転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



いずれ両親が亡くなったら、私は私なりに、
親不孝であった・もっと思いやりを持つべきであった等々と、
自分を責めたり後悔することがあるに違いないのだが、
それがもし耐え難かったならば、自分を奮い立たせるために思い出そう
と誓っているネタが、父母それぞれに複数はある。
それらは、親を喪った悲しみから私を救い、
必ずや私に前を向く力を与えるに違いないのだ―――熱い憤怒によって。

私が父に関して許し難く思っていることのひとつは、
するべき手続きを何もやらないまま私に丸投げしたことだ。
いずれも父の中年期から問題になり始めていた事柄ばかりで、
さすがに最初から、死ぬまで放置するつもりはなかったのだろうが、
多忙過ぎたとか決断力・行動力がなかった等の理由で、
後回しにしているうちに、ひどく高齢になって、
事務処理能力が皆無に近くなってしまったのだろう。
私はここ数年、父が積み残した仕事のカタをつけるために、
私の短く貴重な人生の持ち時間を費やしている。
私はこのような思いを、娘には絶対にさせたくない。

……というわけで、具体的には今、役所めぐりをしている。
きょうは、よもや夕方になってから父の入院騒動があるとは思わず、
昼間は役所をハシゴし、更に税理士事務所にも出向いていたのだ。
不愉快な問題を解決するのに奔走するのが、どれほど鬱陶しいか。
心身ともにヘトヘトになっているのに、暗くなってから
タクシーで高速を使って30分以上かかる病院まで行くのが
どれほど苦痛だったか、…これも思い出し怒りのネタになるか(汗)。

さて、午前中は両親の居住地区の「地域興し推進課」と「健康長寿課」に
どうしても直接出向かなければならない用事があったのだが、
今までそんなところへ行ったことがなかったので、
サイトのアクセスのページを参照して公共交通機関とルートを調べた。
そうしたら、その役所のサイトにある地図が美しく図案化されていて、
あまりにもわかりにくいので、呆れてしまった。
Wordの図形機能を使って書いたんじゃないのか、
というくらいの、オシャレで意味のない地図だった。

かつて舅が
「地図にまっすぐのように書いてある道は、ほんまは曲がっとるし!!」
と怒っていたものだが、まったくだ。
地図の上では、ほぼ同じ道幅の道路がきれいに垂直に交わっているのだが、
現実には太い道と湾曲した細い道が、ある部分で斜めに鋭角的に交差している。
更に、その交点付近にある店の名前など目印が重要なのに、
役所のサイトには全く出ていない。
仕方が無いからゼンリン地図と照らし合わせて、ひとつずつ確認した。

美麗地図は要らないから、コレくらいやって欲しい
http://www.st.rim.or.jp/~k-kazuma/IE/IE602.html

結局、サイトのアクセスマップの御蔭ではなく、
私自身の才覚と問題解決能力によって、
私はその役所に辿りつき、父の積み残し課題のひとつを処理した。
当然のことながら、これは問題のごく一部に手を付けたに過ぎない。
これからまだ、税理士さん・司法書士さん・不動産鑑定士さん、
場合によっては弁護士さんのお世話にもなるかもしれない(--#)。

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きょうから父が、某ホームの系列病院に入院することになった。
数日前に一度、夕食後に吐き気がして元気がなくなった、
という一件があり、翌日は好物のパンなど食べていたが、
やはりどうも調子が出ないということで、本日午前中に受診、
CTで僅かに肺炎の所見があるとわかり、入院となった。
血液検査ではCRPが15で、かなり重い状態を示す炎症反応が出ていた。

母からもホームからも病院からも、それぞれ電話を貰い、
父の状態は少なくとも今、差し迫ってどうこうは無さそうだったのと、
私自身、きょうは夕方6時半まで仕事があったのとで、
当初、明日の朝イチで病院に行って見舞いと手続きをする、
ということにしていたのだが、LINEでそれを話したら主人が、
「きょうは行かないのか」「行っておいたほうが」
とやけに積極的に勧め、自分も一緒に行くと言うので、
私は不承不承(殴)、仕事の終わった夜になってから、
主人と待ち合わせて、タクシーで父の病院に行った。

