転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



ある日のこと剥がれた天井は、きょう見たらますます悪化していた。
天井材が大きく剥がれ落ちた跡には、天井板が露出しており、
板の割れ目からは真っ暗な天井裏(だろう)が僅かに見えた。
私はホラー系の本を結構読むので、
この割れ目の間から、上のヒトと目が合ったらオワリだね、
と想像して、シビれた。

その右側の、まだ天井材そのものはかろうじて残っている箇所も、
黒っぽいカビが発生しているようだった。
この右隣の部屋にあたる洗面所の、天窓のあたりが雨漏りしているので、
そこから雨水が伝わってこちら側に来ているのだろう。
天井材が剥がれた箇所から向かって右に、黒い跡が続いているので
この推測はおそらく当たっていると思う。
天井裏は相当に困ったことになっていると想像され、
いろんな意味で実家の天井裏は覗きたくないわね(^_^;、と思った。

 

ということで、本日、いつもの一般廃棄物収集運搬業許可業者さんにお願いし、
この部屋にある有象無象と、父が亡くなって有料老人ホームから持ち帰った私物、
母の電動ベッド、何十年と放置されている古いライティングデスク、等々を
一掃していただくとしたらいくらになるか、まずは見積をしていただいた。
トラック2台になりそうなので12万円+消費税、とのことだった。
背に腹は代えられず、即決した(汗)。作業日は後日打ち合わせ。
この際、できるだけたくさん引き取っていただこう(大汗)。

Trackback ( 0 )




実家の母の寝室の天井が剥がれた件
以前からお世話になっている地元の○○電興のお父さん
一昨日、おいで戴き、どんなもんでしょうかと相談したのだが、
「こりゃ~、雨漏りじゃろうねえ!」
とのことだった。
写真の赤丸印の箇所も、天井材がふくらんで劣化しており、
遅かれ早かれここも落下するだろうと思われ、これらの原因は、
以前から雨漏りで問題になっている隣室の洗面所の天窓箇所だろう、
と言われた。
天井裏は内部で繋がっているので、隣室の天窓のところから入った雨水は、
天井板の傾斜に沿って、隣のこちらの部屋にも来て、溜まっているのだろう、と。

これを止めるには、屋根を開いて問題の箇所をつきとめ、
天井裏を直し、天窓を撤去して新たに屋根を葺き替える、
……というオオゴトになるので、家を売却する等の処分の話があるなら、
「悪化するだろうけど、今のところ何もしないのが良いのでは?」
とのことだった。
「だいじなもんが濡れんように、下に置いとるもんは出来るだけ退けて
あとは様子を見る以外に、きょうのところは何もできんと思うねえ。
見た目の話で、剥がれたところにこっち側から何か当てとくいうのは、
できんことはないけど、それじゃあ、なんも解決になっとらんしねえ」
ですよね(^_^;。

それで、とりあえず、いつもの一般廃棄物収集運搬業許可業者さんに電話して
近日中に母の寝室を一掃するように、昨日、決めた。
今の母の状態では、家に戻って来て生活を再開することはもはや望めないし、
部屋がこの有様では、誰であろうとここで暮らすことなどもうできない。
片付けよう(^_^;。それしかない(^_^;。

Trackback ( 0 )




先日の半日作業だけでは終わらず、再度、同じ業者さんに
舅宅に来ていただくことになっており、今日がその約束の日であった。
前回は土曜日だったので主人も居たが、
今回は平日朝から丸一日の予定だったので、私だけが立ち会った。
姑が30年ほど前に新舞踊をやっていた頃のステージ衣装がまだあったし、
毛皮、貴金属、腕時計、カメラ、家電、切手、掛け軸、等々も、
この際なので思いつく限り出して、査定して貰った。
煩雑なものが多かったので、これだけで昼過ぎまでかかった。

午後からは、庭の倉庫内の食器類のうち、箱のあるティーセットなど
引き取り可能なものを運び出して、ひとつずつ見て戴いた。
一点100円200円のようなアイテムが多かったが、数があったし、
まとめて買い取って貰えるのは、それだけで有り難いことだった。
前も書いたが、何しろ転夫ころもん氏は最初、
「家の中身は、ゴミ処分業者を呼んで、一切合切、持ってって貰う」
と言ってたのですよ?
何もかもタダで手放すどころか自分でお金を払うという!
それくらいなら、先に買取業者さんのものですよアナタ(^_^;。
私だって、なんでも捨ててるように見えるでしょうが、
実家の和服や骨董類には、まだほとんど手を付けてないのですよ?

