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映画『どうすればよかったか?』は、
昨年末からXで話題になっていたのだが、
暮れに上映していた横川シネマまで出かける時間が捻出できず、
諦めていたところ、今月半ばからサロンシネマに来たので、
きょう、ようやく行くことができた。
映画『どうすればよかったか?』(公式サイト)
統合失調症を発症した家族に対して、どうすればよかったか。
患者は、監督・藤野知明氏の、8歳年上の実姉であった。
姉は、医学部在学中だったある時期から、言動が尋常でなくなり、
夜間に発作を起こして、家族が救急車を呼んだのが始まりだった。
このときは一旦、精神科に運んでいるのだが、
その後、両親は、精神疾患を認めず家で面倒を見ることを選択する。
姉が勝手に外に出て行くのは危険であるし、家族も困るので、
やがて玄関ドアには鎖と南京錠が取り付けられる。
1980年代には、精神障害者への偏見が今より根強く、
治療法も限られていたことはわからないではないのだが、
それでも、患者を受診させず、世間から隔絶した環境に置くという処遇は、
江戸時代の「座敷牢」にも等しい、非科学的なものではなかったか。
両親ふたりとも、医師であり研究者でもあり、
本来ならば精神医学についても人一倍、深い理解を持てた筈だが、
我が子のこととなると、これほどに悩み、道に迷うものなのだ。
姉の統合失調症も、そして話の終盤で発症する母親の認知症も、
家族には厄介な問題であると同時に、
患者本人もまた本当に苦しんでいる訳で、
その病態は、専門的な治療や指導を要する疾患である。
周囲が愛情と忍耐をもって、時間をかけて対話すれば
わかり合えて解決に至る、というような次元の話ではない。
家族は、患者から目を背けずに医療に繋ぐ努力を継続すること、
これを超える策は無いと思うが、
外側から見ている者には割り切ったことが言えても、
当事者となれば、そのように行動するのもまた耐え難いことなのだろう。
藤野氏による記録は、姉が発症して9年経ったところから始まる。
映像の方面に進んだ藤野氏が、帰省の折にカメラを回すようになり、
姉の姿や、両親の言葉など様々な映像・音声が残されるようになる。
ほとんどの場面で、語り手や撮影側に撤している藤野氏御本人が、
20年を超える姉の闘病と家族の記録を撮り続けたあと、
最後に画面に登場し、老いた父親と向き合い、これまでのことを語り合う。
父親は車椅子に座り、言動は理知的だがとうに90歳を超えている。
藤野氏もまた、「弟」でしかなかった時代を過ぎ、既に年齢を重ねている。
「失敗だったとは思わない」と父親は言う。
これまでの家族の映像を公開することを考えている、
とここで藤野氏は父親に告げる。
ラストシーンは、在りし日の「姉」の、笑顔とピースサイン。
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昼過ぎ、劇場アニメ『ベルサイユのばら』を観に行った@八丁座。
私世代だと、ベルばらファンだったことがある者ならば、
連載漫画・宝塚・テレビアニメと、リアルタイムで制覇している訳で、
2025年の今、あらためてベルばらというのはどうなんだろうかと
公開前に話を聞いたときには思わないではなかったのだが、
中川右介氏の『水先案内人のおすすめ』を読んで、行くことにした。
ちなみに中川氏とは、先日のポゴ氏所沢公演でお会いしました(^_^;。
なるほど、一編の物語として、なかなか面白かった。
オスカル主体で、劇画調に美しく格調高く、まとめられていた。
声優さんたちも皆、とても良くて、違和感など全く無かった。
敢えて少女漫画路線に撤した作画も、正解であったと思う。
瞳に光る星、背後に咲き乱れる薔薇、
そんなものに耐えられる「リアリティ」など存在しないだろう。
宝塚歌劇がうまくハマったのも、徹底的な虚構であればこそ。
ただ、原作前提で見ると、駆け足感は否めなかった。
特に、物語の終盤、オスカルは、ひとりの人間として、
名も無き民衆とともに祖国フランスのために闘う決意をするのだが、
それは、これまで心からの敬愛をもって仕えてきた国王一家を
追い落とす側に自ら回ったことでもあって、
両者の間で引き裂かれる苦悩は深かった、
