転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



以前、お伝えしましたように、フー・ツォンの来日公演が、
9月30日に京都で行われます。

フー・ツォン ピアノ・リサイタル
2009年9月30日(水)京都府立 府民ホール アルティ
18時30分開場 19時開演
主催:(財)ロマン・ロラン研究所

チケット 4000円(自由席)

チケットぴあ他、下記サイトでもチケットご予約のご案内があります。
ロマン・ロラン研究所
フー・ツォン 案内サイト

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フー・ツォンのファンということで私にお声をかけて下さって以来、
とても仲良くして下さっている、ライターの森岡 葉さまが
このたびブログを開設なさいました。

日々の記録、取材での出来事、アーティストのインタビューのこと、
様々な場所でご活躍の森岡さまならではの記事が、
たくさんUPされています。

森岡 葉さまのブログ:May Each Day

『ショパン』その他いろいろな雑誌で、
森岡さまの取材なさった記事を目にされる機会は
皆様にも多いと思いますが、
ブログではその周辺の話題や森岡さまのコメント等、
さらに興味深い記事に出会えることと思います。

また9月30日のフー・ツォン来日公演に関しても、
これからリアルタイムで関連記事をUPして下さるのではないかと
私はフー・ツォン・ファンとしても大変楽しみにしております。

望郷のマズルカ―激動の中国現代史を生きたピアニストフー・ツォン
森岡 葉 (著)

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・『青山ロックン・ロール・ショー2009.5.9 オリジナルサウンドトラック』を、
先月タワレコで予約したのだが、それがついに昨日届いた。
5月9日の清志郎の葬儀のときに使われた曲をCDに収録したもので、
RCサクセションや忌野清志郎のディスク類を全部持っている者には、
格別目新しい曲目ではなかったが、私は当日は参列できなかったし、
この曲順で編集したものは持っていないので、記念だと思い、買った。
当日、スタッフが着用したものと同じデザインのTシャツも付いていた。

・娘は、A中高の中3から高2対象「English Adventure」という催しに
28日から参加していて、今日明日はその最終的なイベントで、
系列のA女子大のセミナーハウスでの合宿だ。
今夜の夕食は、娘達の班が調理当番なのだそうで、メニューは、
「そうめん」「ハンバーグ」「ミニシュークリーム」だそうだ。
食べ合わせやなんか、よく知らないけど大丈夫なのかね(苦笑)?
先生含め、参加者は全部で30名くらいいるということで、
そうめんだけで3キロだとか、昨夜言っていた。
期間中の活動は全部英語だけでやるのだそうで、
娘は、別人のように寡黙なヒトになっていることだろう。

・主人は、8月1日に予定していた健康診断を、延期した。
理由は、自分の体勢が出来ていない=肥満している、からだ。
数年前、体重が100キロを超えて、肝機能の値が軒並み三桁で、
「減量!断酒!」と医師から言われ、70キロ台まで下げたら、
GOTもGPTも文句の付けようのない正常値になった。
それですっかり気を良くした主人は、今、再び80キロ台後半だ。
延期希望の電話をしたら、病院の健診受付もなかなか混んでいて、
次に実施できる日というと、11月になるとの返答だった。
主人は、11月という検診時期がいたく気に入り、
「これから3ヶ月かけて、美しく減量する!」
と宣言した。そして、
「今晩、みーちゃん、おらんのやろ?なんか食べに行こ!」。
ダイエットは、8月イッピからってことかよ・・・(--#)。

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川村カオリさん死去、38歳がん闘病の末(Nikkansports)

ちょうど3年前に私は彼女のことを日記に書いたのだが
(2006年7月23日『川村カオリ』)、
私は、彼女が本名の「川村かおり」でデビューした88年から、
ずっと、一方的にではあるが、彼女を見てきた。
私にとっての、彼女の魅力は、その存在感だった。
巧い歌い手や、顔の綺麗な女優さんは、世の中に多かったが、
彼女の放つ雰囲気やカリスマ性は、それまで見たことのないものだった。

川村かおり『ZOO』1988年(YouTube)

この曲を、エコーズ(辻仁成)のカバーだと思っている人たちが
結構いるようなのだが、最初に歌ったのは川村かおりだ。
今聴いても、決して巧い歌ではなかったと思うが、
『ZOO』に不思議な魅力を加味し、支持を得たのは、
やはり、オリジナルの川村かおりの力だったと私は思っている。

