転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



大谷に出来ないことがあるのか問題

WBC “大谷バント”がトレンド入り!大谷翔平 先制につなげる
(NHK 2023年3月17日 1時39分)
『日本が勝った野球のWBC=ワールド・ベースボール・クラシックの準々決勝で、SNS上では、投打の二刀流で出場し先制点につながった大谷翔平選手のバントに対して「超一流はなんでもできる」などの投稿が相次ぎ『大谷バント』がツイッターのトレンド入りしました。」

大谷の凄さは米国からの「なおエ」のニュースでかねがね見聞きはしていたが、
実際に来日して、毎晩のように見せて貰うようになってみたら、聞きしに勝った。
投打の二刀流、というだけで異次元なのに、ただの二刀流では全然なかったのだ。
ストレート164キロ出せるし、スプリット150キロ、
ここぞというときの適時打のみならず、ホームランが打てる。
更に足が速くて盗塁が巧く、とうとう昨夜は絶妙なセーフティバント。
腕が立ちビジュアルが良く、性格は明るく受け答えもハズさない。

Twitterでは、「そもそも何ができひんのや」という話になった。
「絵は下手であってほしい」
という書き込みに対しては、
「残念ながら絵も上手です」
と、大谷がファイターズを去るとき書いたイラストがUPされ、
「料理!料理だ!!料理は出来まい?」
については、渡米してから自宅で料理を習っているという記事のリンクが貼られた。
大谷、初の1人暮らしで自炊に挑戦 米国での二刀流を支える食生活
(Sponichi Annex 2018年4月17日 10:00))
「せめて音痴でありますように」
と最後には祈願されていた(笑)。


イタリアチームを見つつ

そのWBC、昨夜の準々決勝の相手はイタリアであったのだが、
他の多くのチームがそうであるように、ここも、
イタリアにルーツを持つメジャーリーガーやマイナーリーガーで
主に構成されていた。
つまり彼らの多くはイタリア系アメリカ人なのだった。
彼ら同士の会話は英語だろうか。
しかしイタリア国歌は、選手ら皆、斉唱していたようだったし、
そういえばニューヨークにもリトル・イタリーの地区があったな。

「そりゃあ、イタリア系のコミュニティもあるだろし、結束は固いんでないの」
と転夫ころもん氏は言った。
「移民として被差別の歴史もあるし、マフィアとかマフィアとかマフィアとか…」
このとき、ころもんの頭にあったのは、映画『ゴッドファーザー』であり、
マーロン・ブランドやアル・パチーノの姿であったことは間違いない。
しかし私の脳裏には即座に、
「コーサ・ノストラ、……『我々のもの』、という意味だ」
と言い放つアントニオ(本公演:伊織直加、全国ツアー:磯野千尋)
@宙組カステルミラージュ、の、いぶし銀の立ち姿が浮かんだ。
(プラス、『卓球台のソロ』(逃))

以前も思ったことだが、宝塚を観ていて実に幅広くいろいろなことを覚えたものだ。
『カスミラ』の御蔭で、こうしてイタリアマフィアの背景やネヴァダの歴史もわかるし、
前にはスロバキア国歌が歌えちゃったりしたこともあった
フランス革命なんか、『ベルばら』に代表されるフランスものでバッチリだし、
『エリザベート』や『うたかた』でハプスブルク関連は系図が書ける。
オペラもロシア文学もカバーしているし、シェークスピアも各種観たし、
日本の古典、歌舞伎関係、中国物もインド映画もアリ、
このあいだなんか13世紀のジョージア(旧グルジア)の歴史物もあった。
音楽だって、クラシック、ジャズ、シャンソン、
ポップス、ロック、オールディーズも大丈夫だし、
上記スロバキア国歌の件に加え、フランス国歌ならロケットダンスが踊れる。
バレエ、ジャズダンス、タップダンス、タンゴ、チャールストン、日本舞踊、
……踊りも、あらゆるジャンルを大抵、観ている。
しかも、一公演で何回も何回も通うから、知識の定着率が良いのなんのって。
まことに、宝塚は教養の源であるよ。
その教養は、不思議な方向に歪んでることがあるので、注意が要るけどもよ(^_^;。

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昨日はライブ配信で、雪組全国ツアー版『ヴェネチアの紋章』を観た。
1991年の、花組大浦みずき(なーちゃん)の退団公演となった芝居の再演。
併演は『ル・ポァゾン 愛の媚薬』で、これまた、
なーちゃん同期の剣幸(ウタコさん)が90年に月組で主演したショーで、
私のような「この道30年超」のオバ(あ)さんファンには
コタエられない演目設定だった。

しかし、『ヴェネチア――』については観てビックリしたのだが、
台詞や歌詞がほぼ初演通りだったにもかかわらず、
謝珠栄による新演出となって、結末を含む何カ所かが全く別のものとなり、
更に、全編通して、音楽が一新されていたのだった。
主人公コンビが踊りで魅せる『モレッカ』の場面だけ、
初演同様、チャイコフスキー『イタリア奇想曲』が使われていたのだが、
そのほかは、主題歌も劇中歌も知っている旋律がひとつもなく、
玉麻尚一による全曲書き下ろしであった。

新生雪組の初々しいトップコンビ彩風咲奈×朝月希和の持ち味を思えば、
この作品が新しいかたちで生まれ変わったこと自体は、
とても良かったと私は思っている。
脚本的にも、初演時にわかりにくかったところが丁寧に改善されていたし、
新しくなった楽曲はどれも洗練されており、演出の変更点も含めて、
全体に「今どき」の感性に合ったものになっていたと思った。

何より私にとって大きな変化だと感じられたのが、
今回の『ヴェネチア――』が首尾一貫した悲恋ものになっていたことだった。
主人公アルヴィーゼが破滅に向かって進むしかないことが、
もう、ほの暗いプロローグで暗示されていた。
楽曲もマイナー(短調)で、ゆったりとした味わいのものばかりだった。
初演を観ていなくて、今回の『ヴェネチア――』だけを観劇したのだったら、
この、しっとりと心に染みる大人の物語を私は大いに気に入っただろうと思う。

しかし、私は、歌舞伎の團菊じじぃみたいな人間なのであった(汗)。
十一代目の華が云々、六代目の踊りがどうのと、
過去の俳優の話ばかりしている、昭和の化石みたいな爺さんたち。
「そんなに死んだ役者がいいなら、オマエも一緒に死んどけ、っつんだ!」
と、あらしちゃん(松緑)がいつぞや言ってたような。違ったっけ?
私は、なーちゃんをリアルタイムで、旧大劇・旧東宝で、観ている。
その退団も見送った。ちょうど30年前である。
初演の脚本演出の柴田先生も、音楽の寺田先生も、
それどころか、なーちゃん御本人さえも、既に故人だ。

