カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

生贄の事実は呪われている

2020-11-05 | culture

 イーストウッド監督作に「リチャード・ジュエル」という映画がある。実話をもとにしたもので、爆弾テロの第一発見者で多くの市民を助けた功労者としてヒーローになった男が、逆に犯人である可能性を示唆されたために立場が転落してしまう物語を描いている。
 この映画は公開時に激しいメディア批判にさらされた。その理由は、映画の中で女性記者が、自分の性的な魅力(いわゆる寝た報酬として)で警察から情報を聞き出す、という場面がある。これがステレオタイプ的な女性を貶める表現だとして批判されたわけだ。さらにこの女性記者は、実在の人物を実名でモデルにしており、本人はすでに亡くなってもいて弁明する機会がない。同僚記者からは、このことは事実ではないとされている。
 イーストウッドのインタビューがあって、もちろんこの批判にも触れており、表現の自由があり撤回しない旨と、実在の人物とは言え、十分にありうるエピソードとして取り入れたと語っている。要するにフィクションではあるわけだ(事実は誰も知らないが)。
 メディアによって貶められた人物を描いた作品が、映画によってメディア人を貶めている作品でもあったわけだ。そういうことがあってはならない、ということだろう。
 確かに本人が亡くなっているとはいえ、家族は存命であろう。映画の主人公のリチャードも亡くなっている。当人たちがこの世にいないからこそ出来た作品であるとも言え、史実をもとにした作品を作る難しさを感じさせられる。メディアによって否応なく多くの人から攻撃を受け、苦しめられた個人の名誉を回復するような意味合いもありそうな映画が、そのメディアを批判する意味合いとはいえ、結果的に故人を貶める作品になってしまった。
 しかしながら、本当にこの映画を炎上させた問題は、やはりこれが女性をそのようにとらえている社会批判であるという正当性だろう。そのような偏見に対する男性批判も含まれている。女性が自分の性を使って何らかの情報を引き出すなどの行動は、人間としての能力を補うために女性を使ったと捉われかねない。いわゆる男性より劣った面を強調しているという考えがあるのかもしれない。さらに男性社会だからこそ、そのような女性性を使えるわけで、そのような社会が正常ではない、ということでもあるかもしれない。
 その影響があったのかどうか、映画としては、実際には地味ではあるとも思えたが、興行的には失敗した。でもまあ太平洋を挟んだ国に住む、僕のような人間だって観た訳である。女性を辱める目的を読み取ったかといわれたら、それはちょっと分からないけど、少なくともメディアの人間の狡猾な姿であるとは認めたし、それによってリチャードさんを地の底に落とした代表的な人間として嫌悪したのは確かである。
 しかしながらこのような批判炎上というのは、要するに何かを守るために、さらに誰かを批判させる土台があってのものである。史実をもとにしなければ、表現の自由としてそのようなエピソードがあったとしても、個人が嫌悪するのみであったことだろう。運動のための題材にされたわけで、映画の主人公と同じく、スケープゴードにされたものだといえる。まさに呪われた史実の連鎖ともいえるだろう。
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