転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



再び、ほんやくコンニャクな一日だった。
昨日からほぼ一歩も、外出していない。
全部で12ページある論文のうち、きょうまでで9ページ半和訳できた。
このあと夜なべするかどうか、悩ましいところだ。
というのは、明日から家族旅行で九州方面に行かねばならないからだ。

私は変なところで「ちゃんとしたい」性癖があって、
しなくてはならないことを半端に残したまま遊びに出たくないのだ。
そんなことをして遊んでいても、心が解放されず、楽しくないからだ。
しかし、このまま徹夜しても、それだけで終わらせることは難しいだろうし、
眠い頭では到底耐えられないような内容だから、
旅行前に全部和訳を仕上げてすっきりして出る、というのは諦めなくてはならない。
訳のほうの締め切りは5月15日だから、間に合うのはほぼわかっているのだが。

前後の詳細は書けないが、そもそも最初にこの和訳の話が来たときには、
「だいたい、どういう内容が書かれているかがわかればよい」
という説明だった。だから私は内輪の話だと思ったし、割と軽く考えていた。
しかしほどなく、依頼者の本当の事情はそんな簡単なものではなくて、
私の作る和訳は、正式な会議資料として添付することになる書類であり、
その前の段階では整形外科医に見せて意見を貰うことになっている、と判明したのだ。

おまえ、いい加減にしろ!と私は噴火しそうになった。
ごく私的な話として「意味内容がだいたいわかればいい」ということなら、
例えば、「背骨の両側についている筋肉」程度でも済むところだったのに、
正式な会議資料になり、医師の目にも触れるとなれば、
曖昧なところのない完全な逐語訳をしなくてはならないし、
「傍脊椎筋」などという、日本語で医学用語として決められている名称まで、
きちんと調べて訳に入れなくてはならない。
このために私の手間は一気に四倍くらいになった(涙)。
検索を重ねているうちに、英和医学用語集(Weblio)に出会い、
こいつは優れものだ、と知ったのは収穫だったけど(苦笑)。

論文の字は小さく、コピーなので印字の状態も良くなく、一部は完全につぶれている。
老眼がひどいので、そのままでは全然見えないから、めがねをかけたり外したりが大変だし、
文字のつぶれているところは、前後から類推しなくてはならない。
普通の英語ならまだしも、上顆だの僧帽筋だの転子だのという英語なんて、
文脈から類推してどうにか出来るレベルを超えている(号泣)。
英語を読む以前の作業が、このように大変なものではあるのだが、
一方で、英語そのものは学術系だから、別に修辞に凝っているわけでもなんでもない。
だから、これを和訳することで、私の英語力が向上するとは到底思えないが、
かわりに、私の忍耐力は飛躍的に伸びた自覚がある。
一行読むのに十数回も辞書を引かねばならない外国語を、読み続ける根性というのは、
なかなか、普通に暮らしていて養成できるものではないと思うぞ(泣)。

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ほんやくコンニャクな一日だった。
本当に一日、これしかしなかった。
統計学も解剖学もほとんどわかっていない私には、
カイ二乗検定が何なのか、オッズ比とφ統計を算出したというのは何をしたことなのか、
gluteal at the upper outer quadrants of buttocks in anterior fold of muscleって、
結局のところ、ケツのどこらへんのことなのか(殴)。
しかしまあ、今回のが英語→日本語だったのは不幸中の幸いだった。
これが日本語→英語だったら私は今頃どうなっていただろう。

娘は、午前中からお友達の家に遊びに行って、帰るのは夕方という予定で、
お昼は、運の良いことに主人の希望があり、お好み焼きの宅配を頼むことになった。
近所の店が、開店何周年記念とかで、数日前に、
トッピング無料券をうちのポストに入れてくれていたからだ。
主人はそのチラシを眺めながら、
「んとね~、わしはー、そば玉で-、肉なしでー、トッピングが、そば」
とワケのわからないものを設定した。

