転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



昨夜、主人の部屋に行ったら、偶然にテレビで、
旧ユーゴの旅行案内みたいな番組をやっていた。
あとで調べたら、BS日テレ(Ch.4)の『ちょっと贅沢!欧州列車旅行』の、
第23回「中世の面影を残す美都・ザグレブ」』だった。

私が観たのは、ベオグラードからトラムに乗ってザグレブに向かう、
という、多分、番組後半の部分だけだったのだが、
想像していた以上にザグレブは、西欧的で賑やかな街だった。
それの前に画面に出ていた、セルビアのベオグラードは、
旧ユーゴの首都で、ポゴレリチの生まれた街だが、
映像で観る限り、駅は簡素で、周囲も割と殺風景な感じだった。
こちらのほうが、私の、ユーゴスラヴィアのイメージに近かった。

番組では、朝10時頃にベオグラードを出て、ザグレブ着は夕方、
その所要時間は列車で7時間とか言っていたが、
それは遠いというより、列車の速度が激遅だからだった。
日本の新幹線に乗っている感覚で考えてはいけなかった。
7時間というと、私などにとっては寝るしかない長時間だが、
寝るとモノがなくなるとか、そういう心配はないだろうか(汗)。
私は昔NYに初めて行ったとき以来、どうも外国では、
股に挟んでおかないと荷物を盗られる
という認識が拭い去れないのだが。

かつてはひとつの国だったけれど、今ではセルビアとクロアチアは
それぞれ独立国家となっているので、国境を越えるときには、
列車内でもパスポートの点検があるのだそうだ。
また、文化圏としてはそれぞれに特徴があるということが、
画面に映る風景から、よく感じられた。
列車がクロアチア国内に入ると、キリル文字の表示が減り、
緑の木々の間に、オレンジ色の屋根を持つ建築物がみるみる増えてきた。

ザグレブの市街地は徒歩で観光できる、とテレビでは言っていたが、
以前買った『るるぶ クロアチア スロヴェニア』によれば
ザグレブ中央駅からイエラチッチ広場まで徒歩30分
私は良いが、ころもんの膝では無理だとわかった。
オマケに紹介されていた郷土料理のレストランでは、
メインディッシュが茹でたビーフで、
肉嫌いのころもんは、見ただけでキレていた。
画面に映る旧市街地は狭いところに階段が続いていて、
「ワシ無理。あんた一人で行って来んちゃい(--#)」
と、ころもんには簡単に見捨てられてしまった。

『ヴェルディ』という、音楽院のそばのカフェの様子も出ていて、
未来の演奏家たちが集う場所として紹介されていた。
ザグレブ音楽院を卒業した、弟のロヴロ・ポゴレリチは、
学生時代、このカフェで過ごしたことも多かっただろうし、
もしかしたら、今だって常連かもしれない。
ちなみに、ザグレブの人たちは、食事は家で、飲み物は外で楽しむ、
というのが習慣なのだそうだ。

イエラチッチ広場の前の、ドラツ青果市場では、
青空のもと、色とりどりの美しい野菜があちこちで売られていて、
私がかつて想像した「東ヨーロッパ」のイメージとは懸け離れた、
開放的で豊かな風景が展開されていた。
野菜は外で、肉魚は建物の中で、豊富に扱われているとのことだった。
また、クロアチアで有名なのが刺繍で、
手頃な土産品から高価なアンティークまで専門店に並べられていた。
その他、聖マルコ教会・石の門・聖母被昇天大聖堂・ミマラ博物館など、
主立った観光地が紹介され、いつしか夕暮れになり、夜が来て、
翌朝早く、再びザグレブ中央駅から列車に乗って、番組は終わった。

来週はこの続きで、アドリア海の真珠ドブロヴニクに向かうようだ。
#24 アドリア海の地上の天国 ドブロヴニク

途中に立ち寄る(だろう)スプリットは、クロアチア第二の都市で、
古代遺跡と市街地が同居する不思議な街だと、以前、本で読んだ。
1970年、ポゴレリチ11歳のとき、親元を離れてのモスクワ留学が決まり、
出発直前の夏、父親は少年イーヴォを連れてクロアチア国内を旅行した。
これから故国を出てロシアで成長することになる息子に、
父親は、クロアチア文化を忘れないようにと教え、
スプリットやドブロヴニクの風景を見せたということだ。

