転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



姑は絶好調だ。
今朝は、なぜか久しぶりに、私を《よしこさん》と呼んでくれた。
「よしこさん。ヤナガワさんに電話したんじゃが、誰も出てんないんよ。
悪いんじゃが、よしこさん、電話かけてくれん?」

ヤナガワさんとは誰なのか、私にはわからない。
また、姑はベッドからひとりでは降りられないから
電話をかけたというのは飽くまで姑の頭の中での出来ごとである。
何より、姑がかけてみて全く応答がなかったのなら
つまり先方は不在なのであり
私がかけても結果は同じことだと思うのだか。

でも、今の姑には理屈は要らない。私は言った。
「わかりました。じゃ、電話してみますね」
姑はほほ笑んだ。
「ありがとね、ヤナガワさん!」

私かい!!

しばらくして姑の部屋に行ってみたら、
姑はベッドの手すりを握って、
「もしもし、ほいでね、そうなんよ。
ほいじゃ、よろしくお願いします。はい、はい」
とお電話の真っ最中だった。
無事、電話は通じたようだった。よかったでした。


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昼に、舅宅に来た。
家じゅうの窓を開けて風を入れ、姑のベッドを用意し、
それから、全部の部屋に掃除機をかけ、庭の草を抜いた。
じーちゃんがいたら、きっとそうしただろうと思ったからであり、
《掃除》が、結局のところ一番の舅孝行とゆーか、供養ではないかと考えたからだ。
まったく、あの世に行ったあと嫁にこんなこと思われるなんて、どうよ。

…と内心で苦笑しつつ、掃除を終えた頃。

雨が降ってきた(爆)。

私がこんなに気合い入れて舅宅を磨いたのは久々だからな。

さて、夕方、雨が小止みになり、
姑を特養まで迎えに行った。

「ま~、あんた。また来てねえ♪」
と、姑は意味不明ながら上機嫌だった。


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多忙につき更新困難~~。
明日から佐伯区の舅宅で、姑を迎えて過ごします。

可能なら携帯から更新します。

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荷解きがかなり終わったのだが、不思議に出てこないものが
まだ、いくつかある。

例えば、「音楽の友」付録のカレンダー。
前の家で和室の壁に押しピンでとめて使っていたのに、
一体、荷物のどこに入れたのか、未だに出てこない。

「ハノン」の楽譜。
私は変人で、「ハノン」をことのほか愛している。
私の持っている「ハノン」はぼろぼろで、非常に年季が入っている。
にも関わらず、未だ、「ハノン」が見つからない。
「30番」「40番」はおろか「左手のための」に至るまで、
「ツェルニー」なら全部出てきたのに。
なぜ、「ハノン」だけが無いのか、謎。

しかし、今、いちばん困っているのは、
音羽会の会員証が出てこないことだ

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午後、実家の母から携帯にメールが来た。
77歳にしてついに携帯メールを習得した母は偉い。
76歳にしてパソコンでインターネットが出来るようになった父も偉いが、
父は携帯が使えず、母はパソコンが使えないから、
ふたり合わせてひとりぶん、という感じが、しないでもない。

と思いつつ、母のメールを開いてみたら。いきなりだった。

「いたち が でました」

実家は物凄い田舎なので、そりゃ、いたちがいても当然だ。
道でいたちに会うのは全然不思議ではない。
だが今回のメールは、そういう内容ではなかった。
どうやら、我が家の天井裏にいたちが侵入している、
ということのようだった。

それで、電話して詳細を聞いてみたら。
最初に気づいたのは先月のことで、
昼に天井から、ちゅちゅ、ちゅちゅ、と声がしたのだそうだ。
両親は初めそれを、ねずみだと考えた。
だが、しばらく聞いていると、ねずみの気配とは違った。
それは、昔、うちにいた猫が、外でとった獲物を、
持って帰って、いたぶっていたときの物音にそっくりだった。

数時間ほどして、ちゅちゅ、は止んだ。
獲物がオダブツになったらしかった。なんまんだぶ。
それで天井裏が静かになったので、そのときは安心したそうだが
(よく考えたら、これで安心するなんて神経が太いと思うが)、
それからしばらく経ったある夜のこと、
母が寝ようとしたら、また、ことり、と上から音がして、
今度は、ざっざっざっ、と天井裏を歩いている気配がした。
何かが、寝に帰ってきた、という感じがしたそうだ。

それで、翌朝、業者さんに来て貰って、天井裏にあがって貰った。
天井の板をずらせば、室内から天井裏にあがれる箇所があるので、
業者さんはそこを開けて、ハシゴをかけ、懐中電灯を持って、
ゆっくりと上がって行った。ら。