転妻「それはつまり、『肉ぬき・そば玉ダブル』ではないのか」
転夫「そりゃそーなんだけど、トッピングがタダじゃん。だからトッピングとして、そば」

へいへい。
そういう恥も外聞もかなぐり捨てたようなものを注文するのは、どうせ私の役目だ。
こうなりゃ、もう何でも。
私のほうは、それこそ座りづめで『倍で臀部』が痛くなりそうな運動不足生活だから、
小さめの、子供用「お子様焼き」を選び、無料トッピングは「もち」にした。

オーダーしたら30分ほどで、無事に宅配のお兄さんが来てくれた。
お金を払って受け取りながら、私は、
――これって、何も知らない人にしてみりゃ、休日の昼食で子供用に『お子様焼き』、
私が『肉ぬき・そば玉ダブル』を食う、という組み合わせにしか、見えんよな、
と思ったら、ほのかに腹立たしくなった(--#)。

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昨日からツイッターのTL上で、土地の境界の話題が出て、
私はつい、ひとりで勝手に(笑)盛り上がってしまった。最初に友人が、
『分譲後に国が行った測量が間違っていたことにこれまで気づかず、
どうやら市道の分まで固定資産税を払わされていたようだ』
という意味合いのことを書いていたので、私は実家の過去のいろいろが頭に浮かび、
まったく土地の境界は厄介なものだな、と久しぶりに思い出したのだ。

実家は、現代の秘境に建つ築100年を超えるオバケ屋敷なのだが、
その境界に関して、東西南北のうち東以外全部で、長年、揉めて来た。
それはもう、田舎ならではの、実に様々な出来事があった。
ちなみに、唯一、東が問題になったことがないのは、
うちの東隣は民家ではなく県道が通っているからだ。

まず、北側は、よその家の畑で、そのずっとむこうに別の家があるのだが、
この「別の家」はうちの隣人ではあっても、うちの北側の畑の所有者ではない。
畑は、さらにうんと川を北上した、我が家からは見えないところに建っている、
大きな平屋の人のものなのだ。
その人(の先代だ、今となっては)があるとき、何を思ったか、
「境界は昔はここじゃあなかったで。あんたの宅地の近くまで全部うちのもんじゃった」
と文句を言いに来た。

当時存命だったパンスーの祖母も、この家で生まれ育った父も、怒って否定したが、
登記地図は明治6年に完成したとかいう「団子図」(正式には「野取絵図」?)のままで、
ろくに境界など読み取れなかった。
そもそもの昔、どこが境界で、それが今に至るも守られているのかいないのかを
書面で確認することなど不可能だった。
それで近所の人の記憶に頼ることになったのだが、
そこで得られた、付近に住む某おばーさん(当時85歳)の証言というのが、
「この通りじゃったよ昔から。だってうち、里帰りのたびに、戻るとき泣けてねえ、
この里道の、このへんに腰掛けちゃあ、長い間、泣きよったけ。よう忘れんよ」。

次に南側は、隣家の宅地(その家の庭の北端)との間に、細い道がついているのだが、
三十年ほど前、ここを救急車が入れる幅に広げてはどうかという話が、村の寄り合いで出たとき、
うちの先代とは古くから犬猿の仲だった某おじーさんが、
「おまえの家から土地出しゃ済むことじゃ」
と言いに来た。
このおじーさんは、うちの向かい側の家の人の末娘が嫁入った家の舅だった。
というか向かい側の家というのも、うちの二代前の誰かが嫁入った家で、
つまるところ、うちとは他人ではなかったのだが(汗)。
なんしろ狭い村なので、たどれば結局、皆どこかで親戚だったりするのだった(汗)。

隣り合った家同士が半々ずつ出すという話ならまだしも、うちにだけ出せとは何じゃ、
そんなもん単なる嫌がらせじゃ、
とその時点で既に代替わりして当主になっていた父が怒り、揉めた。
某おじーさんはこの後、十数年間これを言い募り、たびたびうちにも来て、
その都度、父がゼンソク発作を起こすほど激怒しつつ追い払い続け、
誰だかの知り合いの市会議員を呼んで来るの来ないの、という話に幾度もなったが、
最終的に、先方が十なん年か前に86歳で彼岸へ行かれ、問題はついに立ち消えになった。
そこまでの経緯をどういうふうに理解していたか知らないが、うちの向かいの家はその後、
息子さんの代になり、庭の北半分つまり境界ぎりぎりのところまで使って、借家を建てた。
だから相変わらず、家の前の道は、救急車など到底、通れない狭さのままだ。

