転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



書くのが遅くなったが、新年の国立劇場の菊五郎劇団の公演を
今年はなんとか観ることができた。
ポゴレリチ演奏会があった13日(金)の翌日、14日(土)の公演を観た。
現・国立劇場は建て替えが決まっているので、
新春歌舞伎公演としてはこれが最後の機会となった。
私にとっては国立劇場は、ある意味、歌舞伎座より思い出が多く、
舞台機構だけでなく、客席のしつらえや全体の佇まいもかなり気に入っていたので、
これらがすべて失われるのかと思うと惜しまれてならなかった。

令和5年初春歌舞伎公演『通し狂言 遠山桜天保日記-歌舞伎の恩人・遠山の金さん-』(国立劇場)

  

音羽屋の旦那さん(菊五郎)が主演の遠山金四郎ではあったが、
内容は松緑・菊之助・彦三郎の3人が主に物語を動かし、
『三人吉三』に『切られ与三』フレイバーを足したような(笑)
歌舞伎らしい楽しさ満載の舞台だった。
権十郎の芝居をたっぷりと見せて貰えたのが、長年のファンとして嬉しかったし、
梅枝の充実ぶりは勿論、坂東亀蔵、萬太郎らの活躍も見応えがあった。
また、劇中の役どころとはいえ尾上右近の本職の清元も聴けたし、
左近もなかなか良い役を貰っていて、着実に成長していることが伺われた。
反面、せっかく左團次が出ているのに、出番はあれだけ…?と
残念に思ったりもしたが、年齢的・体力的な問題もあったのかもしれない。

最後の総踊りになると、時蔵の麗しい姿が見られて眼福であった。
また、マホロン(眞秀)や亀三郎、小川大晴くんなど、
各家の御曹司や次代の若手スター候補が並び、
菊五郎劇団の繁栄をとても嬉しく思った。
丑之助は言うまでもなく大活躍で、本編の芝居のほうでも
素直な芸風としっかりした演技力を発揮していたが、
こうした子役たちが頑張っていると、しばしば客席から笑い声が起こり、
それは完全に好意的なものではあったが、その点についてだけ、
私には微かながら無視できない不愉快さが残った。

私自身、自分の幼少期に関して記憶のあるところなのだが、
子供が一生懸命に何かを言ったりしたりしていると、周囲の大人は、
その「一丁前」な姿が「可愛いから」だろうが、すぐに笑う。
お~!よう出来た!上手上手!等のニュアンスで、大人は、
その一挙手一投足に対して、その都度、笑う。
しかし、当の子供は大真面目なので、何が可笑しいのかと
場合によっては悔しく思うものだ。少なくとも私はそうだった。
同じことをしても、大人であれば笑われないのに子供だというだけで、
感想を言っても字を書いても朗読しても、いちいち笑われるのだ。

今回の丑之助も、既に子役の芝居に留まらず、
丁稚辰吉の心情を丁寧に演じ、立派な位取りで演じていたのに、
どの場面でも、彼が何か言うたびに客席は笑い声でそれを迎えていた。
「ボクの演技は間違っているか。どこがそんなに可笑しいのか教えてほしい」
と私が子役なら泣きべそになったかもしれない。…考えすぎかな(^_^;。
観客としての私は、丑之助の芝居に感じ入った瞬間が幾度もあったし、
客席の笑い声は邪魔であった。
子役の間は、芝居の本筋とは必ずしも関係なくお客さんは笑うのだと、
父の菊之助から、もしかしたら丑之助は事前に言い含められていただろうか。

ところで、私が観た日、菊五郎は相変わらず台詞は冴え冴えとしてたが、
動きが悪く、歩くのさえキレが良くなくて、
「トシには勝てんのだろうか。口だけ達者な年寄り系(^_^;?」
と私は失礼なことを思っていたのだが(殴)
実は、脊柱管狭窄症で、相当に足腰に痛みのある状態であったらしいことが
数日前の松竹からの発表でわかった。
ももも申し訳ございません、旦那!!

