転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



欲張ればキリがないが、一応、我が家の年内の仕事は完了した。
昨年同様、シャケの香味付けとカレーを仕込んだので、
少なくとも明日の晩ご飯までは、もう何も手を下さなくても
御飯を炊いて、鍋を温め直す程度のことで、食事になる。…筈だ。
今夜はそれにサラダ2品と鯛のカルパッチョがあるので、
なんとか大晦日の食卓が整うだろう。
日本酒を愛する娘は、広島の誇る賀茂鶴の金箔入りのヤツ(笑)を
祝いに飲むと言うので、既に冷蔵庫に入れてある。
大晦日の夕食を済ませたら、私は今夜から土曜日まで、
実家両親の世話と村の神社でのご奉仕の日々だ。

今年は昨年以上に忙しく、目の前のものを片付けるだけの毎日で、
「気を確かに!」とオノレに言い聞かせているうちに一年が終わった。
昨年のお正月の騒動が、さすがに先週や先月のことではないにしても、
つい数ヶ月前のことだった、と私の中では思える。
体感としては、正月と正月の間に夏みたいな何かが何週間かあった程度だ(汗)。
数えてみると、このブログを更新できたのが1年で100回ちょっとで、
私の中でも、1年の日数はそのくらいだったという感じだ。
こんな勢いでは、来年もまたほぼ記憶がないくらいの速さで終わりそうだが、
12月にポゴレリチが来日することが既に発表されているので、
もうすぐ来年の師走が来るなら、それも良いかなと思っている(爆)。

ほうぼうの皆様に礼を失したまま、大晦日になってしまいましたが、
私の頭が追いつかない速さで時が経っているという有様ですので、
「こりゃ、あかんやつや(^_^;」
とお思いになって下さいますよう、お目溢しをお願いする次第です。
来年もまた、良い演奏会、素晴らしい舞台に、たくさん出会えますように。
ホールや劇場で、お目にかかれましたら嬉しく思います。

今年も、ありがとうございました。
どうかどうか、皆々様には良いお年を。

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注文しておいたお正月の花が届いた。
前も書いたが、私はことのほか切り花が好きだ。
私は「緑の指」ではなく「炎の手」を持っているので、生来、
鉢植えを育てたり、家庭菜園の世話をしたりすることに向いていない。
占いによらなくても、私は植物と折り合いが悪い、という自覚が昔からある。
その点、アレンジメントや花束ならば、一定期間だけ楽しみ、
あとは綺麗さっぱり捨てて終わることができるので、気持ちが良い。
近年は新年を迎えるにあたり、必ず花を買うことにしている。
年末年始、美しい切り花たちに清浄な空気を運んできて貰い、
松が取れる頃、その花たちの役目も終わる。……ぴったりだ(笑)。
ちなみに、去年はこれだった。

昨日やる予定だった用事が軒並み積み残しで、今日はまたさんざんに忙しく、
佐伯区の舅宅まで出向くことが時間的に無理だった。
仕方が無いから、それは明日行くことにして、
舅姑の墓に供えるお正月の花だけ、夕方、買って来た。
明日はこれを持って墓参りに行き、帰りに舅宅に寄って掃除をして来よう。
29日に準備するのは「二重苦(にじゅうく)」だから良くない、
と、これも昔、実家の母が言っていたが、
もはや、そんな優雅な話に構っていられない。時間がない。

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空費  


朝7時半に、実家母から「脚が痛いのですぐ来てくれ」と電話があった。
行ったら(と簡単に書くが、私のマンションがJR広島駅徒歩圏内とはいえ、
うちから実家まで公共交通機関を使うと、乗り継ぎにもよるが1時間半かかる。
今朝はタクシーで高速使って最大限トバして貰って30分強、3720円だった)、
母はベッドに腰かけて父と喋っており、すぐ医者に行こうと私が言ったら、
11時から訪問リハビリの人が来るので午前中は出かけられない、と宣った。
それから母は私に、昨夜一晩、どんなに脚が痛かったかを語った。
5年前、椎間板ヘルニアを保存的にやり過ごしたのだから、
母の脚腰はいつでもそれなりに痛いのだが、
寒さのせいか、今回は特に痛くて、なかなか寝付けず困ったそうだ。