一方、西側は、実は宅地より外には土地がそもそもほとんど存在しなかった。
私が物心ついた頃には、既にかなり大きな川が我が家の真横を流れていた。
ところが、なぜか我が家は、この川の真ん中あたりまで宅地があることに
書類上だけ、なっていて、その固定資産税を、知らずにずっと払っていた。
記録をさかのぼると、どうやらこの川は昔もっと狭くて、
雨が降るたびに氾濫したので、うちの先代が宅地を提供して、
川幅を倍くらいに広げる工事が行われ、今の状態になった、ということがわかった。
しかし登記簿上そのときの訂正が、父が相続した段階でも、なぜかなされていなかった。
お陰で我が家は、これに気づくまで、川のぶんまで何十年も税金を払い続けていたのだった。
この件だけは、測量すればはっきりしたので、今は納税金額は訂正されているが、
長々と払い続けていたぶんは、直前何年かの分しか戻らなかった(涙)。

前に、裁判所の民事部で書記官をしている知人に訊いたら、
「地方じゃ、訴訟は相続問題が多いですね。あとは土地の境界。こればっかり」
という返事だったので、実家のあたりはそういう意味では、ごく普通だったのだろうし、
確かに、揉めていたのは我が家だけの話ではなかった(汗)。
誰某と誰某は、裏の山のことでもう二十年も揉めとんじゃけ、とか、
あの家じゃあ、次男がこすい(ズルい)け、全部取ったんじゃ、等々の話は珍しくなかった。
また我が家にしても、「土地返せや」と言われるばかりの立場ではなかったようで、
パンスーの祖母など、さすがに外に言いに行きはしないにしても、
「○○の田んぼは、もとはうちのじゃったのに、騙し取られた」式のことを
晩ご飯のときに、ときどき話題にしていたものだった。

尤も最近では、さほど境界の話でけんかをすることは無くなったようだ。
昔の人にとっては「土地はお宝」で、1㎡でも人より多く持っているほど良かったわけだが、
息子や孫になると、狭い畑程度の土地に余分な税金を払いたくないからか、
「うちの土地だった」的な申し入れをよその家にしに行くことは、もうあまりないようだ。
何より、下の世代になるほど、途中で都会に出てしまって、もうこの土地に住んでいない人も多い。
だから、言い出しっぺの当事者が皆あの世に行ったら、境界の揉め事はほぼ自然消滅するようだ。
良いんだか悪いんだか(苦笑)。

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今朝は、不本意ながら、やたらと早起きしてしまった。
娘が遠足で、どうしてもお弁当が要るので、
二度寝して寝過ごしたらえらいことだと思って、
5時に目が覚めたのを機会に、起き出したのだ。
普段の日なら、私が寝坊してお弁当が間に合わなくても、
最終的には学食代金を渡せば「ごめん」で済むが、
学校外へ出かけていく日に、それはできないから用心したのだ。
勿論、布団から出てすぐ、お弁当作成をした。

それからしばらく朝のラジオ講座その他の日課をこなし、
家族が出て行ったあとは掃除洗濯その他家事、
英語学校の教材のお勉強、などなどを済ませ、
あとはひたすらパソコンの前にいて、この時間になってしまった。
あの、ほんやくコンニャクがなかなか終わらないからだ。
論文もようやく四分の一ほど訳せたので、話に入っていけるようになり、
当初ほどの苦痛はなくなったが、それでも素人には用語の訳語が不明で
たびたび辞書を引いたり検索したりしなくてはならず、面倒だ。
盲検の際の「ラテン方格法」なんて訳語、初めて知ったぞ(汗)。
具体的に、どうすることやねん、それは(殴)。