かつてイーヴォ少年の目に映った街も建物も、
後に91年のユーゴ内戦で、一度は破壊され失われたが、
今では再建が実現し、再び美しい街並みが蘇っている。
内戦の年にクロアチア国籍を選択したポゴレリチは、
当時、ただちにユネスコの全面的な協力を得て財団を設立し、
ロンドンを初め各地で連続的な演奏会を行って、
ドブロヴニクの街並みを取り戻すための資金づくりに貢献した。
ポゴ・フリークの私としては、彼の愛する街とその風景を、是非、観たい。


・・・テレビ観るのを忘れないようにしなければ(殴)。

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今朝は一度5時半に目覚めたが、娘も学校がなかったし
(普段の土曜日は授業日だが、第二土曜・第五土曜は休日)、
主人も休みだしで、別に早く起きる必要はなかったと思い直し、
二度寝して、結局朝9時半まで寝てしまった。ああよぅ寝た。

早起きの主人は既にどこかへ出かけていたが、昼前に戻ってきて、
寝坊していた娘も起きたので、塩ラーメンを煮て、三人で食べた。
午後からは、娘は中高生絵画教室へ、主人は膝のMRI検査で整形へ、
私も目眩のその後&鼻炎を診て貰いに耳鼻科へと出かけた。

私の、12月半ば以来の良性発作性頭位めまい症は、
今ではかなり良くなって、日常困ることはほぼなくなったのだが、
まだ、低い引き出しを覗き込んで作業したり、
布団の中で急に寝返りしたりすると、
一瞬、視界がユラっとなって「うわっ」と思うことがある。
それで、そのように申告してみたが、耳鼻科の先生は、
「良いです良いです。だんだん忘れて、いつか直りますよ」
と仰った。経過としては、こんなもんで良いのだそうだ。

フレンツェル眼鏡をかけての検査も再度やって下さったが、
例によって全く眼振がなかった。
えらく何度も頭をくるくると動かされ、それでも目は回らず、
「うん、だいじょぶだね♪」と先生は満足そうだったが、
このせいで目眩が誘発されたらどうしてくれよう(--#)、
と私は良い気がしなかった。

鼻炎のほうは、やはり花粉症の出始めであるようだった。
既に数週間前から、花粉症で受診する人が出てきているそうだ。
このあとひどくしないために、アレグラ錠を朝晩飲むことになり、
さしあたり14日分、処方された。
アレルギーで鼻粘膜が少し腫れて来ている、と言われたが、
きょうのところは、鼻処置をして貰ったので、とても快適になった。

それから、最寄りの花屋で菊を買い、バスで舅姑のお墓に行った。
目眩騒動で私がずっとサボっていたので、
年末に備えたお花が、茶色のドライフラワーになっていた。
すみません、じーちゃん&ばーちゃん<(_ _)>。

墓掃除を手早く済ませ、再度バスに乗って市街地まで戻ってきて、
紀伊国屋書店に寄り、NHK教育テレビの『知る楽:探究 この世界』の
2月3月講座『「怖い絵」で人間を読む』を買った。
多分、私は肝心の放映を観ることは忘れそうだから、
なおさらテキストを買っておかないといけないと思ったのだ。
ハプスブルク家を中心に歴史上馴染みのある人たちの絵が
たくさん取り上げられていて、とても面白そうだった
(追記:このテキストは帰宅してすぐ、娘に取られた(^_^;)。

最後に、家への帰り道に某プレイガイドを覗いたら、
ツィメルマンの倉敷公演のチラシがあった。うわぉ♪
5月29日(土)19:00クリスチャン・ツィメルマン ショパン・リサイタル
@倉敷市民会館(くらしきコンサート)

ツィメルマンがこんな近所に来るのに、私は全然気づいていなかった。
きょう出会えたのは、本当に幸運だった。
こんな感じで、ポゴレリチの福岡公演(5月6日)を直前まで全く知らない人が、
ファンの中にさえ案外いるんだろうな、などと思ったりした。

ちなみに、最近になってようやく、ポゴレリチの福岡公演の宣伝を
ネット上でも見かけるようになったが(あのアルゲリッチをして
「天才」と言わしめたピアニストの福岡公演が決定!
)、
いまだに会場であるアクロス福岡のサイトには出ていないし、
チラシも見たことないし、これだけ熱心なファンである私でも、
ちゃんと演奏会があるんだろうかと疑いたくなる有様なのだ(--#)。

