転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



(ガラケーのカメラではこれが限界(汗)だった。
逆光状態の、『KISS LOVES YOU HIROSHIMA』)

昨日は仕事が入って、結局Meet&Greetのチケット購入は断念せざるを得ず、
それどころか、19時開始のライブに間に合うかどうかも結構キツかった。
にも関わらず、仕事のあと一旦家に帰ってKISS Tシャツに着替えていた私って(笑)。
JR新井口駅から会場の広島サンプラザまで、同じ目的の人々と一緒に、
初め大股歩き→徐々にスピードアップ→やがて小走り(笑)。

しかし何はともあれ、行けて良かった、行って良かった!!
KISSは本当に本当に、むちゃくちゃ楽しい(^o^)!!
いつ、どこで聴いても、KISSはファンの期待を裏切らない。
昨日もそれを改めて確信した。
火噴き・血吐き・宙吊り、フライング・お立ち台パフォーマンス、
花火が上がって紙吹雪が舞って、スピード感あふれ、豪華絢爛。
何もかもがお約束通り、かつ期待以上のクオリティ、
聴きたい曲が全くハズされることなく聴きたいタイミングで登場し、
文字通りあっという間の100分間だった。
しかもカーテンコールの繰り返し等で無意味に引っ張ることなく、
終わるとなったらバシっ!と終わって、端正なことこのうえなかった。
スパイダーセットではなく、新セット(名称を知らない(^_^;)が
こんな地方公演でもちゃんと組まれていたことにも感心した。
隅々まで手を抜かないKISSならでは!
ありがとう、KISS!!広島まで来てくれて!!

ちなみに、ポールのスキヤキソングはますます巧くなっていた(笑)。
「少年時代、僕がまだ日本のことなど全く知らないほど幼かった頃、
偶然にラジオでこの曲を聴いた。言葉も何もわからなかったが、
僕はこの曲が大好きになった」
と紹介して、ポールは♪ウエヲ ムェテエ ア~ルコゥウォウ、
と彼独特の発音で歌い出したのだが、その節回しはKISSのポールでなく、
まさに坂本九(彼の言う「キーウ・サカモート」)そのものだった。
彼の、この曲への真摯な敬愛を感じた瞬間だった。
スキヤキは本当に「日本の有名なロックンロール!」(by忌野清志郎)。


追記:ウドーのページに出ている名古屋のセットリストとは少し違って、
昨日の広島ではDo You Love MeのあとにShout It Loudが入っていて、
Hide your Heartが無く、トミーのギターソロ(+ヘッドから花火3発)に差し替えられていた。
また、エリックのドラムソロもあり、歌もBlack Diamondで聴かせてくれた。
ももクロとのコラボSamurai Sonの完全KISS版も、私はとても気に入った。
この曲は東京では共演版になるわけだな。ちょっと羨ましいかも(^^)。

追記 2:KISSのライブは開始前に様々なロックの名曲が会場に流されているのだが、
昨夜はAnother One Bites the Dustがその中にあった。
前回2013年のときはSheer Heart Attackがあったものだが、
KISS Armyであると同時にQUEENファンでもある私にとっては実に幸せなことだった。
KISSが、自分たちのライブの前にQUEENナンバーを選んでくれているなんて。

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忌野清志郎 ロックン・ロール・ショー The FILM〜#1』を観てきた。
地元の映画館では毎日20時45分~22時55分の回しか上映がなく、
日々、仕事で疲れているうえに晩ご飯後に出直すのが難しかったのだが、
きょうは私が休日だったのと、主人が東京出張のため留守で晩ご飯が要らず、
なおかつ明日は主人が居ないのだから、朝5時半に起きなくて良い(爆)、
という好条件が重なり、やっと出かけることができた。
この金曜日が最終日だったので、間に合って本当に良かった。

