転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



数日前、歯医者に行った。
記憶を辿ると、2007年の10月以来、ただの一度も、
歯科なる場所に行ったことがなく、ほぼ二年ぶりだった。
今回も別に痛いところがあったわけではなかったのだが、
こんだけ放って置いたら、何か起こっていそうで不安で、
それに耐えかねて、受診したのだった。

だが、案に相違して、何もなかった。
一本ずつ、虫歯があるかないかや、動揺度はどうか、
歯周ポケットの深さは何ミリか、等々、診察されたのだが、
「特にここが悪いというところは、無いです」
と先生は仰った。
そして、ひととおりのクリーニングのあと、
全部の歯の状態の図解と、
『あなたのお口の中にムシ歯はなく、とても良い状態です』
『あなたの歯茎はとても良い状態です。これを維持していきましょう』
という文章がプリントアウトされた紙を渡された。

私は、自分の歯が強いということなど、考えたことがなかったが、
こんだけ放って置いても大した虫歯にもなっていない、
というのは、何か生まれつきのものでもあるのだろうか。
うちの母は、かなり大きくなるまで歯磨きなどしたことがなかった(爆)
という人間なのだが、生まれてこの方、
ほぼ、虫歯というものを経験したことがないのだそうだ。
当然、80歳を過ぎた今も、入れ歯も差し歯も一本もなく、
そもそも、治療跡すらほとんどないという驚異的な人間だ。
一方、父のほうは、30代くらいから歯槽膿漏が進行し、
多分50代初めくらいに、総入れ歯になったと記憶している。

私は、現時点までのところでは、父よりは母に近いタイプのようだ。
が、父方の祖母は、30代から総入れ歯だったが、
90歳を過ぎても身体強健であったので、
「歯が弱ると体も弱る」というのもまた、大嘘だと私は思っている。
虫歯知らずの母は病弱なのに、歯なしの祖母は超人的に体力があった。

で、それはともかくとして、今回の私の場合、
虫歯はないが、かつての虫歯の治療跡で、弱っているものが、
ひとつ、発見された。
もう二十年くらい前に治療した、左下7番の詰め物が、
経年劣化で、一部、外れかかっているのだった。
これを、なおすことになった。

健診を受けると、こうやって不具合を必ず発見され、
不快な治療を受けることになるという、良い見本だ(涙)。

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・今朝のニュースで、血液センターだかどこかに保管されている血清で、
新型インフルエンザの抗体がどの世代に有るか無いかを調べたら、
現在80歳以上の人たちでは60パーセント前後の人が、
抗体を持っていることがわかった、と言っていた。
どういう抗体検査をしたのか、ニュースで内容までは言っていなかったが、
一般的には、抗体というのは、年月を経ると弱まることが多いので、
過去に罹った人でも、抗体を維持できていない場合は検査で陰性になる。
そう考えるならば、80歳以上の人たちのうち、当時、実際に罹患した数は、
本当はもっと多かった可能性があると思う。
もしや今回のは、実は全然、新型なんかではなく、
思いっきり旧型インフルエンザなのでは?
あんまりお久しぶりだったので、若い世代は未経験だったという・・・

・主人が今朝、地元病院の整形外科に行った。膝が痛かったからだ。
もともと、主人は膝と腰が弱いのだが、ここ一週間ほど特に左膝が、
どうかするとハズれてしまいそうな、痛みと違和感があって、
「半月板、損傷したんと違うか」
と本人は言った。
半月板損傷と言われると、私はなーちゃん(大浦みずき)を、
連想せずには、いられなかった。
彼女が、宝塚花組の二番手男役だった頃に、
前々から具合の悪かった膝が、舞台でいきなり「パッコン!」と言って、
それきり動かなくなった、という事件が、あったのだ
(彼女はこの半月板損傷のために、トップ就任目前にして半年以上、休演した)。
主人は見たところスタスタ歩いており、パッコン言った気配もないので、
アナタの半月板は無事ですと私は診断したのだが、
主人は信用せず、行けるときに行かねばと受診することを決意した。
結果、別にどうもなっていなかった。軟骨がやや減っていた程度だった。
湿布と内服で痛みを取り、筋肉を鍛え減量するほかないとのことだった。
一言も無いでブヒね?