十代の彼女は、すらりとした、ボーイッシュな女の子だったが、
そのパワーは強烈だった。
デビュー翌々年の1990年、『笑っていいとも!』の
テレフォンショッキングに呼ばれて、出てきた彼女は、
「イギリスの日本人学校に行ったんだけど、それが仏教系の学校
(英国四天王寺学園)だったから、毎日アーメンじゃなくて
ハンニャーハーラーで、しかも本校は大阪だったから、
英語覚えないで大阪弁だけ上達して・・・」
などと、お人形のように綺麗な顔には不似合いなほどの
勢いの良い話しぶりで会場の笑いを取っていたものだった。

20歳になった彼女は、自分の意志で日本国籍を選び、
そのことをライブでファンに報告した。
2005年に出版された彼女の自伝『Helter Skelter』を読むと、
彼女の温かい想い出は、日本ではなく、
むしろモスクワのほうに多かったのではないかと思うのだが、
彼女は日本人となることを選択したのだ。

上記の自伝には、彼女自身による率直な文章とともに、
臨月時の水着姿や、左乳房切除手術後の写真などが収録されており、
それらを、世間の注目を集めるための一種の露悪趣味として、
嫌った人たちもあったようだ。
確かに、その刺激的な内容ゆえに彼女の自伝は話題になったのだし、
商業的な戦略だった(そしてそれはある程度成功した)と言えると思う。

しかし、それだけではなかったと私は思っている。
彼女にはどんなときも、観客が必要だった。
大勢のファンや、世間の目、彼女に注目する人たちの存在が、
彼女に命をくれ、彼女に力を与えてくれたのだと思う。
たとえ悪意に満ちた視線が混じっていようとも、
彼女にはそのすべてがエネルギーになった。

なぜなら、彼女は「表現者」であったから。
自分の発するものに対して、観客からの反応を得ることが
彼女の最大の喜びであっただろうと私は思う。
演奏家も、歌手も、演技者も、書き手も、
人前で自己表現をすることを仕事にする者は、
大なり小なり自己顕示欲と、そして露悪趣味を持っている。
川村カオリもまた徹底した「表現者」であり、
当初は歌や演技に始まり、ついには私生活や闘病までもが、
彼女の自己表現のための舞台になったということだ。

(このスタイルは、清志郎がほとんど自分の闘病を公開することなく、
「忌野清志郎」という変わらぬ一面だけを表出し続けたことと対照的だ。)

私にとって川村カオリは、『闘病しながら歌い続ける人』ではなく、
最初から最後まで、一貫して『格好いい表現者』だった。
歌手としても女優としても、モデルとしても、書き手としても、
そして私人としても、彼女は常に鮮烈だった。

5月5日の渋公ライブの直前に癌性胸膜炎を起こし入院した彼女は、
それでも懸命の治療を受けながら、ライブのリハーサルに復帰した。
その模様が、テレビ番組で放映された。
彼女は元気そうにはしていたが、
呼吸が苦しいために酸素吸入の鼻孔カニューラをつけていた。
歌うどころか、本当なら安静にしていてもつらい状況だった筈だ。

「リハーサル行きますってったら、主治医が酸素持ってけって。
どんだけラクになるのかと思ったら・・・」
彼女はそう言って、言葉を切り、すぐ顔を上げると、
「・・・こんな、カトちゃん ペ!みたいな・・・」。

そう言って、細い指で鼻の下を押さえて笑った彼女は、
やはり、川村カオリそのものだった。
美しい顔に、華奢な体、パンクな心意気に、可憐な声。
そして、その全部を、一瞬、ひっくり返すようなユーモア。
本当に、圧巻だった。

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昨夕は、脱力し過ぎて、お腹が「ぴーこちゃん」になった。
24日と25日の二日にわたって暴食したのが直接の原因と思われた。
24日は転夫ころもんの誕生日で夕食が外食で、死ぬほど食べたし、
25日は、法要料理を自分のペースで食べたら満腹し過ぎて、
暑いときに、れんちゃんで胃腸に負担をかけたのは悪かった、
と遅まきながら反省した。

が、その頃にはもう夜で、近所の内科も終わっていたので、
仕方がないから市販の止瀉薬を飲んだ。
すると、たかが売薬とあなどるなかれ、
これが劇的に効いて、晩には私はすっかり元気になった。

私「下痢止め飲んだから、気分よぅなったわ」
夫「え??そんなクスリでもトリップできるもんなんか??」

************

さて、娘はきょうの昼前、
「ちょっと本屋行って来る」
と小遣いを持って出かけた。
いつも行っている範囲の、どこかの本屋に行くのだろうと思ったので、
詳しくは訊かなかったのだが、娘はなかなか帰ってこなかった。