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昨日の記事で紹介した、ポゴレリチとケジュラッゼ女史の
レッスン風景の映像なのだが、見れば見るほど凄いと思う。

まず強烈なのは、ピアノを弾くケジュラッゼ女史の手つきが
ポゴレリチのそれと、全く同じであるということだ。
ポゴレリチという人は、体が大きいので手もとても大きいのだが、
それがまるで軟体動物のように、指がどれも独立して、よく曲がる。
とりわけ、打鍵していないときの、2、3、4あたりの指を、
曲げたままで、付け根の関節のところから、
ほとんど90度じゃないかというほどクイっと上げて維持する、
という変な動きは、私はこれまで、ポゴレリチ以外では、
ほぼ見たことがなかった。
だのに、なんとこの映像では、ケジュラッゼ女史までが、
それをさも自然にやってみせていたのだ。
このたびの私のショーゲキは、ただごとでなかった。
あれはポゴレリチの特異体質ではなく、師匠由来のものだったのか(O_O)!

やはり、ポゴレリチとケジュラッゼは、一心同体だったのだと思った。
どちらがどちらであると、自分たちにもわからなくなるくらい、
二人は、同じものを深く共有するようになっていたのではないだろうか。
アリス・ケジュラッゼのリサイタル等を聴く機会は、
残念ながら私たちにはついに得られなかったわけだが、
おそらく彼女の中には、80年~96年までの「イーヴォ・ポゴレリチ」の
ピアニズムそのものが、色濃く存在していたことだろう。
『彼女は、日々ナイフを研ぐように、私を造形した』
と近年、ポゴレリチが語っていたが、改めてうなずける気がした。

もうひとつ物凄いのは、ケジュラッゼ女史が使っている楽譜だ。
年季が入っているとかそういう次元の話ではなくて、
あの、ページのヘリの破れ具合というかモラモラ具合は、異常だと思った。
一体どこをどう扱えば、楽譜があんなことになるのだろうか。
名称でいうと書籍の「小口(こぐち)」にあたる部分というか、
楽譜を開いて両端にあたる箇所が、どのページも恐ろしく傷んでいるのだ。
きっと、彼女の楽譜は、閉じてテーブルに置こうとしても、
モワ~~~っと表紙や中身が盛り上がってきて、
勝手に開いてしまうような状態ではなかっただろうか。

ポゴレリチが今、演奏会に持って出て来る楽譜は、
使い込んだ跡は見えるが、あそこまでの状態には、なっていない。
ケジュラッゼ女史は、よほど、楽譜の触り方が特殊だったのか。
それとも、ページのめくり方に関して彼女なりの理由があって、
特別な加工を施したのが、あの楽譜の姿だったのだろうか。
例えば、うちの祖母の、パンスーじゃないけど(殴・蹴・絞)、
部分的に開閉できるなどの、独自に編み出した利点が、
あったりしたのだろうか(汗)。

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mixiのIvo Pogorelichコミュにて某氏が教えて下さった映像なのだが、
ポゴレリチと、今は亡きケジュラッゼ女史との、
当時のレッスン風景が収録されていて、非常に興味深いので、
こちらにも、URLを貼っておくことにする。
ポゴレリチの演奏に、ご興味がおありの方は、どうぞご覧下さい。

Part 1 Part 2 Part 3 Part 4

80年代のポゴレリチについては、特に、その容姿や服装に関して、
私は、やや、「じんましんが出そう」な居心地の悪さを感じることが、
実は、結構あるのだが(殴!←今は「出ない」のかと言われると(逃))
この映像は、そんなことより、レッスンが収録されているという点で、
今まで見たこともないほど貴重なものだと思った。

83年というと、それまでのザグレブからロンドンに居を移した翌年で、
この頃から彼は、ユーゴのドゥブロブニクや、英国内のサリー州、
またアメリカのNYなどにも、別荘やお城など購入するようになった。
この映像も多分、ロンドン市内のフラットかどこかだろうと思われる。
ちょっと意外だったのは、使用楽器が二台ともYAMAHAだったことで、
ポゴレリチはキャリアの最初から録音では必ずスタンを使っていたのに
家ではYAMAHAとも馴染みだったのか、と私は面白く思った。