買取業者さんのお話では、眼鏡は、古いものでも、
途上国でフレームを活用して貰えるケースが多々あるそうで、
無償でも引き取りは可能であった。
また、壊れた家電の部品や、デジカメの内部の精密機械などが、
リサイクルされる等の話もあった。
じーちゃん&ばーちゃんの遺したものたちが、
もしかしたらこれからも、どこかでかたちを変えて活かされるかもしれない、
というのは嬉しいことだった。
どうか役に立つものがありますように。

 

朝10時から夕方5時までかかり、私は立ち会っただけで何もしなかったのだが、
これでも結構、疲れた(^_^。
業者さんが帰られたあとは、タンスや倉庫ががらんどうになり、
舅宅の片付けがいよいよ完了に近づいたという手応えがあった。
良い日であった(^_^;。

Trackback ( 0 )




きょうの母(95歳)@サ高住、は、よく喋った。
Me gusta一本槍だった日などと較べたら、
そのスピーチ量においては雲泥の差だった。

(午後の入浴の順番を待ちながら、ロビーにて)
母「あんた、忙しいんやね」
私「まあな」
母「御蔭さんで私も、これでようやくここが片付いて
 一仕事終わることができて、ほっとしとんのやけど。
 もう、あとはここ、しもたら(=仕舞ったら)終わりや」
私「ほうなんか(^_^;」

母「人間いうもんな、ひとつ大仕事が終わって、片付けて、
 さあこれで皆済んだ、綺麗んなった思うて、最後に皆で写真撮ったら、
 まあ、写真いうもんな正直なもんで、意外なもんが残っとったりして
 それが写ってしまうもんなんやね。
 あれもこれも、皆、ちゃーんと片付けた思うとったら、
 乳母車がひとつ、写真に写っとったりして、あとで気付いても、
 写真やから、もう消すわけいかんし」
私「………(乳母車スか)……(^_^;?」

母「みな片付けて、最後の最後いうときんなって、
 まあ、人間いうもんな、疲れてだんだん気がつかへんようになるんかね、
 ちゃーんと、全部しもうて、最後に写真撮ったら、思いもかけん、
 乳母車が写ってしもて、気ぃもつかへんもんや。
 言うたら、『一将、功成りて、万骨枯る』いうこっちゃ」
私「……(なんの話)……(^_^;??」

母「うちら、小さい子ぉがおったことないから、そんなこともないけど、
 よう、会社なんかね、皆で最後まで片付けて、もう何にも残ってへん、
 綺麗になった思うて、最後に写真撮ったら、まあ、乳母車なんかが
 写ってしもて、これ何?乳母車や、しもた、こんなん残っとったんや、
 てなもんで、『一将、功成りて、万骨枯る』いうことで、もう台無しや」

ふぅむ。
この場合、残った乳母車が『一将』、……に、なるんかね………????
よくはわからんが、とても頑張って完璧に仕上げて行ったのに、
最後の最後で抜けていて、がっかり、
的な展開であれば、むしろ、




『百日の説法、屁ひとつ』




って感じ、かねぇ……(逃
いや知らんけど

Trackback ( 0 )




実家に行ったら、母のベッドの置いてある部屋が
なんだか散らかっていて、
「なんで(^_^;?また動物とか?」
と思ったら、パネル状の天井材が一部、剥がれて落下し、
ベッドの上に積んであったクッションや書類を蹴散らしたかたちで、
床に散乱していたのであった(大汗)。
なんでこういうことになるかね?
多分、天井裏が雨漏りしているんだろうよね??