そうこうしているうちに、訪問リハビリの担当の方が来られた。
母の話では、この方にも朝から電話して早く来てくれと言ったそうだが、
訪問の順番が決まっているので今すぐには伺えません、
と言われて、待ちかねていたとのことだった。
整形の午後診はというと、診察券によれば15時からだった。
昼ご飯は毎日の配食サービスがあるので、さほどの準備も要らず、
そもそも通院介助だって、日頃はヘルパーさんにして貰っていることだ。
だったら、朝っぱらから私になんの用事だったのかというと、
「ああ、あんたの顔見たら、安心した。これで大船に乗った気ぃや」。
つまるところ、母はいつもより脚が痛かったので、
心細くなり、私についていて欲しかったのだ。

訪問リハビリの終わった母は、私の昼食がないことなど意にも介さず、
父と自分とでゆっくりと昼食を取り、デザートの和菓子まで食したあと、
おもむろに整形外科に電話をかけ、
「今から行っていいですか」
と尋ねたが、果たして
「午後は3時からなんですよ~」
と言われて、終わった。
診察券にそう書いてあるのだから、好きな時間に行って良い筈がなかった。
母はぶつぶつ言っていたが、私は自分の昼食をなんとかするのが先決で、
冷蔵庫を物色し、そのへんにある菓子パンとともに適当に食事をした。
その菓子パンだって、もとはと言えばパン好きの父のために、
先日、私が買って持って来たものだった。

午後2時になるとヘルパーさんが来られた。
事務所にも母は朝から電話をかけ、きょうは早く来て欲しいとか、
長く居て欲しい等々、いろいろお願いをしたのだそうだ(汗)。
急に予定を早めることはできなかったが、ヘルパーさんは、
いつも1時間のところ今日は2時間居られるようにして来て下さった。
まったく無理を言って申し訳ないことだった。

午後3時から、母のかかりつけの整形外科までタクシーで行ったが、
年末の診察とあって激混みで、終了したのは午後6時、
私は朝、取るものもとりあえず出て来たために、
自宅のほうの夕食の支度も何もできていなかった。
「なんぼなんでも、こりゃ無いわ、私は午後から来れば十分だったやんか」
と私が苦情を言ったら、母は、
「整形に電話して行ったら、何時でも、すぐ診てくれはると思うたんやもん」。
んなワケないだろうが、予約制でもないのに、
どうして母だけ特別に、待たずに診て貰えるようなことがあるものか。
「だってあそこ、午前中は1時までて言うけど、関係ないねん。
いっつも患者さんいはるもん。診察時間なんて、有って無いようなもんや」
そ~れ~は~、午前受付の患者さんが終わるまで時間がかかって、
午後に食い込んでいるだけだ、いつでも受付しているのとは違う!!

90歳近い人の理解力が半端で、精神が不安定であろうことは想像に難くない。
脚が痛くて困ったことも本当だろうし、気の毒だとは思っている。
しかし、別に悪性疾患でもなく、自宅在住、夫も高齢とはいえ健在、
経済的に困窮ということもなく、呼べば娘(私)が来るし、
ヘルパーさんは介護保険と自費とで毎日、訪問リハビリも週2回、
客観的には、90歳でこれなら、何も不足を言う境遇ではないのに、
「脚さえなおって、健康になれたらと思うのに」
「ああああ、なんでこないなことになってしもたんやろ」
と母の話は不幸なワタシの物語に終始しており、
繰り返し聞かされるほうとしては、それも気が滅入った。

(ここで父が、「ワシは、そようなことは思わんようにしとる」
と良いタイミングで言ったことには、私は少しウケた。
父は少年時代から、弟と一緒に悪戯をしても自分はスルリと逃げて、
弟が親から叱られているのを尻目に、自分は良い子のフリをしていた、
という類いの人間だったそうなのだが、ことほど左様に要領が良いのだ。
私が母の愚痴愚痴を不快に思っているのを、素早く察知した父は、
巧い具合に、私に褒められるような台詞を言っているのだった(笑)。)