……のだが、映画ではそこは大して触れられなかった。
女伯爵の称号と伯爵領のすべてを捨てる、と宣言するオスカルを前に、
副官のダグー大佐がうつむくところも、きちんと描かれているのだが、
にも関わらず、ダグー大佐(が体現する貴族たちの多数派)が何を感じ、
その後どうしたかは、時間がないので映画では描かれないし、
ナポレオン・ボナパルトも一瞬登場していたのだが、
これまた映画の中では触れられることはなく、台詞も何もなかった。
ロベスピエールやバイイも居たけど、紹介されなかった。
ベルナール・シャトレはフルネーム名乗っていたのに(^_^;。
私は原作をそらんじるほど読み込んでいるので
描かれていないところも、自動的に脳内で補完しつつ
この映画を観ていたと思うのだが、
全く前提のない、ベルばらが初めての人だと
果たしてどのように感じるのだろうか。
細かな設定は、無いなら無いなりに、男装の麗人の物語として
十分にドラマティックだということなのだろう、
と想像はしているのだが…。
ともあれ、久しぶりの自由な午後で、きょうは素晴らしかった。
無事にベルばらを観ることができて、本当に良かった。
市街地を、明るい時間に娯楽のために歩きまわることなど、
どうかすると2ヶ月ぶりくらいの経験で、ドキドキした。
君津くんだりまでヘーキで行って来た者が言うのもおかしいが、
こういう普通の午後が、本当に長い間、得られなかったのだ。
あまりに新鮮で歩くだけでもワクワクしたのと、
時間までにちゃんと映画館に着いて、希望の座席を買えるだろうか、
と微かなプレッシャーみたいなものを感じたせいもあって、
本当に文字通り動悸がした。
結果的には良い席が手に入ったし、
60歳の私は、八丁座のシニア料金に該当し、結構トクした(笑)。
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【追悼の声】漫画家 鳥山明さん死去 68歳 「DRAGON BALL」など
(NHK 2024年3月9日 8時48分)
私は目が悪いせいもあって、テレビを観ないしゲームもしないので、
アニメの『ドラゴンボール』もファミコンの『ドラゴンクエスト』も
皆が熱中するのを尻目に、直接の接点を持たずに過ごしたのだが、
それでも、鳥山明が大きな存在であることは、以前から認識していた。
『Dr.スランプ』一本あるだけで漫画家として名を成したと言えるのに、
更に『ドラゴンボール』の連載とアニメと映画と、
『ドラクエ』シリーズのキャラデザインがあった。
私はこれらヒット作をどれも、世代的にはリアルタイムで知っている。
また、後に、私が会社で同僚となった若いアメリカ人やカナダ人は、
皆、Son Gokuが大好きだった。
少年時代に胸躍らせながらGokuの冒険に熱中し、
かめはめ波を練習して、大人になった人たちだった。
彼らの話を小耳に挟むだけで、鳥山明が国際的な存在であることがわかり、
彼が偉大な漫画家であることを、私は十分に理解していた。
……つもりだった。
しかし私は甘かったのであった。
今回の鳥山明の訃報に際して、何に驚いたと言って、
世界じゅうから寄せられ続ける哀悼のコメントの、量と熱さであった。
BBCがBreaking news(速報)として流したのに最初に感心したのだが、
SNSには瞬く間に、英国米国のみならず、メキシコやブラジル、台湾、韓国、
スペイン、フランス、フィリピン、タイ等々から次々とコメントが寄せられ、
様々な世代の、Toriyamaファンの言葉で埋め尽くされた。
更に、各国駐日大使や、G7を始め各国大使館が軒並み正式に弔意を表し、
中華人民共和国外交部も会見し哀悼の意を捧げると述べた。
国葬レベルだろう、これは。(汗)
私は日本にいて、マンガもアニメも当たり前にいくらでも身近にあったために
単なる娯楽として軽く考え過ぎていたのだと、遅蒔きながら反省した。
私が思っていた以上に、日本のサブカルは、
世界じゅうで幅広い年代から注目され、絶大な支持を得ていたのであり、
mangaをそのような存在たらしめたのが、他ならぬ鳥山明であったのだ。
Akira Toriyamaほど、愉快にワクワクと、世界をひとつにした日本人は居なかった。