歌舞伎座「三月大歌舞伎」、尾上菊五郎 休演のお詫びと配役変更のお知らせ(松竹株式会社)
『歌舞伎座「三月大歌舞伎」第二部『身替座禅』の山蔭右京に出演を予定しておりました尾上菊五郎ですが、「脊柱管狭窄症」(せきちゅうかんきょうさくしょう)との診断を受け、当面の間、療養に専念することになりました。』『つきましては、出演を予定しておりました歌舞伎座新開場十周年「三月大歌舞伎」第二部『身替座禅』は休演し、下記の通り配役を変更して上演いたします。』

初代国立劇場としては最後の初春歌舞伎公演とあって、
かなり無理をしての出演であったのかもしれない。
想像に過ぎないが、舞台のために保存的療法は既に試みただろうから、
『当面の間、療養に専念』ということは手術を受けるのではないだろうか。
役者さんはそうでなくとも腰や下肢を傷めることが多いだろうから、
この機会にたっぷりと休養され、ご快癒されますようにと願っている。

……それで、山蔭右京の代役が、あらしちゃん(松緑)なのだね(^_^;。
どうしようかな、三月も歌舞伎座を観ないといけないかな(^_^;。

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今年もやってきた。スイートピーの季節が。
清楚で、あえかな、香りの良い花。
私の、この時期ならではの、正月奉仕明け休日の花束。
……和む(^^)。

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明日は休みだ。やっと休暇が巡って来るorz
とりあえず、明日と明後日は2日連続で休み、……の筈なので(汗)
どこからも呼び出されないことを、切に願っている。

ラジオ語学講座は、去年の夏からほぼ皆勤だったのだが、
さすがに正月奉仕の間は全く時間が取れず、
1月第二週は一回も聴けなかった。
8時に神社業務が開始される毎日だったので、
7時台には既に家に居なかったし、
らじるらじる『聴き逃し』を活用する時間も体力も無かった。
現状、フランス語は入門編・応用編とも特に問題はないが、
スペイン語は入門編でも、結構、穴が空いてしまったようで、
隔週水曜日の復習回のリスニングがキツくなった。

ロシア語はもっと飛び飛びにしか聴けておらず、
気がついたら入門編で動詞の完了体が登場していた。
初級ロシア語の前半の山場は名詞形容詞それぞれの「12の格変化」だが、
後半の難所は、動詞の「完了体/不完了体」の用法だ。
今回の講座もそうであるように、ロシア語学習開始時には、
動詞にそのような区別があることなど全く触れられず、
テキストにはただ不完了体の動詞だけが出て来るのだが、
初級も半ばを迎えて完了体が出現すると、学習者は、
これまで騙されていた(^_^;ことに初めて気付くのである。
ロシア語は実は、多くの場合、同じ意味の動詞に、
それぞれ形の違う「完了体」と「不完了体」があり、
それらをペアにして覚えることが必要で、一方だけ暗記しても、
その動詞が使えるようになった訳ではないのだ。
ひとつの動詞で語尾に-edをつけとけば良いとかいう話とは次元が違う。

ロシア語応用編は、1月がプラトーノフ『地方の愚か者』、
2月がテッフィの『繊細な心理』とかで、
戯曲どころか作者も全然知らない作品になってしまい、ますます無理だ。
3月のチェーホフ『桜の園』を待つのみ。

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今日はどこへも行かない。誰も来ない。
外は「十年に一度の寒波」で吹雪いているが、家の中は温かい。
自分で買った自分用バレンタインのチョコレートをお供に、
熱い珈琲を淹れ、良い香りに包まれて静かな午後を過ごしている。

以前、新年には、よく、語学学習の目標を立てたものだったが、
この数年、神社奉仕で疲弊し過ぎ、そういう世界が遠くなってしまった。
少なくとも英語に関しては、私の能力は下降の一途を辿っており、
資格試験合格やスコアUP等を狙いに行く元気は、なくなった(^_^;。
もう会社勤めもしておらず、ビジネス英語も要らなくなったことなので、
ネットで英語記事を読むのに困らない程度の英語力で不満はないし、
あとはボケ防止の道楽語学で良いかなと思っている。

それより当面は、フランス語とスペイン語、それにロシア語の、
ラジオ講座での学習を継続したい。
NHKはラジオ第二放送の語学講座を廃止する予定だとか
以前、聞いたような気がするが、それはいつのことだろうか。
できれば私の寿命がある間は、現状程度の語学講座は
放送していて欲しいのだが。

