転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



私は概して、平仮名より漢字が好きだ。
その最たるものは、例えば「子供」という表記で、
私は「交ぜ書きが嫌い」という理由も相まって、
これを「子ども」と書くことを意図的に避けている。

また、私は補助動詞も、自分の好みにより漢字で書くことが多い。
例えば、「○○を下さい」と、何かをくれるように言うときと、
「○○をしてください」と、行動についてお願いをするときは
同じ「クダサイ」部分でも働きが異なる。後者が補助動詞だ。
これらに関して、特に公務員の書く公文書においては、
単独の動詞としては「を下さい」と漢字が当てられるが、
補助動詞では「をしてください」と平仮名書きにするのが
明確な決まりになっている。

しかし私は、敢えて、それに従っていない。
自分の趣味により、補助動詞でも漢字で書くことを、
この日記では自分に対して許している。
急いでいるとき等、ワープロソフトの変換に逆らわないこともあるので、
厳密に必ず漢字にしている、というほど強固に一貫したものではないのだが、
吟味できる時間的余裕があるときは、漢字を当てていることが多い。
理由は、平仮名で書くと、音そのものが表記に現れる気がして、
生々しい、というのが私の生理的な感覚だからだ。
私は自分の書いた文章の中で、あまり「音」を「見たくない」。
一般的な感覚が、そのようなものでないことは承知している。
単に私がそう感じるので、平仮名書きにごく僅かな・微かな嫌悪感がある、
というだけのことだ。
日常特によく遭遇するものとしては、
「~をして『下さい』」、「~をして『戴く』」のほか、
「出来て『来る』」「死んで『行く』」なども私個人の趣味で漢字で書いている。

尤も、ビジネス文書や挨拶状、答案など、公式的な意味合いを持つ文章では、
私もきちんと、補助動詞部分は平仮名で書くように努めている。
そのくらいの柔軟性は、一応、保っているつもりだ(^_^;。
日本語には厳格な正書法は無いので、私的な文章をどう彩るかは、
個人の趣味を優先しても良いであろう。
補助動詞を平仮名で書くというルールがなぜ一般的かというと、
その言葉が動詞だったときの本来の意味を既に失っているから、
というのが、文法的な妥当性を背景にした理由なのだが、
私は本来の意味を持っていたときのかたちで書くほうが好みに合うのだ。
すみませんね。

振り返って考えてみると、「音を見たくない」問題に加えて、
私は子供の頃から、「濃い」ページが好きだった。
漢字が多く、行間や字間が広くなくて、隙間無く埋めた感じのする印刷に、
とても美しいものを感じて、そういう本は特別に大切に扱ったものだった。
文庫だったら昔の岩波とか新潮とか。
楽譜でも全音ピアノライブラリーのが特に大好きだった。
内容はともかく(爆)1ページにぎっしり印刷してあるから(笑)。
中二病の頃など、文章を書くときは、可能な限り、
辞書で調べてでも書ける箇所はすべて漢字で書いていた。
形式名詞(「~する事」「~な時」)や接続詞(「但し」「或いは」)、
副詞(「既に」「随分」)、連体詞(「此の」「来たる」)等々も、
私は常に漢字で書くようにしていた。
また、改行したあとの見た目に強いコダワリがあって、
新しい行の半分以上は埋めるように、表現を工夫したりした。
白い部分を可能な限り少なくしたかったのだ。
ひとえに、自分にとってそのほうが美しかったから。
当時の日記帳は凄いよ(汗)。

長ずるに及んで視力がダメになり、今は老眼もあるので、
フォントサイズの小さいものは軒並み無理になってしまったが、
やはり、漢字で隅々まで埋めた感じのレイアウトのが好みではある。
「平仮名」という「一文字が一音」の剥き出しの世界を「漢字」で包み、
同時に、紙や画面の白いところを丁寧に埋める、みたいな感覚だ。
ラノベの類いをあまり読まないのは、内容以前にまず、
全体的に見た目が白っぽくて、「大事に読みたい」気分が湧きにくいからだ(^_^;。
この日記の表記に関しては、そういう「ぎっしりにしたい」ヘキと、
それでも見に来てくださる方々があるのだから自己中が過ぎてもいけない、
という自己抑制との、中間地点で揺らいでいる部分が、しばしばある。

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ガーシー容疑者のパスポート失効 滞在国から退去求められる可能性
(毎日新聞 (2023/4/13 10:13(最終更新 4/13 12:20) )

最近よくガーシー容疑者の件が報道されるので、
その名前の読まれ方がどうにも気になっているのだが、
この「ガーシー」という名前は、多くのテレビ報道では、
「ミーハー」「痛風」のような平板アクセントで発音されている。
私自身は、田代まさしの「マーシー」同様の高低アクセントの名前だと
字面からは思っていたので、音声を聞いたとき意外だった。