当時「30年前の宝塚はねぇ…」などと言い出すババァが身近に出現したら、
20代の私は必ずや「うざっっっ!」と思ったに違いないので、
以下に書くことは、年寄りの繰り言であると最初にお断りしておく。
昔を知っていることなんか、ファンとして別に偉くもなんともない。
今回の『ヴェネチア――』に較べて、初演のほうが優れていた、
という話がしたいのではない。新生雪組は全然OKなのだ。
私は彼女たちの成果を心から認め、その船出を手放しで祝福している。
ただ、私は今回の上演を(配信で)観たことにより、遠い昔を思い出し、
かつて自分が良い舞台を観て幸せだったことを、
この機会に、書き留めておきたいと思っただけだ。
現在の雪組には全然関係のない、主観的思い出話をこれから書きますので、
要らない人はここまでで終了されてください。

***************************
『ヴェネチアの紋章』の設定や背景については、
宝塚歌劇団公式サイトに解説がある。
91年の初演では、主役のアルヴィーゼを大浦みずき、
ヒロインのリヴィアをひびき美都、
語り手のマルコを安寿ミラが演じた。

初演『ヴェネチアの紋章』の魅力は、プロローグに集約されていた。
短い前奏のあと、さぁっと幕が上がると、そこはきらきらと光が溢れ、
人々の思いが交錯し、生命力と活力の漲るヴェネチアの街!
物語の登場人物が次々と舞台に現れて、華やかな群舞とともにソロを歌うのだが、
その楽曲がもう、色とりどりの魅力に満ちて、これぞ寺田瀧雄ワールドであった。

彼らによって矢継ぎ早に歌い継がれる楽曲はどれもアップテンポで、
たたみかける付点リズム、三連符、シンコペーション、
めくるめくアルペジオの反復、躍動的な上昇音型、
そうして最高潮に盛り上がった舞台に、主人公アルヴィーゼが登場するとき、
曲想は、初めてスケールの大きな、スローテンポのものになり、
……イントロが、ほんのり『港町ブルース』風味なのが気になりはしたが(爆)
「ヴェネチアの空は青く ヴェネチアの水は豊か」という歌詞にぴったりの
悠々としたメロディラインで、胸のすく爽快さであった。

アルヴィーゼとマルコが再会を喜び合う場面の曲が三拍子なのも好きだった。
三拍子は基本的に舞曲なので、リズムが難しいことが多いのだが、
なーちゃん(大浦)とヤンちゃん(安寿)はダンサー同士だったのもあってか、
歌うときも、この曲がなんとも愉快で小気味よかった。

音楽が生き生きと明るいのは、そもそも、初演版の根底にあるのが、
決して、「不幸な悲恋の物語」のみではなかったからだ。
初演台本の柴田侑宏先生は、この作品を輝きに満ちたものとして構成した。
物語の展開としては、アルヴィーゼとリヴィアの恋は決して実らず、
運命にあらがおうと、もがいた彼らの奮闘は報われることなく、
アルヴィーゼと周囲の青年たちは皆、戦場に散り、
リヴィアも彼を追って、その若い人生を無残に終えることになるので、
悲劇以外のなにものでもないのだが、それでもなお、エピローグもまた、
冒頭と同じく、明るい、光降り注ぐ『海の祭』の場面なのである。

そこで初演版のマルコは、アルヴィーゼとリヴィアに生き写しの、
若い恋人たちを偶然に見かける。
ふたりは手を取り合い、はじけるような笑顔で幸せそうに踊り、
やがて祭の雑踏の中に消えていく。曲は『モレッカ』。
賑やかな踊りの人波に遮られながら、ただ一人佇んで見送るマルコ。
彼が救い得なかった親友の恋の、絶望的な終焉と、
今、目の前を遠ざかって行く若者たちの、光麗しく照らされた前途。
そのコントラストが美しく鮮烈であればあるほど、
ラストシーンの余韻も印象的なものとなっていたのだった。

今回の雪組版では、このラストシーンが大幅に改編されていて、
「アルヴィーゼとリヴィアに生き写しの若いふたり」は全く登場しなかった。
これの直前、マルコは、ある少女に会いに、とある尼僧院を訪ねている。
その子というのは、アルヴィーゼとリヴィアの間に生まれた女児であり、
彼女が大人になったら妻に迎えよう、とマルコは心に決める。
海の祭の場面はその後にあり、かつてのアルヴィーゼを思い出させる、
黒衣の男性が一瞬登場するが、すぐに人違いとわかって終わり、
最後の場面は、アルヴィーゼとリヴィアのデュエットダンスになっている。
尼僧院と女児の逸話は、塩野七生の原作に書かれているものであり、
この世で結ばれなかった二人が、魂のダンスを踊るというのも、
宝塚的なラストシーンとしては美しい定番のひとつで、
雪組編は、やはり首尾一貫した悲劇として幕を閉じるようになっているのだ。

しかし私は、大浦みずきの演じた、ラストシーンが本当に好きだった。
アルヴィーゼに生き写しの若者の名は「フランチェスコ」で、
それは同じくリヴィアに生き写しの少女がその名を呼ぶからわかるだけなのだが、
私は当時、このフランチェスコの笑顔を観るために、
毎回(←何回観たんだ)劇場に行っていたと言っても過言ではなかった。
たった一場面しか出ない青年フランチェスコ、
おそらくアルヴィーゼよりもっと若く、まだ少年の面影さえある彼の笑顔は、
みじんの陰りもなく光り輝き、あの瞬間の幸福のために、この一編の芝居があった。

フランチェスコの出て来ない新版『ヴェネチア――』は、
少なくとも私にとっては、全く別の作品だった。
謝先生は初演に感動したと語っていらっしゃるようなのだが、
こういう改編になったということは、
同じ作品を観て、同じように感動したと言葉では言っていても、
全く、人それぞれ心の琴線に触れる箇所は異なるものだなと
今回のことで私は改めて悟った。
それほどに様々なものを内包した作品であり、
多くの可能性を持つ題材であると再認識できたことは収穫だったが、
私にとっての『ヴェネチア――』は1991年11月に
フランチェスコとともに完結していたのであった。
納得した。見届けました。

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エリザベート TAKARAZUKA25周年スペシャル・ガラ・コンサート
のライブ配信を、4月24日17時公演と5月3日17時公演の2回、観たのだが、
なかなか面白かった。

