転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



何もしないままの年越しです。

今年もお世話になりました。
こちらを読んで下さった方々に
心よりお礼を申し上げます。
また来年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。

良いお年を。

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30日にならないと年賀状書きが始まらないのは
やっぱり今年も同じだった(昨年の惨状は、こちら)。
主人の仕事納めを考えると、どうしても
この時期になってしまうのだ。

娘の趣味で買った2008年用年賀状作成ソフトを
最も活用したのは、娘本人ではなく主人だった。
主人はあれこれと違うデザインを選んで、
裏面を次々とプリントアウトして楽しんだ。
今年しか使えないソフトなんだから、全部印刷したっていい、
というのが、ケチな主人の考え方なのだった。
それから、「筆まめ」で以前から作ってある住所録を使い、
ノンストップでオモテ書きの印刷をした。

「う、うぅむ。ちょっと失敗かも(^_^;」
と主人は、やがて出来上がった年賀状を見て苦笑した。
次々と印刷した裏面デザインのうち、
一歩誤ると「とっとこハム太郎」ではないか、
という超キュートでウルウル瞳のチュー子の絵柄を
職場の上司宛にしてしまっていたのだった(爆)。

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マイペースで遠くへ行こう
自転車  バンドマン忌野清志郎さん
(朝日新聞)

『秋元康 ナビゲート 夢中力』に清志郎が出ていた。
人間が本来持っている生きる力を追求したいと思ったのがきっかけで、
自力で遠くへ出かける自転車を選んだ、という記事も良いのだけど、
何より、『バンドマン』という彼の肩書きが最高だと思った。
さすが秋元康氏、『分かって』いらっしゃる、と嬉しかった。

『バンドマン』、という言葉は清志郎が好んで使うものだ。
RCサクセションが80年4月5日久保講堂で行ったライブのCD
(『Rhapsody』)のタイトル曲にもなっている、
『ラプソディ』のサビに部分に、この言葉が繰り返し出て来る。
これが彼の、ひとつの原点だと、ファンとしての私は思っている。

 ♪バンドマン 歌ってよ
 ♪バンドマン 今夜も また 
 ♪ふたりのための ラプソディ

いつまでもひとりのバンドマンであり続ける清志郎は、
『忌野清志郎ほど、若いミュージシャンたちに尊敬されているベテランもいないだろう』
などと言われることなど、本当は似合わないと私は思う。
でも、この人が築いたものに、多くの賛同者や崇拝者がいて、
彼に続く『バンドマン』たらんと志す若い人が
過去にも現在にも、少なくないのだって事実だ。
ボガンボスの「どんと」や、
ヒルビリーバップスの宮城宗典みたいに、
RCサクセションに憧れ、そして先に逝ってしまった人だっていた。

清志郎の完全復活祭が2月に東京であるが、
私は残念ながらそれには行けないことになってしまった。
でも、その追加公演が、3月に京都でも行われることになったので、
退院できたらそれを目標に頑張ろうと、今、思っている。
清志郎の経てきたことに較べたら、ごくごく平凡なものだが、
私なりに、「人間が本来持っている気力や体力」を思い出し、
自分流の「完全復活」を目指したい。
こうやっていつも目の前に清志郎がいてくれることに
自分勝手にだが、遠くから、そして心から、感謝している。

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一昨日の術前検査のあと、看護師さんから
入院手続きや所持品に関する書類一式を手渡され、
「入院生活や治療に関して、不安なことはいつでも御相談下さいね」
と優しく言って頂いた。
それで、帰ってそれらに目を通し、自分なりに考えてみたのだが。

まず、入院生活に関して私が不安に思っているのは、
「寒い」のではあるまいか、ということだ。
術後すぐに着るものとして、「前あきネグリジェまたは浴衣」
と持ち物リストに書いてあるのだが、
私は未だかつて、そんな寒い格好で寝たことがない。
前が全開で、ズボンもナシだなんて、
パーパーに風が通って、私は冷えにより死ぬのではないだろうか。
私は、盛夏だって、寝るには長袖Tシャツ長ズボン必携だぞ(T.T)。
院内の室温が高いところで維持されていることを祈るばかりだ。