それで、このようなことを思うのは私だけかと調べてみたら、
多くの人が既に同様の疑問を持っていたようで、
この話題に関係するページが、いくつもヒットした。
また、御本人宛に直接の質問もあったとのことで、
9か月も前に、ガーシー氏による回答もなされていることがわかった。
私が思っていたほうの読み方(「マーシー」「ジューシー」型)
が正しいと、YouTubeに返答の動画が残っている。
ガーシーの正しい発音はこれ!みんな忘れないように!(YouTube)

きょうのタイトルのように、「○○問題」と連語になったときには、
一律のアクセント移動は、確かに起こる。
「ガーシー問題」として一単語と見なされる場合は、
「問題」の「問」のほうに一番高いアクセントが来るので、
「ガーシー」部分に来る語は、元の語末部分を下げないことになり、
結果的に平板アクセントになる。
しかし固有名詞として「ガーシー」単独で発音するときには、
このような規則は関係がない。
「マーシー」「マーフィー」「カービィ」等々の名前が
共通語において高低アクセントなのだから、
「ガーシー」をこれらと同様に発音しない理由は、
少なくとも、方言VS共通語、の問題ではないだろう。

ちなみに、「○○氏」「○○議員」「○○容疑者」となった場合でも、
固有名詞にはアクセント移動は原則的に起こらない。
例として、「とみた議員」と「やまだ議員」を
(共通語アクセントで)比較すればわかるだろう。
単なる「ガーシー」でも敬称つき「ガーシー氏」でも、
ガーシー部分の発音は同じである筈なのだ。

以前、菅元総理が、「ガースーです」と名乗ったとき、
「ガースー」は平板アクセントであった。
これが先行したので、「ガーシー」もたまたま、なんとなく、
「ガースー」方式で呼ばれるようになってしまったのかもしれない、
と私は仮説を立てているのだが、
それにしても本人やN党の立花党首が高低アクセントで発音し、
アクセント付加については本人による言及さえあったというのに、
ニュースやワイドショーが平板アクセントで押し切るのも、
意味不明に頑ななのではないか(^_^;。

うるせーな、こまけーことはイイんだよ、
と言う人は、ひとさまの名前に対して、ちょっと神経が雑じゃないかね。
方言の範囲(「ひめじ」VS「ヒィめじ」問題)なら仕方ないが、
上記の通り、今回のはかなり恣意的な感じがする。
「ガーシー容疑者」の名は、本人の主張と認識が黙殺されるかたちで、
今後、平板アクセントで呼ばれることに決まってしまうのだろうか、
と興味深く(殴)思う、今日このごろです。

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去年、「打とうが *うたまいが」に感銘を受けた私であったが、
きょうはまた、Twitterで「*ありうります」という活用形を見て畏れ入った。
「*ありうりそう」「*ありうらない」もあった。
いやもう、言語が変化していく過程を生で観察している興奮……!!

この用言の、そもそもの終止形は「あり得る(ありうる)」だ。
これは確かに普通の語ではなく、変則の入った下二段活用をする動詞で、
文語の「ありうる」が終止形と連体形に残っていて、
その他の活用は「ありえ-」を語幹としている。
それゆえ、多少の混乱や迷いがあるのも、わからないことはない(汗)。

「ありえない」「ありえます」「ありる」「ありること」「ありえれば」「ありえよ」

そもそもが、文語の終止形は「ありう」だった
(文語「ありう」の活用→ア行下二段
「未然形 ありえず」「連用形 ありえたり」「終止形 ありう」
「連体形 ありうること」「已然形 ありうれども」「命令形 ありえよ」)。
だから、現代語で終止形を「ありうる」とした段階で、既に揺らぎが起こっている訳だが、
更にこの変則的活用に耐えられない現代人の多くは、
「ありる」を終止形と連体形に用いることも多くなっている。
このほうが、規則どおりの下二段活用になるからだ。
「ありうる」と「ありえる」のどちらが正しいか感覚的にわからない人や、
とっくに「ありえる」しか使っていない人が、結構多いのではないか?

しかしここに来て、この語は「ありう-」が息を吹き返したうえ、
別の活用を獲得し始めていたのであった。
「○○する恐れが、ありうりますね~」
「ありうります!」
「ありうりそうですよ本当に」
「いや、さすがにそれは、ありうらないでしょう」
私は面白がって活用を創作したのではない。
Twitterで本当に、上記のような会話がなされていたのだ。
なんと自由自在な、ラ行五段活用!!

