転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



5月12日(日)は広島交響楽団の演奏会に行った。
マルタ・アルゲリッチが客演したからだ。
指揮はクリスティアン・アルミンク。
午後3時開演、会場は広島文化学園HBGホール。

プログラムは前半が2曲続けてのアダージョで、
日本初演アレクサンドル・ゴノボリン『弦楽のためのアダージョ』、
次がマーラー『交響曲第10番へ長調「アダージョ」』。
このうえなく繊細に真摯に、音と音を重ねて行くという音楽で、
目下の世界情勢を踏まえ、被爆都市・広島から平和への祈りを捧げる、
……といった趣の2曲だったと感じられた。

アルゲリッチの登場は後半で、
プロコフィエフ『ピアノ協奏曲第3番ハ長調作品26』。
アルゲリッチ82歳、歩く姿はさすがに年齢を感じさせたのだが、
演奏になると軽々というか何というか、もう、自由自在、
まさに闊達、良い意味での「弾き飛ばし」。
実に無造作にテキトーに鍵盤に触れるだけで、
信じられないような鮮やかな音楽が紡ぎ出され、
アルゲリッチにとってピアノの「技巧」などというものは
存在していないも同然のように見えた(汗)。

会場は総立ちの大興奮で、アルゲリッチも笑顔で拍手に応え、
アンコールが3曲も。
シューマン『夢のもつれ』、バッハ『イギリス組曲第3番ガヴォット』、
そして広響とともに再びプロコフィエフ『ピアノ協奏曲第3番第3楽章』。
いやはや、どんな様式の曲も、たちどころに思いのままに傑作に仕上がる、
マルタ・アルゲリッチ様なのであった。

私の席が悪かったのかもしれないが、音響の面では、
オケが若干前に出すぎで、アルゲリッチのニュアンスが聴き取りにくい、
と感じた箇所が、特に1楽章にはいくつかあった。
当日のアルゲリッチは演奏会後、ホールに満足していなかった、
と又聞きで耳にしたので、その厳密な真偽はおくとしても、
そういう話が出て来るところをみると、
やはり多少、会場の音響に問題があったのではないかという気は、した。
せっかく地元オケがあるのだから、今後は広島に是非、
演奏会に特化した、新しい良いホールを建設して貰いたいものだ。
そして、近い将来、そうしたホールが完成したならば、
広島交響楽団の平和音楽大使であるアルゲリッチに再び客演して貰い、
盛大な杮落とし公演のソリストを、務めて戴きたいものだと思った。


追記:この日、開場になった途端、皆に取られて当日のチラシが尽きてしまい、
更に、売場にあったアルゲリッチのCDも、瞬く間に完売してしまった。
主催者(およびCD販売業者?)は、マルタ・アルゲリッチというものの威力を
いかになんでも甘く見過ぎであった(^_^;。

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五嶋みどり@HBGホール
18日(木)は、広島交響楽団の定期で五嶋みどりが客演した。
私は、かなり前から彼女が来日することには気付いていて、
広島で聴けるなんて絶好のチャンスと思い、
チケット発売日に広響のサイトで買っておいたのが大正解で、
前売り分は即日完売、追加販売分も即完売、という勢いだった。
この日は、G7広島サミット開幕の前夜で、
私が徒歩and/orバスで通ることになるだろうと思っていた
城南通り・中央通り・吉島通りが、どれもこれも交通規制の対象で、
おまけに午後から雨になり、致し方なく、タクシーで出かけた。
この判断もまた大正解で、私が会場に差し掛かった頃、
ちょうど、バイデン大統領の車列が南から来て、
平和大通りから平和公園の方向へと通って行くところで、
原爆資料館のすぐ南側の道路が完全に立ち入り禁止になっており、
タクシーも全く通れず、一旦戻って東側に大きく迂回するかたちで
再度、別の道から会場に向かうことになった。
いろいろあったが、演奏会は極上であった。
鮮やかな中にも、根底に美しい昏さのある演奏で、
細やかなニュアンスに富んだ五嶋みどりのヴァイオリンは素晴らしかった。
この話は、書く時間があれば、また、いずれ。

