カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

命は尊重されるべきだが

2020-11-12 | ことば

 Black lives matter というのは、現在は一応「黒人の命も大切だ」という訳文で定着してはいる。というのも、僕が見る限りの報道では、そのように言われているからである。
 もちろん当初は少なからぬばらつきはあった。「黒人の命(は)(も)」の併記もあったし、「黒人の命だって大切だ」「黒人の命を尊重しろ」「黒人の命を粗末にするな」というのもあったそうだ。意味として一番近いのは、「黒人の命を粗末にするな」という気はする。この運動が始まった理由として、黒人が簡単に殺される上に、殺した(白人)の罪が問われないケースに不満があるという背景があるからだ。それも繰り返し繰り返しそのような事件は繰り返され、なかなかに改められているようには見えない。まるで沖縄の米軍兵の日本人女性への暴行事件のような感じでもあるが、話が複雑になるので、米国の話に戻そう。それは現在でも厳然と残っている、黒人差別への怒りである。
 村上レディオで村上春樹が、これは「黒人だって生きている」って訳したらどうだろう、と提案していた。なるほど、そうかもな、とその時感じたのだが、いささかやはり文学的すぎるかもしれない。白人に対して、黒人は白人同様に生きている人間であることを分かってもらわなくちゃ、という感じだろうか。
 過去からの代表的な事件を振り返るにあたり、確かにそのように黒人の命は、あたかも軽んじられ、犠牲になっているように見える。その怒りが渦のように広がりを見せ、行き過ぎて暴動めいた略奪まで起こっている。明らかに行き過ぎである。
 問題は、そういう風に黒人を中心とした人たちが怒り、暴徒化してしまったことで、黒人の命は尊重される方向へ向かっているのかということだ。ここまで運動が広がり、認識を新たにするように求められているにもかかわらず、まだ事件は繰り返されるのか。
 聞くところによると、白人たちは、暴徒化する黒人たちを見て、さらに黒人に対する恐怖感を強めてもいるのだという問題があるのだそうだ。特に白人警官の立場によると、不審な黒人を検挙しようとする際に、何か奇妙な動きをするだけで、過剰に白人に対して憎悪を含めた反抗をくみ取ってしまい、恐怖に駆られて過敏反応をしかねないことがあるのだという。結果的にそれは幻想で、疑いのある人物が丸腰だったりする。またそういうもっともらしい理由を用いて、過剰に強がって毅然とやりすぎる警官もいそうだという複雑さがある。それこそが差別だが、そういう人たちが混在すると、それがいったい悪意なのか憎悪なのか恐怖なのか、判然としなくなってしまう。結局は、黒人の命はまた失われてしまう。
 皮肉なことだが、始まりは確かに正当な怒りや公平さを求めるものだったとしても、受け止める相手側にとっては、黒人偏見の恐怖感を強めるものになっている可能性が高くなっているということだ。もちろん運動の中心的な考えには、共感に値する真摯なものがあるにせよ、その広がりが大きくなるにつれ、過剰に間違ったものを含んでしまうという悲劇である。
 やはり議論は、対立軸のみで語られるべきものではない。争点としては致し方ないことであったとしても、暴力的な圧力が議論をゆがめてしまう結果になりかねないということだ。もちろん、その意見を言える自由さえ失われる場所もあることを考えると、こういうものが正常なのかもしれないのだけれど。
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