*「ありうらない」「ありうります」「ありうる」「ありうること」「ありうれば」「ありうれ」←?

日本語話者にとって五段活用が、動詞の活用の基本であり、
馴染みの薄い動詞を活用しようとするとき、その五段活用がまず適用される、
という仮説を、ここで立てることができるかもしれない。
しかしながら当該の語に関しては、日常生活において「ありうる」は、
それほど一般的に使われるとは限らず、むしろ「ありえる」のほうが
多く支持されるようになっていたのではないだろうか。
なぜここで、「ありえる」ではなく「ありうる」が選ばれ、活用されているのだろうか??

そもそも私自身は「ありうり」系の活用をしたことがなかった、
というか今日はじめて知ったので、どのレベルの語なのかがわからない。
Twitterで「ありうります」を検索すると軽く2014年まで遡ることができるので、
それなりの定着度だと思われるのだが、
これは「激おこ」「ぴえん」レベルの、一過性の言葉なのだろうか?
「アリウリ♪」という語感を楽しむ目的で、誤用は承知で意図的に使う語なのか?
それとも会話なら、ビジネスレベルの話をするときのあいづちでも
もしかして、あり得る(爆)言葉なのだろうか?

    その謎を解明するため、我々調査隊はSNSの奥地へと向かった――

(続)?

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いつぞや、「(ワクチンを)打とうが *打たまいが」
という活用形は誤りだと思う
、という話を書いたが、
きょうはまた別の人による「向き合おうが *向き合わまいが」
というtweetを見つけてしまった。

「まい」は本来、五段活用動詞の場合「終止形」に接続すべきで、
文法的には「向き合おうが 向き合うまいが」となる筈なのだが、
どうも「五段活用動詞未然形+まい」の形が、昨今、増えて来ているようだ。
未然形に接続するということは、話し手・書き手は、
「まい」と「ない」を同じものだと感じている、ということなのか。
確かにどちらも、「打ち消し」の助動詞という点では共通したものがあるが、
それならば、ほかの五段活用動詞についても皆、こうなるのだろうか。

「死のうが *死なまいが」に違和感はないのだろうか。
「*読ままい」「*飲ままい」などもなんともないのだろうか。
私は「*打たまい」「*向き合わまい」で既にザワザワ来たのだが、
この2例は、いずれも医療従事者の書いたものであり、
tweetの内容も深刻そのもので、ウケやノリを狙ったものでもなかった。

直感的に誤用と思うかどうかについての、人さまの感じ方については、
外側からは知る方法がないので、機会さえあれば、様々な年齢の人たちに、
ひとつ私の目の前で活用してみせてください!!と頼みたい気分だ(汗)。
サンプル数によっては、「五段活用未然形+まい」の定着度が推測できる。
定着度次第では、いずれ辞書に掲載されるようになり、
社会的規範としても認められるようになる可能性がある。


追記:さきほど、思いついて、twitterで『向き合わまいが』を検索したら
結構いくつもヒットし、いちばん古い日付のものでは
2012年には既にこのかたちが出現していたことがわかった。
更に、……こちら↓のほうが私は比較にならないほど驚いたのだが、
『死なまいが』『読ままいが』『飲ままいが』については
少々スクロールしても追いつかないほど既に数多くの実例があり、
『死なまいが』『読ままいが』の両者は2010年のtweetまで、
『飲ままいが』に至っては2007年のものまで遡ることができた。
こういう活用に対して違和感はないのだろうか的なことを上の文章で書いたが、
「全然ない!」が多くの人々の答えだったようだな(汗)。
私の想定を大きく超えてrule-governedな段階まで来ていることが観察された。

ときに、同じ「まい」でも、「決して……まい」の場合は、
五段活用は依然として終止形が登場するのではないだろうか?
それとも、これさえも「決して*読ままい・*飲ままい」って言ってます??
打ち消しを伴う副詞と並べたときでも、「五段活用未然形+まい」が出て来るならば、
その定着度は既にかなりのものだと言うべきだろう。
一方、もしもこちらで終止形の「決して読むまい・飲むまい」が生き残っているならば、
必ずしも、話し手は「まい」と「ない」を助動詞として同一視しているのではなく、
whether...or not構文のときだけ特殊な活用をしている、と言えるかもしれない。

ちなみに私のATOKは、「のもうが のむまいが」と入力すると、
「飲もうが飲むまいが」と一発で変換できるが、
「のもうが のままいが」は「飲もうが野間米が」しかできない。
以下、「読もうが四間枚が」「死のうが品米が」も同様だ。
既に多くの「五段活用未然形+まい」のtweetが観察された訳だが、
入力の際に、変換の手数がかかることで立ち止まったりはしなかったのだろうか。
私がこの件で最初に遭遇したtweetが
「ワクチンを打とうが うたまいが」
と後半がひらがな書きになっていたのも、
「うたまい」と入れたのでは「打たまい」が変換候補に出なかったからではあるまいか。
時代的に手書きが主流ではなくなっているので、こういう点も興味深い。