・その、なーちゃん、こと大浦みずきさんの話なのだが。
春先に、胸膜炎で舞台を降板し、療養されていたなーちゃんだったが、
このほど、舞台出演の予定が決まったようだ。
ダンスシアターGIGEI-TEN3「なつめの夜の夢」
公演予定は来年の1月で、上記イープラスの案内文によると、
『1部は詩の朗読とパフォーマンスで綴られる「わたしがこどもだったころ」。
2部は、パワー全開のダンスレビューショー「√Dance3」』とのことだ。
飽くまでも私の予想に過ぎないが、病気療養だったことを考えれば、
いきなり全面的なダンス公演への復帰は大変だろうから、
今回のは、主として朗読のほうに出演されるのではないだろうか。
仮にそうでも、舞台に出ようという段階まで回復されていることを知り、
とてもとても嬉しく思った。

・もうひとつ、なーちゃんに関係のある話題。
先日、作家の庄野潤三氏が亡くなられたとき、
少女時代から親交のあったなーちゃんのコメントが、新聞に出ていた。
訃報:作家、庄野潤三さん死去 88歳(毎日新聞)
『▽女優、大浦みずきさんの話 亡父(作家、阪田寛夫)とのご縁から公演を熱心にご覧くださり、もう一人の父親が見守ってくれているようで、心強く思っておりました。いつも優しく厳しい目で見てくださり、幸せでした。本名(なつめ)も芸名も付けていただき、名前に恥じないよう、一生懸命生きていこうと思います。心よりご冥福をお祈りします。』
庄野潤三氏は、宝塚時代もそれ以後も、なーちゃんの舞台を
御夫妻で、常に暖かく応援して下さっていたとのことだ。
今頃は、天国で、阪田氏とたくさんお話をされていることだろう。

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きょうは一日、A中高が参観日として開放されていて、
それに合わせて、多くのクラスで、担任の先生の空き時間に合わせ、
クラス懇親会が行われた。我々も勿論それに倣った。
年に一度は、クラス懇親会を行う、というのが決まりで、
それを計画運営するのが、PTAクラス委員の仕事のひとつだからだ。

クラス懇親会は、保護者の親睦を図るのがそもそもの目的らしいのだが、
そこに、担任の先生もお招きして、クラスの様子や今後の行事予定など
学校からの視点で、お話をして頂くことになっている。
今回は、時期的に、来月行われる修学旅行のことや、
その後に説明会が予定されている文理選択についてのお話、
あとは文化祭バザーについてPTA役員からの説明とお願い、
等々が、主な内容だった。

先生も首をかしげていらしたことなのだが、実は、
A中高は、未だに、インフルエンザの生徒が一人も出ていない(汗)。
「きょうだいが罹って、熱を出したので、娘も念のため休ませます」
という欠席は、これまであったのだそうだが、
A中高の生徒本人がインフルエンザ、というのが、まだ無いとのことだ。
このままで済むハズがない、というのは誰しも思っていることで、
いつ来るのか・まだ来ないのか、と今は戦々恐々だ。

そして、きょうの先生のお話で衝撃的だったのが。
「修学旅行の途中で発熱し、インフルエンザと診断された場合は、
その生徒はほかの生徒から完全に離し、至急おうちに連絡をして、
保護者のかたに九州までお迎えに来て頂きます」。

ひえ~~。
旅行先で万引きだか暴力沙汰だかやらかして、現地へ保護者召喚、
ってな話は、私の身近にかつてあったが(どないな学校や)、
なんと、子供が修学旅行先でインフルエンザを発症した場合も、
親が旅をせねばならないのか。

