転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



ポゴレリチのこの写真は、一体どういう場面なのだろう(^_^;。
ポロシャツにズボン、というのは2012年以降の彼のいつものスタイルだし、
スキンヘッド+この体型、となると最近のものだろうというのはわかるのだが、
女物ではないかという美しい扇子を開いて微笑んでおり、
背景はかなり田舎、しかもなんでこんなに何羽も寄って来てるんだ(笑)?

鳥に説教した後の写真か?


……なんだったら、いずれ弾いてくれないかな↓
リスト/伝説 1.小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ(YouTube)

Trackback ( 0 )




午後、福山から帰ってきたときにはまだ2時半だったので、
広島駅で花を買い、駅前からバスに乗って舅姑の墓参りに行き、
またバスで市街地まで戻ってきて、今度は頼山陽史跡資料館に行った。
私にまとまった自由時間があることは最近は稀なので、
もう行けるところはこの際、全部行っておこうと思ったのだ(汗)。
福山の平田玉蘊はきょうが最終日だったが、
こちらの田能村竹田だって、あと何日かで展示期間が終わりだった。
きょうを逃したら、私はもう見ることができないと思われた。

『風流才子』は晩唐の詩人・杜牧の人生を表現するのによく使われる言葉だが、
頼山陽と田能村竹田はいずれも、経世の論を説いた思想家でありつつ、
風雅な詩作・南宗画の世界に遊んだ文化人でもあったという点で、
杜牧の生き方に通じるものがあった、
――というのが今回の展示の切り口だった。
杜牧、……漢詩の会で随分習った覚えがあるのだが、
咄嗟に思い出せるのは『江南の春』くらいしかなかった(大汗)。
まだまだ勉強が足りません。

山陽と竹田が、才を認め合った友人同士だったことは
著名な評伝や随筆等でもよく取り上げられていることだが、
今回の展示で、両者の意気投合ぶりがいっそうよくわかった。
ふたりはともに旅をしたり、共作をしたり、
詩や画の作品を見せ合い、批評し合ったりして、
互いを尊重し影響を与え合う交際を、長年に渡って続けた。
山陽のもうひとりの親友・浦上春琴とも、皆で活発に交流し見聞を広めた。

また、橋本竹下や亀山夢研といった、パトロン的な文化人たちが
彼らと親交を結び、交遊を重ねる中で彼らを支援した様子についても、
私はこのたび、いくつかの書画を通じて、ほぼ初めて理解することができた。
例えば、竹田の筆による『尾道舟遊図』で舟に乗っている三人は、
竹田と竹下と夢研であろう、と解説に書かれていた。
これを見ているうちに、私は、もし、なれるものなら
夢研みたいな人間になりたいものだ、としみじみ思った。
自分自身にも多少の嗜(たしな)みや心得があったうえで、
表現者を目指すのではなく、むしろ後援者となって、
幾多の才能の交流の中心にあって彼らを眺めている、
というのが私の思い描く究極の理想だ(殴)。
私は道楽者の極みとして、自分の審美眼によって才能を見いだし、
それを愛でることに、すべてを費やしたい。
自分自身が作り手として称賛されるよりも、
才能と才能を引き合わせるコーディネーターとなることにこそ、
私は必ずや、大いなる喜びを見いだすだろう。

……しかし勿論それには、何より先立つものが必要だ。
まず舟遊びの舟を手配するのが、パトロンの役割だからして。

Trackback ( 0 )




天気が良かったので、思い立って、昼に福山まで行った。
草戸千軒ミュージアムの平田玉蘊展を観るのが目的だったが、
その帰りに、実に久しぶりに福山城にも寄ってみた。
新幹線の中から、福山駅通過の際にいつも本丸を眺めているのだが、
実際に行ってみたのは、四半世紀ぶりだった。

もとの福山城は、昭和20年に空襲で焼失しているので、
今あるのは半世紀前に造られた鉄筋コンクリートのレプリカだ。
説明によると、これは昔の姿を忠実に再現した「復元」ではなく、
新しいコンセプトで建てられた記念碑的なお城らしい。
今は、内部は博物館になっている。

Trackback ( 0 )




前売りを買ってあったのに、ずっと忙しくて出かけられず、
最終日の今日になって、ようやく見に行くことができた。
平田玉蘊は、江馬細香とともに、頼山陽の恋人として有名だった女性だが、
彼女たち自身も、優れた作品を多数残した女流画人・文人であった。
今回は特に平田玉蘊の作品を集めた展示だったのだが、
画賛や書簡などには、頼山陽のみならず、頼春水・春風・杏坪や菅茶山、
上田琴風や田能村竹田など、馴染みの名前が次々と登場し、
当時のこうした文化人たちとの交流が読み取れ、大変興味深かった。