母はそれから、ふと私を見て、
「そういや、あんた、何か食べへんの?」
と尋ねた。
思いやりが全くないわけではないが、実に、とんちんかんだった。
既に日はとっぷりと暮れ、私は大至急、家に戻りたかったが、
田舎ゆえに、タクシーを電話で呼んでも来るまでに30分かかった。
それに乗って、私はまた高速を使って帰った。大散財だった。
主人も忙しく、夜遅く帰宅したので、
夕食の準備が結果的には間に合い、それだけは助かった。

『母は衰えたのだ、あれは本来の母ではない、これも親孝行だ、
こうやって怒ることができるのも、親が生きて存在していればこそだ』
と百万回、私はオノレに言い聞かせたが、
私の貴重な貴重な休日を、――しかも寝て過ごせる休みではなく、
自宅と舅宅のお正月準備をするために涙が出そうなほど待ち焦がれた1日を、
母の「安心」のためにゆったりと全部消費された無念さは、
容易になだめられるものではなかった。
母が大船に乗ったために、こっちは転覆寸前や(--#)。
私がこのあと、31日以降1月6日まで1日たりともお正月休みがないのも、
父の優柔不断のために親戚に譲り損なっている、村の神社のご奉仕を
一家の長(の代理)として私が務めなければならないからだ。

誰のせいやねん(--#)(--#)(--#)
いずれ母が亡くなって、私が悲しくなったり、
もっとしてあげられることがあったのでは、ごめんなさいお母さん、
と後悔に胸を締め付けられる思いになったときには、
2017年12月27日水曜日の怒りと無念さを、きっと思い出そう、
と私は心に誓った(--#)(--#)(--#)。


……ということで、虎屋の羊羹が干支のワンちゃんパッケージだったので、
自分のために買うたった。

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今年も、カトリック幟町教会 世界平和記念聖堂のミサに行った。
去年も書いたが、クリスマスは私にとって年に一度だけ、
静かな気持ちで正式なミサに与る日、という季節イベントになっている。
普段ろくに何もしない者が年に一度しか教会に行かないとなれば
やはりクリスマスか、その前夜に主の降誕を祝いに行くのが
最も良い機会なのではないかと思い……(^^ゞ。

午後から雨模様だったので、今年はさほど混雑しないのではないか、
という私の予想は当たって、夜8時からの第二ミサとしては
今夜は、過去最高の良い席(笑)に座れた。
これまで、クリスマス当日やその前夜のミサのときには、
毎回この教会には驚くほど大勢の人が集まってきて、
大聖堂内では立っているしかない状況のことが多かったのだが、
今回は、悠々と前方の通路沿いの席、
それも、臨時に出されたベンチでなく、
ちゃんと跪き台もある正規の座席に腰掛けることができた。
大聖堂の耐震工事は進行中で、現在は外壁全体がシートで覆われ、
大聖堂の内部も、正面の「復活のキリスト」が修復中だった。

(左側二点は世界平和記念聖堂のイルミネーション。右側のは娘の母校)



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ポゴレリチは18日にはベオグラードのKoloracホールでリサイタルを行った。

BLIC(ブリツ)紙の記事。
待ちかねていた聴衆の熱い期待に迎えられて始まった演奏会は大成功で、
2度のアンコールがあり、スタンディングオベーションが続いたこと、等々報じられている。
VIRTUOZ PRIREDIO RESITAL Prepuna sala Kolarca na drugom nastupu Iva Pogorelića
プログラムは、10月の東京公演同様のものが当初予定されていたが、
記事によると、モーツァルトの幻想曲に始まり、次がベートーベンの熱情、
後半はシベリウスの悲しきワルツ、ラフマニノフの2番のソナタ、
が演奏されたと書かれており、変更があったようだ。
アンコールはラフマニノフとショパン、とあるが曲名は記事中には明記されていないようだ。

同じく、18日ベオグラード公演を報じる
Večernje Novosti(ヴェチェールニエ・ノーヴォスチ)の記事。
切符は早くから完売しステージ上にも臨時に数百の座席が設けられたこと、
開場後もリハーサルを続けるポゴレリチに聴衆が驚いたこと、
そして28年も待った甲斐のある感嘆すべき内容の演奏会であったこと、
終演後には、彼本人の過去40年間の写真が展示されているギャラリーで
サイン会が行われ撮影も許可されていたこと、等々が書かれている。
Stojeće ovacije za Ivu Pogorelića

