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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



今朝方、両親の夢を見ていた。
「もう半年も顔を見に行ってない!どれだけ年寄りになっているだろうか!」
と私は焦っていた。
折しも、母が亡くなってだいたい『半年』になるので、
この数字部分だけ、夢と現実とが合っていた(汗)。
それから夢の中で私は、
「いや、父はもう亡くなったんだ」
と気づき、次に、
「ああ、母ももう居ないんだ」
と理解した。だんだん覚醒に近づいていたのだろう(^_^;。

この夢が、
『ちょっとは会いに来てよ』
という母の霊からの意思表示であるとは到底、思われぬ。
だって母の霊璽(れいじ。位牌に相当)は自宅マンションにあって
母は今も毎日私とともにいるのだから。毎晩拝礼しているし(^_^;。
父のほうは、とっくに実家の祖霊舎に置いて来たんだがね(^_^;。
勿論、父のいる祖霊舎にだって、実家に行く度に拝礼している。

強いて言えば、私はこのところ、
「母の合祀祭(ごうしさい。祖霊舎に祀る行事)をせねばならない」
という意味で、若干、焦っているのは事実だ。
五十日祭あるいは百日祭が過ぎたところで、
先祖のいる祖霊舎に霊璽を祀るのが
およそ神道的に適切な作法とされている。
しかし前述の通り、母の霊璽はまだ私の家のほうにあって、
実家には持って行っていない。

正月このかた、何かと忙しかったためにこうなってしまったのだが、
そろそろやらないと、暑くなったら実家座敷は冷房がないからキツい。
母は父のいる祖霊舎で同居したがっているのだろうか。
あそこには少なくとも三代前からの霊璽が並んでいて、
母の姑(パンスーの祖母)も居るんだが、……いいんだろうか(汗)。
また揉めない(^_^;?

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本日昼、母の五十日祭と納骨祭が終わった。
母は11月19日に亡くなったので、厳密に言うと「五十日」は、
年が明けて1週間あまり経った頃になるのだが、
そんな時期は神社仕事が忙し過ぎてどうにもならないし、
「こういうものは、三月(みつき)にまたがらんほうがええ」
という、村の古老の意見もあり、年末最後の土曜にやってしまおうと、
母の葬儀の日に、既に宮司さんとも打ち合わせし、決めてあった。
娘は正月休暇が短いため帰省せず、主人と私の二人だけが参列したので、
対外的には何も大変なことは無かった。

それで今日、朝早くから実家に行き、
家で唯一暖房のある洋間に祭壇をつくり、お供え物をし、
榊を切ってきて玉串をつくり、大きめな枝で大幣をこしらえ、
準備万端整えて待っていたのに、
お願いしていた宮司さんが、予定の10分前になっても来られず、
どうかなったのかと電話したら、
「えっっ、ごめん、今日か!!明日じゃばっかり思いよった!!
今、神社におるけ、すぐ降りる!!」
と予想外の展開だった(^_^;。
近所だから大問題にはならなかったけど。

そこからは順調に、――全体に予定の15分遅れくらいにはなったが、
自宅で五十日祭、車で墓苑まで移動して納骨祭、と進んだ。
ちなみに宮司さんを待つ間に、墓苑にも電話をし、
「今日で合ってますよね(^_^;?」
と尋ねたら、石屋さんのほうは本日昼の予定で待機してくださっており、
やはり思い違いしていたのは私ではなく、
宮司さんのほうだった(^_^;、とウラが取れた。

墓の前に小さい案(台)を置いての墓前祭が終わり、納骨の段になって、
母の骨壺を収めるため、石屋さんに墓石の納骨室部分を開けて戴くと、
そこには、1年ぶりで見る、父の骨壺がひっそりと待っていた。
若い時分に出会って一緒になった二人が、神戸から広島へと移りつつ
長い年月をともに過ごし、最後に骨壺になって並ぶとは、
まさに「添い遂げた」のだよなあ、と感じ入った。