平田玉蘊の作品は花鳥画が定番ということになっているのだが、
きょうの展示を見て私は、彼女の描く人物画に非常に心惹かれたし、
点数は少ないものの、犬や虎などの動物をテーマにした作品にも、
惹きつけられるものがいくつかあった。
私が思っていたよりもずっと、平田玉蘊の筆致には写実的な面があり、
その作品世界はバラエティに富んでいた。
彼女が様々なテクニックを開拓し続けたこともよくわかったし、
多くの作品において、人物や動物の表情は生き生きと鮮やかで、
中にはユーモラスな空気さえ、感じられるものがあった。
特に私が気に入ったのは、『鹿に月図』の鹿の横顔や、
『若衆に犬図』の犬の表情、
『寿老人図』の、鹿と仲良くしている(笑)寿老人の様子、などだった。

頼山陽と平田玉蘊は一時期、公認の恋人同士であったが、
その後、結局、結ばれることはなかった。
頼山陽が彼女の思いに答えられなかった、
ということのようだが、真相はよくわからない。
しかし頼山陽の周囲の人々――頼家の両親や叔父たち、
また神辺での親代わりであった菅茶山など――が、
山陽と別れたあとの玉蘊をも、変わりなく支え続けたことが、
今回の展示からよくわかり、改めて心打たれるものがあった。
女性である玉蘊が傷ついたことに対して、
頼家の人々は申し訳なく思ったに違いないが、
彼らは、一時の罪滅ぼしのために玉蘊の作品を買ったのではなかった。
皆が、何よりも彼女の画才を高く評価していたからこそ、
その交流は終生、損なわれることがなく、
誰もが彼女の絵を求め、画賛を書き、ときに共作をして、
彼女を守り立てようとしたのだと思う。

『批正を乞いたいが、女の身では自由に出かけることも叶わない』
という意味のことを書いた、玉蘊の書簡が展示されていたが、
そのような時代にあって、絵筆ひとつで名をなし、生計を立てた彼女は、
今の私たちが想像する以上に、強く自立した女性だったのだと思った。

***********

ふくやま草戸千軒ミュージアムには初めて行ったのだが、
大変わかりやすく魅力ある展示がなされていたと思う。
特に、画賛や書簡、日記など文章の展示物については、
現代日本語での要約が適切な分量でつけられていたことが良かった。
展示の解説を見ることは読書とは違うので、
あまり細かい文章が添えられていても、その場で読み切るのは難しいし、
かと言って、背景に不明な点が多くては作品の意味もわかりづらい。
その点で、今回の玉蘊展は過不足がなく、実に良い内容だったと思った。

Trackback ( 0 )




抽選に外れまくり、道楽の神様に見限られたかと諦めていたのだが、
なんと、直前にチケットを譲って下さる方があり、私は18日(水)に、
『第33回ANAチャリティー大歌舞伎 広島特別公演』@上野学園ホール
に行くことができた。
菊之助の『魚屋宗五郎』を、私の地元広島で観ることが叶ったのだ。
それもあって本日の長門公演には行かず、チケットは「お布施」となった(^_^;。
菊之助の宗五郎は再度観たかったが、この半月近く休みがなかったために、
きょうは私の心身が限界で、切実に休養が必要だったのだ。
結果的に、何もかも巧く行ったと感謝している。
お声をおかけ下さった某氏にも、そして、道楽の神様の配剤にも。
ありがとうございました<(_ _)>。

それにつけても、巡業とはいえ、
菊之助の初役の宗五郎を観ることができたのは、
音羽屋ファンの私にとって本当に素晴らしいことだった。
何しろ私は、菊五郎が初役で務めた宗五郎も知っているのだ。
昨今は、私自身の年齢が上がってきたために、
歌舞伎を長く見続けることの幸せを実感する機会が増えたと思う。

目下、菊之助の容貌は菊五郎の若いときに瓜二つだ。
横顔など、はっとするほど似ていることがある。
声や滑舌が涼やかで美しいのも、まさに父譲り。
菊五郎は実に立派な息子を育ててくれたと思うと、大変感慨深い。
その菊之助がこのたび演じて見せたものは、
瑞々しく若々しく、そして、例えようもないほど美しい宗五郎だった。
殿様に見初められてお屋敷に上がったほどの「お蔦」の兄なのだから、
宗五郎自身もまだ若く、また恐らく大変な男前であっただろう、
ということが、菊之助の宗五郎からはごく自然に伝わって来た。