24日のは、往年の花組キャストを中心としたフルコスチューム公演で、
明日海りおトート、花乃まりあエリザベート、北翔海莉フランツ、
望海風斗ルキーニ、等々でもう皆、巧くて最高だった。
だいもん(望海)ルキーニはかつての花組公演の頃から、
私にとって初演の轟悠に並ぶ名ルキーニだったのだが、
今回もその思いを新たにした。
宝塚のルキーニは、テロリストで言葉使いも悪いのだが、
決して下劣ではなく、どこまでも粋で、美しい。
だいもんはそのバランス感覚が絶妙だった。

それで、このだいもんがあまりにも良かったので、
私は24日のを観たあと、3日の配信を買ったのだ。
こちらは、役柄の雰囲気に沿ったステージ衣装ではあったが、
フルコスチュームではなく、飽くまで歌メインのガラコンサート。
ルキーニだっただいもん(望海)が主演のトート、
エリザベート役は、一幕が夢咲ねね、二幕がなんと明日海りお!
先日のトート閣下がここでは皇后エリザベートだなどと、
歌舞伎の「兼ネル役者」さながらではないか!!
女性の演る男役、という宝塚の位置づけならではの、変身の妙味!!

だいもんは、男役姿がどこか昔のルコ(朝香じゅん)さんに似ていて、
黒ずくめのトート閣下を観ていて私は、
1985年花組公演『テンダーグリーン』のカーンみたい(誰も知らんか・汗)、
とひとりで萌えた。
……と、それはともかくとして、だいもんトートは、
私にとっては今までに無かった感じのトートで、とても気に入った。

歴代トート役者は、みりおんもそうだが、皆、妖しく美しくて、
人を虜にし、その心を弄ぶことなど自由自在で、彼に魅入られれば、
心弱った人間は誰でも、甘美な死の誘惑にたやすく屈してしまう、
……という趣があったのだが、
だいもんのは、絶大な力を持ちながらも、黄泉の帝王ゆえに
生きた人間からは忌み嫌われ、誰からも愛されたことのない、
冷たく、ひとりぼっちのトートだった。
彼の与える「死」は、残酷なだけで、少しも甘美ではなかった。
死の世界で、永遠に存在し続ける孤独な彼は、
少女シシィに出会って全く思いがけなく、その心を溶かされ、
容赦なく魂を奪うことよりも、彼女に愛されてみたい、と思うようになった。
しかし、だいもんトートは、人の心を操る術など全く知らず、
シシィに対しても、どうして良いか、わからなかった。
シシィが人生に絶望しかけたと見るや、彼は姿を現して求愛するのだが、
その都度、すげなくフられてばかりで、彼女を振り向かせることができない。

それゆえに、最後にルキーニに刺されて絶命するときにシシィが、
トートの愛を受け入れる気持ちになる、という件に私は期待をしていたのだが、
少なくとも昨日の公演では、そのあたりの手応えは、私にはあまり得られなかった。
宝塚エリザでは、旅先のレマン湖畔でルキーニに襲われたとき、皇后シシィは、
最初は持っていた日傘で体をかばい、一旦、襲撃を完全にかわすのだが、
「エリザベート…!」と呼びかけるトートの声を聞き、
次の瞬間、両腕を広げて、ルキーニの刃を自ら進んで受け入れる、
という演出になっている。
ここが、シシィもまたトートを愛するようになっていた、
と観客が初めて理解する場面だと思うのだが、
昨日の17時公演では、少なくとも私にとっては、この展開は唐突に見えた。
「なぜシシィは、トートを愛するようになったんですかね?いつの間に?」という。

よくわからないが、もうちょっと布石みたいなものが要所要所で欲しかったかな?
という微かに残念な気分が、昨日は、残った。
多分に記念イベント的な色彩の強い公演で、
1幕と2幕でシシィの役者が違ったので、一貫したものが描きにくかったのも、
原因かもしれない。
ちなみに2幕のみりおんシシィ、美しいので感激してしまった。
声は若干細かったかなと思ったが、もともとが男役だったのだから、
ここまでよくぞ、……と感服もした。
だいもん、みりおん、ねねちゃんの他、今回は宝塚89期生が揃っていて、
出演者の側も、我々が思う以上に一致団結した熱意と感慨を持って、
この公演を務めたことだろうと思った。
もうひとつ、宇月颯のルキーニは、歴代では際だって若い雰囲気で、
何期だっけか?と調べたら90期で、特に学年が下ということもなかったのだが、
とにかく軽妙で、まるで不良少年のまま死んだルキーニ、という感じがした。
意外だったが、実に面白く観ることができた。

だいもんトートは、5月3日17時、4日17時、5日13時と、
全部で3回の公演が予定されており、まさに「初日」「中日」「千秋楽」(笑)、
短い間だがそれゆえの集中力で、このあともいっそうの進化・深化があることと思う。
私も時間が取れたら、5日のはもう一度観たいと思っている。

*******************

・だいもんトートのメイクは、本公演ではできないような感じで面白かったが、
顔の片側に飾りのようなラインや模様を入れるのは、
昔、『筋肉少女帯』の大槻ケンジがやってましたよね(爆)。
私にはなんだか懐かしいものがあったのだが、
一周回って、今の感覚ではかえって新しいのかもしれない。
筋肉少女帯、サポートメンバーですけどドラムが「はせがーさん(長谷川浩二)」で、
こんなところで私の道楽と道楽が、「近づくけれども スレ違うだけで」的な(逃)。

・98年宙組あたりから私はずっと思っているのだが、
冒頭から声の出演をする「裁判官」というのは、一体何をやってるんですかね?
ルキーニは煉獄に止め置かれ、毎晩毎晩同じ質問をされているという設定なのだが、
殺人犯のうえに自殺しているのだから、地獄行きは最初から決定で、
今更、何か調べて新事実が発覚したからといって天国へ行けるもんでもなかろう。
そもそも煉獄とは、天国に行くのを前提に、ただ浄化のために留まる場所だ。
ルキーニが居るのは「煉獄」ではなく、あの世の「拘置所」かなんかだろうよ。
ほかにも死んだヤツが次々来るのに、こいつひとりに拘っていて、時間の無駄では。
審理期間が長すぎるのは、日本でも常に社会問題よ(爆)。
しかし真面目に言うなら、『エリザベート』という芝居は、
地獄で永遠の責め苦に遭っているルキーニの見る悪夢、なのだろうな。