2008年の復活武道館の映像が多かったが、
私は80年代半ば以降、RCサクセションのライブはかなり行ったし、
野音も武道館も皆勤だったので、この映画に出てくる映像は90年代前半までなら、
大抵、一瞬見ただけでどこで収録されたものか、すぐわかった。
幸い、自分は映っていなかった(と思う(^_^;)が、
この会場に私も居たのだなあと思いながら観るのは、感慨深いものがあった。
88年の清志郎ソロの中野サンプラザも、久しぶりに観て実に懐かしかった。
改めて聴いて『Razor Sharp』は本当に研ぎ澄まされたようなイイ曲だったなと思った。
そして、次々と映し出されるライブ映像を観ながら・聴きながら、
この当時の清志郎は髪が長め…、このときはお化粧がピンク…、
この頃になるとちょっとオジさん…、等々と、様々な印象が瞬時に蘇った。
ちなみに、なんでタイマーズが無いんだ、と途中で一瞬、思ってしまったが、
あれは清志郎じゃなくて「そっくりさん」だからだね(爆)。

台詞やナレーションはなく、字幕も何年何月という表示だけになっており、
各年代のライブ映像を行ったり来たりする映画で、あっという間の二時間だった。
『雨上がりの夜空に』は最も多くライブで取り上げられた曲だと思うのだが、
映画では最初期の映像が使われていて、歌詞も勿論当時のバージョンで、
とても意外な選択だったが、これはこれで良かったとも思った。
普通のテレビ番組等の編集だったら、『雨上がり―』は特別な曲として
扱われるところだが、この映画ではそうではなく、ただの一曲だった。
それよりも『毎日がブランニューデイ』だけが、清志郎自筆の歌詞字幕つきで、
ほかの曲と違うニュアンスで収録されていたのが、私には印象に残った。
清志郎はきっと、あの曲に描かれたように幸せであっただろうと思うと、
ファンとしての私の心もまた、温かい思いで満たされ、幸福だった。

清志郎は、いつも「ありがとう!」「愛してます!」と言ったが、
客に向かって頭を下げることの無い人だった。
歌うことによって、返礼は全部した、という人だったなと観ながら思った。

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三津五郎さん死去 59歳すい臓がん肺転移(日刊スポーツ)
『歌舞伎俳優で日本舞踊坂東流家元の坂東三津五郎(ばんどう・みつごろう、本名・守田寿=もりた・ひさし)さんが21日午前、すい臓がんのため都内の病院で亡くなった。59歳だった。2013年9月にすい臓がんの摘出手術後、昨年4月に舞台復帰した。しかし、9月に、12月に予定した主演舞台の降板を発表。治療に専念したが、再び舞台に立つことはかなわなかった。大親友の中村勘三郎さんに続いて、歌舞伎界は次世代の大きな柱を失った。』

去年の8月に歌舞伎座の納涼歌舞伎で観た『たぬき』が、
私にとっては三津五郎の最後の舞台になってしまった。
奇しくも、一度は死んだと思われて葬式まで出されたあと、
墓場から蘇って帰って来る男の役だった。

三津五郎には、昔から数え切れないほどの舞台を見せて貰ったし、
今も鮮やかに思い出せる舞台姿が様々にある。
だからこそ尚更、還暦を迎えた三津五郎を観ることができなかったのは、
歌舞伎ファンとして、残念でならない。
一般的に歌舞伎役者の60歳は、最高の円熟期だと私は思っており、
役者・三津五郎にとっても、おそらくこれから数年が、
本来ならば最も大きく開花できる時期となった筈だと思うのだ。
特に近年の三津五郎は、観るたびに、
「巧い!!」と唸らされるような舞台を見せてくれていただけに、
その先にあったものの見事さを、私はどうしても想像せずにいられない。
限りなく大きな損失となった。
これからの坂東三津五郎は、数々の映像の中にその姿を留めるのみだ。