「あ」

と言って業者さんがハシゴの上から母を振り返った。
業「今、ご対面しました(^_^;」
母「え。何がいました?野良猫ですか?」
業「あれは、いたちですなあ」

それは、茶色い毛並みの、中くらいの、いたちで、
「とても可愛い顔をしてましたよ(*^_^*)」
と業者さんは顔をほころばせていたそうだ。

いたちは結局、この日、自分のねどこに人間が侵入したので
(本来は逆だ。人間の家に自分が侵入しとるわけだが)
とてもびっくりして、一目散に逃げたらしい。
業者さんはさすがにそれを追うことは出来ず、
母も、一瞬のことで、いたちがどの方向に走ってどこから出た、
ということを突き止めることはできなかったそうなのだが、
業者さんが天井裏に上がって、あちこち見て回っても、
もう、どこにもいたちは居なかったそうだ。

で、とりあえず、怪しいと思われる穴や隙間に金網を張り、
いたちが再侵入しないようにして貰った、と母は言っていた。
業者さんが言うには、よその家では以前、
家の基礎のヨコから、いたちが穴を掘って、外壁と内壁の間を
するすると登って、天井裏に住み着いていた、
という事例があったそうだ。

「いや~、驚きましたわ、いたちが出ましてん」
と関西弁の母が近所の人と喋っていたら、
「ええ、ええ。お宅の水路の横の道を、いたちが歩いて行くの、
なんべんも、見たことありますよ」
と近所の奥さんはこともなげに答えたということだ。

そのいたちは、このへんではちょっと知られた存在だったらしい。

さて、今夜は雨だ。
いたちは、暖かく乾いた寝床を求めてきっと来るだろう。
それで天井裏に入れないなら、金網は功を奏した、ということになる。
いたちは、さぞ、ガックリ来るだろうけど(^_^;。

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娘の話。

娘「給食でね、『豚のアーモンド炒め』って料理が出たの」
私「ふぅん」
娘「それがね、ちょっと情報が入ってね」
夫「どっから」
娘「いや、ちょっとね、情報が耳に入ってね、
 魚だっていうんだよ」
私「・・・・・(^_^;?」
夫「魚も、オカズで出たの?」
娘「いや、そのレバーがね、食べたら、やっぱり魚の味がした」

豚とアーモンドはどこへ行った(--#)。
レバーって、豚レバー???
悪いけど、キミの話はかなり難解だぞ。
結局、どんな料理だったのか、全然、イメージできないし、
どっから「情報」が入ったかも、謎。
強いて言えば、献立名を勘違いしたうえに、
幻聴があったみたいに聞こえるが・・・。

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昨日は、関西に日帰り遠征した。
宝塚大劇場にて宙公演昼の部を観たあと、
大阪松竹座にてNew OSK春のおどり》千秋楽観劇、
という歌劇ハシゴの一日だった。


1.道頓堀を走った話

宝塚大劇場は迷いようもないいつもの場所だったが、
大阪松竹座のほうはあまりにも久しぶりだった。
転勤で神戸にいた頃には何度か行った筈なのだが、
その後、宙組がベルサイユのばら2001を公演していたとき、
たかこ(和央ようか)さんの楽屋入りだけ見てから、
音羽屋(尾上菊五郎)さんを見るために松竹座に行った、
という記憶があるので、多分、あれが最後だったと思う。

昨日の私には、だから、いい加減な土地勘しかなかった。
地下鉄御堂筋線に乗って「なんば」で降りたとき、
私は、頭では「松竹座、松竹座」と思っていたのだが、なぜか、
自分の感覚の中でそれが、新歌舞伎座の立地に変換されていた。
なので、目指す劇場が見えてきたとき、正面に、
川中美幸特別公演』のタレ幕が下がっているのを発見し、
ギョーテンしてしまった。
えーーー、これって松竹座じゃなかったっけ!?

と、ここで私はハっと気づいた。
そや!かに道楽、かに道楽のほうやった!