・前も書いた気がするが、商売女マデレーネが劇中で、
「どこかで見たような 妖しい美しさ」と表現されているのだが、
これは何を指しているのだろうか?マデレーネは誰に似ているのか?
単に、黒天使ってこと?
皇帝フランツを誘惑する女性なのだから、シシィに似ているのか?
それとも、ハプスブルクを崩壊に導くという意味で、トートに似ているのか?
私は後者の感じが結構好きなのだが、歌詞としての意味は、本当は何なのだろうか。
トートがマデレーネになって皇帝を迷わせ、皇帝夫妻の仲を割き、
次にトートはマリー・ヴェッツェラになって、ルドルフを死に追いやり、
その実、トートはシシィの病んだ心が作り出した彼女自身の姿、
……みたいな見方が私にはあるが、
それだとトートとシシィの異性愛の話にならないので、裏解釈ということで。

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宝塚歌劇団、なかなかサービスが良いではないか!
期間限定 おうちでタカラヅカ 第1弾(YouTube)

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ちなみに我が家では本日、1990年花組『ベルサイユのばら―フェルゼン編―』
という懐かしい録画を夫婦で観ていた。
私はこの30年くらいは、それなりに本気でヅカファンをやって来た訳だが、
懐かしいのは私だけであって、我が家の宝塚歌劇団人事評論家ころもん氏は、
全然ベルばらには詳しくない、ということが改めて、わかった。

まがりなりにも宝塚に意見のある者が、ベルばらをわかっていない、
などということがあって良いのか!と思う訳だが、
そもそも彼の関心事は主に人事異動であって、舞台ではないのだ。
そのくせ、私と一緒に1994年月組『風と共に去りぬ』(主演:天海祐希)
などという伝説の舞台を旧・東京宝塚劇場で観た経験を持っていたりして
その、文字通りの「豚に真珠」具合が許せないとは思いませんか(^_^;?

この男が内容や演出にまで通じていると言える宝塚歌劇の公演は、
1994年星組『ジャンプ・オリエント!』(主演:紫苑ゆう)、
1996年雪組『エリザベート』(主演:一路真輝)
2000年月組『ゼンダ城の虜』(主演:真琴つばさ)、
2008年星組『スカーレット・ピンパーネル』(主演:安蘭けい)、
2014年花組『エリザベート』(主演:明日海りお)、
……これくらいしかない。

それできょうは、ノーカットの90年花組ベルばら(主演:大浦みずき)を、
彼は居間で神妙に、観た。
プロローグ、真顔のフェルゼンが、「ステファン人形」を抱いているので
「大の男が、なんでオモチャのお人形??怖い(^_^;」、
と私に助けを求め、メルシー伯爵がフェルゼン宅を訪ねて来る場面では、
「一体どーやって入ったん!?門も扉も開けっ放しいうことが、あるん!?」、
と動揺し、革命前夜の戦闘でアンドレが撃たれても撃たれても起き上がり、
歌まで歌うのを観たときには、
「早く、もう、誰か、介錯してやって(T_T)!!」
……と、ころもんなりに、最初から最後まで集中して鑑賞し、
フィナーレまで見終わって、言うことには。
「ベルばらって、大映テレビ

そ れ な

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2月5日には、久しぶりに東京宝塚劇場に行った。
雪組公演『ファントム』。
私はこの演目は今までに、2004年の初演の宙組と
2011年のほうの花組を観ていて、
特に初演は、たかこ(和央ようか)さんの主演だったこともあり、
私にとっては忘れられない作品のひとつとなっている。
たかこさんの、私好みのマザコン芸(!)があまりにも秀逸なので、
あれは私の中で、今でもエリックとして別格と言って良いと思うのだが、
その点を別として公演トータルで観るのであれば、
私は今回の雪組版ファントムが、これまでの中では一番気に入った。

何より、主演コンビの歌唱が群を抜いて素晴らしかった。
『ファントム』のメインの曲は、半音を多用した独特の旋律を持っており、
そこにこそ妙味があったのだということが、
望海風斗と真彩希帆の歌が極めて正確だった御蔭で、よくわかった。
だいもん(望海風斗)は昔のルコさん(朝香じゅん)に似た硬質の美貌で、
ファントムの特異な感性と才能、いびつな幼さを、実に巧く表現していたし、
真彩クリスティーヌの清楚な美しさ・健気さ、
それに文字通りの「天使の声」も、作品世界にぴたりと合っていたと思う。

ファントムの従者のダンスが秀逸だったことにも、とても驚かされた。
特に、中のひとりが胸のすくほど切れ味の良い踊りを披露してくれていて
二階から観ていても惹きつけられた。
いつも思うことだが、際だって「巧い人」が出てくると、
ソロが無くても、スポットが当たっていなくても、
一瞬でこちらの目が吸い寄せられ、
その人の、次の登場を心待ちにするようになる。
誰がその「従者」だったのか、名前を確認したくて、
最後の大階段のパレードのときに、従者の正面顔をひとりひとり、
目を皿のようにしてチェックしたのだが、
かなりの上級生らしくてなかなか降りて来ず、
ほとんど最後までかかって、とうとう判明した。
沙月愛奈だった。道理で!!
あゆみ姐さん、男前っっ!!

**************

ときに、この雪組公演は13時30分開演だったので、
この日は朝、歌舞伎座に寄って幕見で『すし屋』だけ再度、観た。
ほぼ1年前に見つけた、私的ベストポジションから、
あらしちゃんの権太を、余すところなく見尽くしてやる!と、
勢い込んで四階に上がったら、な、なんと!!
男性がひとり、先にそこを占領していた。
う、嘘、と焦って、反対サイドの通路真後ろ「お立ち台」も見たが、
そこにもやはり、別の男性が………!!
席はあらかた埋まってはいたが、少なくともまだ数席は残っており、
座ろうと思えば座れたのに、彼らは最初から、
お立ち台を、しかも「あの場所」を、選んでいたのだった。
そこがどんだけ良いか、知ってやがったな(笑)!
ただ者ではないと見た(笑)!