ひとり娘の私は実家の姓でないし、安芸門徒の家の嫁なので、
この家の墓に入る者は、もうこのあと居ない。
祖父祖母の代までは隣の墓に皆で入っており、こっちの墓は二人だけだ。
なんとまあ、お幸せな。いついつまでもごゆっくり……(^_^;、と思った。
仲良うしぃや、ほんまに(爆)。

そのあと、タクシーで舅姑の墓にも寄って、年末の墓参りを完了した。
転舅じーちゃん&転姑ばーちゃんは、変わりなく(笑)。
諸々、務めを果たせて、ひと安心である。
このあとが単なる正月休暇なら、言うことナシなんだがねぇ(^_^;。

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親たちを見送ったので、次は自分の番ということで、
エンディングノートを書いておくことにした。
この秋、叔母が亡くなったとき、
エンディングノートがあったと従弟が言っていて、
その話に私なりに感銘を受けたので、自分もそうしたいと思った。

購入したのは、普通の、A5の紙を綴じたヤツだ。
データだと、どこに入っているのか、……というか、
そもそも有るということ自体が、家族には容易にはわからないし、
デバイスがトラブったりしたら詰んでしまう。
誰でもわかる紙のエンディングノートが残っていれば、
このあと早く死んだ場合(爆爆)は、すぐ役に立つわけだし、
長らえている限りは、今後も適宜、内容を更新するつもりなので、
その都度、身辺の情報を自分でも確認でき、それはそれで有意義だろう。
私がエンディングノートをどこに保管していそうか、家族にはわかる筈だ。

私の預貯金や保険、クレジットカード類はシンプルなので、
何がどこにどれだけあるかわからず遺族が右往左往、
という状況にはならない筈だが、
各種IDやパスワードは、自分でも把握しきれていないので(爆)
スマホやパソコンから切り離されたかたちで、
紙に書いたものを遺しておくのが、後々のためであろう(^_^;。
現在の自分のためにさえ、既に必要だ(^_^;。
保険関係も記録しておくべきだろう。
インテリア趣味のため、家具類の破損汚損をカバーする家財保険などという、
普通ちょっと無いようなモノに入っていたりするので。

ポゴレリチ関連第一級史料(笑)や、舞台映像関係の記事や録画などは
前々から言っている通り、一切合切、捨てて貰って構わない。
それらは、私が所有していてこそ限りなく高い価値を発揮していたのであって、
私以外の者にとっては、古いディスク類や膨大な紙束に過ぎない。
押入で保管したからって供養になる訳でもないし。
よくお世話になっている、一般廃棄物収集運搬業者さんの
連絡先も書いておこう。
それ用の処分費用を、よけておかなくてはな(^_^;。

主人も私もきょうだいが居ないし、
現時点でもう、目上の親戚はほとんど死んでいるし(爆)
残る親族は、世代の近いイトコ関係くらいか。
私はリアルで会うような友人も極めて僅かしか居ないから、
「知らせて欲しい人」もなんもない(^_^;。
葬儀に関する希望も特にない。
ジミでもハデでも直葬でも、関係者で都合のよいようにして貰えばいい。
葬儀会社は、うちの両親がお世話になったところの連絡先を書いておいた。
寺も墓も決まっているから、遺骨の置き場に困るという事態も無い。

介護や療養に関しては、私に関しては自宅で過ごすのは絶対イヤで、
病院や施設に入りたいというのが、極めて強い希望だ。
ここは赤字で書いておいた(^_^;。それくらい切に願っている。
最先端の治療を受けて長生きしたいから、では断じて、ない。
延命は要らない。人工呼吸や、胃瘻、経鼻胃管なども極力やめてほしい。
それよりも、自分の心身の苦痛に対する、すみやかな医療の介入をこそ望む。
苦痛緩和のためなら意識低下も呼吸抑制も厭わないので、鎮静を希望する。
それには自宅では到底無理だ。
家族による素人介護なども全く信用していない。
ボケ散らかさない限り、私は家族の誰よりも医療には詳しい(殴)。