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Twitterで先日来、「ワクチンを打とうが うたまいが」という表現を
含んだ、とあるお医者様のtweetが繰り返し引用されていて、
「なんとまあ、恥ずかしいタイポを際限なくリツイートされて(^_^;」
と内心で気の毒に思っていたのだが、きょう、全然別の人が
「(そのような症状は)ワクチンを打とうが打たまいが、よくある」
とtweetしているのを見かけて、「……!??」となった。
今どきは、「打まいが」でなく「打まいが」と活用するのか!?
それとも方言??

それで改めて、打ち消しの助動詞「まい」の接続について調べてみたのだが、
やはり、文法的には五段活用の動詞の場合、「まい」は終止形に接続するので
「打まい」が正しい。
私自身、今までただの一度も「打まい」などという言葉は
聞いたことも使ったこともなかった。
「打まい」だと、五段活用動詞の未然形+「まい」のかたちになってしまう。

しかし一方で、「まい」の接続の仕方には面白い特徴があって、
五段活用以外の動詞(上一段活用、下一段活用、カ行変格活用、サ行変格活用)のときは
未然形に「まい」がつくことになっている
(「落ち(上一段活用未然形)+まい」「消え(下一段活用未然形)+まい」など)。
活用の種類だけに着目するなら、終止形になる五段活用のほうが例外的とも言えるのだ。
ならば、もうこの際、五段活用のときも未然形に接続させれば、
文法が整理されるというか、わかりやすい一貫性ができて良い、ってことか(汗)。

しかし、しかしだ。
「打まい」登場以前から、助動詞「まい」の接続には既に揺らぎがあった。
今回の例とは逆で、むしろ、すべての動詞の終止形に接続したがる傾向が
観察されていたのだ。例えば、
「来(こ)(カ変未然形)+まい」→「来る(カ変終止形)+まい」
「し(サ変未然形)+まい」→「する(サ変終止形)+まい」
「見(上一段未然形)+まい」→「見る(上一段終止形)+まい」
「考え(下一段未然形)+まい」→「考える(下一段終止形)+まい」
……使用者の感覚の中で、どの活用においても「終止形+まい」に違和感を覚えない
という現象は昔から広く観察されており、現在の放送用語の中でも許容されている
(「昔」が具体的に何十年前?まで遡れるのか、検証すべきなのだが、
ちょっと検索した程度では信頼できる資料が見つからないのと、
道楽ブログでそこまでしなくてもと思ったのとで、手抜き)。

「打まい」がいつ頃から発生して、現在どのくらいの割合の人が、
これに違和感を持たずに使うことができるのか、に私は今回はじめて興味を持った。
「まい」と同じく打ち消しの助動詞「ない」は、動詞の未然形に接続するので
(「話さ(五段未然形)+ない」「食べ(下一段未然形)+ない」など)、
「打たない」「打たまい」と響きの類似性につられて、
「打まい」がなんともない人々が出現したのではないか、
と私は仮説を立てている。
……だが「打たない」と「打たまい」ではアクセントパターンが違うよね?
きょうの問題には直接関係ないけど。混同が起こるものかな?うぅむ。
それと、「まい」は現代口語では既に「カタい」語になっており、
多くの使用者にとって馴染みが薄く、そもそもの初期設定が曖昧なので、
これまでにない活用をしていても、さほど違和感がないのかもしれない。
………知らんけど(殴)。

とりあえず、言いたいことは、現時点では「打まい」は誤用やと思います(^_^;。

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推し  


「推しの卒業決定で10日間の有給付与」
“オタ活”への理解が深すぎる企業に「最高の会社」「まじでホワイト」の声
(ねとらぼ)
『話題になっているのは、CMやMV(ミュージックビデオ)などのクリエイティブディレクションやコピーライトを手掛ける企業「ひろろ」の代表が投稿したツイート。「社員の推しの卒業が決まってしまったため、弊社の勤務規定に慶弔休暇の項目が追加されました」と投稿したところ、様々な反響が寄せられています。』『・推しのライブ、イベントがある場合、一週間前までの申請で、早退、必要日数の休暇が取得可能。ゲリラライブや告知のない突発的なイベントに限り、当日即早退が可能。』『・推しが卒業する場合、一推しの場合10日間、二推し以降の場合3日間の慶弔休暇を申請することができる。』『・推し本人が結婚する場合10日間の慶弔休暇を申請することができる。』『・慶弔休暇は有給とし、通常の賃金を支給する。また、精神的なダメージの度合い、必要に応じて休暇日数を加算する場合がある。』