G7広島サミットがえらいことに
元来が東京育ちで広島に接点の少ない岸田総理が、広島出身をアピールすると
なんだか利用されているようで、実は私は嫌だったのだが、それでもなお、
G7とEUの代表が原爆慰霊碑に揃って献花をしたのをネットで見たときには、
80年かかってこの場所に辿り着いたのか!という感慨があった。
かつての連合国と同盟国の代表が、等しい立場で並んで、
原爆死没者に花を手向け、平和への誓いを新たにする、という構図は、
たとえそれが、各国の利害に基づく政治判断によるものだとしても、
そのようなパフォーマンスでさえ、実現するのにここまでの年月が必要だった、
ということに、私は、やはり深く感じ入るものがあった。
また、彼ら首脳に揃って原爆資料館を見学して貰うことも実現した。
これも、今の資料館は、ごく客観的で正視に耐える展示だけしか無いから、
核保有国の代表が今更、あの展示内容そのものにショックを受けるとは、
私は思っていないのだが、それでも、G7の代表全員が資料館を訪れた、
という「かたち」が実現したことに、大きな意義があったと思った。
更に、きょうはウクライナのゼレンスキー大統領が広島に到着した。
インド、ベトナム、ブラジルなど、グローバルサウスを中心とする、
8つの招待国も加えたセッションも、明日、行われる。
G7のみならず、韓国の尹大統領とゼレンスキー大統領の会談さえ、
このあと広島で実現するかもしれない。
後の世界史の教科書に載るような出来事が、今、広島で展開している。

大変不自由だが極めて安全な広島市
……ということで、広島市内は今、市街地のほぼ全部が交通規制され、
うっかり外にも出られない有様だ。
交通規制情報を見ずに出かけたりしたら、場所や時間帯によっては、
知らないうちに、いつも通る道がバリケードで封鎖され、
家に帰れなくなっている可能性もあるような状態なのだ。
空には一日じゅう取材ヘリが飛んでいて、
もっと上空になると戦闘空中哨戒の様相であり、ドローンも居る。
市民生活としては、不自由だし喧しくて仕方ないのだが、
それはすなわち、物凄く手厚く市街地全体が守られている、
という状況でもある。
家から一歩出たら、そこらじゅうに警察官が並んでいるので、
もし今、「たすけてー!」「どろぼー!」などと叫んだら、
四方八方からばらばらと警官が駆けつけてくれることだろう。
誘拐も強盗も、とてもじゃないが逃げおおせる状況ではない。
なんと安全な毎日なのだろうか(汗)。

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近所のエリザベト音楽大学セシリアホールにて、
トン・コープマンのパイプオルガン・リサイタルがあったので、
聴きに行った。
チケットは早くに買っていたのだが、
私が想像していたよりもずっと、この演奏会の注目度は高く、
自由席の会場は行ってみたら満席だった。

私はパイプオルガンについてどうこう言えるほどの鑑賞経験が無いし、
ピアノと違って全く触ったこともない楽器なのだが、
「鍵盤で操作する管楽器」なのだという印象が、今回も鮮やかに残った。
同じ鍵盤操作でも、ピアノやチェンバロなどとは全く異なる世界で、
「風」を感じる楽器ならではの温かみや素朴さがあった。
方面は全く違うが、栗コーダーカルテットを聴くときに感じるような、
心温められる瞬間が、幾度もあった。

私の、コープマンとの出会いはチェンバロのほうで、
90年代にこの人のチェンバロのCDを買って愛聴していた時期があったのだが、
今回、初めて実演に接することのできたのがパイプオルガン、となった。
演奏者としてのコープマンは実に生き生きと躍動的で、
しかも、リサイタル全体として、とても楽しかった(笑)。
娯楽というような気軽な内容では断じてなかったにも関わらず、
多彩な音色や絶妙な拍感があまりに心地よく、わくわくさせられた。

後半にバッハの『トッカータとフーガ ニ短調』や
『小フーガ ト短調』などを持って来たのは、
観客サービスが入っていたかなと思うが、やはり盛り上がった。
足鍵盤は神業であった!全身で演奏する楽器なのだと改めて思った。
モーツァルトの『小オルガンのローラー用のアンダンテ ヘ長調 K616』
が私にとってはとても面白かった。
どんな楽器で演奏しても、モーツァルトはモーツァルトなのだなと(笑)。
要らない音が一音もない精緻な可憐さ!
それを、パイプオルガンの「風」とともに聴くのは、得難い体験だった。