あとは、もし贅沢が言えるなら、できるだけ静かな環境で
最期の日々を過ごしたい、とも願っている。
「静かな」は物理的に「音がしない・少ない」という意味だ。
狭くていいから、施設か病院の個室がベストだ。
とにかく、限りなく無音に近い部屋で、
無駄話や世間話やお愛想などは一切断って、面会お断りで、
もう結構と思えるまでひたすら黙って過ごしたいばかりだ。

スマホもテレビも不要。ウザい。
用があったら、手と頭が使える限りはナースコールするから。
舞台や音楽が好きだったが、最近は疲れてきて、
そんなに深刻に観たい・聴きたいという欲もなくなった。
食べ物なんかはもともと完全にどうでもよく、
これまでの入院経験でも病院食に不満を感じたことは皆無だ。
旅行も買い物も美容も、関心がない。
ただ、手指が使えて目がなんとか見えている間は、
ネット環境とPCがあれば、新しい話題が読めるので、
気晴らしになるだろう、とは思っている。

――というのが、60歳現在の私の希望だ。
仮に長生きして、仕事もなくなり、どこへも行かなくなり、心身衰え、
心底「虚しい」「誰かと話したい」と、思うようになったりすれば、
またエンディングノートの中身も改訂されるであろう(^_^;。
そんなになるまで、暇な老後が続くならば、それはそれで幸せであろうよ。
自分の状況の変遷が反映されるという意味でも、
エンディングノートは、今後、興味深いものになって行くかもしれない。

とりあえず今回は、初版である2024年版を完成させておくことにする。
今後、生きているのに更新が途絶えたり、話が支離滅裂になったりしたら、
私はボケたのだろうから、あの認知症保険の手続のほう、よろしく(笑)。
証券番号は今回の初版には書いておくから。

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昨日、サ高住の部屋に残っていた母の荷物を運んで、
実家に入ったら、なんと玄関が、散らかっていた(汗)。
動物の毛は落ちていなかったが、
天井板の劣化した部分か何かが、玄関のたたきに散らばっていた。

今年の春に玄関の天井は修繕したのだが
天井裏には相変わらず何かが入って、
どたばたやっているということだろうか。
天井板そのものは古いので、また誰かが踏み抜いて落ちて来るかも。
座敷には、母の霊璽と遺骨が鎮座しているのだが、
あの怖い(!)母も、今や何も手出しができないのか。
犬猫なんか叱りつけて言うことを聞かせるヒトだったのに。

いつぞや土蔵の方角でヒィヒィ言っていたのも
こうなるとやはり、動物だろうな。
ホントに、築100年超ともなると、何が同居しているやら。

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前に誰かが言っていた言葉だと思うのだが、本当に、
「親って、死ぬんですね」。
こちらが物心ついて以来、最初からいつも目の前にいて、
離れていてもちゃんと存在し続けていて、
トシはとってもボケても、とにかく居るのが当然だった存在が、
今や見事に二人とも、お亡くなりになった(汗)。
もう決して戻って来ない。二度と、話もできない。
こんなことってあるんだ。

勿論、頭ではよくよくわかっている。
親が居るのは全く当たり前のことではなく、
人生の最初やごく初期から親の無い人も、世の中には多くある。
また、「親が死ななかった」人生があるとすれば、
それは自分のほうが先に死んだということで、
仏教なら「逆縁の不幸」と言うところである。
私は、このうえなく幸せで、恵まれていたと言わねばならない。
居るのが当然と、しまいに錯覚するほど親が長生きしてくれたなんて。