推し(おし)、という概念が理解できるかどうかという点で、
まず我々は、二種類の人種に分類されるのではないかと思う。
とりあえず語彙としての「推し」は、狭義においては、
「アイドルグループの中で一番応援しているメンバー」を意味し、
広義においては、アニメやスポーツや音楽、舞台等、すべてにおいて、
「その世界の同種の中で一番好きな対象」を指している。

「推し」という用語を使うとき、その在り方は従来の「熱心なファン」とは異なる。
「ファン」を名乗る場合は受動的に楽しんでいる段階を含むが、
「推しが尊い」等と言い出すようになると、心身共に能動的な面が見えて来る。
「推し」は「推薦」している訳だから、他者に対しても対象者(物)の魅力を
能動的に伝えたい熱意が滾(たぎ)っている。……と思う(笑)。
一方、「なんでそんなに他人に熱中するのか、わからない」という種類の人は、
この世に一定の割合で居て、彼らは「推し」の概念が、
用語としてはともかく、体験としては理解できない人々である。

「卒業」が何のことかを説明するのも、少々難しいものがあるが、
わかりやすい例は、アイドルが、自分の所属しているグループを退めることだ。
例えばAKB48、乃木坂46、などのメンバーの誰かが、グループから脱ける。
その後に俳優などになるとしても、彼女はそれまでとは別の存在になってしまうし、
ましてや、結婚、引退が決まっている場合は、
応援している側から見れば、今までのようには会えなくなることを意味するから、
慶弔規定に該当する「おおごと」であろう、と想像に難くない。
その他の分野でも「卒業」に類することは様々に起こる。
脱退・退団・解散・引退・転向、場合によっては死去。

そもそも、言語化されていなかっただけで、
「推し」とその周辺の概念は何世代も前から立派に存在していたのだ。
私が今回の有給休暇の件でいたく感動したのも、
「世の中、ついにここまで来たか」としみじみ思ったからである。
古い話だが、私の友人はカープの高橋慶彦が結婚したとき、寝込んだ(爆)。
またこれも昔の話だが、麻美れいサヨナラ公演『はばたけ黄金の翼よ』のために
公演期間中、東京ー宝塚を7往復した人も知っている。
そりゃ仕事なんてまともにやってられませんて(爆)。
当時は「推し」などと気の利いた用語がなく、「○○狂」の類いだと見なされていたが、
既にこうやって、「推し活(おしかつ)」をしていた人間はいたのだ。

他人事ではない。私だってこれまでの道楽人生、いろいろやった。
88年5月以来、ポゴ氏来日があるたびに、広島から駆けつけるのは至難で、
それはもう、毎度毎度、有給を取ったり出張と組み合わせたり苦労した。
演奏会後、青春18きっぷで臨時の夜行快速に乗って現地を発ったり、
東京から新大阪まで戻って一泊、翌朝の始発の新幹線で広島に舞い戻ったりして、
何食わぬ顔で仕事に出た、という経験も一度や二度ではない。
2000年以降の、たかこ(和央ようか)さんの宝塚トップ在位中なんて、
初日とお茶会合わせと前ラク(大劇場千秋楽は月曜なのでキツい)のために
「無泊(←ホテルで語り倒すので)3日」みたいな旅行を、
転勤先だった今治から宝塚・東京まで、子連れで(殴)たびたび敢行していた。
その他、某バンドのファイナルツアー、歌舞伎の贔屓の襲名、茶話会新年会諸々、
陸路海路空路ありとあらゆる交通手段を開拓しましたね。
少ない時間で効果的に乗り継がなくてはならず、時刻表トリックさながらだった。
そして公演等が終わったら、同人誌に、後年はネット掲示板等に、
「推し」がどれほど素晴らしかったかを書き倒すのだ。
グッズやCD等は3部ずつ買う。「使用・視聴用」「保存用」「布教用」だ。

「推し」によって人生を豊かにし、感動を学びそれを人と分かち合い、
一度も口をきいたことすらない他者のために涙する喜びを知ったことは、
我々(←勝手に括る)ヲタにとって、何ものにも代えがたい宝物であった。
私たちがかつて自分たちの中で概念化してきた事柄が、今や、言語化された。
「推し」「推し活」「単推しVS一推し、二推し」「推し事(おしごと)」「推し仲間」。
私たち世代が体で知っていた事柄が、意味づけされ、
他者に対して用語として伝えられるまでに、その存在を確立したのだ。
そして、ついに「推し活」に有給休暇を認める会社まで出現したという!
いとも見事に、げにも目出度く、社会化までされたのである!!
隔世の感がある(滂沱)。