九州か・・・。
三日目にひっかかれば、ついでにシプリアン・カツァリス福岡公演が
私、うまいこと聴けるんじゃないか?と一瞬、本当に思った(殴)。

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舅が亡くなったのは、2005年9月25日だったから、
これで四年が過ぎた。
日曜日のきょう、家族三人でお墓参りに行った。
娘が、おじいちゃんおばあちゃんのいるお墓の前で、泣いた。
そのあと、お寺の若院さんに、舅宅のほうに来て頂き、
祥月命日ということでお務めをして頂いた。

舅宅の庭が、大変なことになっていて(汗)、
その、お寺さんをお迎えする前に、
短時間だが、草抜きをし、掃除をした。
私が庭に出てガサガサと落ち葉を集めていると、
以前は、よく、姑が部屋でそれを聞きつけて、
「はーい。どうぞー」
などと、お客さんを迎えるような声を出していたものだった。

だから姑がお昼寝しているときなどは、起こしてはいけないと、
なるべく音を立てないように、つま先立ちで掃除していた以前の私は、
多分、そこだけ見たら、泥棒と紙一重の、挙動不審者だった(苦笑)。

きょうは、掃き集めた落ち葉をゴミ袋に入れたら、二袋になった。
そのうち、可燃ゴミの日にこの家に来て、
ちゃんと出しに行かないといけないなあと思った。
そういえば、もっと前に、舅がまだ動けた頃、
ゴミが多かった日に、私が出しに行くのが大変だろうと言って、
舅が、車を出してくれたことがあった。

決められた場所まで、さほどの距離ではなかったのだが、
それでも通り一本、端まで上って、曲がったところがゴミ置き場だったので、
車に積んで貰った御陰で、一度で行けたのは助かった。
が、助かったには違いないのだが、舅のやり方は、凄かった。
ワゴン車の最後部に、いくつもあるゴミ袋を全部乗せ、
「あんた、袋が落ちんように、一緒に横に乗って、押さえんさい」
と私に命じた。

ゴミが多くて、ワゴン車の最後部ドアは全開のままだった。
私がゴミと一緒にそこにしゃがんだのを確認して、
舅は、ゆるゆると車を発進させた。
いくらゆっくりでも、車の中で中腰になっていて、
しかも目の前が全開なのだから、
曲がり角で、私は放り出されるかという恐怖感を味わった。

そして、朝のこととて、出勤途中の近所の方々とスレ違った。
後ろが全部、開け放たれたまま、
廃品回収車並みにゆっくり走行するワゴン車の後部席から、
「おはよーございます~(^_^;」
と、ゴミと並んで挨拶する私を、
御近所の皆さんは、一体どう思ってらしたことだろう。


・・・と、やっぱりロクなことを思い出さないヨメなのでございます。

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先週は中区役所に行って、姑の「出生から死亡までの謄本」を
請求したのだが、残念ながら、一度では揃わなかった。
姑が広島市民になったのは舅と結婚したときなので、
結婚から死亡までの謄本は中区役所で取れたのだが、
それ以前の本籍地は、広島県内ではあっても市内ではなく、
某郡某町の、姑の実家が本籍になっていたのだ。
こういう場合、その某町まで出向くか、
あるいは郵送によって請求することになる。
中区役所が、予め、某郡某町役場の電話番号を教えてくれたので、
私はまず、そこに連絡して、手続き方法を尋ねることにした。

とても親切な、広島弁ばりばりの担当者(男性)に、私が、
かくかくしかじかで、夫の母の旧姓時代の謄本が必要だ、
と話すと、指示されたのは、以下のようなことだった。

・某郡某町役場のサイトを開いて、住民課をクリックし、
『戸籍謄本・抄本等交付申請書(郵便請求用)』
をダウンロードし、プリントアウトして、記入すること。

・用紙の余白に『出生から結婚までの謄本が必要』と明記すること。

・結婚から死亡までの謄本のコピーを同封すること。

・『筆頭者氏名』の欄は、舅ではなく、姑が実家の籍にいたときの、
筆頭者の名前(姑の父親か母親。結婚後の謄本で確認)を書くこと。

・『必要な人の氏名』の欄は、姑の名前を旧姓で書くこと。

・除籍謄本は一部750円(×通数)。定額小為替を組むこと。
多くの場合、一枚にすべてが記載されていることは少ないので、
記述が二枚以上に及んでいる可能性を考えて、多めに同封すること。
足りなければ役場から連絡するので、追加を送付すること。

