ポゴレリチは16日夜、ベオグラードで最初の演奏会を行った。
セルビア放送交響楽団との共演でショパンのピアノ協奏曲第2番。
指揮は首席指揮者のボヤン・スージッチ。
演奏会は、ベオグラード地元の待ちかねた聴衆の期待に応える大成功で、
ポゴレリチは熱い歓呼の声をもって讃えられ、歴史的演奏会となった、等々、
いくつかの記事が既にウェブ上にUPされているのだが、
その一方で、ポゴレリチ個人に対する非難も一部には出ている。
「彼は、かつて最も過酷な状況にあったセルビアを見捨ててクロアチアを選び、
その後30年もベオグラードを省みることをしなかった」と。
数字的な意味での『30年』には、背景に様々な事情があったと思われ、
彼本人は、私の知っている範囲でも10年前には既に、
ベオグラードに帰って演奏したいと公式に発言していたのだが、
それにしても、ポゴレリチが1991年のユーゴ紛争当時、
セルビアでなくクロアチア国籍を選択したこと、
その後にインタビューでセルビア人かと訊かれると、
明確にNOと答えていたこと等は事実だ。
ポゴレリチはクロアチア政府から優遇され、
1992年に文化大使に任命されており、
ドゥブロブニクやブコバルの再建のためにチャリティ公演等を積極的に行い、
ユネスコ親善大使としても、サラエボ・チャリティ財団の設立に尽力したが、
一方で、そのような貢献は、セルビアのためには為されなかった。
2017年の今、ポゴレリチがベオグラードを生まれ故郷であると言い、
セルビア語を話し、コロラッチ・ホールで歓迎される様を見て、
「どの面下げて」と不快に思う人々がいたとしても無理は無い、
という気がする。
ユーゴ紛争の中でもクロアチア紛争はとりわけ長く、深刻だった。
それ以前の歴史を見ても、セルビア人とクロアチア人の間には、
もともと、一筋縄では行かない難しい感情のもつれがある。
ポゴレリチがなぜクロアチアのほうを選んだのかは、詳しくはわからないが、
彼の父親はクロアチア人であり、彼が11歳でモスクワ留学に出発する直前、
「クロアチア人としての誇りを忘れるな」
と言って聞かせた等の逸話もあることから、
ポゴレリチの中に、クロアチア人としてのアイデンティティが
ある程度早い段階から形成されていたことは間違いないと思う。
モスクワ留学を終えてユーゴに帰国した1980年時点でも、
ポゴレリチはまずクロアチアのザグレブに居を構えている。
しかし、それとともにポゴレリチは2005年のインタビューの中で、
セルビア正教徒である母親の家系の、宗教の伝統についても触れている。
自分の中に、クロアチアとセルビア両方のルーツがあることを
クロアチア国籍選択後も変わりなく、彼なりに尊重していたことが伺える。
爆撃で壊れた建物が再建され、街並みが蘇ったとしても、
紛争で奪われたままのものは多く、それらに対する人々の悲憤の思いは、
容易には癒やされないのだと、つくづく思った。
ポゴレリチの祖国であったユーゴスラヴィアは、もはや失われたのだ。
セルビアにとってポゴレリチは、国民的英雄であると同時に、
視点を変えれば、国家の裏切り者でもあり得るのだろう。
Trackback ( 0 )
|