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ダ・ヴィンチが惹かれ、マキャベリが認めた「最も美しい英雄・チェーザレ」の真実(現代ビジネス)
『あのレオナルド・ダ・ヴィンチが惹かれ、マキァヴェッリが理想とした伝説の英雄、チェーザレ・ボルジア。そんなルネサンス史上最も美しい英雄、チェーザレ・ボルジアを描いた作品『チェーザレ 破壊の創造者』は累計100万部を超える大ヒットになっている。歴史の闇に埋もれた英雄の真実を調べるため、資料の収集、翻訳、分析をしながら作画し、16年連載を続けてきたこの作品がついに最終回を迎えるにあって、作者であり漫画家の惣領冬実さんにインタビュー。その長年にわたった創作の秘話などを語ってくれた。』
『チェーザレ 破壊の創造者』は私も全巻持っていて、
大変楽しみにして読んでいた漫画だった。
衣装の模様どころか燭台のディテールや馬の蹄鉄までも、
時代考証等の根拠なくば描かれないほどの劇画だったので、
「このペースだと、作者存命中にチェーザレが死なない(汗)」
と不安に思っていたのだが、このほど、話はその遙か手前、
チェーザレの父親が教皇になるところで終わることになった。
つまり物語は、チェーザレの少年時代後期から青年時代の入り口まで。
読者としては正直なところ、彼が随所で匂わせていた野望や、
妹ルクレツィアとの魂の結びつきとも言える関係等々、
伏線の回収が十分なされたとは言えない箇所が多々残ったと感じるが、
それらが、できるなら番外編的な短編でこれから描かれると嬉しい。
サンチャ・ダラゴーナも、最終巻の終盤に印象的に登場しただけで、
その後のことは何も触れられなかったのが残念だ。
『ロドリーゴが教皇になってから枢機卿としてローマに入るまでの約1年間、チェーザレはスポレートという場所で過ごしていて、伝記には「彼はスポレートで青春を謳歌したであろう」とだけ記されています。これは資料が残っていないということなのですが、激動の時代にのまれていくチェーザレが最後に自由を謳歌した時間だったはず。そんな彼の人間らしい姿を、いつか私なりの視点で描きたいですね。』
という作者・惣領冬実氏の言葉がインタビュー中にあるので、
また機会を得て、この物語のその後が発表されることを願っている。
ちなみに、父親が教皇に選出された場面から開始されるチェーザレ伝が、
塩野七生『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』である。
チェーザレ・ボルジアの人生が本当の意味で花開いて行くのは、ここからだ。
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ルドルフ・ヌレエフを描いた映画『The White Crow』を
昨日、出勤前に観てきた。
なにしろ上映館がうちの会社のほとんど目の前だったのだ(^_^;。
この条件でなければ観ることは出来なかったかもしれない。
私はヌレエフの舞台を実際には観ていない。
当時の何人かのアーティストやダンサー達と同様、
彼もまた、90年代初頭にAIDSの合併症で亡くなったので、
思いがけず早い別れとなってしまい、実演に接することは叶わなかった。
88年にはヌレエフは広島に来たのだが、知っていながら観に行かなかった。
いずれまた機会があると思い込んでいたのだ。
残された時間はもうあまり長くなかったのに。
この映画では、ダンサー・ヌレエフが芸術上の自由を求めて
ソ連から西側へ亡命するまでの軌跡や葛藤が、ひとつの物語になっている。
亡命を決意することになる1961年のパリ公演を軸に、
少年時代と、ワガノワ・キーロフバレエ学校での学生時代とが
交互に映像として現れる構成になっているため、
時系列はややわかりにくかったが、過去の経験のどの部分が、
非凡なダンサーとしてのヌレエフを造型したか、
暗示的に描くことには成功していたと思う。
観る側として不満だったのは、ダンス場面が意外に少なかったことで、
もっと「ニジンスキーの再来」たるヌレエフのダンスを
強烈に印象づける場面構成をして貰いたかった。
舞台で拍手喝采を受けるシーンがあるにはあるのだが、
それは彼がスターになった逸話のひとつに過ぎず、
私としては、もっと次々と彼の踊りを味わう手応えが欲しいと思った。
なんのために現役プリンシパルであるオレグ・イヴェンコを使ったのか!