私は文字通り踵を返して、それまでと正反対の方向に走った。
道頓堀のイメージは頭にあったのだが、
それは、私の中では、中座(なかざ)である、として、
記憶の隅に押しやられていたのだ。もう大混乱だった。


2.NewOSKを楽しんだ話

という次第で、やっと松竹座にスベり込んだときには私は汗だくだった。
ったく、血相変えて御堂筋から道頓堀へと走ってしまった。
おのぼりさん丸出しだ。

間なしに開演した舞台は、まずは華やかな日本物ショー。
源九郎義経を主人公とした、芝居仕立てのショーで、
「京の五条の橋の上」はあるし、「ひよどり越え」はあるし、
「狐忠信」も出てくるしで、義経のエピソードてんこ盛りだった。
さすがに「勧進帳」は無かったし、ジンギスカンにもならなかったけど。

主演の大貴誠(だいき・まこと)さんの美しいことと言ったら!
洗練された高い技術のある男役さんで、同時に大変に若々しい芸風で、
「牛若丸」というのは、実にぴったりだなと思った。
桜花昇(おうか・のぼる)さん、高世真央(たかせ・まお)さんと、
トップ3にいずれ劣らぬ綺麗な男役さんが揃っているので、
シンプルなステージングながらとても華やかだったと思う。
それに加えて、清盛役をしていた桐生麻耶(きりゅう・あさや)さんが
これまたかなり私好みの男役さんだったので、
とても楽しく気分良く観劇させて頂きました(^^ゞ。

後半は、『ハッピー・ゲーム』という洋物ショー。
「人生は素晴らしいゲーム!」とう副題がついているのだが、
前半の義経同様、こっちの作者も横澤英雄先生で、
な~んか、大昔、宝塚の花組で、横澤先生のこんなショーを観たような。
そう、あれは89年のお正月公演のショー『ザ・ゲーム』・・・。

しかし、ここでも前述のトップ3の美しい男役さんたちと、
それに私の目を惹いた清盛様とが、縦横無尽に歌い踊り
(ヅカファンには殴られそうだが、単に技術的な面で言うと、
総体にOSKのほうが巧いんでないかい?と私は思った・逃!!!!)、
それに存在感あふれる個性的な女役さんたちが次々に登場し、
なんとも楽しい、わくわくさせられるショーだった。


3. 爆竹男

が、公演内容は、良かったのだが。
きのうは、客席が凄かった。
まず、後ろに、とんでもない「爆竹拍手」の男性客がいたのだ。
爆竹拍手とは、宝塚でもよくあるが、スターが登場したときに、
カンカンカン!と大音量で拍手する、独特の応援のことだ。
昔、宝塚のファンクラブのひとたちは、朝っぱらから集合して、
これを武庫川のほとりや、日比谷公園などで、
手にニベヤを塗って、一生懸命練習していたものだったが、
とにかく物凄く響く、特別な拍手なのだ。
経験あるいは稽古によって習得する技術なので、
これをやる人は一見さんではない。

が、同時に、こうした人たちは、
歌舞伎の大向こうさんのようなプロでもないので、
リピート観劇するほど熱心なファンであり、つまり素人なのだ。
大向こうさんは効果を知った上で「○○屋!」をやる玄人だが、
爆竹拍手の人は、多くの場合、極めて自己陶酔的であり、加減を知らない。
昨日の彼は、私の斜め後ろ付近の席に、前のめりで座り、

ぱんぱんぱんぱん!!

と、空気を振動させるほどの
物凄い拍手を十数秒に一度の割合で頻繁に行っており、
その音があまりにもうるさく、私はいささか困ってしまった。
私の隣の若い女性など、途中から拍手側の耳を片手で覆って
かなりつらそうに観劇していらした。


4.自称・情報通

我々がこの爆竹拍手から解放されるのは、休憩時間だけだった。
隣の女性は席を立ってどこかに行ってしまい、
私は爆竹拍手でヤられた耳を癒そうと、グッタリ座席にかけていた。
すると、今度はどこかから、「宝塚が」「和央ようかが」と
えらく、私にとって耳慣れた用語が聞こえてくるではないか!

「今、宝塚でやってる宙組公演な、和央ようかのサヨナラ公演てな、
もともとは、芝居とショーの二本立てやってん
それがな、和央ようかが怪我して、踊られへんから、
急遽、土壇場で変更して、芝居の一本ものになってん

え~、なんだそれ!!!

私は思わず、喋っている人の顔を振り返って見てしまった。
ファンの私でさえ、そんな話は初耳なんですけど(^_^;?