私は仕方が無いので後列の真ん中あたりの席で観た。
お立ち台ほどの目覚ましい視界は得られなかったが、
それでも、前日に下で観たときより遙かに動きの美しさがよくわかった。
松緑は勿論だが、菊之助の足の運びの優美さにも見とれた。
やはり舞台は、天井付近から床面まで見下ろしてこそ、だな……。

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15時の阪急交通社貸切公演を主人と2人で観てきた。
司会は、OG達つかさ。こたっちゃん、お久しぶりだった。
すっかり綺麗な女性になられていて、
宙組時代を知っている者としては感無量(笑)。

『エリザベート』は繰り返し上演されており、
たまきち(珠城りょう)は十代目トートだそうだ。
歴代トートは皆、基本的に銀髪だったと思うのだが、
珠城トートはメッシュの入ったブロンドだった。
台詞を言っていないときの、立ち方や目つき、さりげないしぐさなど、
「受け」の場面での珠城トートの美しさ妖しさにヤられた。
本来彼女は、歴代トート役者の中では群を抜いて体格が良く(笑)
トップとしても若さや健康美が魅力の男役だと思うのだが、
黄泉の帝王トート閣下を演じるために、
その部分は敢えて「芸」で封印し、克服していたと思う。
結婚の翌朝、シシィが自死を思いとどまり短剣を収める場面で、
背後の珠城トートが、目線に一瞬だが驚きと衝撃を見せた箇所や、
一幕ラストのシシィとフランツを、銀橋に寝そべって見やるところ、
皇太子ルドルフの死体を抱いてのセリ下がりのときの手つき、
同じくルドルフの棺桶の上に座る呼吸、等々、等々、
たまきち、よく勉強しました!!(←何様)、と思った。

ちゃぴ(愛希れいか)のシシィは予想通り立派で、大変美しく、
ちゃぴならやってくれるだろう(←だから何様)という私の期待に、
十分に答えてくれる出来映えだったとは思うのだが、
それでもなお、「高貴な奇矯の花」であるエリザベート皇后が、
彼女の持ち味に合っていたのかというと、私の感触では、
なんだか違ったのではないか(汗)という気がした。
ちゃぴは、トップ娘役としてのキャリアから貫禄も十分で、
『鳳凰伝』のトゥーランドットに違和感は無かったのだが、
シシィとなると、どうも私には居心地の悪いものがあった。
しかしこれは、ちゃぴの演じ方や相性の問題とは別に、
私自身が年齢を経るごとに、自分の感覚がゾフィー寄りになり(^_^;、
シシィの在り方に同情を覚えなくなって来たことも理由かもしれない。
一幕の最後の、フランツの語りかけに答えてのシシィの登場は、
ヴィンターハルターの肖像画と同じ「振り返り」のポーズで、
ここは、客席と正対した「正面」の登場になる演出もあるのだが、
ちゃぴシシィはここで「シシィの威力全開」にする方を選んだようだった。

みやちゃん(美弥るりか)のフランツ・ヨーゼフ、
若いときは大変綺麗で、優しげな魅力もあり、良かったが、
これまた私の感じでは、ヒゲが似合っていなかった(汗)、ように思った。
フランツは物語の後半で、はっきりと「老け」を表現しなくてはならないので、
歴代フランツも白髪の量や髭の長さなどに、様々な工夫をしてきたものだが、
『夜のボート』で正真正銘お爺さんになったあと、
トート閣下との対決『最後の証言』で一気に若いフランツに戻るので、
この対比が目の覚めるようなものでないと、観る側としては物足りないのだ。
千秋楽或いは東京公演までに、更に巧い爺さんになれると良いなと思う(逃)。

今回私が最も感銘を受けたのは、れいこ(月城かなと)のルキーニで、
スタイル良いわ御洒落だわ、歌は巧いわ、色気はあるわで素晴らしかった。
史実ではルイジ・ルキーニは小男だったそうなので、
スラリと長身な月城ルキーニは、「違った」ことになるが、
狂気の目つきも良かったし、カフェでのエプロン姿も垢抜けていたし、
あれだけの芸とビジュアルで押してくれたら言うことなしだと思った。
フィナーレの男役ダンスも、色っぽくて目を惹かれた。
……のだが、パレードのとき一張羅の軍服を着ておめかししたルキーニは、
私にとっては、あまり、素敵では、なかった(汗)。
何なのだろう、私にとって月城かなとは、輝く王子様ではもう一つで、
狂気のテロリストのほうが魅力があるということなのか(大汗)。

白い王子様系で素敵だったのは、ゆのちゃん(風間柚乃)ルドルフ。
歌も正確だったし、正統派の二枚目で完璧だった。
今回の月組公演では、ゆのちゃんとARIちゃん(暁 千星)が
ルドルフでダブルキャストになっていて、私の観た回は、
ゆのちゃんルドルフ、ARIちゃんは革命家エルマーを演じていた。
新人公演ではARIちゃんが主役のトートをやることになっており、
ゆのちゃんはルキーニ、……これまたなかなか面白そうな配役だ(^_^;。
ARIちゃんルキーニのほうが合っているかも……?と思わないでもないが、
学年や役付から言って、やはり新人公演はこの順番になるべきなのだろう。

この公演で退団するトップ娘役ちゃぴの後任として、
さくらちゃん(美園さくら)が今後、たまきちの相手役となることが、
既に発表されているのだが、そのさくらちゃんは今回の『エリザベート』では、
エトワールを務めており、伸びやかなソプラノが大変良かった。
新人公演では、さくらちゃんがシシィ役だそうで、
私は勿論、観ることは叶わないが、
きっと聴き応えあるソロをたくさん披露してくれることだろう。

宝塚版『エリザべート』は96年2月の雪組初演以来、再演が重ねられ、
私を含め観る側は、歌舞伎ファンが「成田屋の型」「五代目の工夫」
などと言って味わうように、歴代の配役の演じ方を予め知っており、
意識的・無意識的に、それらと目の前の舞台を比較して観ることが多い。
演じる生徒さん達にとっても、後になるほど録画など研究材料が多々ある反面、
既に様々な型や演出が実現されてしまっているので、
新しさや個性を加味して行くことが、困難にもなっていると思う。
そのような中で、たまきちが自分でなくてはできないトートを造型しようと
丁寧に努力を重ねたことが、観客としての私にはよく感じられ、
とても後味の良い舞台になっていたと思った。
舞台全体としても、厚みのあるコーラスや、劇的な場面構成など、
作品そのものに力があるので、演じる月組生もいつも以上に気合いが入り、
生き生きとしているように感じられ、大変、見応えがあった。

***************

「エリザベートは結局、ある種のパーソナリティ障害だったのだろうな」
と、私は近年、観劇を重ねるほどに強く感じるようになった。
初演の雪組からの数年、最初の宙組公演くらいまでは、
私はエリザベート皇后の姿に日本の皇室に入った女性たちを重ね、
人権が認められ自由に呼吸できた民間育ちの彼女たちが、
皇室に入ったために、すべて束縛され国家のために生きることになった、
……と痛々しく思い、精神病院訪問の場面でシシィの歌う、
『もしかわれるのなら かわってもいいのよ / 私の孤独に耐えられるなら』
という歌詞にも、特殊な状況下に人生を閉じ込められた女性の哀しさを感じていた。
しかし最近は、それ以前にシシィにはそもそも、
メンタルの面での問題が最初からあったのだ、と思うようになった。