玄関の天井をなおして、まだ2か月経ってないというのに。
あっちもこっちも、次々と。
前からわかっている天窓の雨漏り箇所も年々悪化し、
今では洗面器4つ並べて置いても足りず、周辺まで濡れる有様だ。
平成になってから増築した箇所はともかくとして、
昭和から手つかずの部屋たちは、時間の問題なのではなかろうか。
この家は、本当に、もう駄目だな(^_^;。
さすが築100年超のことはある。
早く売却しよう。そうしよう。

Trackback ( 0 )




思えば昨日6月7日は、転姑ばーちゃんの命日だった。早あれから15年。
きょうは、舅宅に某業者さんに来て戴き、転姑ばーちゃんの和服を中心に、
貴金属や切手などに関して、出張査定&買取をお願いした。
姑は仕事が美容師さんだったのと、趣味が新舞踊だったのとで、
着物に詳しく、街着から晴れ着、果てはステージ用まで結構持っていた。
正絹もあれば、ウールやポリエステルもあった。

姑は考え方が合理的だったので、長襦袢はほとんど用いず、
半襦袢に半襟をつけて使っており、帯も作り帯が各種あった。
付下げや留袖等は私が活用できれば姑孝行になっただろう、
とは思ったのだが、私は和箪笥を元々持っていないくらいで、
和服を着る習慣など皆無であり、つまり猫にコンバンワ状態であった。
申し訳ありません(^_^;。

そもそも今回、転夫まーくんは初め、舅宅を始末するにあたり、
衣類はもう要らないから全部廃棄する、と言ったのだが、
ゼロ円で捨てるどころか、どうかすると処分料金をこちらが払ってまで
業者さんに家の中のものを持って行って貰う、というのであれば、
その前に、仮に二束三文だろうと、値段のつくものはつけて貰って、
専門のところに買い取って貰ったほうが良いのではないか、
と私が提案し、本日の査定と出張買取、と相成ったのであった。

……という発想だったので、ついた価格には全く不満はなかった。
品物の価値を分かって欲しいとか、できるだけ高値で引き取って貰いたい、
等々の考えは、最初から全然なかったし、むしろ、
こんな古い着物でも某か値段はつくものなのだなと感心したくらいだった。
また、貴金属は、色石のカジュアルなネックレスでも、
プラチナの留め具の部分が査定対象になったりしたし、
中には14金・18金の指輪があったりもして、
それらには各々で値段がつき、大変有り難いことであった。

ひとつ、帯の中に私の気に入ったものがあったので(写真)、
その一枚だけは手放さず、自宅マンションに持って帰ることにした。
幅がテーブルランナーにちょうど良いので、
業者さんに出して、リメイクして両端にタッセルをつけて貰おう、
と思いついたのである。
うちの六畳間のサイドボードの上に敷けば、よく似合うのではなかろうか
我が家の和室と居間には舅宅から持ち帰った仏像が何体もあることだし、
形見というのも大仰だが、姑の帯がインテリアの中で蘇るのであれば、
私としても嬉しいし、なかなか良いのではないかと思っている。

ただ、残念というか申し訳ないのは、私が少々記憶の糸を辿ってみても
姑がこれを身につけた場面を、全く思い出せないことである(^_^;。
愛用の品だっただろうか?そうだと良いのだが、全然覚えていない。
すみません(^_^;。

Trackback ( 0 )




実家の土蔵の外に、へんな物置があることに
私は3年くらい前には既に気付いていたのだが
鍵が見当たらないので、手を下すことができずにいた。
何十年も開けていないと思われる物置など、
このまま破壊して始末しても、何ひとつ困ることはない筈であったが、
しかし、家の持ち主の一人として、私にもやはり一通りの責任はあるし
一度は開けて中身を確認するべきだろうと、かねがね思っていた。

それで、きょう、神社の用事で実家に行ったついでに、
父の字で「かぎ」と書いてある箱をあけて、
どの鍵がこの物置のものか、探してみることにした。
――と書けば簡単に聞こえるだろうが、「かぎ」の箱には何十本もの鍵が
放り込まれていて、容易なことではなかった。