映画としては一貫して説明は極めて少なく、
幼い頃の逸話や、美術館でヌレエフが絵に見入るシーン等から、
背景にあるものを観る者が自由に感じ取れば良い、
という演出になっていたとは思うのだが、
他のことと違いダンスだけは、ヌレエフを天才たらしめる最重要の要素なので、
過程として、学生時代からソリストとしてスターになり、
ソ連を代表するダンサーへと駆け上っていくところを
もっとはっきりと観たかった。
道楽者の私としては、彼の亡命の手引きをすることになった
Clara Saintというチリ人女性に、大変心を惹かれた。
クララ・サンはヌレエフがパリに来てから紹介されて知り合い、
すぐに近しい友人同士にはなったが、
恋愛関係には発展しなかった(と後に実在の本人が語っている)。
クララ・サン本人はパフォーマーではなかったが、
ヌレエフの天才を見抜き、彼の舞台に心底惚れ込んだことで、
彼を救うために亡命の直接的な手助けを行うことになった。
彼女は、ヌレエフだけでなく、イヴ・サンローランや
アンディ・ウォーホールとも親しい交流があった。
権力と経済力と時間、それに鋭い審美眼を持っており、
偉大な芸術家達の人生を左右するような位置に立っている、
……これこそまさに、道楽者の「神」(爆)!!
映画全体の中で、私にとって最も印象的だったのは、
ヌレエフが亡命を決行した一部始終が、
少年時代に初めてバレエを習った日の情景と交錯するところだ。
「お母さんはお帰り下さい。ひとりで出来るようにならなくては」
とバレエ教師に促され、母は背を向けて去って行き、
ルディークは稽古場に残され、民俗舞踊を踊ったあと、
教師の前に立ち、バレエのドゥミ・プリエから習い始める。
足は、最初に1番ポジション、次に5番ポジション。
すべてのバレエのパは、ここから始まるのだ。
西側亡命したヌレエフもまた、故国の母親から離れることを選び、
ソ連での栄光を捨て、西側での人生を始めることになった。
まさに、第一歩から。『ひとりで出来るようにならなくては』。
しかし、ヌレエフの孤独が心に染みる、ということは私にはあまり、無かった。
少なくとも映画で描かれたヌレエフは、己の芸術的欲求に極めて忠実で
亡命もまた芸術家としての彼には必然と感じられたので、
場面として描かれている以上の悲劇性などは、私は感じなかった。
過去を断ち切るにはひととおりの決意があったこととは思うし、
当時の状況を思えば、政治的亡命は命がけであったが、
結局、彼は望んだものを手に入れたのだという納得感のほうが、
観る者としての私には、大きかった。
亡命以後のヌレエフがどれほど偉大なダンサーとして
世界を舞台に活躍したかは、この映画では直接には描かれていない。
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なんとしても再度、映画館で観たい、と願い続けていた、
『ボヘミアン・ラプソディ』を、昼に八丁座で観て来た。
11月9日の公開以来、この映画の人気は衰えることがなく、
全国的に12月28日から上映館が増やされたのだが、
広島市内でもついに、勤務先から至近距離にある八丁座に来たので、
こんな目の前でやっているものを逃すテはない、と思い、
25日の夕方、八丁堀を通ったついでにチケットを買っておいた。
そのときは、私の道楽の鉄則「迷ったら、行け」に基づき(笑)、
とにかく席を購入してしまえば、忙しくなっても何があっても、
観に行く予定のほうが優先される!=必ず観られる!