プロポーズの場面でフランツは、皇后の義務について語っているのに、
シシィは『時間をかけて育もう』などと甘いことを考えて受け入れ、
フランツが誰であるかを直視せず、「白馬の王子様」の面しか見ていない。
そして結婚の翌朝、姑のゾフィーに『しきたりに従いなさい』と叱られ、
フランツが『母の意見はきみのためになる』と言った途端に、
シシィは『私を見殺しにするのね』と、
「時間をかけて」どころか、いきなり極端な切り捨て方をしてしまう。
人に対する評価がゼロか100かで、途中が全然ない。

その後、子供達を姑が育てていることに我慢ができず、フランツに直訴、
『母のほうが経験豊富だ、任せよう』『譲り合おう』とフランツが言うと、
シシィは即座に、『わかりました。貴男は敵だわ』。
その後、『お母様か、私か!』とシシィは残酷な選択をフランツに強い、
愛情深い彼の最大限の努力と譲歩により、子供達を取り返すことが叶い、
その他の要求もすべて通して貰ったにも関わらず、
シシィはフランツのもとに落ち着かず、子供を自分の手で育てるでもない。
美容に多額の税金を使い、倒れるほど過酷なダイエットに熱中しつつ、
彼女は常に満たされず、不健康で不幸そうな顔つきをしている。

喧しかった姑が亡くなったあとも、寛大なフランツが怒りもせずに(!)
『今も君だけを思っている』と言うのに、
シシィは宮廷も公務も依然として放棄したまま、
頑なに黒い服ばかり着込んで旅を続ける。
それも、優雅な観光旅行やリゾートではなく、女官達が、
『ついて行くだけで 身がもたない!』
と言うほど、意味もなく歩きづめに歩き、移動しつづけるハードな旅だ。
『私の孤独に耐えられるなら』
『私は自分を守るため 貴男(息子)を見捨ててしまった』
等々と、彼女は苦しみの中にいる自分のことばかり語っていて、
ついぞ、自分の恵まれた境遇や夫の愛情を評価することがない。

ちなみに、劇中のフランツはメンタル面で極めて普通の男性として描かれ、
私は、彼にはひととおりの好感を持っている(^_^;。
『義務を押しつけられたら 出て行くわ 私』
と、皇后の立場を全く理解しない新妻に困惑しながらも、
若き皇帝は、彼女を愛し続け、母親より彼女を選ぶ。
少年が一人前の男へと成長するというのは、
かつては大切だった母から離れ、妻と一体になることなのだ。
商売女のマデレーネにふらふらと浮気したのは彼が悪いには違いないが、
その件の前に、シシィだって彼が寝室に入って来るのを拒否したり、
不機嫌にダイエットを続けてばかりいたのだから、
妻として、全く非が無いとは言えないだろう。
皇太后ゾフィーが死んだあと、なおも旅を繰り返すシシィに向かって歌う、
『母上は もう居ない 帰っておいで』という歌詞など、
ミもフタもないが、いかにも健全で単純な夫の歌だと思う。
姑がウルサかったから嫁は家が嫌いだったが、
死んだのだから、もう邪魔者は居ない、帰って来ても良いだろう、
という程度にしか、彼の理解は及ばなかったのだ。

作品中のシシィが間違っていたとか、彼女が悪い人間だったとは思わないし、
彼女は心底、自分の苦悩をどうにか解決したくて、もがき続けたのだと思うが、
彼女が苦しかったことの原因は、姑でもなく夫でもなく宮廷でもなく、
ほかならぬ彼女自身の、心の中にあったのだ。
彼女は解決を外側に向かって求め、人々の無理解を嘆いたが、
誰がどのように彼女の要求を満たしてやっても、
また、周囲ができる限りの譲歩をしたとしても、
彼女の満足は一時的なもので、すぐに揺らぎ、
常に問題は起こりつづけ、彼女が苦しみから解き放たれることはない。
彼女の心の中にある認知の歪みこそが、彼女の不幸の原因なのだから。
『一度 私の目で見てくれたなら 君の誤解も 解けるだろう』
とフランツが歌う場面があるが、シシィは彼女の持つ障害ゆえに、
そういう一般的な「目」を共有することが、最後までできなかったのだ。

こうした問題を抱えていると、人は大変に生きづらくなり、
始終「死にたい」気持ちが簡単に頭をもたげてくるので、
黄泉の帝王トートは、つまりそうした彼女の障害がかたちになったものであり、
彼女自身であったのだと私は思って、『エリザベート』という芝居を観ている。
彼女の息子であるルドルフもまた、同様の傾向を持っており、
死への誘惑に抗しがたく、トートの姿を見てしまったということなのだろう。

そういう意味では、もしこれが宝塚歌劇でなければ、作劇としては、
トートは別に「男性」の姿をしていなくても良いと、私は思っている。
女性であるエリザベートが愛するのは、同性でも異性でも良いのだし、
ルドルフにとっては、心中相手のマリー・ヴェッツェラがトートだろう。
また、フランツが浮気したマデレーネだって、実はトートかもしれない。
『どこかで見たような 妖しい美しさ』という歌詞があるのだから。
結果としてトートは、シシィ本人だけでなく皇帝一家を崩壊に導いた。
まさに、ハプスブルク家にとっての「死」そのものという存在だったのだ。

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宝塚日帰り。
月組『『All for One』~ダルタニアンと太陽王~』の
本日3時の阪急交通社貸切公演をB席で観て来た。
大変良かった!
たまきち(珠城りょう)の月組Bravo!と思った!
はつらつとした若いトップも魅力的なら、
二番手以下の男役スター陣も層が厚く見事で、
なんとも明るく充実した新生月組を満喫させて貰った。

たまきちの朗らかさ大らかさは、現・月組の太陽王さながらで、
若いトップさんにしか出せない味というのがあるものだなと思った。
ダルタニアンの勇気や、まっすぐな強さは、たまきちによく似合っていたと思う。
もうひとつ、小さなことだが私は彼女のパブリックスピーキングの巧さにも感じ入った。
貸切公演はトップ男役の舞台挨拶が最後につくのが決まりなのだが、
昨日のたまきちは、堂々としてよく行き届いた挨拶を、よどみなくこなしていて、
若いのにホントに偉いなあと(←私はオバさん)感心した。

男役に関する私の趣味では、やはり、みやちゃん(美弥るりか)がダントツだった。
色気があって、女専門のイケメン神父という設定が活きまくりだったし(笑)、
後半、ショーの冒頭でせり上がりで登場し主題歌を歌ったところや、
男役センターでダンスを踊った場面など、スター然とした存在感も良かった。
もともと路線スターで来た人ではあるが、昨今更に艶やかさが増したと感じた。
こういう人を二番手に置いているなんて、なんと贅沢な組なのだろう!