今月はずっと忙しくて、私はここ数日自分も疲労感が強く、
今日も仕事で遅くなっていたので、本当にイヤだったのだが、
主人があまり言うので、
それって、虫のインフォメーション@ルー大柴、……!?
と思い、無理矢理行った。
確かに、高齢者の肺炎は命に関わる病気ではあるし、
ほぼ90歳という年齢+糖尿病、という状況を考えれば、
急変も有り得るのだった(汗)。

……といささか焦って駆けつけたら、案に相違して、
病室での父は機嫌良く、どこも痛くもつらくもないと言い、
起き上がってテレビでバドミントンを観戦していた。
「なんでか、神戸のおばあちゃん(=母の母。私の母方の祖母)が
出てきて、ワシにハッパをかけるんよ」
と父が言うので、
「いつ頃から?どこに出るん。夢なん?それは?」
と訊ねたら、
「さぁてね、いつからかね。ほうよね。夢、なんじゃろうね」
とのことだった。
私が二十代のとき亡くなった祖母が、娘婿の枕辺に立つなら、
確かに父は棺桶に片足突っ込んでいるのかも(爆爆)しれなかった。
しかし90歳になんなんとする婿にハッパをかけて、どーしろと(爆)。
ちなみに、父にとって実の母であるパンスーの祖母は、
全然、これっぽっちも、一度も、出て来たことが無いそうだ。

ともあれ、体のどこも痛くもつらくもない、というのが本当であれば、
90歳の父にとって、実に幸せなことだった。
もう年齢に不足は無いのだ。
あとは、病状がどうだろうと、楽ちんでありさえすれば良い(^_^;。
主治医の先生がたまたま当直だったので、お目にかかることもできた。
詰所で現状について説明をして戴き、
抗生剤の点滴で炎症を抑え、週明けに検査して改善していれば食事再開、
リハビリ等を行って、一ヶ月ほどで退院できるのではないかという、
見通しについて聞かせて戴いた。
また、もしも今後、肺炎が改善しなくても、人工呼吸などは望まないこと、
万が一、急変しても、胸骨圧迫などの処置はして貰わなくても良いこと、
とにかく苦痛だけ可能な限り取り去って、ラクに過ごさせてやって欲しいこと、
等々をこちらからお話し、確認した。
私は一人っ子なので、私が全責任を負うと腹をくくれば、すべては私の一存だ。
誰も文句は言って来ない。実に簡単でよろしい(^_^;。

帰りもまたタクシーを使い、へろへろに疲れて夜9時過ぎに帰宅して、
それでも母を安心させてやろうと電話したら、母が、
「ここ(ホーム)の職員はシロウトばっかりで、こないだから、
お父さんが病気やのに、誰に彼も、ほかのことに熱中してばっかりおって、
せやから病気が酷くなった。二言目には『ここは病院でないから』言うて。
ここに来たばかりの頃は、『ええとこに入った』と思いよったけど、
昨日は、こりゃもう、ここにおったらあかんと思うた」
などと、ひどく恩知らずなことを言うので、叱って電話を切った(--#)。
母は認知症に不安が重なってボケ倒しているのだろうとは思うが、
こちとらは、疲労感に耐えつつ、それでも安心させてやろうと電話したのに、
台無しにされた気分だった。
90歳の人と口喧嘩して、それが最後になってはいけない、
と普段は思って、配慮のない物言いもいろいろ我慢しているのだが、
私が既に限度というほどくたびれているところへ、
カワイゲのないことを言うので、きょうはさすがに、許さんと思った。