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うわっ…誤用率、高すぎ?「確信犯」ほか仕事でも使う要注意ワード(ダ・ヴィンチニュース)
『日本語には様々な熟語や慣用表現がありますが、全ての意味を正確に覚えるのは至難の業。そこで本稿では“誤用”しがちな言葉を3つピックアップして紹介します。いざという時に恥をかかないように、正しい意味を確認していきましょう。』

という記事があって、平成27年度「国語に関する世論調査」によると、
『確信犯』『さわり』『なし崩し』などの表現が、
7割かそれに近い人たちによって誤解され誤用されている、とのことだ。
私もこれらについては、概ね、誤用のほうで理解していたと思うので、
7割の人間のうちのひとりだとわかった。
しかし今後、更に大多数の人間が誤用のほうしか知らない状態になるならば、
自分ひとりで頑なに正用のほうで通そうとしても、いずれは理解されなくなる。
正用が誤用に駆逐されるのである。

これに関連して、以前も書いたとおり私は最近、
『以来』の代わりに多用される『ぶり』という言い方を非常に嫌っているのだが、
世間ではこれになんの抵抗もない人が、今や多数派になってきている。
本来の正しい使い方を守っている私のほうが、今では頭の固い変わり者だ。
「いつぶり」
「昨年ぶり」
「大学の卒業式ぶり」
「中学校の修学旅行ぶり」
すべて、『ぶり』ではなく『以来』というべきところだが、
若い人を中心に、私と同世代かそれ以上の人たちの間でも、
なんとも思わずに使う人がどんどん増えて来ている。
(ことばの広場)「いつぶり」 柔らかさ求め 広がる誤用(朝日新聞)

「『以来』という漢語的な表現よりも、口頭語として柔らかな表現を求めた」
のが理由かもしれないという考察が上記の記事中にあるが、
私としては、「ぶり」という濁音が頻回に使用されるほうが
よほど耳障りで、柔らかいとは到底感じられない。
しかしそれは極めて個人的な、言語音に関する趣味の話だとわかっているし、
私はその場でいちいち、「~『以来』と言うべき!」などと主張したりはしていない。
『確信犯』『さわり』『なし崩し』などが誤用されても気にならないのに、
『~ぶり』だけ許せないというのは、完全に私の主観なのだ。

だから、冒頭の記事の例だって、既に7割の人が誤用して暮らしているなら、
『いざという時に恥をかかないように、正しい意味を』
などと心がける必要は、実際にはほとんどない、と私は思っている。
発端は誤用でも、大勢の人たちが当たり前に使うようになれば、
慣用として受け入れられ、やがて正用として定着するようになる。
言語の変化、すなわち言語の使用習慣の変化とはそういうものだ。

先日も『重用』の読み方が「ちょうよう」か「じゅうよう」か
とテレビ等で話題になっていたが、これなども
元々は「じゅうよう」であったのを、多くの人が「ちょうよう」と読み慣わして、
結局そちらのほうが定着し、辞書に掲載されるまでになった例だ。
今では「じゅうよう」と読むと、正しい読み方を知っていることで評価されるどころか、
かえって、目上の人から「それは『ちょうよう』でしょ」と訂正されたりする。
使用習慣は多数決なので、皆の知らない正用は、いずれ忘れ去られるのである。
私はもう若くないので、このまま「以来」と心中するつもりでいるが、
そのうち書き言葉で「ぶり」「ぶり」が登場するようになったら、
「以来」の灯が消えるのだろうなと、今から寂しく覚悟している。

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この日記に幾度か登場している、私の父方の祖母、
つまり「パンスーの祖母」は、明治33(1900)年の生まれであった。
出身は、本人いわく「ほむら」とのことで、これは、
旧・安芸郡仁保(にほ)村の本浦(ほんうら)を指している、
と、いつぞや私は父から解説して貰った。
その「ほむら」の方言なのか、祖母の個人語だったのか不明だが、
今にして思うと、祖母の言葉は一般的な広島弁とはやや異なっていた。
本人のハンドルネーム(違)となった「パンスー」にしてもそうだが、
母音にも子音にも不思議な交替があったのだ。

「パンツ」は「パンスー」、
「スカート」は「スカーツ」、
「風邪」は「かで」、
「ひきずる」は「ひこじる」(←これは広島弁としてアリ)
私の記憶の限り、別に構音障害などはなく、滑舌は良い人だった。
更に、私などが使ったこともない変わった語彙を持っていた。
「地元の生まれでない・よそから来た人」のことを「旅のもん」、
「丸刈りの男の子」のことは「あおぼうずぅ」(←妖怪ではない)。