……一方で、客席の上手前方あたりに、毎回即座に拍手をする人がいて
正直、かなり邪魔だと感じた。
曲が終わるや否や、必ず、その一角から拍手が起こり、
コープマンは律儀にその都度、わざわざ椅子から降りて、客席に向き直り、
独特のステージマナーで、客席に対して頷きながら応えてくれており、
決して悪い雰囲気になった訳ではなかったけれども、
私は「余韻がゼロ(T_T)!!台無し!!」と思った。御免なさいね。

前も書いたが、演奏者は曲と曲の間の、つなぎみたいな何秒かでも、
「演奏」あるいは「演奏会」の一部として考えているのではないか。
たとえ、次の曲の楽譜を用意するための時間であったとしても、
楽器の音が途切れた瞬間の意味は、私にとっては、ある。
その部分も、私は「聴きたい」ので、
演奏者が弾き終わって手を下ろしたあと、
確実に「ここで区切る」という意思表示をしたときでなければ、
拍手は起こって欲しくない。
今回のプログラムも、たとえば前半6曲のうち、
コープマンはもしかしたら途中まで、あるいは全部を
ひとまとまりと考えていたかもしれないのだ。
それを、一曲終わるごとにいちいち拍手して中断させていたのは、
聴き手としての(気難しい(汗))私には、煩わしいものだった。

例えば、ショパンコンクール本戦で、協奏曲第3楽章の最後の音を
コンテスタントが弾き終わった瞬間に、オケの後奏と重なりながら
ワーーー!!!と拍手が沸き起こって来たとしても、フライングとは思わない。
それは、その「場」がそういう意味を持っているからこそ、なので……。
でも、どういう演奏会でも何の曲でも、一曲ごとに全部即座に拍手するのが
「良かったぞ!」の意思表示かというと、それは違うと思うのだ。

演奏者の描いている設計図や、そのときならではの気分を、
客の一方的な拍手=客の自己主張で損なってほしくない。
長年、某P氏に飼い慣らされたから、こんなことを思うんですかね(逃)。

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大人だけどピアノを習いたい!ピアノ教室を選ぶポイントは?(mamasta)
『大人がピアノを習うのは恥ずかしいですか?今年27歳なんですが、諦めた方がいいですよね?』

何がどう恥ずかしいのか私にはわからない(^_^;。
どんどん習ってみるのが良いじゃないか、と思う。
記事中の、「楽器は子どもの頃から始めた方が良い」というのは
例えば音大ピアノ科に進んで専門家になりたい、等の場合であって、
趣味で弾くのなら後期高齢者になってから開始したって良い。
それだって、場合によっては相当なレベルまで行ける可能性がある。
かつて三枝成彰氏が言われたのだったと思うが(違ったらすみません)、
「70歳で始めたとして、90歳まで弾くなら20年できる。
どんなことも本気で20年訓練したら、玄人になれる」と。

私の友人の知人は、公立学校の先生だったのだが、
数年前、60歳で退職したとき、退職金でグランドピアノを購入された。
ピアノなど一度も習ったことがなかったが、
小学生の頃からずっと憧れていらしたのだそうだ。
御主人も最初は大変驚かれたそうだが、
御本人の、長い長い長い間の念願であったと知って、
家が狭くなるのを受け入れてくださったとのことだった。

それから彼女は、近所のピアノ教室の先生に電話をかけ、
自分の希望を述べて、生徒になった。
『エリーゼのために』が弾きたかったので、
何年かかってもいいから全部弾くと決めて、レッスンを開始し、
更に、子供の頃、従姉が『バイエル』を習っていて羨ましかったので、
自分も『バイエル』をやってみたいと先生に頼み、それも叶えて貰った。
退職後がこんなに楽しいなんてと、大変満足していらっしゃるとのことだ。