この取材に対してポゴレリチは英語で応えているが、
ケジュラッゼ女史とのレッスンでの会話はロシア語で、
ケジュラッゼ女史のほうはインタビューにもロシア語で応答している。
モスクワで知り合った二人なので、私的な会話はロシア語だったようだ。
スカルボの低声部の動きについて、ポゴレリチが自分の考えを言い、
最後に「......, Нет?」(~ではないですか?)と問いかけたり、
彼が区切りまで弾き終えたところで、ケジュラッゼ女史が、
Очень хорошо!」(大変よろしい!)
と褒めているところなどが、通訳音声の合間に聞きとれる。

レッスンは『夜のガスパール』を仕上げていく模様を収録したもので、
曲順通り「水の精」から始まり、「絞首台」「スカルボ」と、
断片的ではあるが興味深い二人の「共同作業」が記録されている。
番組全体のナレーションがポーランド語か何かで、
私などには言語が全くわからないのが残念でならないが、
楽曲の構造の捉え方、手首や指の使い方(例えばマルカートの奏法に、
ケジュラッゼ女史がたびたび言及しているのがわかる)などについて、
当時の二人のレッスンがどのようなものであったかが、
この短い映像からいろいろと想像させられ、
ファンとしてはたまらないものがあると思う。

途中、私邸の居間のようなところで、
ケジュラッゼ女史の息子のゲオルギーくんと一緒に、
本を覗き込んで談笑するポゴレリチの映像も出てきて、
何か「皇○アルバム」のような演出を感じないでもなかったが(殴)
しかしこの義理の息子の彼と、ポゴレリチとが、
この後も巧くいっていたことは、皆の知るところで、例えば、
80年代後半から90年代初頭の、ポゴレリチのレコードジャケットの写真は
ゲオルギー・ポゴレリチ氏撮影の作品がたびたび使用されていたものだ。
ポゴレリチは彼を法的にも正式に自分の養子にしており、
ケジュラッゼ女史の死後も、家族としての良好な交流が続いている。

ともあれ、これは、「イーヴォ・ポゴレリチ」が、
現在のようにポゴレリチ独りの名となる前の、
アリス・ケジュラッゼと「二人で一人」であった時代の、
大変に貴重な記録であると思う。

最後の、「スカルボ」が終わったところで、the end of part one、
という文字が出ていたが、この番組にはまだ本当は続きがあるのだろうか。
できるものなら、それも是非見たいと思った。

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三月歌舞伎座の演目が公式発表になった。
御名残三月大歌舞伎(歌舞伎美人)

今回は三部構成ということだ。
音羽屋(菊五郎)の出演に関しては、
第一部が『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の「真柴久吉」、
そして第二部が『弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)』
の「弁天小僧菊之助」。

音羽会新年会の席上で、『決まっているところだけ』と促され、
音羽屋が「三月歌舞伎座は弁天、共演は播磨屋と高麗屋」、
と言っただけで会場から悲鳴があがった。
勿論私も死にそうな声をあげたうちの一名だった。
「南郷力丸」吉右衛門(播磨屋)、「日本駄右衛門」幸四郎(高麗屋)、
ほか、「忠信利平」に左團次、「赤星十三郎」に梅玉、凄い顔ぶれだ。
同じく新年会のとき「三月歌舞伎座に出られますようにと願っている」
と語った菊之助も、浜松屋の伜『宗之助』で名前が出ていた。


一方、新年1月3日から国立劇場で公演されていた、
旭輝黄金鯱』は、本日めでたく千秋楽となった。
私もこのお芝居は運良く10日に観ることができたわけだが、
今回、強く感じたのは、昔の芝居のあり方・組み立て方についてだった。
現代人の我々は往々にして「辻褄が合っていない」「リアリティがない」
という点を、まるで鬼の首でも取ったかのようにツッコむわけだが、
それとは全く次元の違う、芝居の作り方があるのだということが、
この舞台を見ていると非常によくわかった。