また、「寒い」に関連して、私は病院での、
「シャワー」なるものが不安でならない。
私はもともと極端な冷え性なので、真夏でも、
入浴時にシャワーだけというのは寒くて耐えられない。
シャワーなんて、済んだらゾォっと悪寒がして苦痛なだけだ。
入るなら浴槽にちゃんと浸かって体を温めないとダメなのだ。
それが、ネットで手術体験談を読んだ範囲では、
入院中、剃毛したらシャワー、手術前最後に念入りにシャワー、
術後回復して来たからシャワー許可、
等々と、頻繁にシャワーの文字が出て来るのだ。
浴槽に入れるのは術後数週間から1ヵ月後で、それはまあ、
感染を避けるためだと私もよくよく理解はしているのだが、
1月などという真冬にシャワーを浴びるなんて、考えただけで怖い。
実は産後にも、私は言われるまま、寒さに耐えてシャワーを浴びたら、
てきめんに風邪をひいて発熱したのだ。
なんとか頻回なシャワーを避ける方法を考えなければ。

手術に関しては、傷跡はどの程度だろうかとか、
術後は女でなくなるのでは等々の悩みは、私には一切ない。
というか、もう今までの出血歴がヒド過ぎて、
その他のセンチメンタルな問題は全部、吹っ飛んだのだ。
手術や麻酔で死亡することや、重い後遺症が残ることは避けたいが、
そうでなければ、もう、私は多くは望んでいない。
出血が止まり、今後、再出血の恐怖から解放されるなら、万々歳だ。

強いて手術に関しての不安といえば、やはり全身麻酔だと思う。
私は虚弱なくせに、今まで手術など受けたことがないので、
全麻をしたら覚醒できないような気がして、どうも怖い。
それと、無事終わったとして、醒め際に何か口走るというのも不安だ。
泉鏡花の『外科室』だったと思うが、
肺結核の美貌の華族の夫人が、執刀医の外科医を密かに愛していて、
そのことを、麻酔がかかった後うわごとで言ってしまうのを恐れて、
麻酔なしで手術して欲しいと懇願する場面があった。
私は、自分の主治医のことは、医師としてはともかく、
私人としては積極的に友達になりたいとすら思っていないので、
「・・・・・・先生が好きです・・・」
というのは、あり得ないと自信を持って言えるが、
「このアタシを誰だと思っとんじゃ、ゴルァ!」
のたぐいは、ありそうな気がしている。

ちなみに、今でも忘れられないのだが、
私の、かなり近しい人物(敢えて名を秘す)が、
かつて手術のあと、麻酔から覚める際に酩酊状態で言ったのは、
「おいおい、キン○マ、握るなよ」
だった(爆爆爆)。
「握っとりゃ、せんわいね!」
と、笑顔で明瞭に言い返した看護師さんは、さすがだった。

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娘は料理人
冬休みになった娘が、なんだかんだと料理してくれるので、
私はこのうえなく有り難くサボリを決め込んでいる。
今夜は、娘のお手製のスパゲティ・カルボナーラだった。
娘は料理本を見て、要るものをメモに書き出し、
午後から買い物に行って、楽しくソースを手作りしてくれた。
娘と私はいろいろな意味で全く似ていなくて、
例えば家事ひとつにしても、私は料理が嫌いだが娘は大好きで、
私は掃除なら苦でないが、娘は命じられないと掃除機など持たない。
その他、私は音楽が好きだが娘は全く興味を持たず、
私は絵画鑑賞には無知だが娘は美術部に入るほど絵が好きで、
私はテレビが嫌いだが娘は一日中でも観ていられる。
・・・と、つまりは興味の対象が全然一致してないのだが、
まあ補い合えるので良かろう、ということで(^_^;。


フィギュアスケート全日本女子SP
テレビで全日本フィギュアスケート選手権の女子SPを観た。
エッジエラーの有無やステップの難易度などは、相変わらず、
私程度の鑑賞眼では観ていてもほとんど理解できなかったが、
これだけ大勢の選手が演技するのを次々と観ていると、
なるほど国際大会に出るほどの選手は巧い、
ということが、おぼろげながら感じられるようになった。
同じジャンプやスパイラルでも、その洗練のされ方が違うというか、
技の磨かれ方が段違いだということが、素人目にもわかった。

ピアノのコンクールを聴いても、オリンピックを観てもわかることだが、
こういう専門的な修練に励み、トップレベルで競う人たちというのは、
誰だって、その分野に自分の持てるもののほとんどすべてを捧げて、
普通の人が無為に暮らしている間にも、超人的な努力をしているものだ。
気の向いたときに、無理のない練習をちょっとした程度で、
世界的な大会に出て思い通りの成績を取る、などという人はいない。
そんな、極限の鍛錬に耐えた人たちばかりで争っているのに、
素人目にさえ歴然とした差が見えてしまう状態なのだから、
才能とは実に怖いものだと思った。

