改めて大阪都構造の住民投票の否決は、残念だったという印象。僕はほとんど維新の会にはシンパシーは感じていないが(何しろ住人ではないし、知事のコロナ対策の発言には感心しない)、今回の結果をもって、維新の会の在り方自体が大きく変わりそうだ。それに大阪都構造はやるべきことが満載で、大いに期待できた。それが、大阪市が無くなることで、住民サービスが低下するとされる一連のデマでつぶされたというのが、やっぱりテロに弱い、住民の考える能力が足りないことが露呈して否決された形だ。大阪や他の都市の住人の頭の質がそう変わらないことは間違いないので、結局は日本人の愚かさがよく分かる結果だったということだろう。
そもそもは、大阪市の職員の給与だけが突出して高かったり、行政サービスがコストのわりに悪い、という話だったのだ。今回の結果は、そういう部分を容認する、という意味なので、住民は我慢して高い税金を納めるようにさせられたわけである。愚か者の選択とはいえ、残念である。それにこの結果に喜んでいるんだから、救いようのない何とかである。
とまあ、いつの間にかここまで書いていて、ふと、なんでこんな文章になったのだろう、と思った。一つはこのニュースを見て、大阪に同情してしまったというのがあるのだが、やはりこの結果を市民がどう受け止めているのか、というインタビューを見たせいも大きいかもしれない。反対が僅差とはいえ上回ったのだから当然だが、大阪市が無くならなくてよかったとか、住民サービスが守られてよかったとか、賛成派でも改革は進むのだからよいだとかいうコメントだった。いったい彼らは何を血迷っているのだ、という感じだろうか。ある野党議員は、コロナ禍に住民投票をするという愚行を批判していた。それって何の関係もない感想である。まあ、彼らには何もできないのだから、そう言うのだろう。
要するに、そんな茶番をみせられて血が上ってしまったというのが真相だろう。我ながら馬鹿げているが、それが人間というものだ。結果として取り返しのつかない愚行が歴史として残ったというだけのことである。それはこれまでの政治とそう違うものではない。大阪がダメなら他もダメだという象徴的な出来事に思えてしまったのもいけなかった。他では上手くいくことだってあるかもしれないのだし。
そもそもこの大阪都構想に、いったい何を僕は期待していたのだろうか。何か、このことで、未来的な希望を感じていたことも確かだろう。実際に知事と市長という行政上のトップを独占しながら、改革が道半ばで、今の制度の上でやっていくことには限界があるということが明確だからこそ、この構想を再度持ち出して、勝負をかけたのだ。大阪の住民がそのことを分からなかった筈は無かろう、と思っていたわけだ。結果的には分かっていなかったみたいだし、理解もしていなかった。もっとも既得権益が、一生懸命デマを流して抵抗した成果が出たわけで、それも左翼的なマスコミが加担さえした。一部間違いを認めたところもあったそうだが、流れはそのままであったようだ。分からないのなら、ちゃんと勉強したうえで、ふざけ半分に批判してはならない。残念ながら、そういうことに流される人がいるのだから。
おっと、まだまだ熱は冷めないようである。もうこれは、切り替えるよりないが、分かっている人が皆無なのではない。何しろ票は拮抗していたわけで、既得権益が、これでやり放題になったということでもない。どちらもやりにくくなったということもできるわけで、それくらいは、ましである。そうして、この議論はまだ終わることは無いだろう。そうしてまた、出る人が出てきて頑張ればいいのだ。まあ、それも他力本願だけれど、政治なんだから仕方ないのである。