逃げきれた夢/二ノ宮隆太郎監督
定時制もやっている高校の教頭をしている男は、坦々と仕事として問題のある生徒たちと向き合いながらも、何か長い間押しつぶしてきた感情のようなものを抱えている。そういう自分に対して、改めて疑問のようなものを持ち始めている様子だ。それは、教え子からの会話の端々から、だんだんと気づかされていく。そうしたある日、教え子が働いている定食屋の支払いを忘れてしまう。そして、追いかけてきた教え子には、何故かそのまま支払いを拒否してしまう。そういえば男には、何か脳に病気があるようだ。気が付いてみると、家族との関係も冷め切っているし、それが自分には不服である。また昔からの友人とも、口論になってしまう。そういう事に気づいて、一年残した定年前に、退職を決意するのだったが……。
それだけの話と言えばそうなのだが、ちゃんとした科白として、その問題点を洗い出している訳ではない。むしろ語られない科白の間のような時間で、観ている側がその問題点を補完していく作業が必要だ。北九州という舞台において、出ている俳優の、特に主役の光石研の演技のための映画とも言っていいと思われる。彼の存在と演技でもって、この男の人生の悲哀が語られているのである。
面白い映画ではないのだが、その変な空気感のようなものを、じわじわ味わうという感じである。僕は九州の人間だから、方言も含めて、映画の中の北九州の人々には、親しみを感じる。確かにこんなことを言う人達が暮らしている場所が、北九州という土地である。この主人公の教頭先生のような先生は、はっきり言って見たことは無いが(経験がない)、人間としての悲哀は感じないではない。生徒から疑問を投げかけられても、ちゃんと答えることが出来ない。むしろその沈黙が、自分勝手さを表しているのかもしれない。そこを親友に指摘されて、怒るわけだが、しかし生徒に対しては、怒りはしない。ちゃんと対峙しているようでいて、そうではないのかもしれない。殺している自分の意見は、ずっと飲み込まれたままになっている。そういう蓄積がおそらくあるはずで、生徒たちの将来の不幸なんて、実のところどうだっていいのかもしれない。
そういう読み取りは間違っているかもしれない。僕には解釈には自信がない。何より語られない間でもって、その人の考えが分かるほど、超能力を持ち合わせていない。でもまあ、この映画の狙いというのは、そういう間違いかもしれない解釈を、それぞれが持てばいいという事なのではないか。映画なんだから、観るものが勝手に楽しめばいいのである。