分は、なんて写真写りが悪いのだろう。
と私は長い間、思っていた。
記念写真などを見ても、自分のは、変な写真が実に多いのだ。
だが、いつぞや、当時の職場で集合写真を撮影するときに、
きちんと整列して、さぁ撮りますよの瞬間、同僚の男性が、
「ボクだけいつも変なんだよな~。みんな綺麗に写ってるのに」
とボヤいて、皆が笑ったので、私はハタと悟りを開いたのだ。
そうか。私だけが、特別に写真写りが悪いのではないのだ。
ただ単に、私の場合は、自分の容貌を、
写真よりもマシなものだと自分勝手に思いたがっていただけで、
なんのことはない、実際の私は、まさに写真通りの人間なのだ。
そして、きっと、この傾向は、
「写真写りが悪い」と言い出す人間に共通のものなのだ。

ちなみに、そのときの集合写真は、
この同僚男性の絶妙なボヤきの御陰で、全員笑いが止まらず、
実に楽しそうな笑顔で、記念写真としてあり得ない出来映えだと、
カメラマンに褒められたものだった。

Trackback ( 0 )




娘が中1のときのクラスで、PTA役員仲間だったお母さんから
携帯にメールが来た。

某『転妻さん来年度のクラス役員やれそう?どうする?』
私『いや、もう引退したいですわ~。だって来年度は、
 地区会のほうの役員をやることに決まってるので』

そうなのだ。
うちの地区では例年、中3保護者が中心となって地区会運営をするので、
先日、A中学高校の地区会の、中2と中3の保護者が集まって話し合い、
来年度の役員決めと引き継ぎをした。
そのとき、4月から、私は地区会の会計をやることになったのだ。
と言っても、単に『あみだくじ』でアテてしまっただけだ。
会長職などを引かなかったのは不幸中の幸いだった。

某『同じか。私は会長になっちゃって

ひええ~~。それは、また。
地区会によっては高校部の保護者が役員会を構成するところもあるが、
彼女の地区も、うちと同様、中3がやるのが慣例らしい。

私『それじゃ、来年はもう某さんはクラス役員しなくていいですね』
某『そーかなー。関係ないんじゃない?』

えー・・・・・・
地区会会長がノーカウントになるのだったら、会計の私も駄目ぢゃないか。
地区会役員として、地区会の懇親会やらバザー用のクッキー作りやら、
さんざん奔走した挙げ句に、それプラス、また文化祭バザーをやるのか?

絶対いや(逃)

Trackback ( 0 )




(とりあえず、こちらに書きます。
のちほど、ポゴレリチBLOGのほうにこの記事は移します)

8月29日にポゴレリチはイギリスで演奏会を行います。
場所はスコットランドのエディンバラで、
Edinburgh International Festivalの一環として
リサイタルを予定しています。チケット発売中です。

曲目は昨年来50歳記念ツアーで手がけたものが
そのまま発表されています。
ショパン:夜想曲変ホ長調作品55-2
ショパン:ピアノ・ソナタ第3番ロ短調作品58
リスト:メフィスト・ワルツ第1番
シベリウス:悲しきワルツ
ラヴェル:夜のガスパール

エディンバラ国際フェスティバルの公式サイトは、こちら。
Welcome to the 2009 Edinburgh International Festival

http://cde.cerosmedia.com/1W49c3be82a4552193.cde
上記パンフレットの40~41ページに掲載されています。

Trackback ( 0 )




今年も、某先生ご指導によるピアノおさらい会を聴きに行った。
私は生徒さんにも先生にも全く縁もゆかりもなかったのに、
これで連続三年、聴かせて頂いたので、
中には一方的にお顔や御名前を覚えてしまった生徒さんもあり、
もしこの先、ピアノに関係のない、市街地などでスレ違ったりしたら、
『今の、凄くよく知ってる子なんだけど、なんで知ってるんだっけ』
と頭を抱えそうな気が、きょうは、した(苦笑)。

一年経つと、身体的には当然のこと、ピアノの技術も、演奏内容も、
明らかに進歩や成長があって、とても面白かった。
年齢とともに難しい時期に差し掛かっているかな、
という印象の生徒さんも少しあったが、それらもまた
長い目で見れば、有益な課題と取り組みつつある、
ということだろうと思われた。