すなわち、場面場面の面白さ・吸引力が何よりも優先され、
それによって仮に全体としての一貫性を欠いてもさほど問題ではなく、
観客が、その場その場で展開されるものをどれほど楽しむことが出来たか、
のほうが、作り手や演じ手にとって大切だ、ということだ。
話としては大泥棒の柿木金助の一代記、なのかと思いきや、
主演役者の八面六臂の扮装(盗賊・勅使・祈祷師プラス金鯱観音・爆)や
大仕掛けの演出による彼の雄姿(宙乗りや天守での立ち回り)
などを印象的に見せることのほうに重点が置かれていて、
キャラクターとしての柿木金助の一貫性は、敢えて二の次になっていた。

また、一本の芝居の中に、シリアスもあればコメディもあり、
世話物風もあれば時代物風もあり、舞踊もあって大立ち回りもあり、
宙乗りも本水もあって、流行ネタの軽妙なギャグもあり、
そして最後は堂々の勢揃い、劇的でオイシイ場面がこれでもかと続き、
観客が「ああ楽しかった、いっぱい見た」という面で満足するのが、
このお芝居の醍醐味なのだった。
その流れの中では、登場人物の人格だの話の首尾一貫性だのと、
枝葉末節にばかりこだわって、良いところを見逃してしまうとしたら、
それは損な見方なのだと、私は見ながらとても納得した思いだった。

10日に一緒に見た友人が、
「なんか、これ、(宝塚の)谷(正純)センセの芝居観てるみたい~」
と笑ったのが、実に良いところをツイた感想だったなと
今思い出しても感心してしまう、ワタクシなのだった(逃)。

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今夜は、友人が誘ってくれたので、
西本智実指揮、ラトビア国立交響楽団を聴きに行った(@広島厚生年金ホール)。
曲目は、オール・チャイコフスキーで、幻想序曲『ロミオとジュリエット』、
ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35、交響曲第4番ヘ短調作品36だった。

ソリストに予定されていたサーシャ・ロジェストヴェンスキーが
急病とのことで来日せず、代演はパヴェル・シュポルツルだった。
これが、なかなか素晴らしかった。
ボディをグリーン、あご当てを赤に塗った強烈な楽器を持って
どこかの大道芸人(!)みたいな服装で登場したソリストを見て、
私は最初呆れてしまったのだが、第一音が響き渡った途端、
なんて繊細でロマンティックでイイ音なんだと、非常に驚いてしまった。
正統派も正統派、私の愛聴盤のオイストラフに迫る出来映え、
・・・と言ったら、いささか褒めすぎか(汗)。
音だけ聴いたら、こんなナリで弾いているとは絶対に想像しない!
という演奏だった(汗)。

私はシュポルツルを聴くのは初めてで、予備知識も何もなかったが、
少なくとも、こういう、テクニックを前面に出せる曲に対して、
更に叙情性も加味して弾ける強みがこの人にはあると思うので、
この協奏曲は非常に向いているのではないか、という印象だった。
協奏曲のあと、拍手にこたえて弾いた、
パガニーニのカプリース3番も目覚ましかった。

西本智実についても、実は私はほとんど何も知らないのだが、
とりあえず、これまで耳にしたエピソードの範囲では、
チャイコフスキーが彼女のテーマのひとつなのかな、
という印象があった。
ロシアで学び活動の拠点を長らく向こうに置いていたという点で、
彼女は異色の指揮者であると思うし、
チャイコフスキーはそのような彼女にとって、
最も取り組み甲斐のある作曲者のひとりなのではないかと思うのだ。
全体にメリハリのある若々しい構成の音楽だと思った。
熱さにはそこはかとなく大阪人の魂みたいなものも感じた。
アンコールはヴィヴァルディで、これも劇的でなかなか良かったので、
今度は、もう少し小さい編成のオケでも
この人を聴いてみたいなと思ったりした。

会場で貰ったチラシを休憩時に見ていたら、
11月12月には、西本智実の指揮によるラトビア国立交響楽団で、
今度はミッシャ・マイスキーが弾くと書いてあり、
ドヴォルザークをやる予定だということで、俄然、期待が高まった。
西本×マイスキー、私のイメージの中では両者とも、
クラシック界の演歌師、という感じがするので、
この顔合わせはかなり良さそうな気がしている(褒めてます。逃)。

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スコーピオンズが、終わる!?