……等々と考えていただけだったが、
きょう行ってみたら、167席の「八丁座 壱」がなんと満席だった。
つくづく、チケットを買っておいたのは英断だった。

二度目とあって、前回より細かいところを更に楽しむことができた。
この映画は、わかる人にはわかる細かい仕掛けが随所に仕込んであるので、
熱心なファンにはコタエられない内容なのだが、
それらはQUEENに思い入れのない人には一切、関係がないところでもあり、
ファンと批評家の間で作品への評価が異なるのは、無理もないことだと思う。
例えば、フレディの家にマレーネ・ディートリッヒの写真があるのは、
QUEENⅡのジャケットの元ネタになったものだからだし、
フレディ宅の壁の正面に日本の着物が飾られている様子からは、
この時期QUEENが既に、日本公演を終え彼の地でも成功していることが示され、
フレディが和服を着て歌った逸話をも、連想させられるようになっている。
またこれは、Twitterで某氏の指摘を読んでほとほと感心したことなのだが、
ジム・ハットンから贈られた指輪が、ライヴエイドの場面のフレディの指にある、
ということも、台詞では一言も触れられないのだが、
映像を注意深く観ているとわかるようになっている
(実在のフレディも、1985年7月13日のライヴエイドの映像を観ると
右手薬指に指輪をしている。しかし恋人ジムが彼に結婚指輪を贈ったのは、
事実としては86年になってから。このレベルの脚色もまた映画の随所にある)。
主人公のフレディの派手な言動の影で、ほかの登場人物たちが、
地味ながらも生き生きと、それぞれの人生を生きている、
ということにも、きょうは強い感銘を受けた。
例えば、マネジャーのジム・ビーチが一貫して良い味を出しているので、
エピソードのひとつひとつに、QUEENの外側からの視点が加わったと感じたし、
当事者であったメンバーそれぞれもまた、本当によく本人達を反映した、
巧い表現をしているので、些細な一言や、一瞬の首のかしげ方等にまで
たびたび感心させられた。
映画なのだから、すべては演出であり飽くまで虚構なのだが、
虚構だとわかったうえで、その土台にあるリアリティに惹きつけられた。
そして、フレディは本当に孤独だった、ということも胸に染みた。
表現者としての強烈な才能に比して、フレディは常に寂しい人だった。
独りである自分と向き合わないで済むように、彼は幾度も、
華やかな招待客を集めて、乱痴気騒ぎの盛大なパーティーを開き、
「フレディ・マーキュリー」を完璧に演じて「愛」を振りまいたが、
本質的に彼の心を温めてくれる人には、容易に巡り会えなかった。
彼のそばに晩年まで残ったのは、QUEENのメンバーとマネジャー、
親友メアリー、恋人ジム、両親と妹、そして彼に可愛がられた猫たち。
彼らは最後に、72,000人の喝采を浴びてライヴエイドで歌うフレディの姿を、
それぞれの場所から、真剣な眼差しで、各々の思いを込めて、見守る………。
今日、八丁座で映画が終わり、エンドロールが流れ、
最後に The show must go onのフレディの歌声がやんだとき、
満員の客席のあちこちから、自然に拍手が沸き起こった。
それは、フレディの音楽が、今もなお、こんな極東の街でも、
大勢の人達から支持されていることの証しだった。
あの世のフレディに、きょうの私たちの拍手が聞こえていただろうか。
こうなると、バルト11のほうの『胸アツ応援上映』の企画も捨てがたい。
私は滂沱と泣いて凄いことになりそうだが、この際構っていられない。
QUEENのライブを追体験するためには
DVDやテレビのサイズ感では全く駄目だ、大音響と客席が無くては。
応援上映と銘打っている回は、拍手OK!手拍子OK!発声OK!