中でもキワメツケは、
ずんばい (高低アクセントは「 ̄___」

祖母は、「耳が遠い人」のことを「ずんばい」と言った。
それを幼かった私は文脈から学んだ。
「あのばばさんは、はぁ、ずんばいじゃけ」
「七十じゃに、しわくちゃあでのぅ」
などと、祖母が近所の高齢者の悪口を言うのを聞いたからだ(爆)。
「人のことを『ばばさん』じゃ言うて、自分もええトシじゃろうが」
と長男である私の父にたしなめられると、祖母は言ったものだ。
「自分のことぉ考えよったら、人のことなんか言わりゃあせん!」

それにしても、「ずんばい」とはどこから来た言葉なのか。
私は長い間それを疑問に思っていた。
村では、祖母以外でこの言葉を使う人に出会ったことがなかったし、
父も親戚も、ほかの誰もこういう言い方はしていなかったからだ。
それが昨日、不意に解決した。……と思う。多分。
昨日、祭の後片付けをしていて、総代さん同士がやりとりするときに、
少し離れたところにいる仲間に、総代長さんが「おーい」と呼んだら
聞こえなかったらしく向こうからは返事がなく、
「無理じゃろ。あんには(=あの人は)、ずんぼじゃけ」
と、こちら側にいた総代さんの一人が言ったのだ。

ずんぼ!!
その響きに私の両耳がぴん!と立った。
この発音には、覚えがある!
そうだ、かのずんばいは、ずんぼから来ていたのだ!
これだ、これだ!!
ずんばいずんぼつんぼ、……サベツ用語とちゃうんか!!!(爆)

「つ」音が訛って「ず」音に変化するのはわかる。
両者は調音点が極めて近い。
しかし語尾の「ぼ」が「ばい」になるって、どうなん!!
なんで二重母音に!?

ちなみに祖母は、「匂いがわからない」状態のことを
「鼻(はな)ずんばい」とも表現していた。
香道では、香りを「嗅ぐ」と言わずに「聞く」と言うから、
耳も鼻も鈍ったら「ずんばい」なのは、なんだか理屈に適っているような(汗)。
何を隠そう、祖母自身が蓄膿症のため匂いがよくわからない人で、
「わしゃぁ三十で大かでぇ(=大風邪)ひいてから鼻ずんばいんなってのぅ」
とよく言っていた。
30歳当時の酷い感冒をきっかけに慢性副鼻腔炎になり、
以来、嗅覚障害が改善しなかった、ということらしかった。
「はぁ、何を食うても大根みとぅな味しかせん」
(=もはや、何を食べても大根のような味しかしない」
という台詞も、幾度か聞いた。
夕食時、母の作った料理を前にヘーキでこういうことを言うので、
家族一同、げんなりしたものだった(^_^;。

祖母は、1996年、満95歳でみまかった。
亡くなる前々日まで、元気に畑に出て農作業をしていた。
人間、嗅覚を失ったら長生きできないとか、
自分の歯を維持するのが長寿の秘訣とか、
世の中ではいろいろなことを言うようだが、
祖母は30歳で「鼻ずんばい」になり、
同じく三十代から「そうは(=総入れ歯)」になったにも関わらず、
寿命のほうはビクともしなかった。

もはや「ずんばい」は土の中、と私の記憶の中にしか、ない。

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さきほどTwitterで、
『ジェットストリームいけるくん@go_ikeru:教育実習のとき、「与える」って言葉を使っただけで「偉そう」と言われた。訳が分からなかった。』
というツイートを見かけた。
実習生が指導者の立場で生徒に何かを『与える』、
というのは別に誤りではないだろうと思うのだが、
教育現場では望ましくない響きだと受け取られるのだろうか。

そういえば先日は、某地方自治体のサイトで、
『野良猫にむやみにエサをあげないでください』
というのを見かけた。
『エサ』という以上『あげないで』は滑稽だと私は感じるのだが、
ここでも『与える』という語彙は避けるべきなのだろうか。
目の前のにゃんこに話しかけるのなら、
「さぁ、ごはんだよ、たくさんおあがり(^o^)」
等と声をかけることはあると思うが、
文書で使う言葉は、こういうものとは次元が違うだろう。

その一方で、
『皆さんに夢を与えるようなプレーをしたいと思います』
という運動選手のコメントや、
『御客様に希望を与えられるような舞台ができたら…』
などという役者さんの発言を、結構頻繁に見かけるのだが、
特に問題になってはいないようなので、
相手が観客となると、『偉そう』ではないものになるのだろうか。