酔うところは、まだ少し、演技的な計算が見え隠れしていたかもしれない。
酔って言うんじゃ、ございませんが
からの、笑い上戸の宗五郎の言葉も、
私にとっては、菊五郎で聴くような切なさは無かった。
でも、それはそれで良いと思うし、現段階の菊之助ならではの、
若く正しく行儀の良い舞台を観ることができたのだから、
私は全く不満になど思っていない。
菊五郎から習った通りに、主役として立派に務めていたし、
それができたのは、菊之助の充実した力量があればこそだった。
ただ、菊之助の課題があるとすれば(ただのオバさんが厚かましいのだが)、
次は、江戸の庶民である「魚屋」になりきることかな、と観ながら思った。
綺麗すぎて、……そこが最大の魅力でもあったのだが、やはり美しすぎて、
今回のは、天秤をかついだり魚をさばいたりする姿が想像できなかった。
歌舞伎だから、別にリアルに魚屋である必要はないのだが、
そうかと言って、音羽屋のプリンスの顔が見えては、やはり違うだろう。

同じように綺麗過ぎても、梅枝のほうはちゃんと女房おはまになっていた。
赤姫が抜群に似合う梅枝に、こんな庶民のおかみさんが出来るとは、
実際に観るまで私は想像できていなかった。
行き届いた、実に良い女房ぶりだったと思った。
ほか、萬太郎の三吉も宗五郎とのバランスが良かったし、
おなぎの右近も、限られた台詞ながら実に真心がこもっていて、
宗五郎一家とお蔦をつなぐ重要な役割を、見事に果たしていた。
何より、若い人ばかりで奮闘したこの舞台に團蔵がいてくれたことは
本当に大きな意味があっただろうと想像できた。
この芝居はもともと、主役の宗五郎で成り立つのではなくて、
周囲のひとたちが「受ける」呼吸のほうが大切なのだが、
その要となっていたのが、團蔵扮する宗五郎父・太兵衛だった。
團蔵の力で、『魚屋宗五郎』の舞台の空気が無理なく維持されていた、
という面もかなりあったのではないかと私は思っている。

磯部邸の家老・浦戸十左衛門は亀三郎。
声が素晴らしいので聞き惚れてしまったが、
亀三郎の実際の年齢や立ち位置からすると、
実際には、御家老様を演じるのは荷が重かったかもしれない。
しかし重厚さも良かったし、誠実さも控えめながら確実に演じられていて、
安心して観ていられた浦戸十左衛門だった。
松也扮する殿様の磯部主計之助も良かった。
この人も台詞が綺麗なので心地よく聴けて、
主計之助が酒乱で失敗したことや、今は心から悔いていること、
お蔦を陥れた者たちを責任を持って処罰する気持ちであること等々、
言葉のひとつひとつが響き、聴く者によく染み通ったと感じた。

菊之助が未来の菊五郎となるであろうことを考えると、
『魚屋宗五郎』は今後も繰り返し、巡ってくる演目なのではないかと思うが、
「兼ネル」役者である菊之助(菊五郎)であればこそ、
私はいつか、通しで『新皿屋舗月雨暈』としてこれを観たいと願っている。
菊之助が、前半ではお蔦を演り、後半では宗五郎を演るのだ。
これは、父の菊五郎でさえ、やっていない挑戦だ。
お蔦→宗五郎の通しには、美しい菊之助こそ相応しいに違いないと思う。
歌舞伎座でも国立劇場でもいい、通し上演される日を、
私は自分勝手に夢に見て、菊之助に期待しつつ、待っていたいと思っている。

*******************

今回は、高校の同級生で三十数年来の友人と一緒に行った。
彼女とは、去年の猿之助・福山公演も観たのだが、
彼女のほうは歌舞伎好きとはいえ、私ほど酔狂ではないので、
最後に歌舞伎座まで出向いたのは25年ほど前のことであり、
そのとき観たのは『曽我対面』、現・松緑が辰之助を襲名した舞台だった。
その後、彼女は菊五郎劇団の面々を観る機会は全くなく、
菊之助など、自分の中で未だに丑之助時代で止まっていると言った。

「カズくん何歳になったんだっけ?」
と彼女が訊くので、
「三十代の終わり、……38歳だったか?」
と私が答えたら、仰け反っていた。
菊之助が結婚したのは、ワイドショーで観てなんとなく知っていたが、
感覚的に、まだ二十歳ちょっとだと思っていたそうだ。
んなワケないだろう、私らが五十過ぎなんだからよ(^_^;。
あんとき高校生だった辰っちゃんだって既に四十で、今や息子が左近だぞ?