私は両親が三十代半ばになってからできた一人娘であった。
昭和30年代だから、今どきの感覚よりもっと「晩婚・晩産」な二人だった。
ゆえに、私は周囲の友人たちより十年くらい早く、
両親を亡くすことになるのだろう、と昔からなんとなく思っていた。
母など病気がちだったから、もっと早くに別れることになるかも、
と、私は高校生の頃から覚悟すらしていた。

それがどうだ。二人とも九十代半ばまで生きていてくれた。
こんなに長く居てくれるとは、私が若い頃は思ってもいなかった。
しかも、揃いも揃って逝き方は文句なしの老衰。
ゆっくりと、眠りながらあの世へ。
いやもう、まれに見るほど天晴れな話であった。
御蔭で私は心静かに、二人それぞれを見送ることができた。
ありがとうございました、お父さんお母さん。
(「思い出し怒り」のネタは新しいものも古いものも各種あるが、
私もたいがい親不孝者だったので、まあ、そこは置いといて(汗))

主人と私が結婚したとき、二人とも「一人っ子」であったために、
「将来、夫婦二人だけで四人もの老人の面倒を見なくてはならないんですね」
と気の毒がってくれた人々がいた。
しかし、終わってみれば、そんなに混乱を極めることもなかった。
途中には確かに、四人それぞれの出来事があったが、
「このままでは私らが倒れる!」
と思うほどの展開には全くならなかった。
いつも書いている通り、交替でやってくれる人が居なくて、
その点は大変だったのかもしれないと想像はしているが、
そのかわり、一人っ子ゆえに、「我々がOKなら万事OK」で、
ものごと即断即決できたし、自分が何をやるかも常に明白で、
家族親族関係のストレスが無かった点は、良かったと思っている。

既に両家とも、墓も建てたし親の家を売却する目処もついている。
何はともあれ、やりおおせた。
こちらに命と元気があるうちに、四人全員、送ったぞ。

FINISHED!

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母の葬場祭・火葬祭・帰家祭・仮十日祭、が終わった次の日、
すなわち11月22日、祖母葬儀のため帰省中であった娘が、
「私はまだきょう1日あるから、なんでもしますよ?」
と言ってくれたので、これ幸いと、謄本類の交付請求を頼んだ。

母の、誕生から死亡までの連続した戸籍(除籍)謄本と、住民票除票、
私の現戸籍謄本・住民票・印鑑証明。
親が死んだ後どのような手続をするか、そのためにどういう書類が要るか、
私は既に暗唱できるほどだ。
交付請求に行く娘は私の代理であるから、私が委任状を書き、
娘が誰であるかの証明のために、昨年取得した母の最後の戸籍謄本と
私の戸籍謄本(=娘にとっても自分の戸籍謄本となる)をつけ、
「取れるところまででいいから」
と言い置いて、私は年越祭案内状封入作業のため、社務所へ出かけた。

晩秋の神社に休みなんか無い。
この日だけでなく、翌23日だって七五三と地域の例祭が二社あったし、
24日も総代会の祭典会議と、引き続きの七五三が予定されていた。
身内に不幸があったら50日間は神社に入ってはいけない、
などという優雅な話が世間一般にはあるが、
んなもん、祓いさえすれば親が死んだ当日からでも入れるのである。
私はもう昨日、某宮司さんに忌明け祓いまでやって貰ってある。
業界内では、喪に服するより社務を片付けるほうが問答無用で優先だ。

私が神社で奔走している間に、娘は必要だったものをすべて揃えてくれた。
住民票の受取だけは、本人である私でないと駄目ということで、
請求手続のみ済ませ、送付は自宅マンションあてになったが、
それ以外のものは娘がこの一日で取り終えてくれた。
ちなみに娘本人が誰であるかの、続柄の証明は、
娘が自分のマイナンバーカードを提示することにより、
いとも簡単に済んだということだった。
こういうときは便利なんだね>マイナンバーカード(^_^;。