舞台以外で私の印象に残っている三津五郎は、
八十助時代、偶然にその楽屋入りに遭遇したときのことだ。
20年以上前、児太郎(現・福助)の出待ちをする友人につきあって、
私が旧・歌舞伎座の楽屋口にいたら、そこに八十助がやってきたのだが、
その彼が、それはそれは怖い顔をしていたことが、今でも忘れられない。
若く無遠慮だった私でさえ、そのときの八十助には声もかけられなかった。
「ぇ……、さっきの、八十助、ですよね……(汗)?」
と一緒にいた友人も彼の後ろ姿を目で追いながら小声で言った。
普段の八十助は、笑顔を絶やさない気さくな感じの人に見えていたのに、
その日の彼は、出番を目前に、別人のように鬼気迫る顔つきをしていたのだった。
八十助がすべてを賭けている舞台というものの大きさが、
ひしひしと伝わって来て、心底、圧倒された瞬間だった。

(そうだ、あれは八十助が『名月八幡祭』に出ていたときだった!)

****************

十年前、第33回『俳優祭』で『奈落――歌舞伎座の怪人』に主演したとき三津五郎は、
役者三津五郎は吸血鬼として、何百年も延々と生き続けてきた存在だ、
変化舞踊で有名だった三代目三津五郎も、
喜撰の巧かった七代目三津五郎も、皆わたしだ、
と言っていたよね。
「年とっては眠り、若返って目覚め、また新しい三津五郎として蘇ってきた」
「わたしは生きる。これからもまだまだ何千年も生き続けるのだ」
と……。
だったら、喜撰も蘭平も宗五郎も弁慶も物凄く見事だった十代目三津五郎は、
今はただ少し眠っているだけで、きっと、きっとまた、帰って来るのだよね…(涙)


追記(2月25日):
音羽屋の旦那さんとの共演でも三津五郎の思い出は尽きないが、
平成元年(89年)に音羽屋が初役で宗五郎を務めた際に、
八十助だった三津五郎が三吉の役で出てくれたときのことが、
私は今でも忘れられない。
配役として大変豪華に感じられたのも無論だが、
宗五郎の芝居は、周囲の受けに成否がかかっているので、
先代松緑の時代からこの演目をよく知っている八十助が、
三吉として菊五郎のそばにいてくれたことは、
菊五郎劇団としてのこの芝居の継承という点で大きな意味があり、
八十助の果たした役割は非常に大きかったと、私は今でも思っている。

尾上菊五郎、三津五郎さんと1か月前対面「夏には復帰」聞いたのに…(2月24日付スポーツ報知)
『歌舞伎俳優の尾上菊五郎(72)は23日、歌舞伎座「二月大歌舞伎」の出演前に報道陣に対応し、三津五郎さんへの思いを語った。』『「つらいですね…」と切り出すと、約1か月前に三津五郎さんの自宅で会っていたことを明かし「病状や、今後のことも相談したいということで、1時間ほど話して経過などを聞いた。『夏には復帰したい』と前向きに話していたので、良かったなと思っていた。それが最後のお別れです」と肩を落とした。』『さらに、自身の還暦には三津五郎さんから赤いキャディーバッグを贈られたエピソードを明かすと、「来年は何を贈り返そうかと考えていたところだった。残念です」と肩を落とした。』

三津五郎さん告別式 菊五郎切々と弔辞(2月25日付デイリースポーツ)
『21日に膵臓(すいぞう)がんのため59歳で亡くなった歌舞伎俳優・坂東三津五郎さんの葬儀・告別式が25日、東京・青山葬儀所で営まれ、歌舞伎俳優・市川海老蔵(37)ら歌舞伎界をはじめ、多くの著名人が参列した。』『三津五郎さんの長男で歌舞伎俳優・坂東巳之助(25)が喪主を務めた葬儀では、歌舞伎俳優・尾上菊五郎(72)が弔辞を務めた。』『菊五郎は「残念だ。あなたは本当に若手を可愛がって、育てて下さいました。今後3年後、10年後にあなたがまいた種が花開いてくれると思えば、楽しみです。あなたはネオン街も好きでした。向こうの世界でいい店を探しておいてください」など切々と故人に語りかけた。』『戒名は香り漂う芸が客席に醸し出すなどの意味を込め「香藝院爽進日壽居士(こうげいいんそうしんにちじゅこじ)」とした。』

