転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



どうも、帰路には何か事件のある我が家の旅行だが、
ともあれ今朝8時過ぎに新大阪を発った新幹線で、
今度こそ無事に、我々は広島の自宅に戻ってきた。

それから主人は仕事に行き(大晦日は出勤する予定だったのだ)、
娘と私とでマンションをざっと掃除し、
洗濯後の干し物は娘に任せて、私は舅宅に向かった。
佐伯区方面のお正月の支度が全く出来ていなかったからだ。

まず、舅のお墓に行って掃除をし、花を新しく供えた。
少し前に、舅の従姉家族が参って下さったときのお花が、
まだかなり綺麗だったので、新しいものはそのままにして、
元気の無いものだけ除けて、持ってきたお花を足した。
転勤族一家の墓をここに建てたのが去年の師走だったから、
舅もここで一年過ごしたのだなと、感慨深く思った。

それから舅宅に行った。
仏壇のほこりをはらい、玄関と庭とガレージを掃いて、
枯れ葉を集めて袋に入れた。
それから、門松の印刷された紙をドアに貼った。
注連飾りは無いのだが、それは勘弁して貰うことにして(汗)。

そのあと、新しい肌着を六枚持って、姑のところに行った。
姑は側臥位で休んでいて、痰は多いが平熱だった。
このところ体調はほぼ安定していると看護師さんが仰った。
私を見ると笑顔で、何か声を出してくれたが、
姑が何を言っているかは、わからなかった。
昨年は私が出血多量で舅宅での年越しを断念したが、
今年は姑本人の体調が理由で、自宅での年越しが出来なかった。
とても残念には思ったが、寒いときに無理して帰るより、
また暖かくなってからのほうが、良いこともあるだろうと考え直した。


***********

ということで、無理矢理な大晦日になってしまった(^◇^;)。
今年は、1月に筋腫手術をしたことで、私の体調が安定し、
夏に姑が入院したときも、かなり動けたと思う。
手術して下さった主治医の先生やスタッフの方々にも、
入院前後に支えてくれた家族や友人知人にも、とても感謝している。

こうしてまた一年、道楽日記を続けて来られたことも、
とてもとても、有り難く思っています。
お読み下さっている方々、一度でも訪ねて下さった方々に、
心より、篤く、お礼を申し上げます。
ありがとうございました。

また来年も、どうぞよろしくお願い致します。

皆様、良いお年を。

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昨日は飛鳥観光で一日遊んで、夕方、大阪に戻り、
夕食を済ませてから、夜の新幹線で広島に帰る、
・・・つもり、だったのだが(汗)。

梅田界隈まで戻ってきてバイキングで食事をしている最中、
携帯でニュースをチェックしていた主人が、画面を見ながら
「えええ!?新幹線が、来ない・・・!?」
と目をシロクロさせた。
なんでも、小田原で人身事故があって新幹線が止まっており、
我々が乗る予定の下り方面は、その時点で100分の遅れ、
ということだった。

JR大阪駅にとりあえず行ってみたが、みどりの窓口も混乱していて、
列車が今どこにいるのか、システム上も追跡困難な状況で、
我々が携帯のニュースで得ていた以上の情報は得られなかった。
私は「夜道に日は暮れんというから、まあ、待ってみるかね」
と消極的に言ったのだが、主人は『待つ』のが嫌いなヒトなので、
「こりゃ、今夜はもう一泊しよう。仕方がない」
と即座に決めて、新幹線を31日に変更すると、
「わし、ちょっとネットカフェ行って来る」
と娘と私を某ホテルのロビーまで送り届けて、また出て行った。

もう一泊分のホテルを確保する必要があったわけだが、
ホテルにまともにかけあうと正規料金になってしまうので、
主人は、インターネット割引予約をしようと言うのだった。
待つのは嫌いでも、こういう手間暇は惜しまないヒト(^_^;。

・・・ということで、昨夜は主人が見つけてきてくれた格安宿で、
我々は予定外の四泊目を過ごすことになったのだった。
結果的には、駅で何時間も寒い思いをしなくて済んだし、
お風呂に入って早く休むこともできたので、
主人の英断には感謝せねばならなかった。

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飛鳥見学の最後に、畝傍山の麓の橿原神宮に参ったのだが、
これが、もう、ドギモを抜かれる大きさだった。

観光地にはよく大きな神社があるが、
ここはどうも、神社としての格が段違いだという趣があった。
こういうものに詳しくないので、単にシロウトの印象なのだが、
この神社は、何か、尋常でないものがありそうな雰囲気だった。
とにかく圧倒されるような社殿だった。