同じピアノで次々と演奏者が変わると、音の違いも興味深かった。
限られたスペースの自室で弾くのと違い、
演奏会の場というのは、小ホール程度であっても広がりがあるので、
音の響かせ方に関する、個人の技量や感性が露わになっていた。
よく鳴り渡る、抜けの良い、爽快な音のする演奏もあれば、
楽器のまわりだけで鳴っているような、くぐもった音の演奏もあり、
ひとりの演奏者の中で、それらが混在していることもあった。
自分が会場で出している音がどのようなものかを知るには、
やはり公開の場で演奏する経験を重ねるしかないから、
このようなレベルの高い発表会は、生徒さん方にとっても、
得るところの多い、実りあるものだろうと思った。

また、楽曲との相性みたいなものも、聴き手としては結構感じられた。
同じ生徒さんが2曲から3曲を連続して弾くので、
ある曲ではあまり冴えた仕上がりと感じられなくても、
別の曲になると天才ではないかという鮮やかな出来映えだったりして、
演奏者が心身ともに未熟であるだけに、
その最も良いところが引きだされるには、
きっと条件が様々あるに違いない、と聴きながら思った。

*********

ところで、下世話というか、どうでもいい話なのだが、
お嬢さん方のドレスが実に華やかで、
どの子も本当に可愛らしいので、私は今年も見とれてしまった。
別に、この教室だけが度外れに派手だと言いたいのではなくて、
最近は、発表会というと、だいたい、みんなお洒落をすると思う。

どうも私の観察では、バブル期以降、
お子様向けのレンタルドレスの幅が広がってきて、
発表会でも、結婚披露宴のカクテルドレス並みの美しい装いを
小さい子供たちがするようになった気がする。
私自身が子供だった、昭和40~50年代頃は、
膝丈くらいの、よそゆきワンピース程度が普通だった。
それが、娘にピアノを習わせるようになったとき、私は、
出演する娘さん達が、ロングのフォーマルドレスであることを
初めて目の当たりにした(知らずに娘には入学式程度の格好をさせていた)。
しかも、ソロと連弾で二度出るような子は、お色直しまであった。

私は、このような趨勢を、正直なところ、いかがなものかと思いつつも、
一方で、某ピアニスト女史みたいに、アッパッパにカーデガン羽織った、
みたいなナリで弾く神経を最初から身につけられても困るだろうから、
幼いとは言え、演奏会のフォーマルな雰囲気を体験させるというのは
それなりの意義があるのだろう、とも、思っている。

Trackback ( 0 )




大和ミュージアムの向かい側の海上自衛隊呉史料館にも行った。

未だに、日本の近海には機雷が数百も残されていること、
海上自衛隊による撤去作業が、今も継続中であること、
等を、私は今回、恥ずかしながら初めて知った。

数年前まで現役で使用されていた、潜水艦『あさしお』が
内部もそのままに展示されていて、
実際に入って見学できるようになっていた。

通路も居室も、とにかく狭いことに驚いた。
乗組員の寝室など、昔の電車三段式の寝台列車みたいで、
三段ベッドのどの段も、起き上がって座ることも出来ない空間しかなく、
ベッド幅も、とても80センチは無さそうに見えた。
閉所恐怖の人間には、最初から務まらないことが明白だった。

船内の係員の方の説明によると、
事故や災害や攻撃に遭った場合、被害を最小限に食い止めるために、
最初から開口部となる箇所はできるだけ小さく設計されている、
とのことだった。
「こんな細いハッチで、本当に通れるんですか」
という観光客の方の質問に、係員の男性が、
「今まで、通れなかったり、詰まったりしたヒトは、いません」
と笑顔で返答なさっていた。

うちの娘がこのままタテヨコ育って、海上自衛隊に入隊したら、
『潜水艦に入ることが出来なかった、最初の人間』
として歴史にその名を留めるだろう、
と主人が言った(殴)。

Trackback ( 0 )