セルビア国営放送によるポゴレリチのインタビュー。
ポゴレリチはセルビア語を話している。
収録日時が定かでないが、演奏会やサイン会の映像が出て来ないので、
16日協奏曲より前ではないかと思われる。
Ivo Pogorelić(YouTube)

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16日のポゴ氏ベオグラード公演を報じる、クロアチア語の記事。
ザグレブ本社のVečernji list
Ivo Pogorelić: Nakon 28 godina u rodnom Beogradu

写真10点が出ている。
https://www.vecernji.hr/galleries/gallery-282888/?page=1


同じく16日ベオグラード公演を伝える、セルビア語の記事。
ベオグラード本社のVecernje Novosti
Иво Погорелић омађијао и публику и музичаре (ФОТО)

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ポゴレリチは16日夜、ベオグラードで最初の演奏会を行った。
セルビア放送交響楽団との共演でショパンのピアノ協奏曲第2番。
指揮は首席指揮者のボヤン・スージッチ。

演奏会は、ベオグラード地元の待ちかねた聴衆の期待に応える大成功で、
ポゴレリチは熱い歓呼の声をもって讃えられ、歴史的演奏会となった、等々、
いくつかの記事が既にウェブ上にUPされているのだが、
その一方で、ポゴレリチ個人に対する非難も一部には出ている。
「彼は、かつて最も過酷な状況にあったセルビアを見捨ててクロアチアを選び、
その後30年もベオグラードを省みることをしなかった」と。

数字的な意味での『30年』には、背景に様々な事情があったと思われ、
彼本人は、私の知っている範囲でも10年前には既に、
ベオグラードに帰って演奏したいと公式に発言していたのだが、
それにしても、ポゴレリチが1991年のユーゴ紛争当時、
セルビアでなくクロアチア国籍を選択したこと、
その後にインタビューでセルビア人かと訊かれると、
明確にNOと答えていたこと等は事実だ。
ポゴレリチはクロアチア政府から優遇され、
1992年に文化大使に任命されており、
ドゥブロブニクやブコバルの再建のためにチャリティ公演等を積極的に行い、
ユネスコ親善大使としても、サラエボ・チャリティ財団の設立に尽力したが、
一方で、そのような貢献は、セルビアのためには為されなかった。
2017年の今、ポゴレリチがベオグラードを生まれ故郷であると言い、
セルビア語を話し、コロラッチ・ホールで歓迎される様を見て、
「どの面下げて」と不快に思う人々がいたとしても無理は無い、
という気がする。

ユーゴ紛争の中でもクロアチア紛争はとりわけ長く、深刻だった。
それ以前の歴史を見ても、セルビア人とクロアチア人の間には、
もともと、一筋縄では行かない難しい感情のもつれがある。
ポゴレリチがなぜクロアチアのほうを選んだのかは、詳しくはわからないが、
彼の父親はクロアチア人であり、彼が11歳でモスクワ留学に出発する直前、
「クロアチア人としての誇りを忘れるな」
と言って聞かせた等の逸話もあることから、
ポゴレリチの中に、クロアチア人としてのアイデンティティが
ある程度早い段階から形成されていたことは間違いないと思う。
モスクワ留学を終えてユーゴに帰国した1980年時点でも、
ポゴレリチはまずクロアチアのザグレブに居を構えている。
しかし、それとともにポゴレリチは2005年のインタビューの中で、
セルビア正教徒である母親の家系の、宗教の伝統についても触れている。
自分の中に、クロアチアとセルビア両方のルーツがあることを
クロアチア国籍選択後も変わりなく、彼なりに尊重していたことが伺える。

爆撃で壊れた建物が再建され、街並みが蘇ったとしても、
紛争で奪われたままのものは多く、それらに対する人々の悲憤の思いは、
容易には癒やされないのだと、つくづく思った。
ポゴレリチの祖国であったユーゴスラヴィアは、もはや失われたのだ。
セルビアにとってポゴレリチは、国民的英雄であると同時に、
視点を変えれば、国家の裏切り者でもあり得るのだろう。