『エリーゼのために』をきちんと弾けるようになるためには、
先にイ短調のスケールやアルペジオをやらなくては、とか
『赤バイエル』なんて今どき使いませんよ、とかいう話は、
大人の初心者の希望と相反するならば、よけいなことだ。
一家言ある人たちの理想や好みなどどうでも良いのであって、
習う本人にとって、やりたかったことが実現したかどうかが大事なのだ。
入試もコンクールも関係ないから、本人が「弾けた」と思うかたちがゴールだ。
もしも、習ううちにもっと綺麗に弾きたいと欲が出て来れば、
基礎練習を取り入れたり、教本を変えたり増やしたりと、
方針を転換することも自由自在なのだし。

私の高校時代の友人のひとりは、短大でピアノを専攻したあと、
結婚で一旦家庭に入り、今は教える側として仕事をしているのだが、
大人の初心者の生徒さんには感動することがよくある、と言っていた。
上記の「エリーゼのために」と同様に、大人の初心者の多くは、
憧れの一曲を持っていて、それを弾けるようになりたい、と望むそうだ。
クラシックの好きな人では特にそうで、しかも、
初心者用に移調したり和音を減らしたりしたような簡易版ではイヤで、
弾けないところは激遅になっても、完全に原曲のとおりに弾きたい、
と希望されることがほとんどだ、と。
曲によっては、当然のことながら入門者にとってかなり難しく、
途中の難所など何の曲かわからないような出来映えになることもあるが、
「それでもね、なんかね、凄くエエんよ。
演奏を聴きよるとね、伝わって来るものがあるんよ。凄いよ。
涙が出そうになるときがあるんよ」
と友人は言っていた。
実に、イイ話じゃないですか。

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第18回ショパン国際ピアノコンクールの予選が進んでいる。
まず、一次予選では日本勢は、
古海行子、小林愛実、京増修史、沢田蒼梧、進藤実優、
反田恭平、角野隼斗、牛田智大の8名が通過、
そして今朝ほど発表された二次予選の結果では
古海行子、小林愛実、進藤実優、反田恭平、角野隼斗、の5名が通った。

聴き手としての私にとっては、あるひとりのピアニストを聴くときに、
その人がかつてショパンコンクールで何位を取ったことがあるとか無いとかは、
大した問題ではないし、経歴として読んでも多くの場合すぐ忘れる。
私が「いい」と思った演奏家が「いい」のであって、受賞歴などどうでも良い。
ただ、こうしたコンクールで優勝、あるいは上位に食い込むことで、
名前を国際的に知られ、マネージメントがつき、演奏会を開けるようになる、
という職業演奏家としてのメリットが大きいことは、理解している。
若いピアニストは、そのためにコンクールを受けるのであって、
自分の才能に、他人様から点数をつけて貰うことは主目的ではない。

そもそもがワルシャワまで来ている時点で、同世代では破格の存在なのだ。
それがコンクールの一発の演奏で採点され、人数が絞られて行くのだから、
合否なるものに、大なり小なり理不尽な面があるのは致し方ないと思う。
特に予選となると、入学試験と同様、一定の人数を落とすためにやっている。
「推し」が落選すると、多くの人が1980年の第10回コンクールでの
「ポゴレリッチ落選事件」を引き合いにして語るのだが、
その通り、彼など、派手に予選落ちした御蔭でスターになったのだから、
何が幸いするかわからない。

尤も、ポゴ氏御本人は世界中で演奏会を行う存在になったあとでも、
「あのコンクールは政治的なものだった、自分は不当な評価を受けた」
と延々と言い続けており、今に至るも機会さえあれば追求する構えのようである。
私は上記のとおり、ファンとしてはとっくの昔に、
彼の、ショパンコンクールの騒動など眼中になくなり、
現在進行形の彼の演奏がどうなのかということしか考えなくなっていたのだが、
御本人にとっては、あれは一生許せない事件だったのだなと
2008年に彼の発言を聞いたとき初めて(殴)悟った次第だ。

それくらいの意地がなかったら、人前で演奏などできないものかもしれない。
こうした解決の困難なわだかまりも、演奏家にとっては、
我が道を切り開くための原動力となり得るものだろう。
「芸術の世界では、一度引き下がると自分の信念を保つことができず、
再び取り戻すことは困難です」(『ピアニストが語る!』増補版p.41)
とポゴレリチは言っているので、今回の若いコンテスタントたちも、
結果がどうであれ、決して『引き下がる』ことなく
これからも己が信ずる道を追求し、進んで行って貰いたいと思っている。