ちなみに、これは平成の初め頃の話なのだが、
私の歌舞伎仲間のそのまた友人が、数十年ぶりに歌舞伎を観て、
「梅枝って、あんなに小さかったっけ!?」
と真顔で言った、というエピソードがある。
このとき出演していたのは、初舞台を踏んだばかりの現・梅枝だったが、
発言者の頭の中にあった「梅枝」は、その親の、当代・時蔵の少年時代であった(^_^;。
歌舞伎ファンの認識というのは、この程度にタイムスリップし得るものなのだ。

……というような具合で、今回の配役を見ても、
友人の馴染みは團蔵さんしかなく、観劇後に私が、
「おはまが時蔵の長男、三吉が時蔵の次男、
おなぎさんは六代目の曾孫で清元延寿太夫の次男、
御家老様が彦三郎の長男で、お殿様が松助の長男」
と説明したら、もうほとんど口パクパク状態になった(笑)。
なんと見事な、どこの息子もどれだけ達者なのか、さすがだ、
と、浦島さん状態の彼女は感激した。

「いやー、こりゃ久々、歌舞伎熱に火がついたね。やっぱり生はイイわ!
大阪・京都か博多くらいまでなら、ちょっと行こうかね」
と彼女は言った。望むところだ。案内するぞ(笑)。
「4月になったら、こんぴら歌舞伎もあるよ。日帰りできるよ」
と提案したら、彼女は笑って、
「やだ!!金丸座まで行ったら、泊まる!」
とも言った。よっしゃ、その意気だ。

こうなると、この友人に、近いうちに何かの機会を捉えて、
是非とも海老蔵を見せなくてはならないだろう(笑)。
海老蔵はもはや、彼女の頭の中にいる新之助とは全く違う。
きっと驚くぞ。観んでどうする。

Trackback ( 0 )




去る10月26日に職場の健康診断があった。
健診なんて受けないほうが体のためではないか、
と私は毎回、心密かに思っているのだが(殴)、
雇用側が社員に、所定の項目の健康診断を年1回受けさせるのは義務であり、
我々もそれを断るというわけには行かないので、仕方がなかった。
そして、ちょうど3週間経った本日、その結果が会社に届いていた(汗)。

健診のことなど忘れかけていた今頃になって、
仕事の最中にそのようなものが配付されたのでギョっとしたが、
有り難いことに、特別な異常は無かった。
血圧140/95がメタボリックシンドロームの一項目に引っ掛かり、
そのためにメタボ予備軍該当に「○」がついていたが、
あとは中性脂肪79、LDLコレステロール106(HDL69)、
食後5時間血糖値95、HbA1c5.5で、メタボ基準該当ではなかった。
コンタクトレンズをして行ったので、視力が右1.5/左1.2と異常に良く(爆)、
その他、尿検査・心電図検査・聴力検査等、問題なかった
(心臓の完全右脚ブロックはいつもあるが、病的意義は無し)。
血色素量13.0で、貧血も一応なさそうだった。
肝臓の関係は、GOT 22、GPT 14、γ-GTP 13で、
40代の頃までよくGPTが一桁台だったりしたことを思えば、
私としては若干高くなったか?という気もしたが、
健診で問題とされるような数値では勿論なかった。

うちの会社は毎年、指定の健診センターで受診することになっていて、
時間も、毎回13時から14時までの午後の枠と決まっている。
昨年の私は、13時半頃にゆっくり行ってかなり待たされたので、
今年は一計を案じ、12時20分頃に現地に行ってみたら
受付開始前ではあったが番号札を取ることができ、スムーズに運んだ。
この時点で私の取った札は一桁番号で、12時半から人が増え始め、
検査そのものは13時にならないうちに、前倒しで開始されたので、
やはり、ここは先手必勝であったことが確認できた(笑)。
来年も同様の予定であれば、「早く出る」作戦で行こうと思った。

このほか、今年度は、8月に婦人科で、右卵巣のエコー検査、
同じく8月の終わりには、コンタクト眼科での検診、
等々、結構ここまで真面目に受けた。
10月は歯科の定期検診の通知を貰ったので、これもサボらずに行き、
以前の前歯の部分矯正が台無しにならないよう、
マウスピースを作って貰うこともした。
3年ぶりにレントゲンで上下の歯全体を撮影して、歯根の状態も診て貰い、
その他、虫歯は無く歯周ポケットも問題ないことがわかった。
助かった(^_^;。

日常の通院関係としては、アレルギー性鼻炎で私は既に某耳鼻科の上得意様だし、
7月初旬には右股関節に鈍痛があって、久々に整形外科にかかったりもした。
これらは今も、解決はしていない。
鼻炎は体調や気温の変化などがあればすぐに出るし、
股関節はそのものが悪いのではなく、腰が弱っているという診断で、
何かをやってすぐなおるというものではなかった。
体質や経年劣化はどうしようもなく、現状維持を心掛けるのがせいぜいだ。