こうした例に出会うたびに、私はしばしば、
自分が想定している『与える』という語の守備範囲には、
何か誤解があるのだろうか、と感じている。
私なら、生徒には『与える』、野良猫には『やる』『与える』、
御客様には(ものによるが)『差し上げる』なり『お届けする』なり
したいものなのだが……。


(以上、記述的でなく規範的な見解)

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「子ども」やめ「子供」 文科省あえて漢字表記(くまにちコム高橋俊啓)
『文部科学省は7月中旬から、省内の公文書で使ってきた「子ども」の表記を「子供」とするよう徹底している。子供の「供」が差別的な印象を与えるとして敬遠してきたが、「差別表現ではない」と判断し、あえて方向転換を図っている。』『文科省の文書は、常用漢字を使うのが原則。文化庁国語課によると「子供」は常用漢字だが、1980年後半から省内の公文書で「子ども」「こども」を使うようになったという。法律の条文も、98年から「子ども」を使用。同省総務課は「供が『お供え物』などを連想させ、差別的表現だという意見が、審議会などであったことが要因」と説明する。』『これに対し、今年3月の通常国会で、自民党議員から「小学生は『子供』と学んでいる」「(漢字とかなの)交ぜ書きは国語を破壊する」などの指摘があったため、本年度に入って省内で協議した。』『この中で、▽「子供」はもともと子の複数形で、単数でも用いられるようになった▽「供」は当て字で「共」を使うこともあったが、「供」が定着した-との見解が示されたことから、「『子供』は差別表現でない」との結論に至ったという』

私は以前から交ぜ書き全般が気に入っていなかったので、
これには溜飲が下がった(笑)。
私はイデオロギー絡みの主張をしたいわけではないのだが、
前々から幾度か書いている通り、おおまかには、
「体言や語幹は漢字で書き、仮名を使うのは活用語尾や付属語など」にしたい、
という感覚が自分の中にあるので、交ぜ書きは好きでなかった。
私にとっては、『子供』ならひとつの名詞以外の何物でもないが、
『子ども』と書かれると『女ども』『野郎ども』と同類に見えるし、
『子供と魔法』という表記なら視覚的にわかりやすいが、
『子どもと魔法』になると『どもと』部分がモタついてイヤなのだ。
だから私は、自分の日記の中では常に『子供』表記を採って来た。

しかしそれは私の主観的美意識の話だと長らく思っていたし、
私が交ぜ書きについて、もやもやと不快感を覚えるのと同様に、
『子供』と見れば反射的に『お供え物』を連想して嫌悪感が募る、
という人も世の中にはあるのだろうと思われたので、
私自身は人様の表記の趣味について、改めろとかどうとか、
端から言おうと考えたことはなかった。
そもそも私は、自分が専攻した言語学の分野では、
最初から記述文法の立場で習った世代なのだ
(=規範文法では誤用とされる表現や語彙であっても批判対象にせず、
話者の使用習慣の変化と見なし、そのきっかけや経緯に注目する。
この立場からは『子供』も『子ども』もいずれも否定されない)。
また、そうでなくても教育関係やジャーナリズム方面が特に、
『子ども』表記を好んでいるという感触が私にはあり、
「アナタは差別していることに気づいていませんね」
とそのうちどこかからメールが来るのではないか、
と内心、恐れたりもしていた(←自意識過剰・小心者)。

それがこのほど、私のやっていることが差別行為ではない(爆)、
との、文科省の同意が得られたようなので、光栄に思っている(^_^;。
私は思想的な背景とは関係なく、漢字と仮名のそれぞれの機能について
自分なりの原則があって、その範囲で書きたいと願っていただけだ。
その結果として選んできた表記が、差別でない、
と公的に言って貰えたことはとても嬉しかった。
それと同時に、上記の記事によれば、
『(文科省)総務課は「各教育委員会に『子供』を使うよう呼び掛ける考えはない」との見解』
ということで、それも好ましく感じている。
感覚というのは慣習によって培われてきたものでもあり、
『子ども』が当然だ、そうでないと不快だ、という人だって今は居るだろうから、
それは尊重されるべきだと私は思っているのだ。
公務員の書く公文書では、完全に個人の勝手が通るものでもないが、
文科省が一応の柔軟性を見せている点は悪くないと思った。

ちなみに、昔から私がタウンページを見ては憤慨していた『僧りょ』という表記も、
現在では『僧侶』と書くのが一般的になり、違和感を覚えることがなくなった。
私はとにかく、日常的で平易な体言をわざわざ交ぜ書きにする
(=漢字で書ける部分をわざと仮名書きにする)、
という表記方法が好きでないのだ(個人の感想です)。

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