追記(10月17日):3次予選通過しファイナリストとなったのは、
日本勢では小林愛実、反田恭平の2名。

追記(10月21日):本選の結果、反田恭平2位、小林愛実4位にそれぞれ入賞。

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朝から、ショパンコンクール予備予選の動画をいくつか観た。
Chopin Institute(YouTube)
きょうから数日間、私は完全休暇を取るので、
これほど心身の余裕のあるタイミングはちょっとあるまいと思い、
予備予選をチェックする気持ちになった。
ピアノ音楽に関心のある者として、やはり、ショパンコンクールの動向は、
気にはなっていたのだ。

前からときどき書いていることだが、私は基本的にショパンが好きでない。
十代から二十代の初めまでは、むしろ特異で面白い作曲家だと感じていたのだが、
自分が年齢を重ねるにつれて、彼の根本にある昏さがわかるようになり、
決して、気持ち良く聴ける音楽ではなくなった。
ベートーヴェンなら朝から晩まで流していてもなんともないし、
モーツァルトなら、聴けば最高に気持ち良くなって心身が回復するくらいだが、
ショパンは、こちらのコンディションが万全でないと、
どれかの音に鬱陶しさを感じた途端、心身が音楽を遮断してしまい、聴けなくなる。

しかし、今の私は、自由時間に恵まれているので、余裕がある。
ゆったりと広い心でショパンに集中できるのだ。
という訳で、既に終わった予備予選の動画を遅まきながら再生して聴いていると、
これがまた、どの曲が出てきても全部、知っているのであった(^_^;。
「ピアノを聴く」という趣味は、つまるところ「ショパンを聴く」に等しく、
私はなんのかのと言いながら、自分の道楽人生の大半を、
結果的にはショパンに捧げて来ていたことに、改めて気付かされた。
ピアノを聴く、あるいは弾くことが趣味の人間なら、
シューベルトは知らないとか、リストは違うとか言うことはあっても、
ショパンとろくな接点なしに過ごすことなど、あり得ないのだった。
「ピアニストは、まずショパン弾けなくてはいけない」
と言った故・井上直幸は、これ以上ないほど正しかったのである(汗)。

このコンクールに、世界中から集まる若きコンテスタントたちは、
それぞれのピアニスト人生のすべてで、ショパンの各曲を弾いて行くのだが、
各自のリサイタルと異なるのは、演奏が採点され明暗が分かれる、という点だ。
楽譜のエディション、ペダルの有無、スラーのかけかたひとつを決めるにも、
究極的に、審査員からどう評価されるかを、常に念頭に置かねばならない。
「自分に嘘をつかない」的な単純な話では済まないのだ、
コンクールに参加して評価を得ることを望む限りは。
ゆえに、演奏者たちの心の中には、常にぎりぎりのところでの、
湧き上がる自己主張と、必要な抑制との、せめぎあいがあるのではないか、
と私は想像・妄想しながら、それぞれの演奏を聴かせて貰った。

その中で私がとても心を惹かれたのは、反田恭平の演奏だった。
私の嫌う、ショパンの昏さの源になっている、内声の歌わせ方に、
幾度も、この人独特の感性が、感じられた。
小節数から言えば小規模なエチュードひとつにも、
表層構造と深層構造の両方を一度に描出するような大きさがあった。
自分の音楽への信頼が篤くなければ、
なかなかこういう演奏はできないだろうと思った。
彼は日本の聴き手たちの期待通り予備予選に通っていたので、
審査員も、彼の演奏をそれなりに高く評価したということなのだろう。

それにしても、ほかの参加者もいずれ劣らぬ見事な弾きぶりだった。
1980年の第10回コンクールで若きポゴレリチが話題になったとき、
誰もが彼のテクニックを絶賛したものが、
今、録音を聴いてみると、特にポロネーズ5番などミスタッチの山だ。
夜想曲作品55-2にも、何か休符がおかしいのではないかという箇所がある。
勿論、そのような瑕瑾(かきん)をものともしない強烈な演奏に、
彼の才能の大きさがあった、という言い方もできるのだが、
今時の参加者だったら、あのようなミスは絶対にしないだろう。
スポーツの記録競技で、年々、記録が更新されて行くように、
若い演奏家たちの演奏技術も、日々、向上していることが感じられた。
音楽はテクニックではない、と言う人もあるが、
テクニックがないことには始められない。
21世紀の若い演奏家たちが、出発時点で既に持っている高い技術の上に、
これから何が築かれるか、とても興味深いことだと思った。