・返信用封筒(住所氏名記入、送料の切手貼附)と、請求者
(今回の場合は主人)の本人確認書類のコピーを同封すること。

*************

舅のときは、住所は転々としても本籍はずっと広島市内だったので、
「出生から死亡までの途切れていない謄本」は、
市内の区役所ですべて取れたのだが、市外は初めての経験だ。

それで思い出したのだが、主人と私も、実は結婚後に一度、
本籍を動かしているのだ。
結婚したとき、福岡勤務だったので、主人は何も考えず、
本籍を、そのときの現住所と同じにして婚姻届を書いてしまった。
勿論、本籍などどこに決めても全く自由であるわけだが、
手続き上は、今回のように、本籍地の役所でないとできないことが
今後生じるということに、しばらくして気付き、
しまった、広島の主人の実家を本籍にすべきだった、
と後悔し、慌てて変更した。

なので、将来、私たちの除籍謄本が必要になるときには、
新婚時代の数ヶ月分だけは、福岡市某区役所に請求せねばならない。
ややこしいことにしてしまって、娘には本当に申し訳ないことだ。
軽率な夫婦で、すみませんでした。

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私は昭和のプロレスをさんざん観たので(テレビでだが)
アントニオ猪木のカリスマ性については
大昔からよくよく知っているつもりだったのだが、
ここに来て、このヒトってホントにとんでもないモノだった、
ということが、年々、強く実感されるようになった。

プロレスそのものはとっくの昔に斜陽だというのに、
アントニオ猪木のイメージとネームバリューは衰えることがない。
しかも本人は、これまで、それなりに失策がなかったわけではないのに、
というか手がけたことの大半は成功していないというのに、
結論としてはいささかも傷つくことがなく、
あたりをなぎ倒して、今もヘーキで生きている。
猪木の言い出したことのために、振り回され、失敗して疲弊し、
とり返しがつかなくなるのは、いつだって周囲の人間だけなのだ。

今度は北朝鮮までビジネスにしちゃうって、一体(大汗)。
猪木、衝撃提案 横田夫妻「北」へ招待(リアルスポーツ)

今の民主党政権は拉致問題解決には熱意が無いようだし、
ここで北朝鮮にピタリと照準を合わせた猪木の嗅覚は、さすがだ。
そして、今とりあえず予想できるのは、
最後に拉致問題がどちらへ行こうと、結局、猪木本人は何も失わず、
やっぱりヘーキで次のビジネスに乗り出すだろうということだ。

私は、数年前、力道山の未亡人の手記を読んだときに
(『夫・力道山の慟哭』田中敬子)、
猪木が力道山の元・弟子として、夫人の篤い信頼を勝ち得ていることや、
北朝鮮への橋渡しとして貢献したいと述べているのを知り、仰け反った。
いつの間に猪木は、力道山からすべてを託された、
一番弟子だったかのような話になっていたのか。
力道山の弟子になって修業時代を送ったのは間違いないが、
そんな、心温まる師弟関係だったなんて逸話は、
私は昭和の間には一度も聞いたことがなかったぞ?
力道山を心から敬愛していたのか?本当に???
儲かるかどうか以外の部分で、猪木が本当のところ
北朝鮮をどう思っているのか、私は未だに全然わからない。

************

猪木といえば、目下の話題は映画だ。
アントニオ猪木 映画初主演 役柄は「ジイさんですかー!」(毎日新聞)

猪木は他人を騙して暮らしているヒトなので(逃)
『演技する』というのは彼の人生のパーツみたいなものだろうし、
筋書き通りに演じることもお手の物だとは思う。
それどころか、全員を裏切って自分ひとりで勝手に筋書きを変え、
結果、収拾つかなくなって、現場の責任者を辞職に追い込むような人間だ、
猪木は。
少なくとも、昭和のプロレスファンだった私の認識は、そうだ。
しかしそれにしても、映画の台詞が覚えられるのか(大汗)。
私は、なんのかんの言って、この映画を観に行ってしまいそうな気がしている。