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年明けの手術に備えて、今朝から術前検査が入っていた。
これで問題がないことを確認しないと手術が出来ないのだ。

前回受診のとき貰った予約票に検査の順番が書かれていて、
最初は採血となっていた。
私がかかっているのは総合病院で、全科の採血が、すべて、
一階中央処置室で行われるので、朝から大変な人数だった。
ちなみに私の本日の受付番号は、煩悩の「108」番。
私だって検査部が開く前から並んだのに、既に100人以上の人が、
早朝から来て順番取りをしていたわけだ。

・・・と思ったが、この処置室では大半の人が採血だけなので
意外に早く15分ほどで私の番が来た。
直前のおばあちゃまがスピッツ(試験管)6本分も採られていて、
「うわ~、重いご病気なのかしら。大変そう」
と思っていたら、私も6本しっかり採られた(爆)。
それから同じ階の放射線科へ行ってレントゲン検査だった。
正面からの胸部一般撮影、これはどうということはなかった。

次が三階生理検査室へ行って、心電図と肺機能検査。
心電図はお馴染みだったので問題なかったが、
肺機能検査は私は全く初めてだった。
肺活量測定のもう少し詳細な内容で、
息を吸う量と吐く量、吐くときの勢いなどを調べられた。
耳鼻科で吸入をするときのパイプみたいなものを、
口もとから息が漏れないようにしっかりくわえて、
機械から流れてくる酸素を吸ったり吐いたりすると、
その呼吸量が折れ線グラフでモニター画面に出て来る仕組みだ。

で、変なことだけ成績が良いのが私の常であって、
実は、自慢じゃないが私は昔から、肺活量には自信があるのだった。
果たして、きょうの検査でも、私の呼吸量は、
基準値のほぼ120パーセントの値だと言われた。
基準値の80パーセントあれば手術には充分だそうで、
「素晴らしいです~」
と検査技師の女性に褒めて貰った。
更に、吸い込んだ息を一気に吐き出すほうの検査では、
「凄いです。これ一発でOK出る人は少ないです」
と絶賛された。ふふん。

さて、検査結果は今時なのですべてデータ化され、
各診療科のパソコンからオンラインで見られるよう処理される。
私は手ぶらで四階の産婦人科外来に上がっていくだけだった。
採血のほうの結果は、先日来の鉄剤補充の甲斐あって
貧血がほぼ改善したため、手術用の自己血貯血が可能と言われた。
勿論同意した。私はRhマイナスだから輸血になったら大変なのだ。
使うかどうかわからなくても貯めておくに越したことはない。

主治医は、その他血液検査データ、レントゲン、心電図など
パソコン画面に呼び出しては、順番にチェックし、
「いいですね。ここらへん、はっきり映ってるから、いいですね」
「完全右脚ブロック、・・・まあ手術するには問題ないでしょう」
等々と、半分ひとりごとのように言いつつ、肺機能をクリックし、
「うわ~!随分、頑張っちゃったんですね~!凄いですね~!
ワタシこんなの、初めて見たよホンマ!」
と、そこはかとなく失礼な感心の仕方をしていた(--#)。
デブな女が無駄に肺活量だけ多いと思うたやろ今、をい(--#)。

午後から出直して、自己血貯血のために院内の輸血検査部に行った。
体温37.1、血圧126/92で、問題にされるほどではなかったが、
肥満した私の腕から自己血を採るのは、えらいことだった。
普通の点滴より針が太く、刺してみて血管がないとその針は破棄、
という厳しい条件で、先生方を大いに難渋させてしまった。
三回刺し直して、右手のくるぶし付近という変な場所で、
ようやっと皮膚の浅いところにある血管が見つかり、
どうにかこうにか、400ccの自己血貯血が完了した。

よかった(T.T)。

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ときどき覗いている転勤族妻たちの掲示板が、
最近は、「お正月帰省ネタ」で埋め尽くされて来た。
転勤族たちは大抵、出身地でない他県在住だから、
年末年始に、親の住む故郷の家に帰るか・帰らないか、
というのが、毎年、結構な問題となるのだ。
特に、夫婦それぞれの実家が互いに県外同士で離れている、
という場合には、移動時間や費用、体力的負担も含めて、
帰省の予定をどうするかは頭の痛いことだろうと思う。