お天気の良い土曜日だったので、親子三人で、
呉の大和ミュージアムを見学した。

呉市海事歴史科学館 大和ミュージアム

10分の1戦艦「大和」の勇壮な姿に圧倒されたが、
それ以上に、この戦艦の乗組員だった方々や、
回天などの特攻兵器と運命を共にした人達の思いに、深く打たれた。

遺書や、辞世の句、写真、遺品、家族への言葉を録音した音声など、
たくさんの展示があり、その潔さ見事さには言葉もなかった。
当時の青年たちは、今の我々とは比較にならないほど早くから、
精神的に成熟し自立し、自分なりの死生観を持っていた、
ということが、遺された言葉や文面から察せられた。
心身ともに強健で優秀な人材が、どれほど犠牲になったことだろうか。
個人としての彼ら、その家族の無念は、計り知れないと思う。

だが一方で私は、「お国のために」と信じて
若い兵士たちが命を捧げた、その心根そのものは、
なんら、間違っていなかったと思っている。
ただ、世の価値基準、特に日本で『正しい』とみなされる事柄が、
昭和20年以前と以後では、全く違ってしまっただけだ。

以前、倉田百三を読みながら思ったことと同じなのだが、
人間は、快適で便利な暮らしの中で長寿を夢見られるようになると、
それだけダラクするのではないか、という気がしてならなかった。
私たちは、命を賭けた彼らの思いに応えるだけの過ごし方をして来たか、
と考えると、本当に申し訳ないと思った。

Trackback ( 0 )




サイトBBSに、西武線の鷹の台駅や一橋学園駅付近の話を、
このところ、複数の方が書き込んで下さり、
とても懐かしい思いで楽しませていただいている。

私の卒業した大学は、東京の小平市にあって、
通学には、西武国分寺線の鷹の台か、西武多摩湖線の一橋学園、
JRなら武蔵野線の新小平、といった駅がよく利用されていた。
私の下宿は、大学まで徒歩圏内の津田町三丁目にあり、
都区内へ出るには一橋学園から乗ることが多かった。

卒業は1987年3月なので、あれから、もう二十年以上、
大学界隈まで足を伸ばしたことがなく、
きっと今では、様々なところが変わっているのだろうと思う。
そういえば卒業して数年目の広島支部同窓会で盛り上がったのが、
「国分寺駅が、改装されてマルイになったそうだ!」
「国分寺駅に、特快が止まるようになったそうだ!」
という話題だった(爆)。
我々が住んでいた頃は、国分寺エルなどというものは無かったし、
JR特別快速の、三鷹の次の停車駅は立川だったのだ。
さらに言えば、私たちの頃は、まだJRではなく「国電」だった(汗)。

****************

その国分寺駅まで西武国分寺線で駅二つのところに、鷹の台があった。
大学から徒歩で近かったし、私の銀行口座もあったので、
よく、授業のあと、帰宅する友人たちと一緒に、界隈を歩いていた。
道すがら、話にだけ聞いていた玉川上水を初めて見たときには、
「こんな狭いとこでどうやって自殺できたのか、太宰治?」
と真面目に疑問に思ったものだった。

鷹の台界隈は、前述の銀行口座のほか、コンビニと書店があり、
それらには毎回のようにお世話になった。
ほかに靴屋さんや写真屋さんや家電の店などもあったと思う。
学生の、日常の買い物には充分な環境だった。
鷹の台駅から徒歩で行ける学校が、母校のほかにもいくつかあり、
入学したての頃には、友人が駅から方向を間違えて歩き続け、
朝鮮大学校に行ってしまったこともあった。

****************

JR武蔵野線の新小平も、なんとなく忘れ難い駅だ。
小平市津田町に住み始めた頃、私は地図を見ていて、
どうも「新小平」という駅が近くにありそうな感じなのに、
見渡す限り、鉄道が通っている気配がないので、
しばらくの間、とても不思議に思っていた。
地図によれば、武蔵野線は、私の下宿の前を通っている
としか思えないのに、線路も踏切も、見たことがなかったのだ。

それである晴れた休日のこと、私は地図を持って、
新小平まで歩いてみることにした。
下宿からほとんどまっすぐ北上した位置だと思われたので、
住宅街を抜け、畑の間の道になっても、とにかく歩き続けた。
途中でスーパー「いなげや」があって、広島人の私はウケた。
広島弁で「いなげ」というのは「奇妙な」の意味だからだ。

で、10分ちょっとほど歩いたところで、予想通り新小平駅を見つけた。
やっぱりあるじゃん、と思って、私は取りあえず切符を買った。
西国分寺を経由して、立川あたりまで行ってみようと思ったのだ。
総武線と京浜東北線を連結したような、変な色合いの車両が来て、
乗ってみたら、ビックリだった。
地下鉄でもないのに、その近辺では地下を通る路線だったのだ(汗)。
道理で、地上では線路を見かけなかったわけだ。
普通の車両が地下を通ったら、そりゃもう、ウルサかった。