どれがどこの鍵であるかについては、記載のないものもあったが、
「奥」「戸」「物入れ」「倉庫」「蔵」「扉」「階段下」「ガレージ上」
等と、キーホルダーに書き込みされているものも多かった。
しかし、そんな暗号みたいな言葉が具体的に何を意味するのか、
鍵をつけた当事者でない私にわかる筈もなかった。
「奥」とはどこの「奥」なのか、「戸」も「扉」も到底一箇所ではないし、
「物入れ」と「倉庫」の区別は何なのか、
母の字で書かれた「台所ドア」と父の字で書かれた「キッチン扉」の違いは、
ありや、なしや。

手当たり次第にやるには数が多すぎるので、私は吟味を重ね、
「物入れ」「倉庫」「物置」「外の倉庫」「庭の物置」「裏」
あたりの鍵が怪しいと見当を付け、それらを持って、裏庭に行った。
うちの裏庭は、表玄関側から行くと遠回りになり過ぎるので、
家の者だからこそ知っている、裏の竹藪から入る道から行った。

そうして、………もういい、結論だけ言おう。
鍵は、あった(有った・合った)のであった。あな めでたや。
それもなぜか、向かって右の扉の鍵だけ。
左は同じ鍵では開けることができなかったし、ほかの鍵も合わなかった。
しかし、右側が開いただけでも、ひとつの大きな解決であった。
内部は一続きになっているので、片側だけでも開けば全体が見られる。
私は、一片の期待も持たずに、物置の扉を開けた。
大量のムシロ、鋤、鍬、その他の農機具、私の三輪車、私の食事椅子、
玉乗りの獅子、カビた仕上げ馬、サビついたハシゴ、
……等々が、半世紀を超える眠りから覚めた瞬間であった。

 

庭にこのような物置を建て、鍵をかけてまで、とっておいたモノが、これ。
嗚呼、なぜ、捨てなかったのか、父よ!母よ!
いつ、どんなふうに、これらが再び必要になると思ったの!?

私は無言で扉を閉め、元通り鍵をかけた。
思った通り、見ないで捨てても全くなんともない中身であった。
それが確かめられたことが、本日の、進歩であり収穫であった。

――完――

Trackback ( 0 )




きょうの母は、あまり喋らなかった。
私が某サ高住の母の居住フロアに到着したとき、
母は昼食を終えて食堂から部屋に戻ってきたところで、
スタッフさんの助けを借りて、車椅子からベッドに移ろうとしていたが、
その時点から、聞こえていたのはスタッフさんの声だけだった。

部屋に入るときも、私はちゃんと挨拶したのだが、
答えてくださったのはスタッフさんだけで、母には黙殺された(^_^;。
「ご飯はよくお上がりになったんですが、おかずがあまりお口に合わなくて」
「お野菜などは、なかなか進みませんでしたね。ちょっと固かったですかね」
「皆さんそれぞれ、お好みでないものもありますよね」
等々と、スタッフさんが私に話してくださっていると、
母は無表情に、しかしはっきりと、
「魚は、嫌い」
と言った。続けて、
「お肉は、好き」
「そうでしたね。お肉の献立が多くなくて、ごめんなさいね。
あとは、デザートに羊羹お出ししたら、それは喜んでくださいましたね」
「甘いものは、好き」

それなら今度来るときには、水ようかんとかプリンとか、
日持ちのしそうな甘いものを買って来よう。
私がそう言ったら、スタッフさんが、
「良かったですね~(^^)!」
と母に言ってくださったが、母は無言だった。
少し前に私の差し入れた一口羊羹の箱が冷蔵庫の上にあり、
見るとあと3個残っていたが、これだとすぐに食べ終わってしまうだろう。
さっそく買ってこなければ……。

スタッフさんが出て行かれると、母は静かに側臥位になっていた。
私のいる側に背中を向けており、
私が居ることに気付いているのかいないのか不明だったので、
近づいて、肩をぽんぽんして、一瞬マスクを外して顔を見せて
「わたし」
と言ったら、
「ああ(^^)」
とすぐ笑顔になったが、特に挨拶やコメントは、なかった。