そして今年は、日程的に可能なら6月のスペイン語検定を受験したい。
まずは6級から。初級、というのがイイのよ(^_^;。楽しいから。
私の体感では、CEFRでいうA2レベルくらいまでの語学学習は、
ただただ頑張り甲斐がある。英検や仏検なら準2級くらいまで。
ピアノで言ったらツェルニー30番の最初あたりか。
初級なので短期間の成長が大きく、少し頑張れば成果が実感できる。
フランス語・スペイン語・ロシア語が私にとって楽しいのは、
どの言語も、こういう入門~初級レベルから抜け出していないからだ。

CEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)(British Council)

本当の問題は、ここからもっと力を伸ばして行きたいと考えた場合で、
細々とした辛気くさい部分に対し、逃げずに、腰を据えて向き合うことが
どうしても必要になって来るのだが、
今の私は、道楽語学にそこまでしなくても、……という気分がある。
英語は仕事で必要だったから、かつては覚悟を決めて細大漏らさずやったが、
スペイン語その他はお遊びなので、楽しい部分だけの摘まみ食いで十分だ。
その範囲での、愉快なスペイン語検定受験なのだよ(^_^;。
――あとは、神社の夏祭がカブらなければねえ(^_^;。

ちなみにフランス語に関しては、私はこの初級の坂を一度は越えかけて、
仏検2級合格(CEFRのB1相当)までは行ったので、
今後、準1級(CEFRのB2相当)を受験する夢はまだ捨てていないのだが、
この級は秋季試験のときしか実施されず、
その頃には私は神社の七五三祭で毎週末、忙しく、全く時間が取れない。
完全隠居するまでは、当面、受けに行けそうにないが、
学力的にも全然及ばないので、今はひたすら勉強あるのみだ。
いつの日か、語学学習にもっと自由に時間をかけられる身分になったら、
フランス語に関しては、もうちょっと本気を出す、
……かも、しれないし、出さないかも、しれない(^_^;。

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53歳の宿題』を掲げてから、ちょうど5年。
1.両親の入る施設の選定・入居手続 done
2.山の上の墓の始末および移転 done
3.実家の売却+神棚の行く先の決定
4.実家が代々やってきた地元八幡様のお世話係の引き継ぎ

3の、実家と宅地については、昨年、具体的な売却先が概ね決まり、
あとは時期の選定と金額の交渉次第、というところまで来た。
最も穏便な解決は、父がいつか身まかったとき私が一旦相続して、
私と先方との間で売買契約を結ぶことだろう。
本当は父が決断すべきなのだが、過去への執着も愛惜もあるだろうし、
92歳の高齢で、生まれ育った家土地の売却をさせるのは惨い気がするので、
そこは私がやろうと思っている。

神棚・祖霊舎については、地元の神社を通じて神社庁に相談し、
「霊璽じまい」を教えて貰い、およその段取りはわかった。
しかし、近い将来、両親の霊璽が新たに加わることになるだろうから、
先祖の分だけを「しまって」もそこで実家全体が終了する訳でもなく、
ならば、かさばらない合祀型霊璽にかたちを変えて、
先祖から両親に至るまでの分を、当面維持することも考えている。
コンパクトにすれば、仮に私のあと、誰かが管理することになったとしても、
そんなに大迷惑をかけることにはならないだろう。
神棚・祖霊舎本体は大きいのだが、中の御神札や霊璽がなくなれば、
ただの戸棚というか入れ物なので、処分することは問題ない
(と宮司さんから教えて貰った)。

4も、交渉先が2つに絞られ、総代長から両方に経緯を話して貰ってある。
あとは先方さまの御返事次第である。
自宅のある中区から実家の村までの通勤には限度があり、
私から子供世代への継承もあり得ないことは、地元でもわかって戴いている。

この5年で、多くのことに目処はつけた。
両親が若かったら必ずしも納得しなかっただろう、
という方向に進んだ部分もあるが、そこはもう、諦めて貰うほかはない。
イヤなら、どうして自分自身で決着をつけておかなかったのですか、
と言いたいものが、私には、ある。
あとは、私個人としては、実家の片付けをさらに進めるのが当面の仕事だ。
そして、家土地から自由になり、先祖代々務めた地元神社御奉仕の仕事を終え、
本格的な隠居&老後生活に入ることが、六十代の私のゴールである。

*******************

シンド過ぎた年末年始の御奉仕が終わったが、
いつもの年のような素晴らしい解放感にはほど遠く、
私は未だに、心身ともにガクガクしているのを感じている。
今回は、かつてなくダメージが大きかった。