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すっかり忘却の彼方だったのだが、実は10月17日に、
職場で言われてTOEIC Speaking TestのIPを受けていた。
その結果が、きょう出勤したら机の上に置いてあった。
2か月経っていたので、受けたこと自体をしばらく思い出せず、
何じゃこりゃと、かなり面食らった(汗)。
今まで一体、このスコアレポートはどこを放浪していたのだろうか。
公開試験なら20日前後でWeb閲覧できる筈のものではないか。

 TOEIC Speaking Score=170 LEVEL=7
 Pronunciation Level=HIGH
 Intonation and Stress Level=HIGH

 

初めて見たので、数字の意味合いがもうひとつよくわからないが、
200点満点中の170だからあまり大したデキではないような(汗)。
スピーキングのレベルは7で、最高ランクは8なので上から2番目。
発音とイントネーションは3段階のうちの一番上だが、
私は昔から、英語をそれっぽく読むことだけは得意なので、
嬉しいといえば嬉しいが、これはまあそんなもんだろうなと思った(汗)。

ちなみにIPというのはInstitutional Programの頭文字で、
形式やレベルは公開テストと同様なのだが、
企業や学校などの団体向けに設定されているTOEIC試験のことを言う。
TOEICには、従来のリスニングとリーディングによるTOEIC Listening & Readingと、
スピーキングとライティングを同日に受けるTOEIC Speaking & Writing、
更に上記のうちSpeakingだけをテストする TOEIC Speaking、
の3種類の設定があり、いずれも公開テストとIPの両方が行われている。
うちの会社ではどういう経緯か知らないが、これらのうちのSpeakingだけ
IPとして受けられることになっているそうで、
私は10月のある日、マネジャーに呼び出され「受けてみませんか」と言われ、
何だかよくわからないまま、指定された支社に行って来たのだった。

言われてから受験までに数日あったので、
一応、どういう形式のテストなのかは確認してから行ったが、
対策は何もしていなかった、……というか、やりようもなかった。
そもそも、英語が喋れる人なら、対策の要るような試験ではないと思った。
私は度胸だけで喋っていて、実のところさほど巧くないから、
恐らく瞬発力だけ評価され、内容的には穴だらけであるところがバレて、
こういう成績になったのだと思う(爆)。

強いて言えば、Question 10の「Propose a solution」のパートは、
練習すれば、自分なりに少しは上達するかもしれないと思った。
留守電という設定のメッセージを聞き、30秒準備してから
「相手の言っている問題点を理解していること」と
「その問題を解決するにはどういう方法があるか」の2点を
60秒間喋る、というパートなのだが、1回しか聞けないので、
私は、固有名詞や細かい日時設定が覚えられなかった。
何しろすべてが架空の話で、自分の立場や連絡先をでっち上げたうえで、
空想上のイベントに関して架空の自分にできる解決策を言わねばならず、
英語以前に「作り話」と「なりきり」の能力を問われて、かなり困った。
あそこは、メモを取っても良いパートだったのだろうか。
実際の仕事なら、私は必ず留守録を聞きながらメモを取るのだが。
いずれにしても、次の機会があれば、こういうところは
多少なりとも自分をトレーニングしてから臨みたいと思った。

今の忙しさではどうなるかわからないが、
来年はTOEIC S&Wのかたちで公開テストを一度は受けてみたい。
TOEIC L&Rのように対策次第で満点が取れるとも思えないが、
英語のアウトプットを鍛えるという意味で、
ときどきこういうものを受けて、自分を叱咤するのは必要なことだろう。

ともあれ、自発的に受けに行く勢いなど無かったところへ、
声をかけて下さったマネジャーには、内心で感謝している(汗)。
どうも、ありがとうございました<(_ _)>。

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ポゴレリチは12月16日と18日に、生まれ故郷のベオグラードで
28年ぶりの演奏会を行うことになっている。
16日が協奏曲でショパンの2番、
18日がリサイタルで、プログラムは先だっての東京公演と同様だ。
これらの演奏会のための使用楽器を、11月16日にポゴレリチは、
ドイツ・ハンブルクのSteinway & Sonsの工房を訪れ、試弾の後、決定した。