後日記(11月29日):入院翌日のきょう、朝からホームに寄って
母を拾い、二人で父のいる病院に行った。
父は、抗生剤の点滴を受けつつ、特に咳などもなく機嫌良くしており、
「どこも痛ぅないし、なんともない。いくらでも寝られる」
と気持ち良さそうだった。母も、
「安心した。治療して、良ぅなって、また長生きせんと(^^)」
と喜んでいた。『長生き』って、……既に十分しましたよ(爆)?
私にとっては、父母いずれに関しても、
とりあえず昨夜のが今生の別れには、ならなかった(^_^;。
まぁ、90歳ともなれば、もういつ何があっても驚きませんが、
一方で、本日亡くなられた中曽根康弘氏のように
もしも101歳までも寿命があるのなら、
まだこれから10年以上この生活が、…………う、うぅむ……。

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「劇場で観察していると感じるのだが、観劇に慣れている人は、
舞台が始まったら体を動かさずに集中することが自然にできるが、
不慣れな人たちは絶えずゴソゴソしたり喋ったりしてしまう」
という内容のtweetがあり、なるほどなあと思った。
「観劇」みたいなものにさえ「巧い」「へた」があるようだ。

ではこれからは、たとえば宝塚を観ながら
「見て!足が長~~!」
などと超しょーもない私語が止まらない人たちが近くでワサワサしていても、
「まだ観劇がじょうずにできない人たちなんだな」
と寛い心で、
………………許せる訳ないだろーが(--#)!!!

************

確かに、歌舞伎の地方公演など、観劇初心者が多いと思われる会場では、
往々にしてガサガサと動く人が多く、私語もあちこちで起こっている。
反対に、定期会員が多数を占める平日夜の音楽会や、
ファンクラブの会員が席を埋める宝塚大劇場の平日3時などは、
「わかった」人たちが粛々と演奏を・舞台を、鑑賞していることが多い。
そういう意味からは、「劇場慣れ」をすれば、
「静かに、動かずに、観る・聴く」態度が出来てくる、
というのは、言えるかもしれない。

しかしうちの転夫ころもんなどは、生来が「ながら族」で、
映画館に行くと本を読みながら映画を観られないのが苦痛だ、
とよく言っている。
自宅でも彼は必ず、テレビを観ながら読書するとか、
仕事をしながら音楽を聴く等、同時に二つのことをやっている。
彼の頭の中には、複数のチャンネルがあって、
連動して稼働しているのか、切り替えが絶えず行われているのかは不明だが、
ひとつだけしか使わない状態は、バランスが悪くて長続きしない、らしい。
こういう人間は、舞台やスクリーンを観る以外のことをしてはいけない、
という状況には、いくら経験を重ねようとも、おそらく慣れることはできないだろう。
観劇の巧拙というか、向き不向きに、ある程度、性分も影響しているような気がする。

私は主人とは全くの逆で、元来、同時進行が苦手だ。
日常の会話やテレビなどの言語音が流れている環境で、
本を読んだり文章を書いたりすることは、ほぼ完全に無理で、
例えばファミレスで書類仕事をするとか、
カフェで語学の勉強をするなどというのは、想像を絶する世界だ。
何かを観る・聴く、のならば、ひたすら観たい・聴きたい。
観劇経験を重ねた結果としてこうなったのではなく、私は元々、
目の前のものを観る・聴く、となったらそれしか出来ないのだ。
自分がそうなので、私はかなり長い間、観劇中に
「むやみと頭を動かさない」
「隣の人と会話しない」
「背中を椅子の背もたれから離さない」
の3点を持続していない人たちが居るのは何故なのか、理解できなかった。
あんなに動いたり喋ったりして、どうして頭の中のものがこぼれないのか、
端で見ていて不思議だったし、そういう人たちの動きや物音のために
私のせっかくの集中が分断され、舞台が損なわれるのが、迷惑でもあった。


融通が利かないとか気むずかしいとか、真面目過ぎるとか小言ばっかりとか、
まぁ、これまでいろいろ責められて参りましたが、言いたいのは、
私はまさに「舞台を観る」専用に生まれてきたような人間だ、
ということでございます(逃)。

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昼夜と一日で観た。
厳しいスケジュールだったが行けて良かった。

内容や感想など書いておく時間が全然なく、残念だが、
とにかく行けて良かった、と思うばかり。

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『仲井戸"CHABO"麗市@広島CLUB QUATTRO』に行った。
実に感慨深いライブだった。
ここにそれを書き留めておく時間が全然なく、残念。

チャボ、ありがとう!
チャボが広島に来てくれて良かった!!