村の神社は、私が関わり始めた頃より、今、明らかに大きく、栄えている(汗)。
敢えて言うが、それは我々が、……神社職員や総代会一同が、
日々、骨身を惜しまず働き、神社の護持運営に尽くして来た成果である。
しかし私は、トシをとった。
表向き変わりなく務めることは、まだ、今も可能ではあるが、
年々、心身ともに耐久力がなくなり、
あらゆることに対し耐性が失われつつあることを、認めざるを得ない。

ゆえに、昨年は、多方面に助力を求める方法を考え、工夫した。
村の神社は年々多忙になり、一方で宮司さんも禰宜さんも高齢なので、
新たに神主さんを一人お願いし(=雇い入れ??)、
祭典のスケジュール管理をやりやすくして貰ったのと、
私がこの何年か1人で担当していた「巫女舞指導」について、
地元の神楽団関係の方にお願いをして、これから一緒に覚えて戴き、
ゆくゆくは私のかわりに指導できるようになって欲しい、
という趣旨のお話をして承諾を得た。
うちの村と同じ巫女舞を踏襲している隣地区も、
ちょうど巫女舞指導者の人が今年から新しくなるということだったので、
可能ならその方にも一度、おいで戴いて、うちで一緒に見て戴き、
双方の指導が出来るようになって貰えまいか、と考えている。

人に頭を下げ、依頼をし、内容がわかるよう工夫して根気よく伝え、
こちらが希望している水準まで、動いて貰えるよう道筋をつけるのは、
場合によっては「かなりウザい」ことなので、
性格が閉鎖的かつ体力だけはあった(爆)父は、それに耐えることをせず、
何もかも黙ってひとりでやっていたが、私は違う。
自分が将来的にラクになるためなら、その前段階での手間暇は惜しまぬ。
今年は、更に手抜きができる方向に持って行く所存である(^_^;。

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両親とも問題なく経過している、という連絡が、
本日夕方、某老人ホームのほうからあった。
両名とも平熱・無症状で、いつも通り食欲もあるので、
療養期間とされる日数が終わった段階で再度の検査をして、
陰性になっていれば通常の生活に戻ることができるそうだ。
母など実質的には今日で診断日から七日経った筈だ。

母は一貫して無症状だし、父の声枯れも最初だけだったそうで、
フルワクチンの御蔭か、COVIDに関しては症状が無いも同然の経過で来ており、
内服薬以外には特に何も必要としないまま、日が過ぎている。
大変に有り難いことだ。
私が心身ともに壊れそうなほど疲弊していたときに、
コロナ罹患した両親を、温かい、安全な場所で、
複数のスタッフさんに細やかに介護・看護して戴くことができ、
お忙しい中、経過報告までして戴けて、どんなに感謝しても足りないと、
ホームの方角に手を合わせる思いだ(涙)。

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なんと、両親が相次いで新型コロナに罹った(汗)。
母は無症状、父は声枯れだけが症状だが、検査陽性とのことで
某老人ホームにて内服薬を使い、療養中だ。
最初に同じフロアで患者さんが出て、今月半ばに全員検査したところ
母の陽性・無症状が先に判明し、その時点では父は陰性だったらしいのだが、
その数日後に声が枯れて、再度調べたらこちらも陽性だったという(汗)。

認知症対応フロアで、もともと入居者さんたちはマスクを使っていなかった。
状態や能力の面で、適切なマスク着脱が難しい人達が大半だったからだ。
この3年、スタッフさんは全員、常時マスク着用だったし、
面会人は受付で毎回、新しいマスクを渡される、という徹底ぶりで、
クラスター発生を防ぎ続けて来たのだが、
やはり一旦持ち込まれたら、感染拡大するのは速かった。
有り難いことに両親はワクチン接種完了しており、母は症状がないし、
父のほうも発熱その他全くなく声枯れだけなので、主治医の先生は
「コロナ単体としては普段みないほどの軽症」
と仰って下さったのだが、両名なにぶん90代なのと基礎疾患が複数あるのとで、
「健康成人と違い、これをきっかけとした急激な悪化・体力低下を起こす」
危険性は無視できないとのことだった。