母が亡くなってまだ3日しか経っていなかったので、
最初、役所の窓口の方は、
「死亡届がどこで出されたか、によりますね。
本日時点でこちらまで下りて来ていなかったら、
まだ、生きとってかもしれませんからね~
と仰りながら、調べてくださったそうだ。
また、結婚前の母は、群馬県生まれの兵庫県育ち、しかし本籍は富山県、
というヒトだったので、広島で一度に謄本が全部取れるかどうかと
私は少々危ぶんでいたのだが、今はオンラインでつながっており、
昔のように小為替を組んで郵便で、……などということは必要なかった。

ただ、やはり多少時間はかかった。
途中、昼頃に娘からLINEが来て、
「係の方が物凄く頑張ってくださっているので、午後3時頃には揃うかも。
戸籍謄本は申し込んだ人間が受取まで完了しないといけないので、
もし、きょう出来なかった分があったら、
明日以降だと私は受け取れないから、
そこだけ後日とりなおしてください」
と言って来た。
しかし結局、午後には全部、揃ったのであった。
ありがとう、転娘みーちゃん、ありがとう、各役所の方々!!
無事に任務完了した娘はそのあと、立ち飲み屋に行ったそうだ(爆)。

週明けの25日には私の住民票も届き、
私はJAの担当者に依頼して年金と預金口座関係の手続を開始し、
某税理士事務所へも、相続と登記関係手続のために必要な、
謄本その他をレターパックで送付した。
更に本日、広島法務局に出向いて、例の、
法定相続情報一覧図の作成を申し込んできた。
これらを同時進行で行うため、必要書類は三部ずつ取ってあった。

そして今日、法務局の帰り道に進物の○進に行って、
玉串料をくださったり献花してくださった方々に
五十日祭後に送る「偲草」の手配をしてきた。
家族葬で玉串料辞退、と事前に伝えてあり斎場にも掲示したのだが、
私が知らないうちに玉串料として祭壇に置かれていたものや、
総代長が預かって来たものが、若干あった。
それで、そうした方々にささやかな御礼の品をお送りすることとし、
現金そのものは神社への「お賽銭」とさせて戴くことにした。

ということで、娘の尽力の御蔭で、最も時間のかかる謄本に関して
私は何も手を下さずクリアでき、本当に助かった。
娘は翌日23日の昼に、東京に帰って行った。
感謝感謝。お疲れさん。

さて、このあとは、『果てしない物語』最終章の開幕である!

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父のときの大規模な葬儀に較べたら、今回は気楽なものであった。
父の神葬祭では、総代長が葬儀委員長を務め、
支部内の神社三社の宮司さん方に斎主・副斎主・典儀を務めて戴き、
伶人(楽器奏者)の方にも奉仕して戴いたのだが、
今回はすべてを葬儀社さんに取り仕切って頂き、
長年お世話になっている宮司さんおひとりに連絡をし、
奏楽は葬儀社にある録音で代用、
典儀(司会)は葬儀会社の社長さん御本人がしてくださったので、
万事において気心も知れており、実にアットホームであった。

宮司さんの御都合で、通夜祭・遷霊祭は遅めの19:30開始となり、
我々家族3人は、家で先に夕食を済ませたのち、
自宅マンションからほど近い、市街地の斎場に出向いたのだが、
前夜から疲れているうえ、満腹したので本音ではもう動きたくなく(殴)、
特に主人と私は出発前から眠かった。

通夜祭詞の間、果たして主人が、あともうちょっとで舟を漕ぎそう、
な感じになっているのが、隣席の私には気配でわかり、焦った。
遷霊祭になると場内が真っ暗になるので、更に寝入りそうで危なかった。
しかも主人は、自分のすぐヨコに並んでいる献花の生花にヤられて
花粉症が出て、目が痒く、鼻がむずむずしていたのであった(汗)。
そもそもが「じっとしているのが嫌い」な人ではあるのだが、
通夜の最中に隣でうごうごされて、ハッキリ言おう、迷惑であった(爆)。
娘だけが、その場に相応しく、静かに涙を拭いていた。