また、広島の誇る暁千星のキレ味抜群のダンスにも見とれた。
目力が効いていて、彼女は舞台のどこにいてもキラキラだった。
ただ劇中、彼女の演っていたポルトスは、
デュマの『三銃士』の設定では確か、ダルタニアンより年上の筈なのだが、
今回の舞台では一番年少の可愛がられキャラに見えた。
それを狙って演じたのかどうかは私には不明だ。
頼れるおっさんアトス(宇月颯)でもなく、女道楽アラミス(美弥)でもない、
となると、ポルトスしか役が残っていなかったので、設定を変えた、
ということかなと思われるが、とにかく若く愛らしいポルトスだった。

ベルナルド(月城かなと)はもっとクドいほうが私は好みだ。
根本的に悪人ではないふうに演じていたのだろうと思うが、
マザラン枢機卿(一樹千尋)が原作よりもっとワルな人物として書かれているので、
ベルナルドの有りようは、私には物足りなかった。
でもとてもすっきりとして綺麗だった。
恋敵は美しいほど良いので、その点は素晴らしかったと思う。

濃くてデカいモンパンシェ公爵夫人が、
少々あざとい点はあったけれども、あとを引く巧さで、
最初、これが誰なのか、B席からオペラグラス無しでは不明だったが、
休憩時にポスターを見て、男役の沙央くらまが演っていたと知った(笑)。
アレクセイ@『カラマーゾフの兄弟』(2008年雪組)が、
10年経ってこんな艶っぽいマダムに成長しようとはね(^_^;。

ルイ14世(でも実は女性)という設定の、ちゃぴ(愛希れいか)は
ルイ14世のときとルイーズのときの演じ分けが見事で、
特に国王として皆の前に出ているときの立ち姿は、さすがに元・男役!!
王と王女と普通の娘、それにバレエダンサーとしての場面まであって、
ちゃぴちゃんの魅力全開だった。

マリア・テレサの海乃美月も面白かった。
私はベラスケスの描いた、およそ美人とは言えないマリア・テレサの肖像画
結構気に入っている(笑)のだが、くらげちゃん(海乃美月)は、
あの絵を見てよく研究したのではないかなと楽しく想像させて貰った。
スペイン王女なので、フランス語はわからないわけではないがやや不自由、
というあたりの表現も楽しく見せて・聞かせて貰った。

全体としては『三銃士』というより『リボンの騎士』だコレは(笑)!と思った。
そうなったのは、ルイ14世が実は女性だった、という設定のためなのだが……。
脚本的には、主役はトップ男役ではなく、むしろトップ娘役の愛希れいかだ、
と私には感じられたのだが、組ファンはそれを良しとするのかどうか?が、
観ながら微かに気になった(^_^;。
物語の展開としてはこの舞台は、
主役:ルイ14世(愛希れいか)、準主役:マザラン枢機卿(一樹千尋)
として書かれていると私は観ていて思った。
ダルタニアンはルイ14世のために剣士として活躍してはいたが、結局のところ、
ヒロインの恋のお相手、という以上の存在意義は書き込まれていなかった。
もしこれで、ちゃぴルイ14世が実は剣術も巧い、などという設定があったら、
もう彼女が完全無欠の主演者になってしまっていたに違いない。
その部分は、なぜかモンパンシェ公爵夫人が演っていたけれど。男役だから…??

……という組内序列やスターシステムの問題を深刻に追求しないのであれば、
作劇としては文句なしに成功していたと思う。
だいたいがトップ男役が一人で、しゃかりきになっているような舞台は駄目で、
それより、あちらにもこちらにも魅力的な演技者がいる中で、
ふと見れば、トップ男役はそれらの力演の上に悠々と乗っかっていた、
みたいなのが私の思う理想なので、その点でたまきちはなかなか良かった。
月組の舞台って豪華でイイなぁ、……と見終わって思うことができたのは、
「あの人もいて、この人もいて、そして真ん中に居るのが、たまきち!」
という構図が、それなりに巧く出来ていたからに他ならなかった。

細部に関して、「んなワケあるか!」な無粋なツッコミは一切無しだ、
愉快痛快浪漫活劇なのだから!
登場人物のキャラも立っていたし、大勢口でのフォーメーションも綺麗、
盆の回る舞台演出も洗練されていて効果が上がっており、コメディセンスも良かった。
本当に気持ち良く楽しい舞台だった。さすがはイケコ(小池先生)。
良い公演を見せて貰った。行った甲斐があった!

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だって帰り道なんだよ東京からの(笑)。
行くだろ普通(笑)

***********

(追記)
龍 真咲のシシィが良すぎでビックリした(殴)。
こんな、退団してすぐにエリザベートのタイトルロールを演るなんて
かなり冒険ではないかと思っていたのだが、歌も演技も、大変良かった。
これまで定番だと私が思っていた、後半の、心を閉ざした皇后の姿は、
龍シシィからはあまり強くは感じられなかったが、
意図的にそのように演じていたのかもしれない。
成人した息子ルドルフへの対し方とか、『夜のボート』の歌唱など、
シシィの気持ちがこちらにも見えるものだったと思った。

作品的には、最近は本家の宝塚歌劇団が
何年かに一度は『エリザベート』を上演するので
私は正直なところ、有り難みがだんだん感じられなくなっていた。
初演の雪組がヒットしたあと、96年星組続演・98年宙組上演の頃には、
あのエリザベートが今度は一体どうなるのか!?という大きな興奮があったが、
以後、再演が重ねられ、こちらも全部の歌が歌えるほど(爆)見慣れてしまい、
最近は、申し訳ないが
「そろそろエリザが出るかと思っていたら、やっぱりか」
くらいの感覚に下がりつつあった。

しかし今回、OG公演のガラコンサート形式で改めて観て、
やはりこれは見事な作品なのだと、強く感じた。
音楽と限られた台詞だけで、これほど魅力のある舞台に仕上がるというのは、
作品そのものの底力が桁違いだということだと私は思った。
同時に、こうして路線男役や実力派スターだった人たちを配して上演すると、
各々が主役・準主役級の存在感や舞台経験を持っているために、
小さな役まで自己主張のひとつひとつが鮮明になって、
大変に見どころの多い舞台になるのだということも、よくわかった。