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この日記に幾度か登場している、私の父方の祖母、
つまり「パンスーの祖母」は、明治33(1900)年の生まれであった。
出身は、本人いわく「ほむら」とのことで、これは、
旧・安芸郡仁保(にほ)村の本浦(ほんうら)を指している、
と、いつぞや私は父から解説して貰った。
その「ほむら」の方言なのか、祖母の個人語だったのか不明だが、
今にして思うと、祖母の言葉は一般的な広島弁とはやや異なっていた。
本人のハンドルネーム(違)となった「パンスー」にしてもそうだが、
母音にも子音にも不思議な交替があったのだ。

「パンツ」は「パンスー」、
「スカート」は「スカーツ」、
「風邪」は「かで」、
「ひきずる」は「ひこじる」(←これは広島弁としてアリ)
私の記憶の限り、別に構音障害などはなく、滑舌は良い人だった。
更に、私などが使ったこともない変わった語彙を持っていた。
「地元の生まれでない・よそから来た人」のことを「旅のもん」、
「丸刈りの男の子」のことは「あおぼうずぅ」(←妖怪ではない)。

中でもキワメツケは、
ずんばい (高低アクセントは「 ̄___」

祖母は、「耳が遠い人」のことを「ずんばい」と言った。
それを幼かった私は文脈から学んだ。
「あのばばさんは、はぁ、ずんばいじゃけ」
「七十じゃに、しわくちゃあでのぅ」
などと、祖母が近所の高齢者の悪口を言うのを聞いたからだ(爆)。
「人のことを『ばばさん』じゃ言うて、自分もええトシじゃろうが」
と長男である私の父にたしなめられると、祖母は言ったものだ。
「自分のことぉ考えよったら、人のことなんか言わりゃあせん!」

それにしても、「ずんばい」とはどこから来た言葉なのか。
私は長い間それを疑問に思っていた。
村では、祖母以外でこの言葉を使う人に出会ったことがなかったし、
父も親戚も、ほかの誰もこういう言い方はしていなかったからだ。
それが昨日、不意に解決した。……と思う。多分。
昨日、祭の後片付けをしていて、総代さん同士がやりとりするときに、
少し離れたところにいる仲間に、総代長さんが「おーい」と呼んだら
聞こえなかったらしく向こうからは返事がなく、
「無理じゃろ。あんには(=あの人は)、ずんぼじゃけ」
と、こちら側にいた総代さんの一人が言ったのだ。

ずんぼ!!
その響きに私の両耳がぴん!と立った。
この発音には、覚えがある!
そうだ、かのずんばいは、ずんぼから来ていたのだ!
これだ、これだ!!
ずんばいずんぼつんぼ、……サベツ用語とちゃうんか!!!(爆)

「つ」音が訛って「ず」音に変化するのはわかる。
両者は調音点が極めて近い。
しかし語尾の「ぼ」が「ばい」になるって、どうなん!!
なんで二重母音に!?

ちなみに祖母は、「匂いがわからない」状態のことを
「鼻(はな)ずんばい」とも表現していた。
香道では、香りを「嗅ぐ」と言わずに「聞く」と言うから、
耳も鼻も鈍ったら「ずんばい」なのは、なんだか理屈に適っているような(汗)。
何を隠そう、祖母自身が蓄膿症のため匂いがよくわからない人で、
「わしゃぁ三十で大かでぇ(=大風邪)ひいてから鼻ずんばいんなってのぅ」
とよく言っていた。
30歳当時の酷い感冒をきっかけに慢性副鼻腔炎になり、
以来、嗅覚障害が改善しなかった、ということらしかった。
「はぁ、何を食うても大根みとぅな味しかせん」
(=もはや、何を食べても大根のような味しかしない」
という台詞も、幾度か聞いた。
夕食時、母の作った料理を前にヘーキでこういうことを言うので、
家族一同、げんなりしたものだった(^_^;。