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ここに書く機会を逸していたのだが、実は12月28日に、
ピアニストのフー・ツォンが亡くなった。86歳だった。
訃報の出る前日に、「フー・ツォンがCOVID-19に感染し夫人とともに入院し、
一時重篤であったが容態は持ち直している」とfacebookの友人の情報で知り、
このまま回復できますようにと願っていたのだが、叶わなかった。

近年は頸や腰の不調で演奏会をキャンセルすることはあったものの、
持病といえるほどのものはなく、聞く限りにおいて彼は健康であった。
高齢ではあったが、新型コロナウイルスが無ければと、やはり、思わずにいられない。
ただ、一般的に、COVID-19の肺炎は自覚症状としては穏やかで、
「幸せな低酸素症(happy hypoxia)」と呼ばれるほど、苦痛が少ないそうで、
それならフー・ツォンの最期も安らかであっただろうかと思えることは、
遠い、異国のファンであった私にとって、僅かだが慰めとなっている。

中国の世界的ピアニスト・フー・ツォン氏、新型コロナ感染で死去
(RecordChina 2020/12/29 12:08 (JST))
『中国出身のピアニスト、傅聡(フー・ツォン)氏が英国で28日、新型コロナウイルス感染症により死去したと、中国新聞網や多維新聞などが伝えている。86歳だった。』『前日に新型コロナウイルスに感染したことが報じられていた。傅聡氏の教え子で、英国王立音楽大学教授の孔嘉寧(コン・ジアニン)氏によると、傅聡氏は2週間入院していたという。』

私にとって、フー・ツォンとの出会いとなったのは、
80年の、彼のショパン『夜想曲全集』のレコードだった。
その後の、90年代の神戸でのリサイタル、
そして2009年に京都で聴けた演奏とそのときの舞台上での対談のことなど、
いろいろと思い出すことがある。
ショパンへの熱い思い、尽きせぬ望郷の念、深い孤独の陰影、
彼の演奏には様々な、彼の心の歴史を色濃く反映した印象的な音があった。
自身の中にある、東洋と西洋の文化の融合を、芸術の究極の理想とし、
フー・ツォンは自らそれを音楽を通して体現しようと、
追求し続けた演奏家であったと私は思っている。

私がフー・ツォンから学んだ言葉がふたつあって、
ひとつはポーランド語の「zal」、もうひとつが中国語の「赤子之心」だ。
フー・ツォンは、文革で祖国中国に戻れなかった複雑な自分の立場について、
「ポーランド語にザル(zal)という言葉があって、これは
『ノスタルジア、悔恨、傷心、耐え難い憧れ』を総合した単語なのです。
私が長い間の亡命生活で体験したことは、この一語に尽きるのです」
と語っていた。
それは彼の、ショパン演奏の根底に流れるもの、そのものであったと思う。
そして、『赤子之心』、「子供のように無邪気で穢れの無い心」。
彼が晩年にたどり着いた、珠玉のようにきらめくハイドンの名演の数々は、
まさに彼の「赤子之心」の描出だったのではないだろうか。

天国へ上る道で、どんな音楽が彼を迎えたのだろう。
フー・ツォンの魂が、永遠に安らかであることを心から祈っている。


森岡 葉 氏がブログで追悼記事を続けて書かれていますので、リンクを貼っておきます。
追悼フー・ツォン(1)
追悼フー・ツォン(2)
追悼フー・ツォン(3)

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10月21日の夜から東京二泊三日、
ヴォロディンのリサイタルと芸術祭十月大歌舞伎を楽しんだ。
広島に居ると休日がないので、強引に離れて休息して来たのだが、
休憩や幕間のたびにスマホに着信履歴が入っているのには参った。
2日目のホテルでの朝も、広島からの電話で呼ばれて起きたorz