とのことだが、スタンディングは無いのか(^_^;。
ライヴエイドの場面では、実は私は立ち上がりたい欲求を堪えている。
座ってQUEENのライヴを聴くなんて、無いよぉ(^_^;?
……ということで、きょうの八丁座の初回を見終わって出て来たら、
既に次の上映を待つ人達の長蛇の列ができていて、
15:30の回も満席の札が出ていた。
公開から日数が経ったし、11月のときよりゆったり観られるだろう、
と私は勝手に思い込んでいたのだが、事態は全然違って、
当日いきなり行って観られるような映画では、
なくなっていたのだった(汗)。
前後左右にしっかりと空間を確保した状態で、自分の世界に入って、
さめざめとハンカチ、…いや、フェイスタオルを使いながら観る、
ラストの20分間は、声は出さないまでも心の中で熱唱しながら観る、
というのを想定していたのだが……。
…それも結構、悪くないと思っていたのだが……(汗)。
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11月9日から公開されていたことは知っていたのだが、
忙しくてなかなか行けず、きょうの夕方、ようやく観て来た。
フレディを中心としたQUEENの映画が制作されることを
私が初めて知ったのは6年前だったが、最初の企画はそれ以前に始まっており、
主演者やスタッフの交替も乗り越えながら、完成に8年を費やしたとのことだ。
2018年の今、ようやくスクリーンで70年代からの彼らを追体験でき、
長年のファンとして、きょうは本当に幸せな思いをさせて貰った。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』公式サイト
キャストは、いずれも大変に素晴らしかった。
メンバーそれぞれ、実によく雰囲気や特徴を捉えた演技だったし、
ライブエイドの会場の再現も圧巻だった。
このときの演奏は今でも映像で見ることができるので、
映画がいかに忠実に当時のライブを再構築して見せたか、
誰でも検証可能であると思う。
Queen - Live at LIVE AID 1985/07/13 [Best Version](YouTube)
この映画では多くの感動的な逸話が語られるが、中でも、
若い頃も、キャリアを重ねてからも、
メンバーの間にふとした行き違いや諍いが起こるたびに、
その都度、音楽の力が、彼らを再び、結びつけてくれた、
という展開に、私は最も胸を打たれた。
ブライアンがWe Will Rock Youの足踏みと手拍子を披露したとき、
ジョンがAnother One Bites the Dustの冒頭のフレーズを弾いたとき、
彼らは、それまでの苛立ちや口論を次第に忘れ、
目の前に実現されつつある音楽に夢中になった。
彼らは本当に音楽を愛していたし、QUEENは根源で常にひとつだったのだ。
そして、最後に彼らの絆が永遠のものとなったのも、やはり、
あのライブエイドの場で、奇跡のような演奏を共有したからだった。
エンドロールで、実在のフレディがAIDSのために91年に亡くなったことや、
フレディに敬意を表し、エイズと闘う財団が設立されたこと等が流されるが、
この映画の内容のすべてが、事実そのままである訳ではない。
ファンの間で有名であるにも関わらず触れられなかった出来事や、
時系列から見ると必ずしも事実通りでない箇所は、いくつもあった。
特に、ライブエイド前にQUEENが事実上の解散状態になっていた、
というところは最大の脚色で、現実にはライブエイド直前の時期、
QUEENはワールドツアーに出ており、85年5月来日公演は私も聴いている。
ただ、これと相前後してフレディはソロ活動を開始していたし、
QUEEN解散の噂は、当時幾度も囁かれており、
「ライブエイドがあったから、解散が回避できた」
という意味のことは、後にメンバーもインタビューで語っていたので、