尾上菊五郎 三津五郎さんに誓った「巳之助くんを立派な役者に」(2月25日付スポニチ)
『すい臓がんのため21日に59歳で死去した歌舞伎俳優で日本舞踊坂東流家元の坂東三津五郎(ばんどう・みつごろう、本名守田寿=もりた・ひさし)さんの本葬が25日、東京都港区の青山葬儀所で営まれた。』『歌舞伎俳優の尾上菊五郎(72)は弔辞で、「若手をかわいがって、育ててくれました。3年後、5年後、10年後に君のまいた種が花咲き、歌舞伎界を背負って立つと思うと私も楽しみです」と親身になって後輩を指導した三津五郎さんの人柄を称賛。そして「きっと立派な役者にしてみせます」と喪主をつとめた長男の坂東巳之助(25)を一人前の役者に育て上げることを天国に誓った。』『城好きとして知られ、BS番組ではナビゲーターも務めていた三津五郎さん。「あなたは姫路城が好きと言っていましたね」と語りかけた菊五郎は、“夜の街”が好きだったことも明かし「向こうの世界のネオン街でいい店を探しておいてください」と親しい先輩らしい粋な弔辞で笑わせ、そして泣かせた。』

三津五郎さん告別式 盟友・菊五郎が弔辞 「残念だ…」と悲痛(02-25 15:40 ORICON STYLE)
『今月21日にすい臓がんのため亡くなった歌舞伎俳優の十代目・坂東三津五郎さん(本名・守田寿=もりたひさし 享年59)の告別式が25日、東京・青山葬儀所でしめやかに営まれた。弔辞を読み上げた歌舞伎俳優・尾上菊五郎(72)は「本当に残念だ」と声を振り絞りながら故人との思い出を振り返った。』『「寿くん」と語りかけた菊五郎は「1月前に病状や今後のことを話したいということで君の家で二人きりで話したね」と回顧し「帰り際に『風邪を引かないようにね』と玄関で別れたのが最期。残念だ…」と悔やんだ。』『続けて「君は、若手を可愛がって育ててくれた。君の蒔いた種が花咲き、歌舞伎界を背負って立つと思うと、私も楽しみです」と感慨深げに話した菊五郎。喪主を務めた長男で歌舞伎俳優の坂東巳之助(25)に触れ「きっと、立派な役者にしてみせます」と誓った。』『また、神妙な様子で話す一方で「君は本当に趣味が多くて、野球やゴルフをした。お城も好きで自分の番組を持っていたね」とプライベートの一面を明かし「『姫路城が好きだ、彦根城が好きだ』と言っていたけど、君はキャバクラ嬢やホステス嬢も好きでした」と暴露。「どうか向こうの世界のネオン街でいい店を探しておいてください。私がそちらにいったらいい店を紹介してください。本当にこれまでお疲れ様でした。ありがとう」と冗談交じりに締めくくった。』『三津五郎さんは、2013年9月にすい臓がん摘出手術を受け、昨年4月に舞台復帰を果たしたが、同年秋に出演予定だった主演舞台『芭蕉通夜舟』の降板を発表。再び療養に専念していた。』『祭壇には、2009年に歌舞伎公演などの宣材用に撮影された写真を使用。三津五郎さんは晩年、生け花を好んでおり、トルコキキョウなど計4100の花や、2009年に授与された紫授褒章などが飾られた。』