10月27日には、近所の内科でインフルエンザの予防接種をして貰った。
会社で流行するといけないので、我々スタッフは接種推奨されているのだ。
注射代は、医院で領収証を書いて貰って会社に提出すれば、
1500円を上限として補助が出ることになっている。

****************

……というわけで、私のほうはとりあえず無事にやり過ごしてきたのだが、
今月に入って、なんと主人の歯に異常が出た(^_^;。
私としても、主人の人間ドックの結果ならば一通り気に掛けていたが、
歯に来るとは思いもよらず、全くノーマークだった。
なんでも、主人が言うには、右下の歯か顎かわからない部位が、
11月3日の夜から何となく痛いようだと感じていて、
それが6日の午後あたりから、ただごとでないほど痛くなった。症状は、
「自発痛あり、特に歯をカチカチ合わせると響いて耐えられない」
「目の奥にも響く」
「自覚としての腫れや熱感は全く無し」
というものだった。

右下と言えば、4番5番あたりを半年前に結構深く削って治療している、
現在の痛み方は持続的なので三叉神経痛とは違う、
発疹等が全くないので帯状疱疹も否定的、
上顎でないので蓄膿症(上顎洞炎)でもないだろう、
…と私が診断して(爆)、やはりこれは歯科だと考え、
6日夕刻、急遽、かかりつけ歯科医に私が電話をし、
診察の最終受付に間に合ったので、なんとか診て頂くことができた。

とりあえずの診察と処置が終わり、歯科から戻ってきて主人が言うには、
レントゲン検査をして貰ったが、明らかな異常は見られず、
画像上、根は化膿していない、と言われたとのことだった。
それで、表面を僅かに削って当たりを柔らかくする処置をして貰い、
抗生剤フロモックスと消炎鎮痛剤ロキソニンで、4日ほど様子を見る、
という指示をされたそうだ。
これで改善がなければ、歯の神経を取る治療をする、とのことだった。
結局のところ、歯髄炎か歯根膜炎だろうと私は思っているのだが、
レントゲンで化膿などの所見がない以上、
主観的に痛いか痛くないかで、治療の必要性を判断すれば良いらしかった。

6日の夕食後に最初の薬を飲んだら、痛みは明らかに改善した。
主人はロキソニンやボルタレンはてきめんに胃に来るほうなのだが、
ムコスタもセルベックスも処方されていなかったので、
胃粘膜保護剤の「新セルベール」を薬局で買って一緒に飲むように
と私が言ったら、主人は翌日、早速にその通りにした(爆)。
日頃、医者も薬も嫌いな主人にしては、
今回は真面目に治したい気持ちが強いようだった。
それほど歯が痛かったということだろう(^_^;。
ガスターも要るかと思ったが、そこまでではなかった。

最初は薬が切れると痛みが出て辛かったそうだが、
3日ほどフロモックスとロキソニン(とセルベール)を飲んだところで、
歯痛は全体的にラクになってきた、らしい。
その後も、まだしびれのような違和感は残っているが、
6日のような我慢のできない痛みはなくなり、
今は薬なしでも生活できる程度には、なった。
歯科にはこのあと2回ほど歯石取りのケアに通うことになっており、
その間に全快しなければ、やはり神経を取る治療をしよう、
と、先生が仰っているとのことだ。
主人にはそれには大変消極的で、目下すべてをできるだけ
「なかったこと」にしようと、日々、努力している様子だ(^_^;。


追記(12月10日):主人は結局、すべてを「なかったこと」にした。
どういう幸運か知らないが、11月30日に歯石取りの治療を完了した日から、
それまで微妙に残っていた痺れに似た痛みがほぼ完全に取れ、
12月に入って全く気にならなくなったので、12月10日、歯科に電話をし、
14日に予定されていた神経を取る処置を、キャンセルした。
微妙な箇所と痛み方であったがゆえに、このあと、
抜随などの処置をしたせいでまた痛みが出たらイヤだ、
というのが主人の言い分であった(^_^;。

Trackback ( 0 )




ヨレヨレだったがとにかくTOEICに行った。
今年は年頭に「TOEICをやる」と決めたので、
1月からこのかた、広島で実施されたものは4月以外すべて受けてきた。
あとは12月の第206回を残すのみだ。
ここまで来るともう、参加することに意義がある(^_^;。
今回は10月の公開テストから三週間しか経っていなかったので、
「まだ休み足りないよ(T_T)」
というシンドさが正直なところあったが、一方で、
来年5月からTOEICの出題形式が一部変更される
という記事を読んだばかりだったので、
現行のTOEICとの別れを惜しむような気分も、なんとなく、あった。