神社の由来としては、神武天皇の宮があったとされるこの地に、
神武天皇をお祀りするために、明治になって建てられた官幣大社で、
伊勢神宮のようにとてつもないものではない筈なのだが、
伊勢の外宮より大きいだろうと思われる敷地面積だった。
橿原神宮の北側には神武天皇御陵もあるのだそうで、
登ってはみなかったが、想像を絶する規模だということはわかった。

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蘇我氏の氏寺で、蘇我馬子によって596年に建てられた。
もとはもっと広大な敷地の寺院で、
中大兄皇子と中臣鎌足が出会った蹴鞠会なども、
この寺院の庭園で催されたと言われているが、
後に、農地改革で縮小されて現在のかたちになったようだ。
蘇我入鹿の首塚も寺院を出てすぐの場所にあった。
大化の改新で処刑された蘇我入鹿の首が、
火を吹いてここまで飛んできた、という伝説があるそうだ。

飛鳥寺の本尊は、推古天皇が帰化人の鞍作鳥に命じて、
609年に造らせたという金銅仏の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)で、
東大寺の大仏より更に150年ほど昔のものだと推定されている。

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丘の上(上るのがちょっとキツかった)に酒船石と呼ばれる、
用途不明の、花崗岩の大きな板みたいな平らな石があって、
それには太い溝が何本も彫り込まれており、
付近には水を引いたと見られる地形も残っているのだが、
そこから少し下ったところに、この、亀形石がある。

飛鳥時代は、何かというと「亀」で、
これも円形部分が亀のかたちになるように細工がされている。
斉明天皇禊ぎの場と言われているのだが、定かでないようだ。

今の、天皇皇后両陛下が来られたことのある場所で、
記念の立て札があった。

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岡寺は、日本最古の厄除け霊場で、
奈良時代末につくられた塑像観音像があることで有名だ。
内部は撮影禁止になっていたので、観音像の写真は無いのだが、
土で作られた如意輪観音座像としては日本で最古・最大のものだ。

ここまで連れてきて下さったタクシーの運転手さんが、
「観音さんだから、奥さんが厄除けするのに良いよ。
女は観音さん。男は不動明王だからね」
と仰ったとき、咄嗟にヤンクミ@ごくせんを連想した私は、
どんだけマンガに毒されてますか(爆)。

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横穴式石室を持つ7世紀頃の方形墳。
昔は土で覆われていたようなのだが、
今は石室部分だけが露出したかたちになっている。
近くに蘇我邸があったと考えられているので、
これは蘇我馬子の墓ではないかという説があるが、
定かではないようだ。

昔は、付近の子供達は上に上って遊んだりしていたのだそうだが、
今は勿論、乗ったりしてはいけないことになっている。
が、内部には入ることができる。広い石室だった。

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亀石の東のほうにあるお寺で、聖徳太子生誕の場所と言われ、
かつては欽明天皇の《橘の宮》という別宮のあったところ。
天台宗の寺院。

本尊は聖徳太子35歳の像だそうだが、
非常に顔つきがりりしく品格の高い仏像だった。
庭には飛鳥時代のものだという石造仏二面石があり、
善の表情と悪の表情が背中合わせになって、
ひとつの石造仏になっていた。


・・・聖徳太子というか、厩戸の王子というと、
山岸凉子の『日出処の天子』のいろいろを思い出してしまうのは、
さすがに、家族でも私ひとりのようだった(汗)。

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さきほどの鬼の雪隠やまな板の近くに、「亀石」があるのだが、
あたりは田園地帯で、家屋と田畑が続くのどかな風景なので、
それらの間に観光名所が点在しているのは不思議な感じがした。

亀の背中側は天然石のままのようだが、
顔のあたりは細工されたものだということがわかる。
推古朝の頃のものだという説があるが、
誰がどういう目的で造ったものかは不明であるらしい。

ユーモラスで可愛い顔をした亀に見えるが、
この亀が生の国と死の国を分ける位置にいるのだそうだ。
亀石から南側は古墳の多い「死の国」、
北側は別の家並みが連なる「生の国」、ということだった。

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「鬼のまな板」から坂を下ったところに、この「鬼の雪隠」があった。
実は、さきほどの「鬼のまな板」の上に乗っていた部分だそうで、
何かの拍子に転がり落ちて、ここに収まったということだった。

「雪隠って、・・・どっちむきに使うんかね」
と主人が知りたがっていた(--#)。

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