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昼過ぎから、娘の振袖姿の撮影に行って来た。
これの予約が入っていたために、娘は数日前に帰省してきたばかりだった。
昨年夏に、振袖・小物セットレンタルの誓約をした某店で、
予定通りヘアメイクと着付けをして貰い、併設の写真館で撮影をした。
娘は成人式には出なかったが、これで二十歳の記念ができた。

記念写真としては、スタジオ撮影の立ち姿と座り姿とを見開きにして貰い、
それとは別アングルの立ち姿と、写真館の玄関で撮影した笑顔の上半身ショットを、
私の実家両親に贈るために、小さめの写真で台紙に貼って貰うことにした。
小さい頃から、娘の髪はほとんどいつでもショートだったのだが、
昨年夏にこの件が決まってからは、あまりレイヤーを入れずに、
全体としてもやや長めに維持してきたので、きょうは髪型もなんとか和風になった。
「全部、自分のケだったわ。付け毛じゃなく(笑)」
と娘があとで言っていた。

僅かに悔いが残ったことと言えば、着付けについてだ。
まず本人が美粧室に入り、家族は階下のロビーで待機することになっていたのだが、
着付けができあがって降りてきた娘を一目見たときに、
私は半襟が目立ち過ぎることが全く気に入らず、
係の人から「お着付けはこれでよろしいでしょうか」と訊かれたので、
誠に申し訳ないとは思ったが、頼んで直して貰った。
着終わってから半襟をいじるなど、実に得手勝手なことを要求してしまった(汗)。

私はもともと、特にフォーマルな振袖や訪問着の場合には、半襟は無地の白、
それもごく細く見えるだけにして、衿肩周りでもできるだけ目立たないように、
……という着方が断然、好みなのだ。
飽くまでも私にとっては、「色柄ものの半襟たっぷり見せ」という着方は、
お洒落ではあっても正装とは感じられない。
しかし、きょうは私本人が着るのではないのだし、少々のことは目をつぶろう、
と最初は思っていたので、到着時には着付けに関する注文は何もしていなかった。
すると、刺繍襟だったせいか、かなり広く半襟を出した着付けにされていて、
(私にとって)さすがに耐え難かったので、結局言った(汗)。ごめんなさい。

しかしともあれ、全体としては大変満足だったし、有り難く思っている。
遅ればせながら、晴れて成人の祝いができた、という気分だ。
ドレスアップの楽しみがあるという点では、娘というのはやはり良いものだな、
とも思った。
正午過ぎから入って、ヘアメイク・着付け、撮影、写真選び、……と、
夕方4時過ぎまでかかっての大仕事で、親子ともどもかなり達成感があった(笑)。
みーちゃんも、お疲れさん(^^)。

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フリージング
先週末は県外出張があったのだが、行った先の会社の会議室が、
なぜか途中から空調が切られていて、時間とともに室温が下がり続け、
最後のほうになるともう、私は寒くて寒くてシにそうになった。
次のミーティングで報告をして貰います、と主任から言われているのだが、
今思い出せるのは「鼻先がヒエヒエした」「両脚がしんしん凍えた」のみだ(爆)。
そのせいか、土曜日は布団に入ってもしばらく寒くて寝付かれなかった。
全く発熱の気配はなかったので、「寒気がする」のとは違ったが、
体の芯から冷え切って、自力では温まらない感じがした。
それで昨日は、敷き布団にアクリル敷きパッドをとりつけ、
いつもの毛布+掛け布団の上に、更に綿毛布を一枚足してみた。
……ら、こりゃ猫ならごろごろ言うところだな、と思うほど温かかった(^^)。
なんだ、早くこうすれば良かったんだ♪

