カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

爆弾の降るまちに住み続ける   娘は戦場で生まれた

2020-11-07 | ドキュメンタリ

娘は戦場で生まれた/ワアド・アルカティーブ監督

 ドキュメンタリー映画。内戦下のシリア・アレッポで、反政府にシンパシーを抱いている学生であった女性が、最初はスマホでその空爆の惨状を撮りためていく。そのうち彼女はジャーナリズムを志すようになり、医者と知り合い恋に落ち、結婚する。反政府軍の拠点になっているらしいアレッポの街で、犠牲者を救うことで反政府の機運に加担している夫にシンパシーを抱き、空爆におびえる日々にありながら、そののち妊娠してしまう。そうして生まれてきた娘とともに、いつ爆撃で命を落とすか分からない日々におびえ、しかしどうしても反政府的な心情を捨てきれないまま、アレッポから安易に抜け出せなくなってしまうのだった。
 恐らく政府軍とロシヤ軍のクラスター爆弾などの空爆を受け続けるまちに、人々はとりあえず日常的な生活を送ってはいる。通りで将棋のようなゲームに興じている人もいるし、買い物をしたり学校へ行ったりしている。時代からいって、恐らくアラブの春といわれる民主化運動の流れを汲んで、人々は強権をふるう政府からの解放に期待を抱いていた、という背景があるのだろう。西側社会から見るアラブの春にもいろいろあるのだろうが、雪崩を打つようにアラブの国々が民主化していくような幻想の中にあって、シリアのアレッポという街の現場にあっては、このような悲劇が繰り広げられていたのだ、という話なのだ。
 人間死んでしまえばおしまいだ。いくら崇高な理想があるとはいえ、銃の前に丸腰(に近いものを含む)の人間が、その道理を説いて道が開くか。立場もあり、自分たちの方が人道的な、そして民主的な正しさがあるという信念はある。しかし、武力に勝る政府軍(ロシアの支援を受けている強大さがある)に、ただ死傷者を治療しながら籠城し続けられることには限界がある。だからこそメディアを通じて、世界にこのリアルな惨状を流し続けるよりない。確かにそれは命がけで、信念の上では尊いことなのかもしれない。でもこのドキュメンタリーを見る上では、子供を抱えたままでこれでは、無謀すぎる上に、ちょっと馬鹿げた賭けに意地を張っているようにも見える。
 それでも本当に窮地に立たされ、死を待つばかりで、逃げ出すことも困難に立たされる状況になり、その後悔の念も素直に語られている。本当に死を前にした人間は、ただその死の前に後悔するよりないのだ。
 そういう意味では、意地を張り続けていることも含めて、人間的な物語である。そうしてそのために、戦争(内戦だが)の悲劇を余すところなく伝えている。ただそこには、子供たちを含め、多くの犠牲が積みあがるだけの毎日なのだ。それを見て何を思うか、遠くにいて何を思うか。問われているが、それにこたえる術を、我々はもっているのだろうか。
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