和央ようか退団公演が、ミュージカル『Never Say Goodbye』である、
というのは、去年の10月25日からわかっていたことだけど、
それ以前に、これが退団公演だと公表されていない段階、
8月22日の、2006年上半期公演ラインナップ発表時から、
この公演は一本ものだった。
宙組の3月大劇場は、ブロードウェイのフランク・ワイルドホーンを招いて作曲して貰う、
というのが大きな目玉で、最初から併演のショー無しの二幕構成となっていたのだ。
また、そのあと12月2日に制作発表が行われ、主題歌が披露された折には、
もう皆が、この公演は芝居一本であるという認識で動いていた。

そしてたかこさんが、転落事故で負傷したのが、
こうした一連の記者会見や発表がすべて終わってからで、
忘れもしない、昨年の12月21日の夜公演のことだった。

これらからわかるように、この作品は、和央ようかの骨盤骨折以前に、
初めから、「芝居一本もの」として企画・制作されたのだ。
少なくとも、世の中に公表された時点では最初からそうだった。

だが勿論、私はそんなことを客席で言い出したりはしなかった。
前出のおばちゃんは、続けて言った。
「せやからな、見たらわかるやろ、大作なんちゅう内容じゃないやん。
怪我のせいで、無理矢理、のばして一本にしたからや」

いや、だから全然、違うんだって。
単に、アナタにとって作品としてつまらなかっただけのことですよ(爆)。

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昨日は、十数年ぶりにOSKを観た。
昔、あやめ池遊園地の円形大劇場でOSKを観たことがあって、
「遊園地と歌劇を合体させるというのは関西の発想なのかな~」
と、宝塚との類似性に感心したことがあった。

私は関西生まれだが兵庫県人なので、宝塚歌劇は身近だったが、
OSKのほうは、近鉄沿線でちょっと系統が違った。
休日に「宝塚行こかー」「阪神パークで遊ぼかー」はアリだったが
「あやめ池まで出かけよかー」とは、うちの家族は言わなかった
(余談だが、私は兵庫県人としての地元意識があるので、
宝塚を「大阪」と呼ぶ人たちの杜撰さは、どうも好きになれない・爆)。

そういうわけで、OSKに関しては、その存在を意識しつつも、
何となく横目で見ながら、実体を知るチャンスがなかったのだが、
ある程度大人になって、かなり本気で(^_^;宝塚にハマったとき、
友人と私は、「これは是非、OSKのほうも観にいかねば」と、
急に思い立って、あやめ池を訪ねたのだ。
旧宝塚大劇場がまだあった頃だから、92年以前だったと思う。

そういえばこのとき、出かける前に、
チケットの買い方や、公演時間など問い合わせようと、
劇団事務所に電話をしたら、男性が出て、
「はい。OSK、ニッポン、歌劇団ですぅ」
と、この1行で関西人とハッキリわかるイントネーションで、
応答して来たのが、私にはオオウケだったものだ(^_^;。

さて、ヅカ仲間から、OSKのほうがアットホームだとは聞いていたが、
行ってみたら、感じとしては宝塚の地方公演版くらいの編成で
(あやめ池と近鉄劇場の二手に別れて公演していたせいもあったが)
最初は、何もかも小規模なのかな?と早合点しそうになった。
が、観てみると、同じ女性だけの歌劇団でも、これは宝塚とは違う、
と私は感じた。

専門家ではないし、うまく言えないのだが、振り付けひとつ見ても、
OSKと宝塚ではコンセプトが違うと私は思った。
男役の概念も、OSKと宝塚では多分、別の要素がかなりあると思われた。
それに伴って、娘役(女役)のあり方も、OSKと宝塚では違った。
OSKはベースに「生身の女性」というのがはっきりとあるので、
男役は「女性が演じる男性」、女役は「女性が演じる女性」であり、
両者はともに魅力的な役者さんによって演じられるという点で対等だった。
客席に男性客が結構多かったのも、生き生きとした女性が演じる舞台、
という面がアピールしていたからではなかっただろうか。

これに対して宝塚は、一分の隙もなく飾り立てられた、
徹底して虚構の世界の男女が、
壮麗で巨大なガラスケースの中で公演しているようなものだ、
というのが私のとらえ方だった(今でも、だいたい、そう思っている)。
そこに描かれるのは、現実には存在しないからこそ価値のある、
女性の究極の夢の姿だ。
だからほぼすべての物語の主軸は、女性の憧れとなる「男役」が
「私もあんなふうに愛されたい」という女性達の夢を叶えるものであり、
「娘役」は、観客にかわってその愛を受け取るフィルターだ。
観客は舞台上で男役に愛される娘役に自分を内心で投影し、
決して当事者にはならない気楽さをブレンドしつつ、見とれているのだ。

誤解を恐れずにいえば、宝塚は、女性にとって都合の良い夢を
最も甘美なかたちで舞台にして表現したものだと思うのだ。
これは単に劇場の規模の問題ではなかった。
宝塚はバウだろうと地方公演だろうと、徹頭徹尾、虚構だったのだから。

