転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



金曜の夜からダルくなり、微熱が出て、
土曜は一日、抗生剤と整腸剤を飲んで寝て、
昨日はかなり体がスッキリしたと思ったのだが、
きょうは、まだ午後からちょっとばかり、ダルくなった。
お腹が、また多少ゴロゴロ言っているし、鼻炎もある。
しかし半月ほど執拗だった肩凝りがうまい具合に取れたので、
体の芯にあった疲労みたいなものが、多少は抜けたと思う。

寝ながら読書が出来たのは、今回の収穫だった。
海堂尊のほかは、鈴木晶『ニジンスキー 神の道化』を読み終えた。
これを読んでから山岸凉子の漫画『牧神の午後』を読み直したら
背景がとてもよくわかって面白かった。

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ヴァツラフ・ニジンスキーの舞台での踊りそのものは、
一片の映像もなく、今となっては写真以外では見ることができない。
しかしそれは、前に書いた清岡卓行氏の『失われた両腕』と同様、
もはや取り戻すことが出来ないものだからこそ、
我々を際限なく魅了する存在へと飛翔し得た、とも言えるだろう。

勿論、私は、幾多の証言から、ニジンスキーの舞踊が、
天才的なものであったことは疑いもないと思っている。
それがもはや、再び見ることの出来ないものであるというのは残念だ。
しかし、我々は、実態を知っている人たちにはあり得なかった視点で、
ニジンスキーを捉えることができる、という幸福も甘受している。

どれほどの美であろうとも、かたちを備えたものは、
「限定された美」でしかなく、それ以上のものにはなり得ない。
だが、ミロのヴィーナスの腕のように、
そこに確かにあったことだけがわかるのに、もはや復元不可能、
となると、途端に、我々の想像力は無限に広がり、
美の、限りない可能性が生まれることになる。
舞踊家としてのニジンスキーの実像が失われたからこそ、
ニジンスキーは後世の人々の想像の中にしか有り得ず、
そこに付加された美の可能性というものが、あったと私は思うのだ。

一方、コレオグラファーとしてのニジンスキーは、
21世紀の我々にとって、目にすることのできるものである、
ということも、大変興味深いと私は今回思った。
『牧神の午後』は本人自筆の舞踊譜が保存されており、
『春の祭典』は、生き延びたダンサーたちの証言や、
残されていた楽譜余白の、振り付けに関するメモ、
当時の観客の描いたスケッチ等から詳細な復元が実現した。
それにより、彼が単なる天才舞踊家というだけではなかったこと、
彼の感覚は時代の先取りなどという生やさしいものではなかったこと、
ゆえに、その悲劇性だけで語り継がれるべき存在ではなかったこと、
等々が、明らかにされたと思う。

ニジンスキーは、極めて鋭敏な感性を持つ、
前衛的なコレオグラファーだった。
後に、モーリス・ベジャールが手がけたことを、
ニジンスキーはそれより半世紀も前に実現していたのだ。
そのことが、彼の遺した舞踊譜や復元された振り付けを見るとわかる。
当時の批評家や観客が、彼の感覚を目の当たりにしたとき、
必ずしもついて来られなかったとしても不思議はないと思った。
また、ニジンスキーは振り付けの際に、踊り手たちを相手に、
幾度も癇癪を起こしたということが記録されているが、
それは彼が口頭表現に優れていなかったという事情だけが原因ではなく、
彼の要求がどこにあるのか、当時のダンサーの感覚や体験の範囲では、
なかなか理解しづらかったということだろうと思った。

ちなみに、私がニジンスキーを知ったのは、12歳のときだった。
青池保子の漫画『イヴの息子たち』に出てきた、
「ヒース、私を見て…」と眉間にシワ寄せて踊る白鳥がそれだった。
私は、「昔、こんな変態ダンサーがいたのかな?」と興味を持ち(爆)、
以後、本や漫画でニジンスキーの名が出るたびに注目するようになった。
月を見ると白鳥に変身する、という青池ニジンスキーの設定を
もしヴァツラフ・ニジンスキー本人が知ったら、
案外、面白がったかもしれないな、と今の私は想像したりしている。

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