トシがトシなので、それは致し方ないと私は思っている。
いずれ何らかの出来事があって、寿命が来るのはわかっているのだ。
ホーム内でできる範囲の対処をして頂き、回復すればもちろん有り難いし、
最終的に結果が良くなくても、天命であったと受け入れることができる。
父本人もこの年末に、「長い間、よう、生きて来たのぅ」と言っていたし、
母のほうもよく、「こないに長生きするとは思とらんかった」と言っている。
それでもなお、人間の本能としては
「今すぐ死んでも全く構いません」という心境はあり得ないだろうが、
「トシに不足はない」と言える程度の受容は、本人にも家族にも出来ている。
90代という年齢には、そういう、一種の自由さがあると思う。

老人ホームでは、つまるところクラスター状態になっているので、
ホームからの電話によると、今、食堂フロアを臨時の大部屋にして、
陽性者を集めて看護&介護して下さっているとのことだ。
母は既にそこに居り、父も数日遅れで、このほど合流した。
療養解除になった方々もあるそうで、経過が良ければ、
施設内療養だけで終わる可能性は、勿論ある。
SpO2が下がって来るなどするようだと、搬送も有り得るとのことだったが、
人工呼吸などの強い介入は、家族としては希望していない。
なるべく苦痛を感じないような処置をして、経過を見て戴ければ十分だ。

……と、理屈は十分にわかっているのだが、
私は今、正直なところ、「こう矢継ぎ早ではな(汗)」という疲労感が強い。
短期的には年末年始の半月間、長期的には秋祭りから続いた繁忙期が
ようやっと一区切りついた途端に、コレだ。
まだ全然、休んでないんですけど(^_^;!と言いたいものがある。
そうでなくても、あの緊張の連続であった初詣行事が終わって、
心身ともにドっと来かけたところだったのだ。
解放された筈なのに、奇妙な焦燥感にかられたりして、
普通でもオカシくなりやすいタイミングだ。
いや勿論、家庭介護で苦労を重ねているのと違って、施設に任せられるし、
正月行事で頭に血が上っているときに、こういう事態になったら
もっと悲惨だったのだから、自分はこれ以上ないほどに恵まれている、
と言わねばならないのだが。よくよくわかっちゃいるんだがよ(^_^;。

というわけで、昨日今日と、朝、ソラナックス0.4を半分に割って飲んだ。
1錠そのまま飲んでも良いのだが、それだと物凄く眠くなって困るので(汗)。
幸いに、この二日間は何の予定も入れていないし、
こういう事態では両親の面会に行くことは施設側から禁じられているので
私は具体的には、今、何も出来ることもするべきことも無い。
意図的にだらだらして、本でも読み、昼寝もしようと思っている。
そうしていても、いつ電話が鳴るかわからない、という心配はあるし、
頭の中では今後起こり得る、厄介な展開についての予測が
次々と浮かんで来るので、不安障害的な傾向が自分に出ている気がする(汗)。
もうちょっと心身に余力のあるときだったら、……と思わずにいられない。
1月後半は、しみじみと解放感に浸りたいと楽しみにしていたのに、
いやはや、巧く行かないものだね。

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ポゴレリチを聴くのに、今回の私は疲労の極にあり、
心身ともに磨り減り、収拾がついていなく、大混乱していた。
しかも、まだ神社奉仕が完全には終わっていない段階だったので、
こじあけるようにして作った時間で、広島ー東京を往復した。
ポゴレリチだったから、無理矢理に、行った。
行って良かった。行けて良かったと心から思っているが、
今もなお、「あまりにも、キツかった……!!」が第一の感想だ。



ポゴレリチの今回の来日公演は、1月7日8日に読響との共演でラフマニノフ2番、
11日にサントリーホール、13日に浜離宮朝日ホールで、それぞれリサイタル、
という日程で、リサイタルは11日がオールショパン、13日がショパンとシューベルト。
私が聴けたのは、そのうち13日の浜離宮リサイタルだけだった。
音の散らないホールで、細大漏らさずダイレクトに聴き取りたかったことと、
私にとっては初めての、ポゴレリチのシューベルトを堪能したかったのが、
この演奏会に執着した理由だったが、日程的にも結局ここしかなかったと思う。