KISS関連の掲示板で見て、ビックリしてしまったのだが、
スコーピオンズが活動を終える、と公式サイトで告知している。
Scorpions Official Website
新しいアルバムの録音と、故国ドイツから始まる世界ツアーとが、
彼らの最後の活動になるようだ。

私が彼らを知ったのは、76年のことで、
当時LPレコードだった『Virgin Killer』の、
物凄いジャケットにドギモを抜かれたのが、最初だった。
80年代には一瞬だが(爆)マイケル・シェンカー・グループに
心惹かれたこともあった。
ハードロック~ヘヴィメタルというジャンルで、
スコーピオンズほど息の長いバンドはほかに無かったと思うし、
ドイツを代表するバンドという意味でも、彼らは不動の存在だった。

公式サイトのメッセージには、今回の決定に至る経緯は
具体的には書かれていないのだが、
本当にもう二度と、スコーピオンズは見られなくなるのだろうか。
最後のツアーは数年かけて行う予定だということなので、
再来年くらいまでは、事実上、活動が続くことになりそうだが・・・。


ジーン・シモンズ死去

イギリス人女優のJean Simmonsさん(80歳)が亡くなった。
カタカナにするとKISSのGene Simmonsと区別が全然なくなるので、
私だけでなく日本のKISSファンの多くは、このニュースに、
きっと一秒以上、息も止まるほど驚いたに違いない。

ジーン・シモンズさん死去 女優(中日新聞)

私は映画をほとんど観ないので知らなかったが、
このかたは、過去に二度アカデミー賞候補となられ、
80年代にはテレビドラマでエミー賞を受賞、
アニメ映画『ハウルの動く城』英語版では
主人公ソフィーの声を担当なさったかたでもあった。
安らかなお眠りをお祈り申し上げます。


ハードロックかヘヴィメタルか

スコーピオンズの話を書こうとして、私は実は、
彼らがハードロックなのかヘヴィメタルなのか、迷った。
私の中で、KISSはハードロックだと思うのだが、
スコーピオンズは、判断できなかった。
そもそも、ハードロックとは、ヘヴィメタルとは、何なのか。
私は今更ながら、根源的な問題に行き当たった。

ネットで検索してみて、出会った答えの中で感心したのが、
『楽しいのがハードロック、不機嫌なのがヘヴィメタル』
『声の高いのがハードロック、ギターの重いのがヘヴィメタル』
『(評論家の)渋谷陽一の好むのがハードロック、
伊藤政則が好むのがヘヴィ・メタル』(爆)。

・・・などと、フザケていないで、追求してみると、
この問題は、なかなか深いものがあった。
ハードロックとヘヴィメタルは、様式の点でそれぞれの特徴があり、
また、各ジャンルを代表するバンドの出現時期・活動時期で、
「歴史的」な定義も大ざっぱには出来そうだったが、
音楽的な面で、両者を明確に厳密に分けることもまた、難しかった。
ちなみに、ルックスは関係なかった(爆)。

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明日が、広島市の中学入試の解禁日だ。
娘も受けた、懐かしの、私立共学中学の入試が早速、明日ある。
娘の通うA中はその翌日が入試なので、
明日は中1と中2と高1は午前中で下校(高3は既に自由登校)、
中3と高2は午後まで残って、娘いわく『丁寧掃除』があるそうだ。

なんだか、幼稚園みたいな語彙だ>『ていねいそうじ』(笑)

そしてそれが終わると、当日、案内係などをする高1生以外は
明後日と明明後日、つまり入試日と合格発表日とが二連休になる。
ったく、どういう良い御身分なのだろう。
自分らは直接に関与しない行事の御陰で、休日が二日も貰えるなんて。
オマケに、来る3月1日の高校の卒業礼拝の日も、
娘たち中学部の生徒までもが、ついでにお休みになるのだ。
この季節、無駄に休みが多過ぎぢゃないか(--#)。

私自身はずっと公立だったので、
中学の入試日なんてもとから関係がなかったし、
田舎の学校だったから生徒数が少なく、
中学の卒業式には、1年生のときから在校生として列席した。
県立高校に行ってからは、確かに公立高校入試日は授業がなかったが、
三学期の学年末考査のド真ん中に入試日が組まれていたので、
休みとは言え、家で試験勉強をせねばならなかった。