一体どこまで行ったんだと、ちょっと心配になった頃、
やっと玄関の開く音がして、娘が戻ってきた。
と思ったら、通り雨にあったかのように髪がふわふわと濡れていた。
水も滴る、ではないが、なんだか夏らしく爽やかでいい感じ、
と私は一瞬、思ったが、娘はムっとしていた。

娘「ちょっと、髪、洗わして」
私「どした?」
娘「ハトの○ンで・・・」

娘の話によると、行く途中、広島駅前の福屋デパートの手前あたりで、
後頭部の上のほうを、背後からぱしっと叩かれたような感じがして、
髪に手をやったら、ハトの××がついていたのだそうだ(O_O)。

娘は噴火し、上に向かって、
「ゴルァア!!何しやがんでー!!」
頭上でハトが「ケーケケケケ」、
・・・と言ったかどうかは知らないが・・・。

娘はそのまま、目の前のデパートに入り、化粧室に直行し、
車椅子用の個室が運良く開いていたのでそこに籠もり、
手と髪を、手洗い用の洗浄液でとにかく洗ったそうだ。
髪はギシギシになったが、清潔にはなったので、
娘はそのまま初志通り、本屋に行ってから帰ってきたのだった。
もちろんそのあと、娘は家の洗面台でもう一度シャンプーをした。

やれやれ。「うんのつき」だか「けちのつきはじめ」だか。
いや洗い流したのだから、「やくおとし」になったか。

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・引き続き、心身ともに脱力している。
ピアノのとき腕の脱力だけが出来れば充分なものを(汗)。
葬儀のあとより、今度の四十九日のほうが私にはガックリ来た。
特養に行く必要がなくなってしまってからは、
私はさっぱり勢いがなくなり、舅宅も放ったらかしだ。
あ、でも、じーちゃん、掃除せえと言いに来たりしないでねっ!!
季節的にも、夢枕とか、そーゆーのだけは、本気で怖いので!!

・何か買おうと思った本があった筈なのだが、
amazonにアクセスしてみても思い出せない。なんだったかな。
忘れるくらいだから、さほど重大な関心事ではなかったのかもしれない。
先日、某氏の日記がきっかけで、その昔、通信添削Z会でご活躍だった、
漢文の「二畳庵主人」先生のことを大変懐かしく思い出し、
先生の御著書『漢文法基礎』が絶版になっていることを今更知り、
『新々英文解釈研究』みたいに復刊されればいいのにな、と考えたのだが、
・・・amazonで検索しようと思った本はコレじゃないし。

・主人が観ていたテレビの朝の番組で、
民主党のマニフェストがどうのこうの、という話題をやっていたが、
manifestoというのはイタリア語じゃないのかなと思って
手持ちのジーニアス英和を引いたら、やっぱりそうだった。
英語のジャーナリズムの中でも外来語起源の用語として定着していて、
意味は日本文のカタカナで「マニフェスト」と言うときと同じく、
『党などの公約』のことだそうだ。
ちなみに、我が家にある昭和47年版『新明解』で「公約」を引くと、
公約-する :政府・政党など、公の立場にある者が
世間一般の人に対して、約束すること。また、その約束。
すぐ破られるものにたとえられる]』
と、大変わかりやすく書いてあった。

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姑の四十九日法要が終わって、我々三人は脱力してしまった。
西区のお寺から中区の自宅まで戻って、片付けを終えてから、
それぞれ、もう夕方だったのにうたた寝を始めてしまい、
いい加減、夜になってから目覚めたのに、晩もまた寝た。

ばーちゃんを、じーちゃんのところに無事送り届けたので、
とてもとても安心した、という気分だった。

この二日間、西日本各地同様、広島も大雨が続いた。
なんとか天気が小康状態だったのは、
姑の納骨をした25日の昼から、同日晩方にかけての時間帯だけで
(御陰でマツダスタジアムでの球宴も開催できたわけだが)、
あとは、大雨・洪水警報の出る、ひどい天気だった。
ニュースを見ていたら、我々が新婚時代を過ごした福岡市早良区も
水の被害が出ていて、室見川の映像が映っていた。

主人は一度はスポーツクラブに行こうと外に出たが、
バス停に行くまでにズブ濡れになったので諦めて帰ってきた。
私は最初からやる気がなく、掃除だけしたあとは、
昼間から薄暗いので再度布団に戻り、昨日もまた、昼寝をした。
法要料理の食べ過ぎでお腹がごろごろになっていて(殴)、
適度に気怠く、いくらでも寝られた。