プログラムは、前半がショパン、後半がシューベルトで、アンコールもショパン、
作曲家のそれぞれの晩年につくられた曲が集中的に選ばれていたせいもあってか、
全体的に穏やかな温かな選曲だったと感じられた。長調の曲も多かった。
幕開きがショパンの『幻想ポロネーズ』、続いて『幻想曲』。
『幻想ポロネーズ』は神秘的な変イ長調であるし、
ヘ短調の『幻想曲』もまた終結部分は同じく変イ長調、
たとえ、どれほど傷みや挫折を伴う人生であろうとも、否、それだからこそ
人生の終盤に辿り着く境地には穏やかな受容がある、……かのようだった。

『舟歌』など、長い間、私のこの曲のイメージは、
死んだ人の魂が天の彼方を目指して飛翔を続ける、というもので、
2020年大阪公演のときには、
「ポゴ氏の、天国への航海は、決して楽な旅ではないのだな」
というのが私の感想だったが、今回はかなり違った。
天空の真っ青な一点を見つめる瞬間から始まり、
どんどん、視界が広がり、大空に包み込まれるようになって、
見渡す限りの眩しい青空の、遙か彼方の一点に天国への門があるのだなあ……、
と思っていたら、更に更に大きくズームアウトして天が遙かに遠ざかり世界が広がり、
最後、力強く大地に立脚して終わった、感じがしたのでびっくりした!
死んでないどころか、「生きる」となって完結した!!……と思った。

シューベルト『楽興の時』は、光と影の音楽だった。
日だまりや微風をひとつひとつ丁寧に描き出す、絵画のような。
明暗の確かな対比と、精密に組み立てられた音の綾と。
前半の、劇的なショパンとは音色が全く別のもので、
使われている音域が広くなく、音数も少ないという点で、
かつてポゴレリチがバッハに取り組んだ時に語っていた、
「少ない色をパレットの上で混ぜ合わせるような」
というアプローチをたびたび思い出したりもした。
特に第4曲はバッハの複音楽を強く想起させるもので、
あの時代の音楽家として、前半のショパンもこのシューベルトも
熱心にバッハを学んだに違いないということが、改めて思われた。
バッハ、シューベルト、ショパン等、作曲家達への
ポゴレリチのこのうえない憧憬や畏敬というものを感じた。
それが俯瞰できるのは、現代の演奏家の特権である、ということも。

このリサイタル後半のために登場したとき、ポゴレリチは楽譜の束を持っていて、
シューベルトしか弾かない筈なのに、弾き始める前に何冊かの楽譜を、
例によって結構ぞんざいに、ばさっとピアノの足下に向かって投げたので、
(ほかにも弾く予定があるのだ……な?)
とは予想はついたのだが、果たして、シューベルト6曲が終わって、
拍手が続くと、ポゴレリチは一旦引っ込むという「お約束」は省略して、
いきなりアンコールに入った。

一曲ずつ自分で曲名を告げてから弾いたのが、最終的に3曲になり、
ショパン『子守歌』『前奏曲 作品45』『夜想曲 作品62-2』。
『子守歌』は、かつてのポゴレリチからは考えられないほど、甘々な演奏だった。
花々が次々と柔らかに開き、その花弁のひとつひとつを愛撫するような、
限りなく繊細で甘やかな響き。
ポゴレリチにはこのような弾き方も出来るのだと、
40年近く聴いてきて新発見であった。
概して、この日の演奏会では、ポゴレリチがしばしば、
聴衆のすぐ近くまで降りてきているように思われる瞬間が、幾度もあった。

『前奏曲』はポゴレリチにとって、最も古くからのレパートリのひとつであり、
80年のショパンコンクールでも選択し、初来日の81年11月にも弾いている。
前も目撃したが、やはり楽譜は既に、ただのぼろぼろの紙束のようだった。
いつの日か、もう擦り切れてろくに判読できないほどになったとしても、
この紙束は彼には必要なものであり続けるのではないか、と想像したくらいだ。

『夜想曲』も、今のポゴレリチには62-2なのだな、と思った。
透徹した55-2でもなく、慟哭の48-1でもなく。
ショパンの最晩年に作曲され、生前最後に出版された夜想曲のひとつ……。

ここまで終わると、拍手の中、ポゴレリチはマスクを着用し、楽譜をまとめて、
立ち上がると、片脚で椅子をピアノの下に押し込んだ。
そして、あらためて聴衆のほうに向き直ると、
『………拝 礼…』といった風情で、
このうえなく丁寧に、客席に向かって頭を下げた。
カーテンコールが繰り返されたが、「もう弾かない」のは明白であった。

ワルシャワの風雲児として登場したポゴレリチも、はや64歳。
老いに向かうのは、実に幸せな、そして見事なことなのだなと思った。
生きていなければ、このような演奏は、あり得なかった。
この世は、ささやかな、しかし確かなきらめきに満ち、
命あることはそれだけで奇跡のように美しいのだと、
万物に愛情あふれるポゴ氏であった。

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12月31日から延々と続いた神社奉仕が、
きょうの「とんど」焼きを以て、一段落した。
長かったっっ………!!!