祖母は、1996年、満95歳でみまかった。
亡くなる前々日まで、元気に畑に出て農作業をしていた。
人間、嗅覚を失ったら長生きできないとか、
自分の歯を維持するのが長寿の秘訣とか、
世の中ではいろいろなことを言うようだが、
祖母は30歳で「鼻ずんばい」になり、
同じく三十代から「そうは(=総入れ歯)」になったにも関わらず、
寿命のほうはビクともしなかった。

もはや「ずんばい」は土の中、と私の記憶の中にしか、ない。

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今年も、実家の村の神社の秋季大祭が無事に終わった。
俵もみの勢いで神輿庫のガラスが一枚割れた以外は(汗)、
さしたるトラブルなく、けが人なく、警察沙汰もなく、
文字通り大過なく祭を終えることができて、本当に良かった。
何より、寒くなかったのが最高だった。
今年は、11月になってもまだ、私の指先が割れていないので、
随分と温暖な秋を迎えることができたと喜んでいる。

更に有り難いことに、祭は年々、賑わいを増している感じがした。
「うちの村は、ド田舎」
というこちらの前提ゆえに、ちょっと人が増えても
私のような人間は針小棒大に驚く訳だが、それにしても、
祭に関する限り、寂れる方向には行っていないと思った。
前夜祭の午後8時前後から10時頃までは境内は歩くのもままならなかったし、
例祭当日も餅まきの時刻が近づくと、押し合いへし合いの大盛況になった。

地元の人間のみならず、車で30分以内の周辺の新興団地の方々も、
神楽と餅まきには並々ならぬ関心をお持ちだ。
電話番をしていたら、十件はくだらなかった問い合わせのほぼ全部が、
「神楽は何時からですか」
「神楽はどこのお社中ですか」
「演目は何ですか」
「餅まきはありますか、何時からですか」
のいずれかであった。

父は今年も介護タクシーで連れてきて頂き、
神職さんや総代会・地元の皆様にご挨拶を申し上げることができた。
「毎年、これが最後の祭かのうと思いよるが」
と言っていたが、そう言いつつ、何年だ(^_^;?
これまた、ありがたいことだと思った。
あとから母に電話で聞いたところでは、
久しぶりに神社の方々にお目にかかったことで父は元気になり、
その晩は表情もキラキラで、持って帰った折り詰めと菓子を平らげたそうだ。

ときに、秋祭は大祭なので、毎年、隣の地区の宮司さんにも
応援に来て頂いて神職3名体制で神事を行い、
普段の祭礼には無い笛・太鼓の奏楽担当の方にも入って頂くのだが、
今回、その応援宮司さんや笛太鼓さんにお茶を出しつつ、
少しお話を伺ったところ、今あちこちで、
宮司さんが倒れられたり、ご高齢で辞められたり、
宮司さんと総代会との間の揉め事が深刻化したりしていて、
今季は大祭ができなくなりかけた神社が複数あったとのことだ。
それで、うちに来て下さっている某宮司さんをはじめ、
何名かの若くて動ける神職さんが、複数の神社の例祭に
かけもちで応援に行ったり斎主を代理で務めたりされて、
ここまで綱渡りをされたようだった。

広義においてはいずれも後継者問題、ということになるが、
神社の数に比して神職が足りない状態が続くとすると、結局は、
小さい神社から順番に維持できなくなって行くのだろうかな。
神職さん側も総代会側も、それぞれに後継者が居ないことには、
いくら余興の評判が高くても祭そのものが続かなくなってしまう。
うちの村だって、今年の祭が賑わったと言っても元々過疎地域だし、
いつどうなることやらという危機感は、ある(汗)。

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