娘だけはマメで、お友達と遊ぶために午後から出かけていった。
夕方戻ってきて言うことには、本通りあたりで待ち合わせして、
あとはシャレオの地下街で座って喋っていたそうだ。
「こんな日に地下へ入っちゃヤバいよ。大水が来たら、浸かるよ」
と主人が笑っていた。

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姑の四十九日法要で、朝から某寺院に行った。
親戚や親類同然のつきあいだった友人知人等々、
出席者17名での法要だった。

昨夜から大雨で、今朝も雨と雷が続いていて、
どうなることかと思いながら出発したのだが、
不思議なことに、お寺に着いた頃から小雨になり、
法要のあと、納骨のために外の墓地に出た頃には、
雨は、完全に上がっていた。
曇り空だったが雨はなく、炎天などという陽射しとも無縁で、
夏のこの時期とは思えない、過ごしやすい天気だった。

ばーちゃん、ありがとう~。

納骨のとき、私は初めて、墓石内部の骨棺部分を見た。
舅の納骨のときは、私は筋腫手術の直前で出血多量のため動けず、
納骨式には主人と娘だけで行って貰ったのだ。
石屋さんが来て下さっていて、作業は全部やって下さったのだが、
見ていたら、花を供える水鉢とその土台になっている石を外すと、
中は小さい地下室のようになっていて、骨壺を安置する場所があった。

そこに、姑の紫色の骨壺を置いたのだが、
となりで、舅の白い骨壺が静かに待っていた。
じーちゃん、どんなにこの日を待っていただろう。
元通りに水鉢部分の石が閉じられるとき、
暗くなりかけた骨棺の中で、
じーちゃん・ばーちゃんが「二人だけ」になるのを私は見た。
『家で、ばーちゃんと二人で』暮らしたい、
と舅は晩年によく言っていた。
久しぶりで、それが叶ったのだ。
骨壺になっても、『比翼連理』そのものの二人だった。

終わってから、皆で、会食をした。
主人の気に入った仕出し屋さんに毎回頼んでいるので、
法要料理は、舅の四十九日のときから、ずっと同じだったが、
私はふと、これをゆっくり食べるのは今回が初めてだ、と思った。
どうしてかと言うと、今までは、姑に隣に座って貰い、
私はいつも、姑の食事介助をしていたからだ。
姑を間にはさむかたちで主人が向こう側の隣にいて、
主人もまた、姑の食べられそうなものを
次々と口に運んであげたりしていたものだった。

姑の好きだった、だし巻き卵、エビの押し寿司、栗きんとん、
どれも切なかった。

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・本日は、ころもん、じゃない転夫まーくんの誕生日だ。
本人は自称「昭和48年生まれ」なので、
それが正しいのならきょうで36歳になったことになるが、
私のほうは先日45歳になったのだから、それなら私は何歳のときに、
当時いくつだった彼をたぶらかして、結婚したのだろうか。
・・・と、そんなことより、明日、姑の四十九日法要があるのに、
今朝、いくら探しても、主人の夏礼服のズボンが無かった。
クリーニングに出したかと、行きつけの店に訊いてみたが、違った。
『夏礼服ズボンが見当たりません』
と主人なら何かわかるかとメールしたら、
『どこに行ったっちゃ』
と、猫が万歳している絵文字つきのレスが来た。
むこうは全くの雑談だとしか思っていないようだった。
メールしたのは完全に無駄だった(--#)。
明日、柄違いのズボンでも、いいのかよ~。

・本当ならば、転娘みーちゃんは昨日、福岡空港から出発して、
きょうはメルボルン郊外で、ホームステイを開始していた筈だった。
A中学主宰の「海外生活体験学習」に応募し、参加が決定していたのに、
今年は、あの豚さんインフルのために、全面的に中止になったのだ。
御陰で、娘は今、朝から美術部に行き、半日~一日、絵を描いて、
たらたらと家に帰ってきて、宿題をし、テレビを観、夜更かしし、
部活のない日は、寝坊したり、友達と市街地で遊んだり、
・・・と、全く自堕落な夏休みを過ごしている。
「こういうのも、ええわ。行かんなら行かんで、これも良かったかも」
と、どこまでも肯定的かつ志の低い転娘は、毎日、御機嫌だ。