私にとっては、既に懐かしい思い出となってしまった話だが、
福岡・神戸・今治に住んでいたときは、毎年ほぼ必ず、
お盆とお正月に広島に帰っていて、
その他、連休などには適宜、という感じだった。
年末はだいたい、主人の仕事納めの翌日から舅宅に帰り、
お正月の三が日が終わるまで居た。
ただ、松江にいたときは、冬には途中の峠が大雪だったので、
自家用車を持たない我が家の場合、バスで帰省する勇気はなく、
年末年始の時期の移動は避けて、秋口や春休みに帰っていたものだった。

休みのたびに息子一家がやって来るなんて、
姑にしてみたらどんなに大変だったことだろうか。
「あんに(あの人)は、ほんま、マメじゃけ」
と舅が褒めていた通り、姑は労を惜しまず働く人だったから、
私たちが寝泊まりすると言ったら、それはもう、
何から何まで面倒をみてくれたものだった。

一方、私はというと、出発までの官舎の後始末と、
まだ小さかった娘を連れての旅行とでひとりで勝手にくたびれ、
広島に着いたらいつもドっと安心して、
婚家だというのに(爆)上げ膳据え膳で寝泊まりしていた。
どういう気の利かないヨメだろうかと今にして思うが、
舅姑、それに主人が寛大だった御陰で(涙)、
私は自分の気楽さに気づいていなかった。
それどころか、自分なりには結構忙しいと思っていた(殴)。
お舅さん、すびばせん、私はマメとは正反対の女でしたっっ

だが、まあグータラなヨメのことはともかくとして、
まだ元気だった頃の舅・姑が、
孫に会うのをそれはそれは楽しみにしていてくれたし、
主人は一人息子で、ほかに帰省する兄弟姉妹もなかったから、
お正月に家族で集まると言っても、つまり私たちだけだった。
その意味ではこじんまりしたものだった。

舅宅で5泊程度過ごしたあと、主人は仕事初めまでに勤務地に戻り、
それから、娘と私で、今度は私のほうの実家に顔を出すのが常だった。
舅が自家用車で私の実家まで送ってくれたものだった。
我が家の場合は、主人も私も親の家が広島にあったので、
帰るとなれば両方の家に顔を出せて、その点はラクだった。
もし私のほうの実家が昔のまま神戸にあったら、
広島の舅宅が済んだあと関西まで行かねばならず、
またぞろ旅行になるところだっただろう。

あの当時のことを考えてみて、今、つくづくと思うのは、
私にとっての幸福は、主人も私もどちらも「一人っ子」だったことだ。
主人の家にせよ私の実家にせよ、もし兄夫婦などが同居していて、
私たちの帰省が兄嫁さんの負担になるのだったら、
私は決してあのようにのうのうと里帰りは出来なかったと思う。
私は、気働きができないくせに、異様に気が小さい人間なので、
兄嫁さんの機嫌を損じるようなことを自分がやっていないか、
我々の帰省のせいで兄夫婦と舅姑(両親)の間が気まずくならないか、
そんなことに気を遣い過ぎ、挙げ句に失点・失言を重ねたりして、
きっとグッタリ疲れ、涙が出るほどストレスをためただろうと思う。

ときに、その、転勤妻の掲示板のカキコミの中には、
「正月の支度が面倒だからと言って、姑は私たちに帰省するなと言い、
かわりに、姑本人がこっちの社宅に来たがっている。
掃除も何もしてないのに、姑が来るなんて面倒でしようがない」
という、某お嫁さんの愚痴が出ていて、
似たモノ同士な嫁姑に、私はすっかり感心してしまった。
嫁姑ともに、来られるのは自分が面倒くさいということで、
完全に意見が一致しているのだ。
でも逆を言えば、このお嫁さんもお姑さんも、
自分の「面倒くさがり」を認めつつも、
キッチリもてなさなくてはならないと思っているからこそ、
迎える側になるのが負担なのだ。
ある意味、偉いではないか(^_^;。

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昨日は娘の学校の三者懇談だったので、
半月ぶりに外出した。
ひとえに、学校が近いから出来たことだった。

二学期の成績は、国語と音楽(なぜか)が上がっていたが、
英語と英会話と数学と物理化学と聖書は前回とそれぞれ同じ、
地理と地学と美術と体育と家庭科とが下がっていて、
トータル的には、一学期より落ちた内容になっていた。
依然として補習に呼ばれていないことで娘は上機嫌だったが(--#)。

十月に実施された生活アンケートみたいなものの結果が出ていて、
娘は案の定、A中生徒の平均より家庭学習時間がはるかに短く、
テレビ視聴時間がケタ違いに長いという実態が明らかになっていて、
担任の先生から「漫然と過ごしてはいけません」とご注意があった。
申し訳ありません、保護者の監督不行届でございました。