***************

などと、自分でも何をやっているのかわからないまま、
ふとカレンダーを見れば、いつしか4月も終わりを迎え、
NHKラジオテキストも、既に5月号に入った。
フランス語は初級編・応用編とも、とても楽しく聴いている。
初級編のディアローグは、何しろまだ二月目だし、聴くだけなら良いが、
テキストを見ずに書き取ろうと考えると、鼻歌まじりとは行かない。
何でも覚える端から忘れるので、「なんか聴いたことのある音だな」と
感じる単語の綴りと意味が、瞬時には頭に浮かんで来ないことも多い。
応用編はもう、そんな努力は放棄して最初からテキストを見ている。
見てさえも何かわからない単語がよく出て来るのだ。

中国語は入門編しか聴いていない。これだけで手一杯だ。
「きょうの会話」をとても丁寧に解説して貰えるのが有り難いし、
この部分を、先生方について読むのが各課についていつも二度ずつあり、
更に役割練習をしたりと、素材文をフルに練習できる構成にも満足している。
しかし私はやはり、有気音・無気音を単独あるいは組み合わせで聞かされると、
どれが有気音でどれが無気音かが、聞き分けられないことが結構多い。
聞き分けられないということは、自分でも発音出来ていないのだろうと思う。
まだまだ、当分は発音が課題だ。

***************

さて、それではこれからまた少しほんやくコンニャクに戻って、
それからピアノのお稽古もしなくては。
そうこうしているうちに、すぐに晩ご飯の支度をする時間になるのだよ(泣)。
ちなみに今夜の献立は、焼いたさわらのチーズソースかけ、だ。
月曜は鮭のちゃんちゃん焼き、火曜は厚揚げとナスの炒め煮、
明日はハゲの煮付け、明後日はたぶん鮪の竜田揚げか、なんか。
絶対に肉を食べない(健康上の理由でも宗教上の理由でもなく単なる好き嫌い)
という家族を持つと、こういう目に遭うのだ。
私は豚肉の野菜炒めとか、鶏肉のシチューなんかが食べたいよ、ホンマに(涙)。

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午後、週1の英語学校の帰り道、外を歩いていたら、
本当に良いお天気で、温かく、とても気持ちが良かった。
この地方としては、きっと今が、一年で一番良い季節だろう。

昨年の今頃は、ポゴレリチが来日する直前で私はジタバタしていた。
勿論、彼の演奏を聴けることは何にも勝る幸福ではあったのだが、
同時に、ポゴレリチを「聴かねばならない」というのは、
私にとっては非常に気力体力を要することなので、
もう、今時分からストレスがたまり、身構えるような気分だった。
そして、やっとポゴレリチ来日騒動が終わったら、去年の私はそのあと、
記憶に残るほどヒドい風邪をひいて、およそ一ヶ月、病んだ(汗)。
一体どれだけポゴレリチに持って行かれたのか、という。
昨年の5月後半、最も過ごしやすい季節の後半を、
私は盛大な風邪のために空費してしまった。

今年は、あのように大きなイベントはないのだから、
そのかわりに、ひどい風邪などもひかないで過ごしたいものだ。
連休は、ツアコンころもんの発案で、二泊三日の長崎旅行が決まっているが、
そのほかには、特に目立った予定は何も入れていないので、
私としては、家を片付けたり、本を読んだりして、安楽に静かに過ごしたい。
UP&DOWNの少ない生活こそが、私の本来の望みなのだ。

あ、いや、そんな先の話よりも、今はまず、
例の米国リウマチ学会の文章の和訳作業が先か(涙)。
既に、いい加減、先延ばしにしてきょうまで来たのだ。
今まだ1ページ半しか訳せていない。あと10ページもある。
旅行前に全部仕上げて、すっきりして出発すべきだ。わかっているのだ。
これでは、「なんでわかりきった宿題を後回しにするんだよ」と娘を叱れない。
今週中になんとかできるように頑張らなくては。