そして私が猪木に関して最近で最も気に入っているのは、コレだ。
「クロレッツアイス® バースト」新TVCMスタート(キャドバリー・ジャパン)

正確にはこれは猪木本人ではなくて、アントキの猪木なのだが、
黄金に輝く猪木が、「起きてますかー!」とわき上がってきて、
キョーレツな闘魂ビンタをお見舞いするというものだ。

プロレスはただのスポーツではないし、
セメントでいくら強くても一流レスラーになれない。
もっと全人格的なところ――どういう人格かは凄い問題だが――
で勝負するのが、真のプロレスであり、そこにこそ醍醐味があるのだ。
それを理解しない人間はプロレスで成功することは無いし、
プロレスを観て面白がることも無理だ。
猪木ほど、私にそのことを鮮やかに示して見せてくれたヒトは他にない。

人間的には許せんが、猪木は正真正銘の天才なのだ。
人間的には許せんが。

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ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第5番
先月から始めたベートーヴェンのソナタ5番だが、
相変わらず変なフレージングのまま、出だしでウロウロしている。
私の頭の中には、自分の初期設定ともいうべきこの曲があるのだが、
それ自体が結構個性的な演奏だった(と思われる)うえに、それは、
年月を掛けて私の中で更にデフォルメされたものになっていたようで、
いざ、楽譜を実際に見たら、かなり違っていることに、今更気づいたのだ。
長い余韻を持つ音として記憶していたものが、楽譜ではスタッカートであり、
区切りだと思っていた箇所には、楽譜ではスラーがかかっていたりして、
私は、自分の鼻歌がことごとく大嘘だったことを、齢45にして知った。

一体、私はいつの、誰の録音を、このソナタとして記憶しているのだろう。
なんとか、それを突き止めることは出来ないかと思って、今夜私は、
うちにあるCDや、ネットの試聴用音源など、いくつか当たってみた。

まず、ゲルバーは違った。
素晴らしくブリリアントな演奏なのだが、どこかの教会での録音で、
わぉんわぉんと響きまくり、私の聴きたい「変なフレージング」は
そこには全く記録されていなかった。
ポリーニでもなかった。見事過ぎて、違った(苦笑)。
清水和音や仲道郁代は年代的に新しすぎて、そもそも当てはまらないし、
なら、いっそグールドか?と聴いてみたが、これがまた、
腹のよじれるオモロい演奏なうえに、唸りオブリガードつきで、
やっぱり全然違った。

あとは、ブレンデルか、はたまた昔実家にあったハイドシェックか、
それともバックハウスあたりか、等々と思いめぐらせてみたのだが、
これらの音源には出会えなかった。

結局、amazonを出たり入ったりした挙げ句、
私の中にある変な5番を叩きだし、性根を入れ替えてくれそうな、
ゲオルク・フリードリヒ・シェンクのCDを新たに買うことにした。
これを聴いて、出直そう。
かつてエル=バシャのベートーヴェン全集を
店頭で目にしながら買っておかなかったのは、
つくづく、失敗だったと、今になって後悔している。


ハノンが人名である件
きょう仮装ぴあにすと様とお話していて、
『ハノン・ピアノ教本』の「ハノン」は人名である、
ということを、今更思い出して、ふたりでウケた。
ハノン、というのはドイツ語かなんかで
「特訓」とか「拷問」の意味なのかと思っていた、
――というヒト、結構多くないですか(逃)。

あの『ハノンピアノ教本』を書いたのは、フランス人で、
Charles Louis Hanonという、1820年生まれの男性だ。
教会オルガニストやピアノ教授として、大変名高い人だったそうだ。
フランス風に読むなら、シャルル・ルイ・アノンであり、
ハノンというのは英語やドイツ語での読み方だ。