Ivo Pogorelich Visiting "Steinway & Sons" Factory In Hamburg ..November, 16 ..2017 ..(YouTube)

この世界的ピアニストの帰還を、現地は「歴史的演奏会」と讃え
チケットは即日完売、テレビ取材が行われ特別写真展も開催されている。

Погорелић за РТС: Виђаћемо се поново(セルビア国営放送のインタビュー)
Mira Adanja Polak: Ekskluzivno
(セルビア人ジャーナリストMira Adanja Polakが紹介する、
セルビア国営放送の1970年~80年代のポゴレリチの映像)

ポゴレリチは1958年に当時のユーゴスラヴィアの首都ベオグラードで、
クロアチア人の父とセルビア人の母との間に生まれ、
「チトー大統領のように生きるのが理想」
と発言していたほどの、愛国的な子供として育った。
少年時代から給費生としてモスクワに留学し、10年余りを彼の地で過ごしたが、
1980年10月の第10回ショパン・コンクールにはユーゴ代表として参加した。
その後、不幸なことに、1991年ユーゴスラヴィア紛争が勃発、
彼の祖国は分裂し、美しかった都市の景観も破壊された。
このときポゴレリチはクロアチア国籍を選択し、
以来、ふるさとのベオグラードのあるセルビアは、彼にとっての外国になった。
インタビュー等で、「あなたはセルビア人ですか」と尋ねられ、
ポゴレリチが「いいえ」と答えるのを、私は幾度か聞いたことがある。

しかしポゴレリチは決して、セルビアと決別したのではなかった。
ポゴレリチ本人の言によると、モスクワで演奏しないのは自分の意思だが、
ベオグラードで弾きたい気持ちはずっと以前からあった、とのことだ。
にも関わらず、様々な理由からそれは容易に実現しなかった。
今回の演奏会にこぎつけるまでにも、十年あまりの交渉期間があった。

この演奏会が行われることが正式にアナウンスされたのは、
2017年1月1日だったと思うのだが、
実は今から2年前の春に、ポゴレリチは私的にベオグラードを訪れ、
今回の会場となっているKoloracホールでリハーサル的な演奏もしている。
全くの非公式であったため、報道はされなかったが、
現地のファンがFacebookに投稿しており、
極秘の行動などではなかったことがわかる。
しかしそのときには、一般の人達からはポゴレリチだということは
ほぼ、気づかれなかったとのことだ。
「あの」ポゴレリチがまさかベオグラードに来ているとは、
現地の人達は誰も想像だにしていなかっただろう。

Ivo Pogorelich in Belgrade ..(YouTube)

目下、ベオグラードの会場となるKoloracホールのギャラリーでは、
ポゴレリチの、1977年から2017年までのポートレイトが展示されている。
大半はドキュメント写真に類するものだが、アート作品もあるとのことだ。

Pogorelićevo svraćanje u Beograd

「2008年になったら、50歳の誕生日に、自分の生まれたベオグラードに帰り、
そこで演奏会を開きたいと思っている」
とポゴレリチが発言してから、それが本当に実現するまでに、
10年近くの年月を要することになった。
少年時代を過ごしたベオグラードで、60歳を目前にしたポゴレリチは、
今、何を思うのだろう。
今夕、彼はベオグラードに到着した。
歴史的な演奏会の幕が開くまで、もう、あと60時間ほどだ。

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第一部前半が『実盛物語』、実盛は愛之助。
仁左衛門の若い頃みたいな容姿だとずっと思っていたが、
近年は私の中に、愛之助が誰であるかという感覚が出来上がったので、
「孝夫そっくり…」などといちいち考えることはなくなった。
愛之助は何を演っても端正で巧いが、
実盛に関しては微妙に、私の想定と違う役作りだと感じた。
非現実で大仰な設定だからこそ歌舞伎らしいドラマになるところを、
愛之助はリアリティをもって演り過ぎるのかもしれない。
もし機会があるなら、次は実盛は彦三郎で観てみたいと思った。