(しかし、仮に私がこれをシヌ気で仕上げたとして、そのあと旅行に出発するとき、
娘が、もしまだ連休中の課題を終えていなかったとしたら(十中八九、そうなる)、
なんだか、それはそれで、今の百倍も腹立ちそうな気がするな(汗)。)

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昨年度の通訳案内士試験受験の際、「日本地理」の対策のために使った、
「都道府県別地図帳」を広げて、先日、改めて福島県を見ていたら、
太平洋岸に『原発銀座』という記述があったので、胸をつかれた。
ここにそのような名前が書かれていたことを、私はすっかり忘れていた。

地図帳だから、どこの県のページを見ても、
主立った山脈や平野、湖、主要な観光地などの名称が載っていて、
福島も阿武隈高地、阿武隈川、磐梯山、猪苗代湖、会津盆地、福島盆地、
等々の有名な箇所が掲載されており、私はいずれにも○印をつけたり、
簡単な説明を書き加えたりしてチェックした跡が残っているのだが、
『原発銀座』のところには、何も書き入れていなかった。
この箇所は少なくとも昨年夏までの時期には、全くと言ってよいほど、
私の関心を引いていなかったということだ。

昨今では連日のニュースでたびたび耳にするようになった、
南相馬市、双葉町、富岡町、などの場所にまたがる海岸線沿いに、
この『原発銀座』の文字は、印刷されていた。
ここに、第一・第二の両発電所を合わせて十基もの原子炉が並んでいたことの意味を、
私は昨年まで、ほとんど考えたことがなかったのだ。
ちなみにこの地図帳では、扱っているのは原則的に地形に関する情報であって、
新潟や福井など、ある程度の数の原発が集まっている場所にさえ、
発電所に関する記載も名称も全く出ていない。
福島にだけ、原発のことが特別に書かれているのだ。

各種の「あやかり銀座」はあちこちに見られ、
どこも、人の多く集まる賑やかな場所の名前として親しまれている。
それらの大半は繁華街や商店街だ。
しかし、特異的なほど原子力発電所が多く建てられたための『原発銀座』とは、
今となっては、なんという皮肉な名称なのだろう。
原発のあるがゆえに街の栄えることを願った、
地元の方々の思いは真実であり、切実なものであったと思うし、
ここから提供された電力のお陰で、地元ではなく首都圏が、
快適な生活を享受できたことも事実だった。
そして今や福島第一原発は、原発事故の現場として世界中に知られる場所となった。
『原発銀座』の名を、そもそもの由来とは全く別の意味で、
私はもう二度と、忘れることはないと思った。

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よく晴れていたので、主人と二人で朝から舅姑の墓掃除・墓参りをし、
舅宅まで行って少し片付け、町内会費を払いに班長さん宅に出向き、
バスで帰って来て買い物をして、中区のマンションへ昼過ぎに戻ってきた。
寝坊の娘もさすがに起きていたので、三人で昼ご飯を食べ、
主人はビールを飲んで、テレビで野球観戦を始めたが、
雲行きがあやしくなったので、不機嫌にテレビを消して、
またどこかへ行ってしまった(結局、カープは負けてしまった・苦笑)。

晩は、マンションの管理組合総会。
特に揉めるような議案はなく、説明と確認、賛成多数の繰り返しで終わった。
次年度理事会も、推薦で新しい役員さんが出て下さり、
ほかの皆も異議はなかった。
うちのマンションの理事会は発足以来、素晴らしく優秀な面々ばかりで、
本当に有り難いことだと思っている。
「平等に」などと言ってクジ引きで決めたり、
上の階から一年交替で順繰りに降りて来るたぐいのやり方は、
全員に等しく「やる気がない」ときに限って有効だが、
能力の高い人がいて立候補や推薦が成り立っているのであれば、
その方々がそのまま担当なさることに勝るものはないと思う。
同時に、その他の者は一方的にお任せして注文だけつけるのでは駄目で、
積極的に協力し、支える方向で動くのは当然のことだ。
あれもこれもと違う意見があるのなら、自分が立候補すれば良いことだし。