物語として、少々の誇張はあっても許されるだろう。
また、フレディの死後に公表された事柄やメンバーの談話からすると、
ライブエイド出演時点ではまだ、フレディはAIDS感染を確認しておらず、
映画の設定のような体調不良の中で実現したステージでもなかった筈だ。
しかしこれも、時期は違うにしても、
フレディが自分の病名を知って仲間にだけ打ち明け、
その秘密が外部に対し、メンバーの間で厳重に伏せられていたのは事実で、
フレディの体調を考慮しつつ行われた演奏があったことも間違いない。
そのあたりを逸話として、ライブエイド出演の場面に集約した、
として理解することは、十分にできる。
ブライアンとロジャーがこの映画制作に直接関わっている以上、
内容的には脚色部分も含めてメンバーも承諾している訳で、
史実通りでない箇所に価値がないとは、私は全く思っていない。
ライブエイドでフレディの歌った曲はどれも、
彼の人生を思うと、実に象徴的だった。
未来の自分に何が起こるか、まだ全く知らなかった筈の時期に
彼はああした曲を書いていたのだ。
歌詞の通り、彼の歩んだ道は決して平坦でなく、彼は生涯、闘い続け、
多くの人々や出来事によって、彼は幾度も、不当に傷つけられた。
けれども一方で、音楽によって結ばれたQUEENがフレディのfamilyとなり、
その彼らを支え続けたスタッフや、生涯の友となったメアリー、
最後の恋人だったジム、皆の愛に包まれて、
フレディの孤独で過酷だった人生の中に、
輝くように幸福な時間もまた、確かにあったのだ。
Love of My Lifeを英語国民でない聴衆が一斉に歌い始めて
フレディを感激させたという場面が映画に出てくるのだが、
実際に、彼らが来日したときのライブでもそうだった。
英詞を、ひとつも間違えずに、聴衆が大合唱してフレディに応えた。
レコードではコーラスとハープで飾られている曲の最後の部分を、
ライブでは、Oooh, Oooh, Yeah---と歌って締めくくるのが
いつものフレディのやり方であることも、
ファンである私たちはよく承知しており、最後までその通りに一緒に歌った。
私たちは、あのとき、フレディを喜ばせることができただろうか。
在りし日のフレディの笑顔、I still love you!と返してくれた彼の声を思い、
私は涙を堪えることができなかった。
あれは、ささやかではあったが確かに、日本の私たちが、
フレディのために出来たことだった。
そのような瞬間を持つことができて、私たちもまた大変幸福だった。
彼と同じ時間を、空間を、共有できた。
改めて、私たちは本当に幸運だったのだと思う。
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映画『ボヘミアン・ラプソディ』(公式サイト)
ついに、11月9日の公開が決まったそうだ。
QUEENの映画『ボヘミアン・ラプソディ』。
フレディ役を誰が務めるか、かなり揉めたという記憶があるが、
最終的に主演者となったのは、ラミ・マレック。
トレイラーを観る限り、文句なしの見事な完成度だ。
ラミ・マレックというと私にとっては、
娘の好きな映画『ナイト ミュージアム』シリーズで
エジプト国王アクメンラーを演じていた人だが、
エキゾティックな容貌がフレディにはぴたりとはまっている。
ほか、ブライアン、ロジャー、ジョン、みな違和感なく素晴らしい。
ひととき、70年代のあの日々へとタイムスリップできそうだ。
予告編だけでも、フレディの伸びやかな声に乗せて懐かしい逸話が展開され、
私はこの物語が最後にどこへ行き着くか知っているだけに、もう、泣きそうだ。
劇場にはタオル必携(^_^;。
広島では上映があるのだろうか?
県外でも勿論行く。可能なら複数回、通いたいものだ。
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