************

ついでに、これは初演のときから思っていることなのだが、
私にとっては実は、『エリザベート』で一番盛り上がるのは一幕ラストだ。
トートを中央に、シシィ、フランツの三人の歌唱で幕となるところまでの、
音楽の秀逸さ、造形的な見事さと言ったら、もう。
あれこそ宝塚歌舞伎の真骨頂だと私は思っている。
特に、96年星組公演のマリコ(麻路さき)型トート(=銀橋ねそべり)を
観たときの衝撃と言ったらもう、たとえようもないほどで、
あれは私にとって、エリザ上演史上屈指の名場面だったと
今も自信を持って断言できる(笑)。

……が、そのあとの二幕は、誰がどうやっても、もうひとつなのだ。
高揚感が足りず、物語は「お片付け」にかかっていって、収束あるのみ。
『スカーレット・ピンパーネル』にもその傾向があったから
演出の小池先生のせい(爆)なのかとも思ってみたが、
私は映画『風と共に去りぬ』も好きなのは前半だけだった。
小説『銀河英雄伝説』でも私にとって面白いのは5巻までだ。
名作ほど、作劇というのは、えてしてそういうところに落ち着くものなのか、
それとも「昇っていく」話だけが好きという、私の趣味の問題なのか。

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昼公演を観た。
みりお(明日海りお)ちゃんが、観るたびに立派になっているので感激した。
スターオーラが強烈で、まさに「襲名が役者を大きくする」的な……。

『仮面のロマネスク』は、私は97年の雪組の初演を知っているので、
初演キャストの様々な思い出が蘇って、興味深くもあり切なくもあった。
(ヒゲをつけても全然老けて見えなかった、
たかこ(和央ようか)さんのジェルクール将軍とか……(逃))
また、今回の主要キャストの台詞まわしが初演に似ている箇所が結構あり、
各自、ビデオを見て研究したということなのか、
そういう演出だったということなのか。


いろいろ書きたいが、今夜は時間切れ……(T_T)。

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十年以上前に書いた話が、実現していたことがわかった。
『頭にセットできるオペラグラスが欲しい』
『オペラを仕込んだメガネが欲しい』
これが、とうとう商品化されたのだ。
……ということを、先日、facebookの友人某氏のリンクで知った。
その名も、
カブキグラス(R) 究極のオペラグラス(サンテプラス株式会社)

ネーミングそのものはカブキグラス(R)とあるが、
私ならこれは歌舞伎鑑賞では必要ない。
歌舞伎なら、限られた、観たい瞬間にだけオペラグラスを使えば済むし、
そもそも私は歌舞伎にオペラグラスを持って行くこと自体が稀だ。
歌舞伎は、少なくとも私にとっては全体・全景を観るものであって、
贔屓役者の上半身だけ拡大して観たい種類の舞台芸能ではない。
場合によっては客席まで含めて眺めてこそ、歌舞伎は面白いのだ。

しかし、宝塚を観るときは、これはなかなか有効だと思う。
宝塚では、何をおいても贔屓の生徒さんを観たいし、
観ながら拍手あるいは手拍子までせねばならないことが
観劇中にはかなり多いからだ。
同じ演目を複数回観ることも、宝塚では普通で(笑)、
二度目以降となると、贔屓の生徒さんがどの位置から登場し、
どういうタイミングで銀橋に出て来るか等がわかっているので、
その瞬間を逃さず観たいのと同時に、客席が揃って拍手で迎えるところに
自分も参加したいという欲求が、私には、ある(^_^;。
そういうとき、これまでのオペラグラスだと、
「観ること」と「拍手」の、どちらかを犠牲にしなくてはならなかった。
拍手してから、一小節遅れくらいでオペラを上げるか、
最初からオペラを構えて待っていて、拍手のほうを後回しにするか。
更に、ソロに合わせて手拍子、などになると完全に二者択一だ。
オペラグラスを使いながら手拍子をすることは、できない。

しかし、このカブキグラス(R)があれば、もう悩まなくてイイ(笑)。
贔屓を存分に観ていながら、両手が自由だ。
オートフォーカスなど品質的にもかなり優れもので、軽量でもある。
問題があるとすれば、価格32,400円(税込)をどう捉えるかということと、
やはり、これを使用した際の自分の「見た目」を許容できるかどうか、
という点だろう。
自然観測などある程度専門性の高いものや、
勢いでなんとかなる(笑)スポーツ観戦や観光は、まだ良いと思う。
しかし、観る側も一応の盛装をしていて、
客席のフォーマルな雰囲気そのものも、公演の要素として無視できない、
コンサートホールや劇場という空間は、どう考えたら良いのか(汗)。
サイトの『誕生秘話』を読むと、カブキグラス(R)は飽くまで、
遠くの席からでも舞台やスポーツの臨場感が味わえる、
というのをセールスポイントにしている。
しかし、現実のニーズは、そこだけではないだろう。

宝塚ファンは、通常、前方席、否、最前列からでもオペラグラスを使う。
それくらい、ヅカファンは「アップで観ること」に重きを置いている。
前出の友人某氏が指摘して下さったことだが、
宝塚の売店であるキャトルレーブでも、カブキグラス(R)の取り扱いがあり、
歌劇団側からは、ニーズはある、と見られているようだ。
しかし、10列目くらいまでは舞台からも観客の顔や表情が見えている、
と、複数のタカラジェンヌがインタビュー等でこれまで言っていた。
カブキグラス(R)をつけたこちらの姿は、前方席にいる限り、
贔屓のジェンヌさんの目にも入るわけだ。
カブキグラス(R)は、果たして、ヅカファンの間で受け入れられるのだろうか。

また、ポゴレリチの演奏会で、もし私がこれをつけて座っていたらどうなるか。
私は、彼のペダリングをもっと良く見たいと常々思っている。
ウナコルダ、ソステヌート、ダンパーペダルをどう使い分けているのか、
どのタイミングでどれをどれだけの長さ・深さで踏んでいるのか、
彼のペダリングの多彩さには、毎回、大変強く惹きつけられている。
あれを、私はもっとつぶさに観察したい。
しかし、……客席で、こんな、レンズの突出したメガネみたいなものを
かけた女が、むしゃぶりつくようなオーラを出して聴き入っていたら、
そしてマエストロがそれに気づいたら、
…………何が、起こるだろうか………(逃)。

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