父のときの大規模な葬儀に較べたら、今回は気楽なものであった。
父の神葬祭では、総代長が葬儀委員長を務め、
支部内の神社三社の宮司さん方に斎主・副斎主・典儀を務めて戴き、
伶人(楽器奏者)の方にも奉仕して戴いたのだが、
今回はすべてを葬儀社さんに取り仕切って頂き、
長年お世話になっている宮司さんおひとりに連絡をし、
奏楽は葬儀社にある録音で代用、
典儀(司会)は葬儀会社の社長さん御本人がしてくださったので、
万事において気心も知れており、実にアットホームであった。
宮司さんの御都合で、通夜祭・遷霊祭は遅めの19:30開始となり、
我々家族3人は、家で先に夕食を済ませたのち、
自宅マンションからほど近い、市街地の斎場に出向いたのだが、
前夜から疲れているうえ、満腹したので本音ではもう動きたくなく(殴)、
特に主人と私は出発前から眠かった。
通夜祭詞の間、果たして主人が、あともうちょっとで舟を漕ぎそう、
な感じになっているのが、隣席の私には気配でわかり、焦った。
遷霊祭になると場内が真っ暗になるので、更に寝入りそうで危なかった。
しかも主人は、自分のすぐヨコに並んでいる献花の生花にヤられて
花粉症が出て、目が痒く、鼻がむずむずしていたのであった(汗)。
そもそもが「じっとしているのが嫌い」な人ではあるのだが、
通夜の最中に隣でうごうごされて、ハッキリ言おう、迷惑であった(爆)。
娘だけが、その場に相応しく、静かに涙を拭いていた。
そんなこんなで、どうにか通夜祭・遷霊祭が予定通りに終わった。
父のときは通夜の晩は郊外の斎場の控え室に私ひとりが泊まったのだが、
今回は、自宅マンションから徒歩でも行き来できる場所だったので、
私も、主人や娘とともに家に帰って寝ることにした。
母は執念深いキャラなので、もし私が棺桶の隣に一緒に寝ていたら、
夜中に出てきて枕元に立ったりするのではないか、
などとホラーな想像をして私は心密かにシビれていたのだが、
そういう展開には、ならなかった(殴)。
話は前後するが、「来るもの拒まず」的方式はまことに巧く行って、
近しい親戚とともに、御近所で母が本当にお世話になっていた方々が8名、
参列してくださり、有り難いことであった。
家族葬という形式は、世の中の風潮+コロナ禍の御蔭もあって
定着してきたものだと思うのだが、やってみると、なかなか良かった。
翌日11:00開始の葬場祭も滞りなく終わり、
タクシーで近くの焼き場へ行って窓口で火葬許可証を貰い、
炉の前で火葬祭、その後、焼き上がり(殴×2)を待つ間に、
私は宮司さんと打ち合わせして五十日祭と納骨祭の日取りを決め、
墓石屋さんに電話をして知らせ、
更に、JAの担当の方にも電話をして年金その他の手続を頼んだ。
土地の登記や相続に関しても、税理士さんにメールを送った。
喪主2回目・相続手続4回目ともなれば、
もはや私は寸刻も無駄にしないのであった(^_^;。
ぬいぐるみのにゃんことともに焼き上がった母は、
骨密度がどうとか言っていた割には立派な骨になっており、
見事な下顎に、綺麗に揃った歯がまだ残っているのがわかった。
「やっぱ、おかーさん、凄いわ。歯性が良い、て言いよっただけあるね?」
と、母に早速教えてあげたかったのだが、その母は居ないのであった。
いい顔で逝った件といい、いちばん教えてやりたい相手が
もう居ないのだよなあと思い、残念であった。
「せやろ?」と我が意を得たりとばかり笑う母が見たかったのに。
遺骨を収め、元の斎場に戻って、仮・帰家祭と仮・十日祭が行われた。
宮司さんはこのために、一足先に斎場に戻って、
清め祓いをして待っていてくださったのであった。
それから、遺骨と霊璽(れいじ。=お位牌の神道版)と遺影を持って、
主人と娘と私の三人で、両親の住んでいた実家に向かった。
葬儀屋さんの社長さんも、後飾りをするために
社用車に荷物一式積んで、一緒に来てくださった。
……と書けば簡単そうに聞こえるが、何しろ市街地から大田舎まで
移動したので、タクシーで高速も使い40分(5000円)くらいかかった。
こんな長い間、何もしない時間は久々で、私は車中で寝倒した。
両親の家に着き、父が既に居る祖霊舎の隣に、母の祭壇が設けられた。
父は、幽世(かくりよ)で、待ちかねていたであろうか?
それとも、この1年、束の間の自由を謳歌していたであろうか(笑)?
なんにしても、これから仲良うしぃや(^_^;、と私は遺影の母に言った。
(続)
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