そろりそろりと歩いたつもりだったが、
帰宅したらやはり出血が増えていて、かなり消耗してしまった。
くたびれたのは懇談内容と成績のせいもあるが(--#)(--#)。

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ライターの森岡葉(もりおか・よう)様がこのたび、
フー・ツォンの激動の前半生から現在に至る足跡を記録した
望郷のマズルカ 激動の中国現代史を生きたピアニスト フー・ツォン
を出版なさいました。おめでとうございます!
私の待ちわびた、日本では初めての、フー・ツォンを主人公とする一冊です。

この本の前に、父親フー・レイが、異国に学ぶ若きフー・ツォンに宛てて
長年にわたり書き送った手紙が、原題『傅雷家書』、日本では
君よ弦外の音を聴け』として榎本泰子氏の訳で出版されており、
フー・ツォンの原点となった家庭や、彼の育った時代、
バックボーンとなった芸術観、などについて知ることが出来ましたが、
これは飽くまで中国在住だった父親の視点による書簡であり、
フー・ツォン本人の発言を収録したものではありませんでした。

今回の森岡様の本には、そうした父親の手紙に応えるかのように、
フー・ツォン側から語られた彼の前半生、両親や弟への思い、
音楽への熱い理想や、若いピアニストへの提言、などが記録されており、
あわせて、彼が生きてきた時代を感じる上でたくさんの共通点のある、
中国の様々なピアニストたちの貴重な証言が収められています。

アリアCD様でも、この『望郷のマズルカ』と、
77年録音のフー・ツォン『ショパン:ノクターン』のCDとを
現在、取り扱っていらっしゃいます
『ノクターン』全曲は、私にとってフー・ツォンとの出会いとなった、
思い出のレコードでした。
復刻されましたことを、心から嬉しく思います。


(フー・ツォンの名を初めてお知りになった方がいらっしゃいましたら
私の、フー・ツォンに関する以下の日記もご覧頂けましたら光栄です。)
傅聰(2004年12月14日)
フー・ツォン(傅聰) 2 (2005年1月14日)

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きょうは映画『茶々』の公開初日だ。
せっかく前売りも買ってあったのに、まさか出歩けなくなるとは
全く考えてもいなかったことで、残念だ。
私が退院して復活するまで、上映が打ち切られないといいが(殴)。

ところで、この冬公開の映画のうち、
私が『茶々』のほかにもうひとつ観たいと思っていたのが、
マリと子犬の物語』だ。
ストーリーが感動的であるうえに、出てくる犬が、もうもうもう可愛すぎる。
これも私が戻って来るまで上映していてくれることを祈るのみだが、
予告編を観た範囲では、私は多分、こんな映画を見たら、
映画館で滂沱と泣くと思った。

私は、悲恋ものなど観てもほぼ絶対に涙は誘われないし、
怪奇映画もスプラッタも、『あらま気色わる~』くらいで観られる。
親子の再会話だって、内心で『瞼の母モノだな』と
ツッコミつつ観ることのほうが多い(マザコンの話だけややヨワい)。
だが、私は、それらとは比べものにならないほど、
「動物の健気な姿」には、簡単にヤられてしまうのだ。

『マリと子犬~』の話は既に知っているので、
私は結末については誤解していない(はずだ)。
死んじゃって可哀相とか、ひとりぼっちの子犬がどうのこうの、
という話でないことはわかっているのだ。
それでもダメだ、あのあまりに可愛らしいワンコたちには、泣ける。
ワンコは、どの子も、みんな良い子だ。
ずる賢い計画もないし、打算もない、人目も気にしない、
ただ「この人!」と信じた飼い主に無心について行くだけなのだ。

……と、ワンコの真摯な姿に涙する私だが、一方で、
この予告を観るたびに、つい、ひとつだけ現実的なことを思ってしまう。
それは、あの愛らしい三匹の子ワンコたちは、
あのまま元気でいたなら、今ではもう、立派な成犬だろうなと。
ころころと愛くるしい時期はほんの数ヶ月、
すぐに子犬はオトナになってしまうものだ。
すると、マリと、その子犬たちを、全員手放さずに飼ったなら、
家では、中型犬とはいえ、立派な柴犬がごろごろと四匹も。
多頭飼いもここまで行くと、散歩ひとつでもアゴが出る。
エラいことだ。

それと、もうひとつ知りたいのだが、
あの三匹の子犬たちの父親わんこって、
どこの、どういう犬だったっけ……。

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