本日のはこの業界で言う『マイナーフォーム』だった。
私の受験会場は、どうもマイナーフォームに当たることが多いような気がする。
(フォームについては、TOEICのフォーム(TOEICオタクのブログ))
久しぶりに、ラジカセでなく会場スピーカーからの音声による試験だった。
リスニングは易しかったと思うが(出来たかどうかは全く別の話)、
リーディングはPart7に難しいものがいくつかあった。
Part5も例によって語彙力の穴のために失点を重ねてしまった。
試験後に、ネットの掲示板の書き込みを読んでいたら、
私は3つ間違ったことが既にわかったので、
実際にはもっとあちこちでやらかしているに違いない。
というわけで、試験終了当日に、早くも結果に関しては望みがなくなった(爆)。

**************

夕方帰宅してから、主人と携帯ショップに行った。
昨日の雨で濡れたのか、主人のガラケーが突然オダブツになったので、
どうしても新しいものに交換しなくてはならなくなったのだ。
そして、今時なので変えると言ったらもう、スマホにするしかなかった。
家族割で娘のも含めて三台とも主人名義で、
私もこの際、主人と一緒に変更をすることになったが、
私は日々忙しすぎて、仕事以外で新しいことを覚える余力は皆無なので、
スマホでなく「ガラホ」にした。
通信の面ではスマホと同じ機能があるが、機種の見た目はガラケーと同じ、
というシロモノだ。

私はもともと、通信手段としての携帯電話は最低限しか使用しておらず、
メールのやりとりと、限られたサイト閲覧のためだけに利用していたのだが、
去年だったか、Yahoo!メールがガラケー対応でなくなったのを皮切りに、
Twitterもまず本家が、次に「ついっぷる」がガラケー対応をやめてしまい、
TOEIC SQUAREもガラケーサイトの受験申込のページを閉じてしまい、
どんどん、私の携帯では出来ないことが増えてしまった。
世の中がガラケー使用を禁じる方向へと一方的に動きだし、
私は悲しく思ったが、どうすることもできなかった。
それで、ガラホにすれば外見上はガラケーの機種変更と大差なく、
しかもスマホ対応になったサイトの閲覧が再び可能になる、と考えたのだ。
私はただ、ほんの数年前までのガラケー生活を取り戻したかっただけだった。

完全なスマホを手にした主人に比べれば、私は多分、ストレスは少ない筈だ。
少なくとも携帯メールに関しては全く問題ないことがすぐにわかった。
しかし、せっかく期待したyahoo!メールのサイトの閲覧は、
どうもガラホからはうまく出来ないようだった。
ショップで、ガラケーでなくガラホを選択する目的のひとつとして、
私は明確にyahoo!メールの閲覧を挙げたのだが、
話が通じていなかったのか、私は勘違いしていたのか?
まだ詳しく調べたわけではないが、サイトにアクセスはできても、
メール本文を開くことが今のところできていない。
アプリで開く、というところをクリックして、インストールしようとしたが、
「端末が対応機種でない」と拒否されてしまった。
TwitterもTLの閲覧はできるが、パソコンのように
自分のアカウントページを見たり、検索機能を使ったりすることは、
私のガラホからは現段階では不可能だ。

このままでは、ガラケーの不自由さがごく僅かに解決されただけで、
あとは単に、通信費の高いものへと機種変更をしたのと変わらない(大汗)。
もう少し研究をすればなんとかなるのだろうか(^_^;。
明日も明後日も、ぎりぎりのスケジュールで仕事をするので、
残念ながら、ガラホに付き合っている暇はありそうもない。
年末の休暇に入ったら、多少はあちこち触ってみることが可能になるだろうかな。

それにしても、ちょっといっぺん、休みたいのだが……(^_^;。
東京に行って遊んだりした私が悪いのね(爆)。

**************

<付:12月7日正午Web結果発表>(12月14日スコアシート着)
L495 R495  Total 990


な、なんと、ついに満点きた!I made it!! Brava!!
……しかし、あれ?リーディングで3つミスしたと思ったのは間違いだったか?
うぅむ。なんだか釈然としないが、まあとりあえず、喜んでおこう(^_^;。

Trackback ( 0 )