第一部後半は『土蜘蛛』。
平井保昌の團蔵に重厚さと品格とがあり、相乗効果で
頼光(彦三郎)の格も一段と高いものとして感じられた。
侍女の胡蝶は梅枝で、地味な松羽目ものの舞台にこういう人が出ると
華やかな彩りがあって眼福だった。
間狂言には小さい亀三郎が出ていて、声も良く通り、本当に可愛かった。

******************

第二部は前半に『らくだ』。
これは9月に、染五郎・松緑・亀寿(当時)で観た題材だったが、
今回はそれの上方版だったので、言葉も関西弁だし演出もいろいろ違い、
紙屑屋 久六(中車)が完全な主役に見えて、意外だった。
私はこれは、半次(上方版では熊五郎)と久六と「らくだ」、
の3人を、トライアングルのように楽しむ芝居だと思っていたのだが、
上方版では半次の妹おやすも出ないし、
話の力点の大半が、久六にあるのだろうという感じがした。
中車の演じ方もまた、徹底的で大変印象の強いものだった。
中車の舞台には求心力があると思った。
こちらは熊五郎が愛之助で、実盛とは打って変わって伝法な兄さん、
らくだ役は片岡亀蔵で、背負われた死体としての動きが絶妙、
手足を黄色に塗っているのもいかにも冷たそうで、
これまたシヌほど笑わせて貰った。
9月の岡鬼太郎・作の『らくだ』のときは、
さほど長く「かんかんのう」を歌わなかったような気がするのだが、
今回はそれもちゃんと聴かせて・見せて貰った。
『実盛物語』で九郎助を務めていた松之助が、
『らくだ』では家主女房おさい。
前回観た、東蔵のおさいよりずっと「おかん」的な図太い感じがしたが、
家主の幸兵衛(橘太郎)とのバランスで、上方らしさという意味からも
ほど良く、楽しく観ることができた。

第二部の後半は、『蘭平物狂』。
坂東亀蔵の壬生与茂作がいかにもすっきりと綺麗な男ぶり、
新悟のおりくも品が良く、ただの在所者でない雰囲気が明らかで、
最初から「何かある」感じがちょうど良く出ており、巧いと思った。
行平は愛之助で美しいことこのうえなく、
奥方の水無瀬御前は誰かと思えば児太郎で、
こういう役ができるようになったのだなと感慨深かった
(父上の福助の病状はどうなのだろうか。復帰は難しいのか………)。
この演目はとにかく蘭平と捕手たちの大立ち回りの迫力が、ただごとでない。
千秋楽まで元気に存分に、全うして頂きたいと心から願っている。
『らくだ』で愉快に爆笑し、『蘭平』で息を呑んで展開に見入る、
という第二部が、今月の歌舞伎座では私は一番好きだったかもしれない。

******************

第三部は、玉三郎と中車の舞台で、
前半が『瞼の母』、後半が舞踊『楊貴妃』。
幼い頃に別れた実の母を追い求める忠太郎を観ていると、つい、
中車自身の、父・猿翁との長い断絶のときを思い出してしまい、
忠太郎の言葉のひとつひとつが、中車本人による独白のように聞こえた。
現実には中車は、こうして父と同じ歌舞伎の世界を手に入れることが叶い、
それは多分、幸せなことだったのだろうと思ったりした。
母おはまは玉三郎で、私の思う玉三郎の魅力のひとつが、
「(良い意味での)酷薄さ」なのだが、それが今回は、
揺れ動くおはまの態度の中にうまく活かされていたと思った。
お登世が梅枝で、玉三郎と並ぶとあまりに美しい母娘だった。

『楊貴妃』は初演以来、玉三郎しか演っていない演目だが、
相手役としての中車は初役。
玉三郎の、静謐な瞬間を丁寧に紡いで繋げて行くような舞踊が、
楊貴妃の魂の世界そのもので、時の経つのを忘れて見入った。
中車には、私はこれで新歌舞伎も大衆ものも舞踊も見せて貰ったので
いずれは時代物で観たい、と思った。
舞台人としての中車は、私なりにある程度わかったが、
歌舞伎役者としてどうなのかというイメージが確立するところまでは、
まだ、自分の中で至っていない。
何しろ見始めたばかりなのだから、今後の中車に注目したいと思った。

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