そんなこんなで、どうにか通夜祭・遷霊祭が予定通りに終わった。
父のときは通夜の晩は郊外の斎場の控え室に私ひとりが泊まったのだが、
今回は、自宅マンションから徒歩でも行き来できる場所だったので、
私も、主人や娘とともに家に帰って寝ることにした。
母は執念深いキャラなので、もし私が棺桶の隣に一緒に寝ていたら、
夜中に出てきて枕元に立ったりするのではないか、
などとホラーな想像をして私は心密かにシビれていたのだが、
そういう展開には、ならなかった(殴)。

話は前後するが、「来るもの拒まず」的方式はまことに巧く行って、
近しい親戚とともに、御近所で母が本当にお世話になっていた方々が8名、
参列してくださり、有り難いことであった。
家族葬という形式は、世の中の風潮+コロナ禍の御蔭もあって
定着してきたものだと思うのだが、やってみると、なかなか良かった。

翌日11:00開始の葬場祭も滞りなく終わり、
タクシーで近くの焼き場へ行って窓口で火葬許可証を貰い、
炉の前で火葬祭、その後、焼き上がり(殴×2)を待つ間に、
私は宮司さんと打ち合わせして五十日祭と納骨祭の日取りを決め、
墓石屋さんに電話をして知らせ、
更に、JAの担当の方にも電話をして年金その他の手続を頼んだ。
土地の登記や相続に関しても、税理士さんにメールを送った。
喪主2回目・相続手続4回目ともなれば、
もはや私は寸刻も無駄にしないのであった(^_^;。

ぬいぐるみのにゃんことともに焼き上がった母は、
骨密度がどうとか言っていた割には立派な骨になっており、
見事な下顎に、綺麗に揃った歯がまだ残っているのがわかった。
「やっぱ、おかーさん、凄いわ。歯性が良い、て言いよっただけあるね?」
と、母に早速教えてあげたかったのだが、その母は居ないのであった。
いい顔で逝った件といい、いちばん教えてやりたい相手が
もう居ないのだよなあと思い、残念であった。
「せやろ?」と我が意を得たりとばかり笑う母が見たかったのに。

遺骨を収め、元の斎場に戻って、仮・帰家祭と仮・十日祭が行われた。
宮司さんはこのために、一足先に斎場に戻って、
清め祓いをして待っていてくださったのであった。
それから、遺骨と霊璽(れいじ。=お位牌の神道版)と遺影を持って、
主人と娘と私の三人で、両親の住んでいた実家に向かった。
葬儀屋さんの社長さんも、後飾りをするために
社用車に荷物一式積んで、一緒に来てくださった。
……と書けば簡単そうに聞こえるが、何しろ市街地から大田舎まで
移動したので、タクシーで高速も使い40分(5000円)くらいかかった。
こんな長い間、何もしない時間は久々で、私は車中で寝倒した。

両親の家に着き、父が既に居る祖霊舎の隣に、母の祭壇が設けられた。
父は、幽世(かくりよ)で、待ちかねていたであろうか?
それとも、この1年、束の間の自由を謳歌していたであろうか(笑)?
なんにしても、これから仲良うしぃや(^_^;、と私は遺影の母に言った。

(続)

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11月19日の夜9時前、母のいるサ高住の夜勤の方から電話があり、
「息をしていない」「脈が触れない」とのことで、
「蘇生措置はしない、という(従前からの)お話の通りでよいでしょうか」
と尋ねられたので、勿論そのままにしておいてくださいと返答し、
主人とふたり、タクシーで向かった。
前日夕方に見舞ったとき、母は口を開けて深く眠っていて、
私としても、長くないだろうなとわかっていたので、
大きな衝撃というようなものは無かった。