ポゴレリチが約一年後に来日することが、
招聘元のKAJIMOTOから既に発表されているのだが、
現時点でわかっているのは、以下の二公演しかない。

2016年12月10日(土)19:00 リサイタル@サントリーホール
2016年12月13日(火)19:00 読響定期(ラフマニノフ2番)@サントリーホール

もしこの二回しか公演がないとなると、由々しきことだ。
両方とも会社のある日なのだ!
しかも土曜はうちの職場では最も忙しい日で、
「ピアノ聴きに東京に行ってきますんで休みます~」
などとは、いくら鉄面皮な私でも言えない。
土曜日は13時、できれば14時まで勤務して早退、
その足で新幹線に乗ってサントリーホールに直行、
日曜か月曜に広島に帰り、火曜日は15時まで勤務して再び東京に向かい、
読響定期公演プログラム後半のラフマニノフに間に合うようにする、
……両方聞く方法はこれしかない。

協奏曲は二度も三度もできないとしても、リサイタルに関しては、
できることなら10日の東京以外でも公演して貰えないものだろうか(汗)。
名古屋か大阪があれば、私は東京はパスして、
積極的にそちらに行きたいと思っている。
10日(土)をフルに働けるのであれば、むしろ13日(火)は、
朝から会社を休んで東京に行っても、なんとかなるだろう。

道楽の神様、舞台の神様、なんとか、お願い致します(殴)。


*************

最短で、広島からサントリーホール最寄りの溜池山王まで行く経路は、
当面のダイヤであれば

14:35 広島 発 のぞみ34号
18:26 品川 着
18:33 品川 発 JR横須賀線(快速エアポート成田)
18:38 新橋 着
18:44 新橋 発 東京メトロ銀座線
18:48 溜池山王 着

飛行機利用なら

14:20 広島 発 シャトルバス
15:05 広島空港 着
15:40 広島空港 発 ANA680便
17:00 羽田 着
17:31 羽田空港国内線ターミナル 発 京浜急行空港線
17:56 新橋 着
18:05 新橋 発 東京メトロ銀座線
18:09 溜池山王 着

いずれの方法も悪天候等のトラブルが少しでもあればアウトだ(汗)。
飛行機はリスクが大きすぎるという気がする。やはり新幹線か……。

Trackback ( 0 )




(写真は、8日夜に行った高円寺のライブハウスJirokichiで撮影したもの。
DJブースの外壁にたくさん貼られていたステッカーのうちの一枚)

今朝7時10分の東京発のぞみに乗り、広島に帰ってきた。
平日だというのに、秋の行楽シーズンのせいか指定席完売で、
私は窓側のAだったが、東京出発時からBもCも人が居た。
Bの若い男の子は、発車した途端にテーブルを倒してシュウマイ弁当を食べ始め、
Cの女性も車内改札が済むや否や、がっくりと寝入ってしまったので、
Aの私は全く身動きならない状態だったが、
私も私で、品川からあとの記憶が全くないので、つまりは爆睡していたのだった。
姫路の手前で意識が戻ったら、もうBCともに元の人たちは居ず、
Cに新たにサラリーマンらしき男性が来ていて、Bは空いていた。
隣がいなくなったので開放感があり
(しかし本当の意味で閉塞感に耐えたのは、私ではなくBの男の子だっただろう・汗)、
それからまたしばらく寝入って、福山停車のときに初めてはっきりと覚醒した。

そんな具合であっという間に広島に到着し、
予定通り、11時過ぎにJR広島駅を出て、12時過ぎには出勤した。
そう、きょうは火曜日で、会社のある日だったのだ(^_^;。
途中で列車のトラブルとか寝過ごし(!)とか、何かあったら即アウト、
という綱渡りの日程だったが、無事に、会社に、間に合ったっ

おまけにきょうは夜8時までの勤務で、ええもう、
すべて遊んできた私が悪いので、何も文句は言えなかった(T_T)。

仕事が終わる頃、主人がメールしてきて、
「もう会社出た?今晩は、○○町あたりの、うどん屋いかん?」
と誘ってくれたので、主人が神様に見えた。
ありがとうありがとうありがとう(滂沱)!!!

Trackback ( 0 )




勸玄くん初お目見得が終わったあとの夜の部は、
『仙石屋敷』『勧進帳』『河内山』。
なんとも盛りだくさんで豪華な顔見世だった
(お蔭で、まとまった幕間は『仙石屋敷』のあとの一回のみ。
『勧進帳』と『河内山』の間は10分しかなく、忙しかった)。

『仙石屋敷』は仁左衛門の大石内蔵助が圧巻だった。
動きとして見れば実は大変に地味な芝居だったと思うのだが、
観ている間はそれどころか、内蔵助の話に刻々と引き入れられた。
内匠頭の無念を晴らしたい一念での討ち入りであったという、
家臣としての、熱い情のこもった言葉のひとつひとつが強く響いた。
内匠頭は良い家臣を持ったと、伯耆守の梅玉が言うのだが、
それも単に忠義な者たちが筋を通した行為のことを言っているのではなく、
彼らの真心のありようを指していることがわかり、感動的だった。
仁左衛門の孫の千之助演じる主税も、若々しく才気煥発で、とても良かった。