************

アレクセイ・ヴォロディン@紀尾井ホール 10月21日(月)19:00

ヴォロディンを聴いたのは今回が初めてだった。
プログラムとしては音数の多いロシアもの、という趣向で
私好みの重厚な演奏になるかなと期待したのだが、
実際に聴いてみると、濃かったりクドかったりするところは
私にとっては、ほぼ、なかった。
むしろ、テクニックがあり余っているので軽やかさがあり、
ポジティヴに言うなら「爽快極まる」演奏だったし、
ネガティヴに言うなら「弾け過ぎて困る」感じも、あった(汗)。

前半の、メトネル『おとぎ話集から』には、今にして思えば、
ほかの曲目よりもずっとストレートにヴォロディンの熱さを感じた。
聴く側の印象だけだが、ご本人がかなりの熱意をもって
これらの曲を選び、演奏している、という手応えがあった。
それに対して後半の最初の、
プレトニョフ編曲版チャイコフスキー『眠れる森の美女』では
猛烈に音数が多いにも関わらず、聴く側の私はラクになってしまって、
こんな洪水のような音を安楽に聴ける感覚は、いつかどこかで、
……と記憶の網をたぐり寄せて、ついに思い出したのだ、
ニコライ・トカレフ@2005年のことを!!
私は大変若いときのトカレフしか聴いておらず、
今の彼がどういう演奏家になっているか追跡していないのだが、
ヴォロディンはもっと若い頃、当時のトカレフのようだったのでは?
と、途中から私はついつい妄想してしまった。

それは、プログラム最後のバラキレフ『イスラメイ』を聴いて
ほぼ確信に変わった。
この超難曲が、聴く側としてシンドくも何ともなく、
それこそ、あっという間に終わったのである(^_^;。
まさに、超快速イスラメイ!
もしかして私はポゴ氏の、あまりにも濃く重く疲弊させられる演奏に
はや三十年以上も支配され飼い慣らされてきたせいで、
聴き手としての感覚が、完全に狂ってしまっているのだろうか(汗)。

テクニックに限りなく余裕のあるヴォロディンは
この程度のプログラムを弾いても疲れ果てるなどということはなく、
機敏なステージマナーで、颯爽と登場しては観客の拍手に応え、
アンコールに四度も応じてくれた。
スクリャービン『練習曲 作品2-1』、
ラフマニノフ『前奏曲 作品32-12』、
ショパンのエチュード作品10-4、
そして、ショパンの夜想曲作品15-2。

私はショパンの持つ昏さが元来好きではなく、
小規模な前奏曲やマズルカにさえ、底なし沼が仕込まれているようで、
聴いていると鬱陶しくなることが実は結構多いのだが、
この日のノクターンは、思いがけず本当に素晴らしかった。
ショパンの美に、純粋に、随分と久しぶりに聞き惚れた瞬間だった。
何がどう、それほどに良かったのか、
……もう少し聴き取りたかったが、例によってテクニックが冴え過ぎて、
これまた、十分に触れられぬままに通り過ぎ、
めくるめくように終わってしまったのが、
良い意味で、残念であった(^_^;。
プログラムに掲載されているヴォロディンの言葉の中の、
『悲劇を再創造するという芸術的行為は、真実に迫るプロセスであり、
それは同時に非常に美しいプロセスなのです。
悲劇的な音楽に触れると、魂はその美に魅せられ、
幸福感をも得ることができるのです』
といったあたりを、私は彼のショパンで体験できたのかもしれない、
が、どうももうひとつ定かでない(^_^;。

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12日の夜は、サントリーホールで、
マリア・ジョアン・ピリスのリサイタルを聴いた。
日程的にはかなり厳しかったのだが、
引退前の最後の来日公演ということで、やはり逃したくないと思った。

オール・ベートーヴェンで、本プロが
ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 Op.13 『悲愴』
ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 Op.31-2 『テンペスト』
ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111
アンコールもベートーヴェンで、
『6つのバガテル』 Op.126 より 第5曲 クアジ・アレグレット

私はピリスをきめ細かく追い続けてきたわけではなく、
これまでずっと、実に気ままな聴き手だっただけだが、
私の断片的なイメージの中で彼女は、常に一本筋の通った「強い」弾き手で、
しかもいつもどこか微かに冷徹な感じがあった。
しかし今回、いよいよ引退を目前にした彼女の音楽には、
かつてない、「暖かな柔らかさ」があったと思った。
少なくとも私にとっては、そのように感じられた。