ちなみに、いつものことだが、我が家では、
こういうマンション関係行事はなぜか私が出ることになっている。
通常総会はもちろん、臨時の組合会議も毎年の避難訓練出席も私の担当だ。
まあ、会議などはどのみち、議決権は一軒にひとつなのだから、
大人が誰かひとり出れば良いことではあるのだが。
きょうも夜の会議だったため、食事時に私が留守ということで、
主人と娘は近所のマグロ料理のお店に晩ご飯を食べに行った。
ふたりは本屋に寄り、夕食を楽しみ、〆のラーメンまで行ったそうだ。
私が支度しなくても二人の晩ご飯が終わって、本当に助かった。

ということで、何も変わったことのない日曜日だった。
こういうのが、本当のところ、一番良い日常だということだ。

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カープは踏みとどまれるのか
昨日は広島カープがヤクルトとの試合で、ついに負けた。
ひたすら勝ってばかりいることなんてあり得ないから、
どこかで連勝が止まるのは当然なのだが、さてこのあとどうなるだろう。
折しも昨夜は、横浜が阪神に負け、広島戦から引き続いて連敗を更新した。

転妻「横浜、いっときは基準値を大幅に超えた貯金が検出されていたのに」
転夫「急速冷却じゃ。もはや定位置(6位)は目の前」
転妻「ヒトのこと言えんて」
転夫「明日は我が身か(泣)」
転妻「五号機(5位)と六号機(6位)は冷温停止(苦笑)。
 そうなりゃ、やっとみんなが安心して普段のセ界に戻れる、という」
転夫「くくぅ~~(泣)」


ほんやくコンニャク
ちょっとした仕事で、米国リウマチ学会の某論文を翻訳せねばならなくなったのだが、
内容が全然理解できないうえ、印刷の文字が小さすぎて老眼にあまりにも厳しい。
参考資料としてついてきた、日本の某医学会のハンドアウトは幸いに日本語なのだが、
これがまた絵も少ないし(殴)、およそ読む気がせんシロモノだ(絞)。
そもそも、かなり前からパソ太は高齢になってたびたび気を失っており、
再起動すると前の記憶をまだらになくしていることが増えてきたので、
私の愛する一太郎に保存することさえ、なんだか危うい気配になっていた。
もうもう、あっちもこっちも思うに任せず、八方ふさがりな気分だ。
という話を数日前にしたら、主人が気前良く自分の愛機パソ太二号を私に譲ってくれた。
そして主人は昨日、新しいパソコンを自分用に購入した。
なんのことはない、よい機会だったのだろう(汗)。
私の納戸部屋に引っ越して来た、主人のパソ太二号は、素直で物静かなとても良い子で、
今は、ネットもメールも、気絶することなく一度の作業でスイスイできるようになった。
ってことでデメタシデメタシではなく、私が冒頭の和訳作業を放置している理由は、
やはり「やりたくないから」だけになってしまった。ちっ。


最近読んだ本
『額田女王』(井上靖)新潮文庫:歴女である娘の趣味につられて。
『天平の甍』(井上靖)新潮文庫:上の続きで。
『楊貴妃伝』(井上靖)講談社文庫:漢詩の会で「長恨歌」を読んでいたので。
『連舞』(有吉佐和子)集英社文庫:山岸凉子氏が面白いとおっしゃっていたので。
『乱舞』(有吉佐和子)集英社文庫:上の続編。
『一の糸』(有吉佐和子)新潮文庫:道楽者の私の心の琴線に触れる話。
『ベラスケスの十字架』(エリアセル・カンシーノ作 宇野和美訳)徳間書店
  :本来は児童向けなのだが、ベラスケスの絵への興味から。
『江馬細香』(門玲子)藤原書店
  :実に読み応えがあり部分的には二度三度と読んだ。細香の漢詩も素晴らしい。
『すっぽらぽんのぽん』(見延典子)南々社:再読。