その次が、ある意味で私の今回の最大のお目当てであった『勧進帳』。
なぜこれが観たかったかというと、松緑が、…あのワイルドあらしちゃんが、
なんと義経を演ることになっていたからだ(汗)。
弁慶でも富樫でも全く驚かないが、よもや義経が来るとは(大汗)。
と思っていたが、まず花道に登場した義経、これが存外、綺麗だったのだ(殴)。
白く塗った顔に、薄紅の唇は愛らしくも艶があり、
ほんのりとした目元などお人形さんのようで、なんとも若く美しい義経、
更に、その洗練された所作がまた、さすがに藤間流六世家元。
なるほど「静の松緑」とはこういうものであったかと私は唸った。
……のだが!声が…(笑)!喋ったら、あらしちゃんだった(爆)!!
「いかに弁慶…」
の台詞が始まったとき、私は、すみません、ちょっと、
噴き…、いえ、笑いそうに、なりました(逃!!!)。
台詞まわしそのものは美しく、結構だったのだが、
ハスキーで、カマす直前で踏みとどまり続けるような台詞声に私は悶絶した。
その声で喋りつつ、威力120パーセントのビジュアルで押して来る義経。
弁慶・富樫と並んだ「天地人の見得」など、指先までも優雅で、
藤間勘右衞門の面目躍如!どうやって耐えたらいいんですかこれ!!
観ていてすっかりこちらの息が上がってしまった『勧進帳』だった。

幸四郎の弁慶は、押しも押されもせぬ高麗屋の貫禄、といった風情だった。
弁慶が十分に年配に見え、かつ、姿も大変立派なので、
命がけで義経を守り通す大きさが、存分に発揮されており、
お蔭で、義経の側にも「守られる」魅力が自然に出ていたと思った。
ただ幸四郎は体力的に、弁慶はそろそろつらいのではないかな、
と客席で観ていて感じた箇所もあった。
特に、引っ込みの六方のところなど、最後まで勢いが持つのかなと、
やや、心配になった。
弁慶を演じて苦しくならない役者は居ないだろうし、
ましてや幸四郎の年齢であれば、こうした役のときは特に、
まさに一期一会の覚悟で、体を張って務める舞台なのだろうなと思った。

一方、染五郎の富樫は、私は予想以上に気に入った。
単に好みの話なのだが、私は染五郎の声の低音域にはあまり惹かれず、
むしろやや高めの、声が冴え渡るようなところが好きなので、
富樫の台詞回しは実に美しいと感じ、心地よかった。
演技的にも余裕が見え、品格の高い富樫で、素晴らしかった。
染五郎はおそらく将来の弁慶役者のひとりとなるであろうから、
若いこの時期に彼の富樫の名演を観ることができたのは、大変良かった。

そして、その次が、海老蔵初役の『河内山』。
『若き日の信長』のほうは、無条件に「格好良いだろうな~(^^)」と
楽しみにしていたのだが、『河内山』については私は、
二枚目で男盛りの海老蔵に果たして似合うのだろうかと、少々危ぶんでいた。
しかし案に相違して、登場時から目を見張るほどの華があり、かつ、愉快だった(笑)。
高僧をカタる場面では文句なしに品格があり、さすがに美しい海老蔵ならでは。
更に、皆がいなくなったところで金子をあらためようとした途端、
背後の時計が鳴り出して、びっくりして手を引っ込めるところは、
最高にチャーミングな河内山(笑)!
追い詰められて正体がばれ、本性を現す件は一転して凄みがあり、
その直後、形勢逆転したと見るや、
再び高僧の仮面をかぶりなおすところも鮮やかで、
海老蔵の魅力を次々に見せて貰った、見どころ満載の一幕だった。
私にとっては、これまで見た海老蔵の中でも、
この河内山は五指に入る目覚ましさだったと思う。


十一代目・團十郎の五十年祭に相応しい、華やかで贅沢な顔見世を、
豪華な配役と演目、大入りの歌舞伎座で、たっぷりと堪能させて貰った。
本当ならこの場に当主として居るべきだったなつおちゃん(團十郎)を思い、
惜しまれてならなかったが、しかしその命はしっかりと受け継がれ、
海老蔵と、そして勸玄くんがいてくれることを、とても嬉しく、頼もしく思った。
筋書を買ったら、掲載されている十一代目の写真の何点かに
海老蔵はまさに生き写しで、改めて驚かされた。

Trackback ( 0 )



« 前ページ