「今度来るとき、ほんなら、何かお菓子、持って来るね」
「甘いものは、好き」
「うんうん。わかった。柔らかいものがええね」
「――――」
「プリンが、ええかい?」
「――――」
「羊羹あと3個やんな。そろそろ暑ぅなるし、水ようかんにしよか」
「――――」
「ヨーグルトは、あんまり食べへんかな」
「――――」

そこからは何を話しかけても返答は無かった。
私は話の接ぎ穂がなくなり、母が気に入っているぬいぐるみの猫を見せて
「ほら、猫。ええ子やな」
と言ったら、母は微笑んで、
「猫は、好き」
「そうやな。うちにも、ずっと猫、おったなあ」
「――――」
「ミーコちゃんとか、チー子とか」
「――――」

またしても黙殺であった(汗)。
母がきょう言ったのは、~~が好き、~~が嫌い、だけであった。
スペイン語の、Me gusta/gustan~、No me gusta/gustan~構文だけ(爆)。

Trackback ( 0 )




昨日は舅宅の片付けに、主人と二人で行った。
よく片付いた家だったので、これで、あらかた作業は終わった。

20年あまり前、姑の体が不自由になってきた頃に、
舅は自力で、自宅の大整理を成し遂げていた。
姑はその頃既に判断力も心許なく、周囲にすべてを任せきりだったので、
家の整頓についても、万事、舅の主導で行われた。
「えっと(=たくさん)買うとってんじゃけ。
女子(おなご)のもんばっかりよ(^_^;」
と苦笑しつつ、舅は古い衣類を適宜まとめては、定期的に資源ゴミに出し、
着られるものは舅用・姑用に分けて洋服ダンスに吊し、
肌着や靴下ストッキングなどは品目ごとに分類しフィッツケースに入れ、
要らない家具は庭で自分で解体して可燃ゴミに出したりして、
数ヶ月をかけて、家の中をタイトに片付けた。
当時、訪ねるたびに舅宅が綺麗になっていて、感心したものだった。

御蔭で、私達は今回、引き出しを開けるだけで、
「ここには何と何が入っているのだな」
とわかり、作業が大変やりやすかった。
実家の広大な田舎家とは違い、舅宅は洗練された建売住宅で、
二階建て4LDK、それと裏庭に小さい倉庫が2つ。
倉庫のほうには、余分な食器や花瓶、椅子程度の小さい家具、
古くなった家電、などが入っていた。
舅がいかに合理的で有能な人であったかを、改めて感じた。
じーちゃん、ありがとうございました(T_T)。

4月30日に一階と倉庫を、昨日5月3日に二階を点検し、
昔のアルバムなど捨てるに忍びないものだけ選り分け、
新品の肌着でサイズ的に使えそうなものに限り持ち帰ることにして、
我々の作業はアっという間に終わった。
食器だとか寝具だとか、「まだ使えそう」という理由で残していると、
せっかく綺麗にした我が家の自宅マンションが崩壊するので、
今要らないものは全部、潔く捨てるということで、
ころもん氏も私も迷いは無かった。

舅から主人が相続した南区の小さな店舗用土地もあったのだが、
そちらは昨年末から既に売却の話が進んでいるし、
併せて、同じ業者さんに任せ佐伯区の舅宅も処分が決まりそうなので、
主人の側はこの半年ほどで急にテンポの良い展開となり、
このほど、「親の家」問題がほぼ終結するところまで来た。
娘を煩わせないためにも、大変好ましいことであった。

やはり、残るは、うちの実家オバケ屋敷だけだよ……(汗)。

Trackback ( 0 )