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来月、愛好家中心の、二台ピアノの音楽会に出させて貰うことになっていて、
そこで弾く予定のモーツァルトの協奏曲27番の2楽章を、
きょうは、広島市文化交流会館(旧・厚生年金会館)のステージで練習して来た。
これは、同会館自主事業として以前から幾度か行われているものなのだが、
プロ・アマ問わずピアノを弾く人なら誰でも予約可能で、
コンサートホールのピアノ二台を使って、練習会や弾き比べなど、
予約時間内なら自由に有料でさせて貰える、というものだ。
もちろん空調や照明など、基本的な部分は演奏会とほぼ同様の条件だ。
今回は特に、東日本大震災チャリティーイベントとして、
集まった参加費は全額、赤十字を通じて被災地に送金されるということだった。

コンサートホールでピアノを弾こう(PDFファイル)(広島市文化交流会館)
(今回の催しに関しては、受付終了)

聴き手としての私の印象では、以前からこのホールは「最高」とは言い難かったが、
きょう弾いてみて、本当に音がわんわんと反響するのを体感した。
客席に誰もいない状態だったから余計に、音を吸収するものがなく、
しかも横幅の広い会場なので、響き方が尋常でなかった。
自分の弾いた音を直接に聴いているのか、反響した音を聴いているのか、
音数の多い箇所になるほどにわからなくなり、混乱を来した。
それに伴奏部分が重なると、もうオテアゲだった。
楽器店のスタジオ等で弾くのとは全く違った感触で、とても勉強になった。

楽器は、スタインウェイのDと、ヤマハのCFがあって、
はじめはスタインウェイがステージ中央に、ヤマハは下手寄りに置かれていたが、
セカンドを担当してくれる友人と二台で協奏曲の練習をすると、
私は反響する音にどうしてもつられてしまって、合わせることが難しかったので、
途中から会館の人に頼んで、隣同士に並べて貰った。
客席寄りにスタン、奥がヤマハというふうに弾き手が隣合って座ると
さすがに響きの問題もほぼ解消し、視覚的にも合わせやすくなり、助かった。
ちなみに、よくプロのデュオ演奏会であるような、
二台を向かい合わせに互い違いに置いて、相手の顔を正面に見ながら弾く、
というのは、私程度の腕前の人間には、無理だ(苦笑)。
座る位置が互いに離れていると、相方の手元の気配が全然わからないし、
しかも譜面が邪魔で(暗譜してないから・殴)、相手の表情や指示がよく見えない。
今回は本番も勿論、きょうの通り真横にふたりが並ぶかたちで弾くことになっており、
その配置での練習を、実際に舞台でやってみることができたのは本当に良かった。

ときに、きょう、このホールで弾くことの感激は、私にとって、
単に「プロさながらに、舞台でスタインウェイDを弾く」ことに留まらなかった。
ここは実は、イーヴォ・ポゴレリチが以前、リサイタルを行った場所なのだ。
1988年5月31日、彼の三度目の来日公演の折りだった。
あのとき彼はまだ29歳、私だって23歳だった(苦笑)。
年月が経っているので、同じDでも楽器はあのときと同じではないだろうが、
それでも、この舞台で、このライトを浴びて、彼もまたこうやって弾いたのだな、
と考えることは、私にとって、恍惚となるほどの喜びだった(殴)。
楽屋口も、舞台袖も、「楽屋トイレ入り口」も、全部、愛おしかった(笑)。

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本日も広島カープは勝った。
対・横浜戦@横浜スタジアム。
連勝していることを、カープのために心から喜ばしく思うが、
しかしなんとも、きょうのは(も)、実に妙な試合だった(汗)。

写真は、旧・広島市民球場。
広島バスセンターからバスが降りるとき、車中で撮影したので、
あまり良い画像ではないのだが、解体中の市民球場の姿を見ることは
今後だんだんになくなるわけだから、記念に残しておきたいと思う。
既に外壁はなく、外野席も一部撤去済みで、
バスセンターから見ても、これだけ視界が開けている状態だ。
今後、少しずつ、この球場はこの場所から消えていって、
そう遠くないうちに、もう私たちの記憶の中で建っているだけになる。

本当にいっぱいいろんな試合があった。楽しかったよ。ありがとう。

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