実は前日、母の部屋にいて、いよいよだろうなと思いつつ、
「聴覚は最後までもつ」という話を思い出し、
今生の別れに何か話をしてやろうかなと考えたのだが、
母は既にかなり耳が遠かったので、聴覚そのものが足りないな(汗)、
とも思い直し、私は結局、言葉は交わさなかった。
何しろ「一般人」と「チンパンジー」が聞き分けられない程度の聴力なのだ。
最後の話がどんな内容に変換されるかわかったものではない。
それで一方的に、
「ほんまに、おばあちゃんに、なったなぁ。お疲れさん。ほな、またな」
と言って部屋を出たのが、最後になった。

行って見ると、母は仰向けで楽そうに、……死んでいた(爆)。
夜勤の方のお話では、直前に見回ったとき、弱い呼吸がまだあったのだが、
念のためと思って再度行ってみたら、もう息をしておらず、脈もなかった、
ということで、本当に、ふっと終わったようだった。
さすが95歳、大往生である(神道だけど)。

昔、母が、近所のお宅でご不幸があって弔問とお手伝いに伺ったとき、
ご遺体は、何かの発作で亡くなられたのか苦悶の表情のままだったそうで、
その有様に深い衝撃を受けた母は、
「おいたわしぃてねぇ。自分やったらと思うたら、いたたまれへん。
先に焼いて遺骨にしてもろてから葬儀、というのは出来んもんやろか」
と言っていたことがあった。
しかし、その心配は要らなかったことがわかった。
寝こけているのと変わらない表情で、母は逝った。
まあ多少間抜けではあったが(逃!!!)、このうえなく安らかであった。

「心配せんでも、大丈夫やったで(^_^;?」
と教えてやりたかったが、肝心の母は、もう居ないのだった。

それから、当直の先生による死亡確認と死亡診断書発行があって、
葬儀日程を決める話になったが、私も主人も忙し過ぎ、
夕刻(通夜)→翌日の昼前から午後いっぱい(告別式ほか)、
と時間を確保できるところが、当面11月20日(水)21日(木)しかなかった。
これを逃すと1週間後になるので、そこまで伸ばすのもいかがなものかと思い、
父のときお世話になった葬儀会社さんに電話をして、
急遽、自社斎場で、家族葬でできるよう、手配をして頂いた。
かねてから頼んでいた某宮司さんも「なんとかできる」と仰り、
有り難いことに、大急ぎではあったがどうにか設定が整った。
東京の娘にもLINEで知らせた。

そして葬儀屋さんにサ高住まで迎えに来て戴き、
夜勤のスタッフさんに見送って戴いて、斎場まで車で母を運んだ。
夜中になっていたが、翌日の納棺師の方の手配もでき、
お供え物と生花とお弁当の手配をして、日付が変わる頃、この日は終わった。
遺影も決めてあったし、親戚関係もリストアップしてあったので、
大きな混乱はなかった。…と思う(^_^;。
夜更けなので親戚関係にはとりあえずショートメッセージを送り、
その夜あるいは翌日朝には皆から返答があったのだが、
……もし誰か忘れていたらごめんね。

家族葬で行うことと、玉串料(=香典)は辞退とすることを決め、
総代長にもその旨、連絡したが、
母の、近所づきあいの濃淡は私には伺い知れないところもあり、
最後だからと仰ってくださる方があれば、ご参列はどなたでも、
という「来るもの拒まず」のやり方にした。
町内には翌朝、連絡網などでお知らせが回ったようだった。

翌日昼、再度、斎場に出向いたら、納棺師の方々が来られていて、
母は、湯灌をし、髪をなおし薄化粧を施して貰って、
大いに美人にして(^_^;頂くことができた。
かつて本人の言っていた「留袖の下に着る白い着物」ではなく
葬儀社さん既製品の白い着物に着替えさせて貰い、
着ていた寝間着は畳んで足元に置き、
柩には、母の両親それぞれが遺した、家紋の入った紋服と、
母が最後まで抱いて可愛がっていた猫のぬいぐるみを入れた。