昨日の母は、なんだか元気だった(汗)。
ベッドに寝ていたが、滑舌よく喋る喋る(大汗)。
歯が全部自前なので、咀嚼にも発語にも母は全く問題がないのだった。

母「ま~、あんた久しぶりやね!」
私「先週も来てんけど、そんときお母さん昼寝中やったからな」
母「ほうかいね。道理で。私も御蔭様でこないして90になって、
 もうトシに不足は無いねんけど、
 ほいでも明日でもう死んでもええですか言われたら、
 それはやっぱりちょっとまだ待って貰いたいと思うねん」
私「そらそうや。生きとる者の本能て、そういうもんや」
母「せやろ。はや90やから、あと5年くらいかなとは思うねんけど」
私「(いや既に今が95やで(^_^;。もう、しまいでええんかい(^_^;)」

母「御蔭様で大きな病気もせんと、こないして90まで生かしてもろて、
 そらもう、有り難いことやと思うてんねんけど、
 そいでもこないして生きとったら、あんたにも会えるし、
 あんたや、身近な人等と、いつまでも会うていたいと思うし、
 最後は死んで焼かれんなん訳やけど、焼かれるときも皆で一緒がええと思うし」
私「なんやそれ。なんぼなんでも、一緒に焼かれたら困るやろ。
 お母さんが焼かれるときは私が生きとらな、
 私が焼かれるときは、みーちゃんが生きとらな、
 皆いっぺんにおらへんよんなったら、後始末どないすんねん」
母「そうやったね(笑)。順番でないと困るか(笑)」

あの世に全員道連れにしようというホラーな母であった(^_^;。
ちなみに、『あんたや、身近な人等』と言いつつ、
母の話の中では一貫して、父への言及が全く無かった。
どういう設定なのか、相変わらずわからなかったが、
私を除くと、母の言う『身近な人等』が誰であるかそもそも不明であった。

私は話題に困り、例によってスマホにある娘の愛犬の写真を見せた。
既に何十回も見せているのだが、母には日々新たなのであった。

母「これは?いぬ?」
私「ほうや。みーちゃんの、犬」
母「みーちゃん、犬飼うてんのかいね。大きな犬やね」(←そうでもない)
私「可愛いやろ」
母「ああ、ええ子、ええ子や。何という種類の犬?」
私「柴犬や」
母「え?」(←耳が遠い)
私「し・ば・い・ぬ」
母「え?」
私「し!ば!」
母「い、ば?」
私「……(^_^;」
母「ま、なんでもええわ、こういうもんがおったら、毎日が楽しいわいねえ。
 うちにもよう猫が長いことおったけど、こういう、『いば』たら言うもんでも
 一匹おったら、そら毎日が楽しいわいねえ。
 動物いうもんな、ちゃんと人間のことよう見とって、仲良う暮らせるし
 大昔からそういうことがわかっとぉから、世の中の人は皆、ペットを飼うんやね」

喋りながら母は咽せて、けほ、けほ、と咳をした。
興奮してまた誤嚥性肺炎が始まるのではないかと私は心配になった。
そのあともしばらくとりとめのない話をしたが、
あまり疲れさせてもいけないかと思い、適当なところで私は帰ることにした。

私「ほんなら、そろそろ帰るわ。また来る」
母「あんた、今どこに住んどぉん?」
私「どこ、って。中区の、マンションや」
母「え?」
私「まあ、そんなに遠くでもないわ」
母「誰と住んどん?」(←同棲かよ(^_^;)
私「そら私かて結婚しとんねやから、夫と二人で住んどぉねん」
母「さよか(笑)」

父もよく「あんたの家はどこね」「子供はどうしよるん」等と尋ねたものだったが、
このあたりの設定は、どうしても老親の頭の中で定着しないものらしかった。

母(自称90歳)は、そういうことで、本人比において元気で活力があった。
話は微妙におかしかったし、耳も遠かったが、
私が誰であるかは認識しており、現状についても不満は無さそうだった。
私を焼き場まで連れて行きたいと願っているらしいこともわかった。
昔から根本のところでイマイチ子離れできていない人ではあったが、
娘が還暦を迎えようとしているのに、まだこういうことを言うかと感心した。
何が『娘』や、既にええ加減、私がババアやがな(^_^;。
私自身は自分の娘については、もはや手放した感じになって久しいのだが、
母は私とはかなり性格が異なるということを、改めて感じた。

Trackback ( 0 )



« 前ページ