ガングリオン
年末くらいから、ピアノを弾いているときなど、
角度によって左手の甲側に痛みがあることに気付いていたのだが、
今朝、改めて左手首を触ってみると、
皮膚の下に5ミリくらいの丸いものができているらしいことがわかった。
手を握ったり開いたりすると、それは手首から甲に向かってくりくりと上下し、
骨そのものより柔らかい感触があるので、
部位や形状から、ガングリオンではないかと思うのだが、
いずれ整形外科で診て貰わなくてはならなくなるかしら……。
ピアノもパソコンも、しばらくよしたほうがいいかしらね(汗)。
追記(4月7日):ガングリオンはほとんどわからなくなった。
いつ変化したのか不明だが、今は痛みも気にならず、
触れて探しても見当たらないようだ。)

北斗星
「北斗星」 引退前に内部公開(NHK)というニュースがあって
テレビでもやっていたので、とても羨ましい思いで眺めた。
もう乗車できないなら、こういうものでもいいから見学したかったね(T_T)。
「死ぬまでに一度は乗りたい」と切に願い続けていたブルートレイン「北斗星」、
よもやむこうが先に死ぬことになろうとは(爆)思いもよらなかった。
だって開通が昭和63(1988)年ですよ?ついこの間ではありませんか!!
私は当時、「北斗星」特集号の『JR時刻表』(交通新聞社)を購入し
内部の仕様、車両編成、時刻表、運行線区など、隅々まで幾度も目を通しながら、
いつの日かボーナスできっとA寝台に乗ってやるんだ、と夢見たものだった。
かくなるうえは、今後は東京で遊んだ帰りには、
できるだけ「サンライズ瀬戸・出雲」に乗れるよう、
時間的・経済的な努力をして行きたいものだ。
生き残っている寝台特急を可能な限り体験することが、
私の中の「北斗星」に対する、せめてもの供養だ。
……と今晩、思った。

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本日は久々の完璧な安息日で、朝10時まで寝坊した。
最高だった(T_T)。
朝こんなに遅くまで寝ていても、誰にも迷惑がかからないって、
なんと素晴らしいことなのだろう!
……しかし、それで完全に感覚が狂ってしまい、
午後になっても日曜同様の日課で動いていて、ラジオ講座を聞き逃してしまった。
祝日でもNHKラジオ語学講座は曜日通りの放送があったのに(汗)。

今月は、フランス語初級編もスペイン語入門編も表現の幅が広がり、
現在時制以外の、英語で言う完了時制や過去形が入ってきた。
やはり初級講座であっても、直説法の時制くらいは、
過去や未来まで含めてひととおりは学んでおくのが良いと思っているので、
今季の構成は私にはほどよく感じられ、気に入っている。
個人的には、フランス語の中性代名詞が私は苦手で、
理屈はわかるのだがとっさに出てくるようにはなかなかならないので、
もう少し反復練習を重ねられれば良かったかもしれない。
しかし勿論、それは放送のみに頼らず、自分でやれば良いことなのだが。

清岡先生とマリーヌさんによる応用編『そうだ、中級の準備をしよう!』は
これまで聴いた中でも特に、口語表現に力を入れた内容の講座だと思うのだが、
同時に、折に触れて異なるスピーチ・レベルの表現も並べて取り上げられ、
丁寧な表現から、くだけた会話調の言い方まで、
文の単位で解説されるので、大変勉強になっている。
追記:2月13日放送分では家族間の手紙(メール)が素材になっており、
文章体のフランス語に触れることもでき、これまた良かった。)
ディクテは私にとってはいつもかなり易しく感じられるのだが、
一方で放送の始めにある数字の書き取りは、
フランス語の数詞に関して、自分は全く瞬発力が足りないということを
毎回、思い知らされている。

何にしても私のフランス語・スペイン語は、ろくに定着していない。
丁寧な復習や繰り返しをする気になかなかなれず、
放送時間をやり過ごすことで満足してしまっているので、
全くのゼロではないにしても、一定以上に伸びることがないままだ。
しかし正直なところ、これまで英語をやるのに結構な手数をかけ、
自分なりにだが努力も様々にしてきたことを思うと、
ああいうシンドいこと(爆)を、趣味の第二外国語でやるのは、
ちょっと気が進まないなあ、……などとも思ってしまうのだった。
仏検で言うと、5級から準2級あたりまでは「趣味の外国語」で済むが、
2級以上はだんだん本気の世界に入って来るよな…、という実感がある。