大晦日から1月13日昼前まで、
寝てない・休んでない・自由がない、の13.5連勤。
13日朝の某社安全祈願祭が終わる時間を見計らって、
予め神社にタクシーを呼んであったので、そのまま広島駅新幹線口直行、
予定した「のぞみ」に辛くも間に合って、東京1泊2日の旅を敢行した。
13日の昼、新幹線に乗った途端、私は気絶に近い寝入り方で、
福山も知らず、「小田原を定刻に通過」のアナウンスで意識が戻った。
夢も何も見ず、秒で広島から神奈川まで移動した感じだった。
13日の夜は浜離宮朝日ホールでポゴレリチを聴き、
翌14日は国立劇場で菊五郎劇団を観て、14日夜に広島に戻り、
きょうまた朝8時から神社へ行って
参拝客対応に授与所対応、午後から「とんど」。

こんな、こんなキツい正月行事は、初めてやった。
12月31日から今日まで、神社に行かなかったのは、
自分が東京に居た1月14日だけであった。
ハイライトは元日午後2時半、厄祓い対応が立て込み、
「このあとM神社にも手伝いに行かないといけないのに!
どーすんですか!まだお昼御飯も食べてないのに!」
と私が訴えたら、授与所のバックヤードで目のつり上がった副総代長に、
「昼など誰も食べていません!!」
と一喝された一件だった。
結局、この日は食事抜きで続行し、
3時に、立ったまま腰に手を当ててエスカップ1本補給。
今年の正月の社務所は、まさに戦場であった。

しかし自分も家族もコロナ感染せず、両親も危篤になったり死んだりせず、
社務所でもクラスター発生せず、予定したことが何一つ欠けることなく、
というより、予想を遙かに上回る実績を挙げて万事完遂できた。
終わった今となっては、奇跡のようだった、と思う。
体の具合の悪いことなど一日たりとも、否、一瞬たりともなかった。
それは、健康管理が良かったのではなく、単なる過緊張だったと思うが(汗)。
なんでもいい、無事にやれたことに、今はただ、深く深く感謝している。
なんで出来たのかわからないが、とにかく出来た。
二度とやりたくない。まじで。

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12月31日以来、未だに一日も、というか、
ほぼ、かたときも休んでいない。
今初めて、こうして日記を書ける隙間時間が十数分、できた。

朝から神社に出て労働し、暗くなって帰ってきて、
万年床に倒れ込んで寝て起きたらすぐ朝でまた出勤、の反復だ。
昨年から布団敷きっぱなし、なのだ(^_^;。
神社職員や総代会の面々は異口同音に
「今が何月何日か、わからなくなった」
と言っている。
今回の初詣行事の忙しさは尋常ではない。
怒濤の参拝客と、それに続く企業の新年安全祈願の詰め詰めスケジュール!!
破魔矢も御守も何もかもが足りなくなり、年明けを待ちかねて追加注文した。

世の中、もっとずっと多忙な方々はきっと多いことだろう。
しかし私は元来が脆弱な人間だ。
すでにここまで、私の処理能力を遙かに超える仕事をしてきた。
もはや頭の中は真っ白である(^_^;。

御礼やご挨拶等、ほぼすべて出来ておらず
非礼と恩知らずの極致ですが、心でお詫びする以外に何もできません。
ごめんなさい・すみません・申し訳ありません&本当にありがとうございます!

さて、もうじき出勤時間で、タクシーが来ます。
時間が全く足りず、バスや電車を乗りついでいる暇がない。
バス停や駅での待ち時間を金で買う!という(汗)。
大赤字、どころか大半が持ち出しで、働くというより純然たる「御奉仕」だ。
それでもやらねばならぬのだ。「正月」は神社の死活問題だから!
これから13日連勤の13日目の出勤ですが、
明日もありますんで14連勤確定です。
「鋼の連勤術師」転妻よしこが行く!

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