特に32番のソナタは、一歩一歩、神の御座へ向かって登って行く演奏だった。
もともと私がベートーヴェンを破格に愛している理由は、
彼の、「神様は、居るんだ!」という素朴な信仰に心打たれるからなのだが、
ピリスの32番もまさにそういう音楽だった。
決して平坦ではなかったこれまでの人生も、すべて神を知るためにあり、
神の国に迎え入れられるために進む日々こそが、喜びであったのだ、と……。
長いトリルで弾き手の魂は天空高く登り、
聴き手も一瞬、彼女とともに同じ世界を垣間見ることを許され、
見下ろすと、そこにはピリスの描き出した宇宙があった。

アンコールがベートーヴェンの作品126というのも秀逸だった。
ベートーヴェン最晩年の、おそらく最後のピアノ曲で、
彼の信仰の行き着いたところにあった一曲だ。
もしかするとこのとき、彼の心は既に神の国にあったのかもしれない。
ピリスは最後にそれを、何らの衒いもなく気負いも無く、
このうえなく清らかに弾いてリサイタルを閉じた。
ピリスのたどり着いた境地もまた、ここにあった、ということだろう。

ピアニストは、どのようにしてその演奏活動に幕を下ろすべきか、
そして最後に、何を弾いて自分の聴衆に別れを告げるのか、
マリア・ジョアン・ピリスの最後の来日公演は、
そうした問いへの、ひとつの明確な答えとなったと思う。

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御無沙汰お墓参り

主任とマネジャーの両方がエリア会議だとかで留守だったため、
きょうは会社でのいつものミーティングが中止された。
それゆえ、パートの私は3時台から予期せずフリーになった。
やった!!
ミーティング分の時給は入らないけど、2時間の自由時間が手に入った!!

……ということで、午後、久しぶりに舅姑の墓に行って来た。
2月は全く墓参りができず、ずっと気になっていたのだ。
墓の花は、お正月用だった五葉松がそのままで、恥ずかしい有様だった。
午後の墓所は人影がなく、しかも今日の広島は風が冷たくて、
私は掃除もそこそこに、花を取り替えお灯明とお線香を上げ、
なむなむと拝んで帰って来た。
お彼岸にまた来ます。できれば。できる限り(汗)。


闇鍋会に向けて

なんだかんだで毎年参加している、4月下旬のピアノの発表会「闇鍋会」、
正式名称はSound Bouquetなのだが、今年もそれに出ることにしている。
演奏、という次元では人様にお聞かせできるような状態ではないのだが、
「ワタクシこんな感じのことを細々やってまして、でも結構楽しいですよ?」
という、生活発表みたいなものを弾くんだと割り切っている(^_^;。
具体的には、ツェルニー40番から「第15番」「第16番」「第19番」。
エチュードである上、これらは現在の私には手一杯のレベルなので、
本番でミスなく弾ききることは、おそらくできないだろうが、
あと一ヶ月少々で、可能な限り精度を上げたいとは思っている。

ときに、我が家のピアノは、先月の終わりに、
かつてなくいろいろ注文をつけて2年ぶりの調律して貰い、
かなりの線で私の希望は叶えられたと感じているのだが、
なんと興味深いことに、その音色が、
大昔に習っていた先生宅のピアノの音とそっくりになった。
言葉で表すのは不毛だと思うが、強いて言うなら「枯れた明るさ」のある音だ。
今の私のピアノは、あの頃の先生のピアノと同じくらいの年齢なのだろうか。
弾くと先生宅の縁側や本棚の光景が蘇り、タイムスリップした気分になる。
音が引き出す記憶というのは面白いものだなと、このところ体感している。

そういえば、あれは割と暑い季節の出来事だったと思うのだが、
小学校低学年だった私が、自分のレッスンの順番を待っていたとき、
私の前で、高学年のお姉さんがツェルニーを弾いていて、先生から
「あなたABCラジリテも済んだのよ?どうして未だにこんなのが出来ないの?」
と、叱られていたことがあった(爆)。
そのときのお姉さんの演奏がどのようなものだったかは完全に忘れたが、
『先生きょうは特別ご機嫌悪そう、私も叱られそう……(T_T)』
と8歳の私がビビったことは、五十過ぎた今でも覚えている(逃)。

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