****************

そんなこんなで、思い出すとのどかで温かい気持ちになる小平なのだが、
残念ながら都区内からは遠すぎて、今ではなかなか訪れる機会がない。
卒業20周年の同期会も諸般の事情で欠席してしまったので、
そのうち、何かの機会に行ってみたいと思っているのだが、
小平でポゴレリチが演奏会をするとは考えにくいし、
『何かの機会』というものが、どうも、巡って来ないのだった。

Trackback ( 0 )




加藤 徹氏の《梅蘭芳 世界を虜にした男》を買った。
毎度、何かの拍子にハマるとしばらく追求する私の病気だ。

映画のノベライズ本では触れられていなかったことが
評伝のかたちで様々に紹介されていて興味深い。

これを読んでいて感じるのは
ひとりの天才が花開くためには
彼を支えるブレイン集団が不可欠であったということだ。
どんな偉大な芸術家も本人ひとりでは世に出られない。
今で言う《チーム○○》が、その芸術家のために存在し、
なおかつ、チームの構成員の質が抜群に高かったとき、
天才は世界にその名を知らしめるほどの飛躍が可能になるのだ。

そう考えると、梅蘭芳とは逆に、
チームを持たなかった、あるいは持とうとしなかったために
才を埋もれさせた人も少なくなかったのかもしれない。
チームの支えを持たない芸術家に可能なのは、
せいぜい、限られた場所での成功だけであることが大半だろう。

Trackback ( 0 )




今年度後期、出だしは快調だったスペイン語も、
後半にはやはりオチコボレてしまい、
接続法を全然覚えないまま、日々だけが過ぎてしまった。
折しも、フランス語のほうも条件法・接続法になったので、
以前できていたことも出来なくなるくらいの混乱を来たし、
最後の1ヵ月は、放送時間に座っていただけ、というテイタラクだった。

しかし、私が幾度挫折していようとも、
また勝手に仕切り直して新学期が始まってくれる、
というのが、一方通行のラジオ講座の良いところだ。
私は勿論、性懲りもなく4月のテキストを買った。
買っただけで何かエラくなったような錯覚ができて幸せだ。

そして今年は、娘まで「ドイツ語やってみたい」と言い出した。
と言っても、ラジオの放送時間は娘の生活時間帯には全く合っていないし、
第一、学校の勉強も危うい人がどうやってドイツ語を独学するのだろうか。
だが、まあ、こういう興味を持つこと自体は悪くないので、
娘は多分、手始めに『テレビでドイツ語』あたりを観ることになるだろう。

お互い、道路標識くらいは読めるようになりたいものだね(苦笑)

Trackback ( 0 )


WBC  


いつも書いている通り、私はスポーツに理解のない人間だ。
WBCには全く興味がなかった。
いや別に、何か意志を持って無視していたというのではなくて、
そういうものをやっているということさえ、
全然、気がついていなかったという関心の無さだった。
そもそも、うちには新聞が来ないし、私はテレビも観ないので、
知る機会が無かったのだ。

ところが、月曜日に実家に寄ったとき、
なんと意外なことに、我が母が、燃えていた(汗)。
「イチローが気の毒過ぎる。マスコミは酷いわ。
ずっと世界のイチローや言うてさんざん自慢しといて、
ちょっと調子が悪いと、帰れだの引っ込めろだのと。
せやから、イチローの打席では、私、祈っといたんねん。
打てますようにって」

私が家でこの話をしたら、主人が苦笑して、
「そんなに選手を甘やかしてやることないんよ。
イチローなんか、ギョっとするような年俸を貰うとるんやから。
やってもやっても結果を出せんときは、罵倒されても仕方ないんよ」
と言っていたが、母はそれからもひとりで念じ続けていたようだった。

昨日、日本が連覇を果たしたあと、母からメールが来た。
延長戦になり私の神通力もここまでかと思いましたが、
女の一念岩をも通す


ひえ~~~((((;゜Д゜)))
侍たちも怖気を震うような、鬼気迫る応援・・・・・・

Trackback ( 0 )



« 前ページ