そうした虚構とは別次元で、躍動する女性たちが観客を魅了するOSKは、
初観劇の私にとって大変、印象的だった。
だが、結局、私はこのあと、宝塚の贔屓が退団したことにより、
観劇の熱意そのものが、やや沈静してしまい、
OSKに関しても、数回、見にいったけれども終わってしまった。
だからOSKが劇団としては一旦、解散し、しかし有志によって地道に支えられ、
NewOSKとして再生するまでの年月を、私はリアルタイムでは共有しなかった。

せっかくあやめ池時代に知ったOSKだったのに、勿体ないことをしたかな、
とも思うが、しかし、もし当時OSKにも宝塚と同時にハマっていたら、
OSKは宝塚よりさらにファンとの距離が近い世界であるだけに、
私はもう、楽しすぎて抜け出せず、大変なことになっていたかもしれない。
たぶん、これで良かったのだ(^_^;。

ちなみに、私のOSK初観劇時のトップスターは、東雲あきらさんだった。
当時、舞台歴から言うとベテランの域に達していらした方で、
舞台姿に余裕があり、華やかな存在感があって、
さすがに主役を張る人はひと味違うなと思ったものだった。

で、完全に余談なのだが、90年代半ばになってから、
ある日、この東雲あきらさんの退団が発表された。
その話題を、テレビのワイドショーか何かでやっていて、主人が、
東雲あきら、やめるんだってさ~」
と私に教えてくれた。だが私は当時、育児で寝ていなかった。
思いっきり寝不足のボケた頭で、私は、東雲あきらさんを、
なぜか、小林旭さんだと思い、

「そういえば、芸能生活40周年って言ってたよねー」

と、おまぬーな返事をしてしまった。
主人は私の言うことなど聞いていなかったのでスルーだったが、
私はあとで自分で気が付いて、涙をおとしそーになった(T.T)。

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関西日帰り遠征。
宝塚大劇場にて宙公演昼の部を観たあと、
大阪松竹座にてNew OSK《春のおどり》千秋楽観劇。

難波で降りて、なぜかすっかり勘違いして、
新歌舞伎座に行ってしまい、《川中美幸公演》と書いてあってのけ反った事件とか
やっとたどり着いた松竹座の客席では宝塚の話題が出ていて耳ダンボになった件、
また、うしろの客が恐るべきカンカン拍手で
私の隣りのお姉さんが耳を押さえながら観劇していたこと等々、
詳細は、またのちほど。


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著変  


我々が民間の、新築マンションの住人となって半月経った。
まだ「片づいた」とは言えないが、ダンボールは結構減った。

私は未だに、新しい家には慣れていなくて、
ともすれば官舎が懐かしいような、できたら帰りたいような、
変な気分になることがあるのだが、
それでも、確実に「幸せになった!」と言えることが、一つある。

それは、テレビの騒音からついに解放された、ということだ(^_^;。

官舎の隣に騒音おばさんがいた、などという話ではない。
私は、同じ家の中で、主人や娘の観ているテレビの音が、
これまでの何年もの間、ずっと、耐え難かったのだ。
ただ、イヤな顔を見せたら、せっかくの団らんなのに、
雰囲気が悪くなると思って、我慢していただけだ。
私がどれほどテレビを嫌っているかは、
この日記を以前から読んで下さっている方ならば、すでに、
うんざりするほど愚痴を聞かされ、ご承知のことと思う。

私は、よくよく観たい番組があるときだけ、
テレビ画面に正対して細大漏らさず視聴し、終わると消す。
それが正しいとか立派だとか思っているわけでは毛頭無く、
単に、私は人並み外れて気むずかしく狭量な人間であるために、
こういうピリピリした見方しか出来ないのだ。
もっとマシなことでデリケートな感性を発揮したいものだったが。

和室同志で隣り合っていた官舎と違って、
今時のマンションは、廊下で仕切られた洋室の集まりだ。
各部屋には壁とドアがあって完全な「個室」となっている。
ここに来て、テレビが主人の部屋に行ってくれたので、
とうとう、私に聞こえる範囲から、テレビが消えた。
あの、けたたましい騒音を出すだけの箱から、
私は、苦節十数年ののち、やっと解放されたのだ(感涙)。

私は、この半月を、静寂の中で過ごした。
一日に一分もテレビを観ない日がほとんどだ。
そうしたら。血圧が顕著に下がった。特に拡張期血圧が。
内科に行って計って貰ってもそうだったのだから間違いない。
このことから、私は、健康を害するほどテレビが嫌いだった、
ということが、ほぼ、わかった。
ここに来たのは、考えようによっては命拾いかもしれないと思った。

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