(続)

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昨夜、母95歳が老衰で亡くなった。
「いつ何があってもおかしくない」
と主治医に言われてから半月超、からの、
尿量が減り、脱水傾向になり、眠っている時間が増え、
徐々に脈が微弱になり呼吸が間遠になり、
……と実に安らかな最期だった。

家族葬にて、本日20日、通夜祭・遷霊祭、
明日21日、葬場祭・火葬祭・帰家祭・仮十日祭・仮忌明祓。
今月、私がまるまる一日空いている日が明日しかないため、
慌ただしいが決行することになった(汗)。

家族葬って、誰に知らせれば良いんだろうかね(^_^;。
父のときは一般葬だったので、直接の電話連絡を思いつく限り行い、
同時進行で総代会町内会を通じて地元各所触れ回り(汗)、
仕事関連はファックスを流し、新聞広告も出したので、
「漏れ」については深刻に心配はしていなかったのだが、
家族葬となると、はてさて……。

母が危ないとなってから、一応リストアップはしてあったのだが、
両親とも直接のきょうだいは既に全員亡くなっているため、
私のイトコたちが中心で、果たしてこれでいいのか、
もしかして、なんか誰か忘れていそうな……(汗)。
あそこに言うなら当然こっちには連絡しておくべきだった、
みたいな人があとから判明したら、だうしやう(大汗)。

ともあれ、そういう事情ですので、
これよりしばし、こちらでは失礼を致します。
これまでお世話になりました皆様、
様々にお力添えくださいました方々に、
心より御礼を申し上げます。

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どうにか、本日11日までやりおおせた。
神社で大きい行事が3つ続いたので、非常にキツかった。
とりあえず明日は休みだ。明日だけは。
今夜くらいは、誰も電話して来るなよ(^_^;。
どのみち、13日からまた8連勤。
神社は七五三と新嘗祭が控えているので、この時期どうにもならない。

母が危ないことは本日、総代会幹部と某宮司さんには言った。
突然死んだりしないで、「危ない」段階から時間を与えてくれている母に、
娘として勿論、ひととおりの感謝をしてはいるのだが、
しかし「いつ何があってもおかしくない」状況になってから既に1か月だ。
「危ない」からと言って、私ひとりだけ突然、期限も定めず戦線離脱し、
毎日サ高住に通う、という過ごし方はできない。
起こり得る事態について、可能な範囲での応援を予め頼んだうえで、
あとは日々の仕事をこなし続ける以外に選択肢がない。
どんな仕事をしている人だって、それは致し方ないことだろう。

神葬祭を頼む予定の某宮司さんにしても、
11月のこれからの時期など、当然忙しくて体が空かない。
神社関係者は皆、秋からあとの季節は忙殺されているのだ。
神職が何人も勤務しているような大きなところはともかくとして、
うちの村やその界隈は、神職は宮司さんひとりだけという神社が大半だ。
「できる限り何とかしたいと思うけど、すぐに葬儀ができん事態もあるから、
そうなったら農協の冷蔵庫に入れとって貰うしかないよね」
と今日も宮司さんから言われた。ですよね(汗)。

ちなみに、神社神道において死は穢れ(または「気枯れ」)で、
父母の葬儀を出した場合、一般的には以後50日間は「忌」の期間で、
それが明けるまで神社に参拝しないことになっている。
しかし、そんな優雅な話が通らないのは去年の父のときに経験済みで、
焼き場から帰ってきてすぐ帰家祭から十日祭、五十日祭までやって、
斎主の宮司さんに忌明けの祓いをして貰い、
その足で他の総代会メンバーと一緒に喪服のまま神社に上がり、
例祭余興の餅撒きの手配等の仕事に復帰したものだった。
親が死んでも舞台に立つという役者さんには及ばないが(汗)、
とにかく自分都合で自由になる時間がなかなか取れない。

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