ちなみに、娘らにも一応、中学部の卒業礼拝が、ある。
とは言え、高校募集はないので、高校も全く変わらぬ面子だし、
クラス数も今までと同様だし、教えて下さるのもお馴染みの先生方だ。
部活だって、中学高校が一緒にやって来たクラブが多いのだ。
しかし、完全に同じ学校に通い続けているだけ、
という本人や親の意識とは無関係に、
4月にはきちんと高校部の入学礼拝があり、保護者もそれに出席する。
そして、入学金も、再度必要だ(--#)。

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昨夜から例によって軽い大腸炎的な腹部不快を感じ、
更にきょうは疲労感も強かったので、観念して、昼寝をした。
12月に良性発作性頭位目眩と診断され
不用意に横になると途端に目がまわるという経験を繰り返したため、
極力、夜以外は寝ないようにしていたので、昼寝は久しぶりだった。

やってみたら、寝ころんでも、左右に寝返りしても、
もう、別段、世界がまわったりはしなかった。
いちいちクラクラしていた頃を思えば、これはもう、明かな回復だった。
が、そうやって安心したあと、しばらくして、布団の中で、
本を見ながら姿勢を変えたら、一度だけ数秒ほどクラっとした。
シマッタ!また来た!!と一瞬、背筋が凍ったが、
そのあとは、ぐるぐる回るようなことは、幸い、なかった。
よよよ良かった。もう目眩は勘弁してくれよ(涙)。

さて、きょう、布団の中で読んでいたのは、
英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』(斎藤兆史・野崎歓)だった。
英文学者の斎藤兆史氏と、仏文学者の野崎歓氏とが、
日本における、語学学習のあり方や翻訳という仕事の意味、
海外文学をひもとく楽しみなどについて、対話形式で著した一冊だ。

私は、訳読重視の英語教育の意義を強く感じて来た人間で、
自分自身、その恩恵をこうむって今日があると感謝しているので、
昨今の、『小学校から英語教育を!』『使える英語を!』
という風潮に、ほとんど賛成していないのだが、
こういう人間がこの本を読むと、実に溜飲の下がる思いがした(苦笑)。
文法から入り、読解をきちんとやることが上質な「基礎」なのであり、
必要ならそこから「会話」「実用」へと、更に「降りて」行けばいい、
という両氏の立場は、私には大変に納得の行くものだった。

また、私が、それこそ1円のトクにもならず役に立つアテもないのに、
ラジオ講座を聴いたり文法の問題を解いたりして、
行く予定もない外国の言葉を学び続けているのは何故なのか、
そこに一体、どんな良いことがあるのか、
その点も、この本では、明確に説明されていた。
『われわれが一生懸命文法をやってから、英語やフランス語の書物に立ち向かってちょっとでも「あ、わかった」と思うときは、やっぱりいままでの世界から一歩外に出たっていう気がしますよね。自力で世界の枠を広げていっているという感覚が確実にあるわけで、その体験の豊かさというのはいわゆる実用的なコミュニケーション中心の発想とはちょっと違う次元のものなんですよ』

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昨日に引き続き検査を受けた実家の母は、
きょうは腰部のMRIを撮った。
結果、3番4番のところの、非常にわかりやすい「ヘルニア」だった。
右足に力が入らないと慌てたが、元凶は腰だったわけだ。

MRI検査は、設備のある医院がそんなに多くないので、
昨日と同じく地元の脳神経外科で受けたのだが、
できあがったデータを見るなり先生が、
「こりゃもー、読影を(整形に)依頼するまでもない、
とってもハッキリしたヘルニアですね~」
と仰った。
それでフィルムと紹介状を貰って、来週にでも、
改めて、家の近くの整形外科に行くことになった。

母は相変わらず右足が自由にならないので不満そうだったが、
それでも、とりあえず因果関係が明かになったので、
精神的には昨日よりずっと状態が改善した。
あとは、ヘルニアの治療がどうなるか、
自覚症状が改善するまでにどのくらいの期間が必要か、
と言ったあたりが、新たな問題ということだ。

実家は田舎家で、バリアフリーとは縁遠い玄関や勝手口なので、
今後は少なくとも勝手口を改造して段差を解消すべきではないか、
と私は言ってみたのだが、母は、まるで、
改造したら負けだと思ってる(--#)』
みたいな雰囲気を漂わせ、私に同意しなかった。
当分は柱にしがみついて出入りするのだろう。

まあ、そういう負けん気みたいなのが、ある意味、元気の秘訣か・・・

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