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先週の今頃
大阪・宝塚方面に遠征したのは、一週間も前のことだったか……。
思えば、1月最終週の後半、主人が、
「あんた関西行きたい用事があるとか言いよらんかったっけ」
と、夫婦で大阪一泊二日、をさっさと決めてしまい、
気付いたら出かけることになっていたのだった。
主人のほうは、かねて気になっていた神戸の某レストランに、
この機会に行ってみようという目的があったようだった。
それで、主人は31日土曜日の朝からご機嫌で出発したのだが、
私は会社があり、朝10時過ぎから夜7時近くまでの勤務だったので、
広島を夜になってから出発し、大阪に着いたのは22時頃だった。
この日は、まさに泊まりに行っただけだった。
しかしお蔭で、翌朝は早くから行動開始でき、大劇場で入り待ちして
(何かある日だったのか、どの生徒さんもサングラス姿などではなく
朝からきちんとお化粧していて、皆さん大変美しかった。眼福だった)、
開館ピタリに手塚治虫記念館に入って、清志郎展をゆっくり観ることもできた。
歌劇団人事評論家ころもんも初めて『ムラの入り待ち』なるものを
生で見物する機会を得て、結構喜んでいたし、結果オーライだった(笑)。
それから大阪に戻って主人とは別行動になり、松竹座の昼の部に滑り込んだ。
諸々、主人には感謝せねばならない(笑)。

モスクに行ってみたい
国連もアメリカも日本政府も皆「ISIL」という名称を使っているのに、
相変わらず「イスラム国」と言い続けている日本の報道は
優先すべきことを間違えているのではないだろうか。
例えば、国際的にテロ組織として認識されている団体のことを、
「仏教国」「キリスト国」等と呼ぶとしたらマズい、と感じないだろうか。
個人レベルでそう呼びたい人は居ても構わない(仕方ない)と思うが、
公の、テレビ局のニュースが未だに揃ってこういう呼び方をしているなんて、
私にはどうも納得が行かない。
名前の音声的な響きというのは、刷り込みとしてとても強いものだ。
これのせいで、イスラム教全体のイメージが悪くなるではないかと、
エル=バシャを愛する(!)私は、密かに心を痛めている。
折も折、このほど東京では『モスクへ行こう』という企画があるそうで、
私はとても心惹かれた。
モスクへ行こう!― 普段は見えないイスラムの心と文化に触れる―(2/14)
(特定非営利活動法人 シャプラニール=市民による海外協力の会)
日頃、日本での日常生活においては馴染みの薄いモスリムの世界が、
本来どのようなものか、実際の礼拝場に足を運ぶことで体験できる、
とても貴重な機会なのではないかと思う。
ちなみに広島県だと、東広島市に小さいモスクがあることがわかったが、
広島市内にあるのは更に小規模な集会場のムサッラーだけのようだ。

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初日から駆けつけてる私って一体(笑)。
思い返せば、藤十郎が扇雀だった頃から
何かというとよく観て来たのよね、この御一家の舞台を…。
「扇雀近松座」のロゴが入った30年くらい前の黒Tシャツ、今でも持っているし。

先代鴈治郎の襲名も藤十郎襲名もどちらも関西で観て、
きょうまた、新しい鴈治郎の襲名を松竹座で。
観客のひとりとして、不思議な御縁を感じないではいられません。

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観たぞ、清志郎展@手塚治虫記念館。
9時半の開館と同時に入り、2階の企画展示室に直行で。

それの前には朝から大劇場前で入り待ちもしたし、きょうは完璧だ(笑)。
これから松竹座 昼の部へ。鴈治郎襲名披露2月公演の初日。

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