現在「ハノン」だと皆が思っている曲集は、
正式には『ピアノの名手になる60練習曲』という題がついていて、
これは発表当時から各国で大反響を呼んだということだ。
そしてハノン氏は、1878年世界博覧会において銀メダルを受賞した、
・・・と、私の持っている『ハノンピアノ教本』の前書きにあるのだが、
その、モンド・セレクション銀賞みたいなのって、一体、何ですか。

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昨夜、長野から広島に帰ってきた。
連休一日を残して戻ってきたのは、きょうの、
本山麻優子ちゃんのリサイタルを聴きたいと思ったからだ。

本山麻優子 受賞記念リサイタル(西区民文化センター)

彼女は現在高校1年生だが、既に各種コンクールの受賞歴があり、
単独のリサイタルも広島ではこれが二度目だ。
今回は、2009年フランツ・リスト国際青少年ピアノコンクール第1位の、
受賞記念リサイタルという位置づけで、
チケットは早くから完売となっていた。

前半は、一曲目が現代曲で、徳山美奈子『ムジカ・ナラ』、
つづいてショパンのワルツ第1番、夜想曲第5番、
マズルカ作品6の1番と2番、革命のエチュード、バラード第4番。
後半がリストで、『愛の夢』第3番、『超絶技巧練習曲』第10番、
『波の上を渡るパウロの聖フランシス』『ハンガリー狂詩曲第12番』。

技巧的には冴え渡るような演奏で、ただただ圧巻だった。
技巧曲を次々と弾ききる体力と集中力は超人的であると同時に、
それだけ無理のない、理想的な弾き方・体の使い方が
しっかりと身についているということでもあるのだと思った。
リズム感も卓越したものがあって、反射神経も素晴らしく、
マズルカやハンガリー狂詩曲で、特にそれを強く感じた。
若いだけに、どの音も澄んでいて、はつらつと輝き、
聴いていると心地よさのあまり、自然に説得される気がした。

この若さで、これだけ音楽の深いところに迎え入れられている彼女は
感覚の世界では既に、普通の人が見ることのできないものを
たくさん見ているに違いないと思ったが、だからこそ、
今後、音楽を感覚だけでなく理詰めで捉える面が出てきたときに、
是非、ショパンかベートーヴェンの、ソナタを手がけて、聴かせて欲しい、
ときょうは強く思った。

私は彼女が中1のときから、折に触れて聴かせて頂いているので、
こんな前途洋々たる演奏家を、若い段階から知ることができたなんてと、
自分の、出会いの運の良さに感謝するとともに、
こういう聴き方が可能になったのも、私がトシを取ったからこそだと、
年齢的な巡り合わせも有り難く思った。

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三年前、娘の中学入試前に主人の松本出張があった折り、
主人は善光寺まで足を伸ばして合格祈願をしていたのだが
あれから合格したにも関わらず、全くお礼参りに来なかった
という恩知らずな我々だった。
きょうやっとそれが叶った。

ありがとうございました、
ことによったら大学入試もお願いします
と厚顔無恥な祈願をしていたのは娘だ。

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今回の旅行で画期的なこと
それは家族三人揃っての旅行でありながら
ホテルの部屋が毎晩各自シングルだということだ。

そもそもトリプルという設定で安価な部屋を探す、
というのが毎回なかなか難しかったうえに
今はシルバーウィーク(けったいなネーミングや)ということで
どこのホテルも、ダブルはともかくツインは軒並み満室だった。

そんなところへ、ツアコンころもんは
《気の合うお友達同士シングル宿泊パック》
みたいな企画を見つけてきた。
シングル複数部屋の同時予約だと格安とかいうプランだ。
そうか、これならイビキがうるさいの早起きし過ぎるのと
いちいち揉めなくて済む、
と、ころもんは目からウロコが落ちたのだった。

かくして私は今、さっそくエアコンを切り、
テレビなどハナから全くつけず、
ひとり、限りなく静かな宵を満喫している。
最高だ。家族旅行でこんなに休めるなんて。

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