・実家の母が、先日の日食の報道を見て、言うことには。
「私が小学生の頃、神戸で日食を見た記憶があんねん。
いつ頃かはよぅわからんのやけど、まだ戦争は始まってなかった。
のんびりしとったもの。ススつけて黒ぅしたガラス板を学校で貰ろぅて、
空を見上げて、でも太陽が、どやったかは、あんまり覚えてへんねん。
ただどんどん暗なってきて、さーっと涼しい風が吹いて、
次に明るなったら、ニワトリがコケコッコーって言うたのは覚えとる」
それで、母の言うのがいつの話なのか、「昭和、日食」で検索してみた。
すると、昭和11年6月19日に北海道で皆既日食が観測される機会があり、
神戸でも七割かそれ以上欠ける部分日食が見られたとわかった。
時刻は午後2時過ぎからで、最大に欠けたのは3時半頃だったようだ。
母は不思議なことに、前回46年前の日食は記憶にないと言った。
既に80歳超なので、次回26年後の日食は見られない、とも言った。

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昼食のために帰宅した主人が、テレビを点けたら
BSでアニメ『海のトリトン』第一回を放映していた。
私にとっては、とにかく主題歌がめちゃめちゃ格好いい、
という印象が、昔からあったのだが、今回初めて観てみたら、
私が漠然とイメージしていたような、
胸躍る、少年トリトンの冒険物語ではなくて、
もっと、おどろおどろしい雰囲気を持つ話だったとわかった。

トリトンは赤ん坊のとき、漁師の一平じいさんに拾われ、育てられたが、
その緑色の髪のために、不吉な子供だと村人からは嫌がられていた。
トリトン本人も次第に自分の出生に疑問を持つようになったが、
一平じいさんは『お前はうちの子だ』と言うばかりで、
何も話してくれなかった。

夫「おじーさんも、髪染めて緑色にしときゃ父子で通ったのにねー」
私「トリトンが物心つく前にな(汗)」
夫「にしても、どーして、トリトンなんて名前にしたんだろうか」

そういえば、そうだ。
トリトンは、実は海棲人類トリトン族の最後の生き残りなのだが、
そんなことを知るワケない一平じいさん(←自分、日本人)が、
どうして拾った赤子を「トリトン」と名付けたのか。
しかも、トリトン族の子に向かって「トリトン」って、
ミャオ族の少年の名が「ミャオ」ってくらいの分かりやすさ。

トリトンの鮮やかな緑の髪は、あまりにも人目を引き、
中でも村のオトヨばあさんは、彼を忌み嫌っていた。
このおばあさんは一見してわかる「いぢわる」キャラで、
ときどき、顔にも体にも不気味な縦線が入るという怖さだった。
オトヨばあさんは嫌悪感を隠そうともせず、
「お前の緑の髪は嫌いだよ」とトリトンに言い、
村の子供達にはトリトンと遊ばないように申し渡した。

夫「やれやれ。あと30年経てば、緑の頭もフツーになるのに」
私「まあ確かに、今、本通りでも見るよね」
夫「あでも、やっぱり差別は受けるけどね」

少年トリトンは、海で出会った白いイルカのルカーから、
自分の出生の秘密を聞かされ、
自分がトリトン族の生き残りであるために、
ポセイドン族から命を狙われる運命だということを知った。
尤も、『トリトン族の子供だ』と聞かされたときの、トリトンの驚き方は、
『総理大臣の息子です』と言われた程度のものだったが。

ともあれ、自分が誰であるかを初めて理解したトリトンは、
ポセイドン族が自分を追って村にやって来たら、自分のせいで、
一平じいさん初め村の人々を危険なめにあわせることになる、
と考え、皆に別れを告げることもないまま、
ルカーに連れられ、村を離れ、大海原へと出て行くのだった。

横から合いの手を入れるヒトがいなかったら、
この話は私に、もっと不気味な印象を残したかもしれなかった。
『妖怪人間ベム』は絵柄からして怖かったものだが、
『海のトリトン』はもっと心理の奥深いところの不気味さがあった。
それでも、怖いのはたまたま第一回がそういう雰囲気になっただけで、
トリトンは、自分を狙う悪の組織であるポセイドン一族と闘うため、
これから、たったひとり、壮大な海へ、冒険の旅に出ることになるのだ、
・・・と私は思った。
しかし、アニメ版『海のトリトン』の最終回は、
そのような冒険劇にありがちな結末とは、懸け離れた暗いものであることを、
私は、午後、ネットで調べて知った。

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