カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

バスクリンの海 五島うどん

2020-11-15 | 散歩
 朝とりあえず出発しまして、運転手さんが時間があるんで一か所寄りましょう、というところが桐教会。
 まずは目の前の島々とモスグリーンの海が素晴らしい。誰かバスクリンみたいだ、といってましたが、ほんとに着色したみたいな感じもしないではないですね。


 指さしている先は外海町(長崎)なんだそうです。皆、そこから流れてこの島に点在して移り住んできたわけです。それも人里離れた寂しい浦に集落を作って、魚を獲って生活したんでしょう。逆に言うと、逃げてきたけど、ここがフロンティアでもあったわけです。


 白を基調とした教会で、これもきれいでした。ステンドグラスの明り取りが、まるで電気の照明のように明るいのでした。


 向かいの島のどれかには人が住んでいるそうです。人が住んでいる島では、日本で二番目に小さい島だとか言ってました。そういうものなんですかね。郵便屋さんは大変でしょう。



 さて、ここで少し移動しまして、やってきたのは矢堅目の塩製造所。
 実は最初椿油の搾油作業を体験したのですが、動画しかとってなくて、なぜかパソコンでアップできないんですよ。もっと勉強します。そういう体験コーナーがあってお勉強もできて、塩づくりも見学しました。何段階も蒸発させて、塩って作るものなんですね~。


 あの岩が、通称トトロ岩。まあ、そんなように見えないではない。


 そうして、今度は昼ごはんです。
 予定表では時間通りだったのですが、店の方ではまだだったようで、しばらく付近を散策致します。



 船が一杯泊ってまして。まあ、皆さん漁業を中心に頑張ってらっしゃるんのでしょう。


 なんとなく先に見える岩が気になって近づいてみました。


 外側の海は、やっぱり雰囲気違うんですよね。あっちが高速船などの船着き場だな。


 船で、どこにでも繋がってはいる訳です。


 釣りする人には、いろんなところがポイントになるのかもしれませんね。僕にはわかりませんが……。


 実は僕はテトラポットファンなんですよ。こういう変な形のでかいやつがゴロゴロ海岸にあるのを見ると、たまらなくうれしいのです。よくもまあ重たいのに一個一個運んだものだよなあ、と感心してしまいます。でもものすごい波が来ると、これが動いたりするんですからね。自然って凄いですよ。


 と戻ってきたら、皆さんもう食事しておられました。慌てて追いつくべく、食いつきました。


 ざるうどんもツルツル旨い。


 海鮮丼もあるんです。バクバク。


 茹でたあつあつ饂飩は、卵にまぶしていただきます。
 他にもだし汁で食べるのがあるんですが、まあ、どっちも旨いんですが、物珍しさもあって、今回は卵でツルツルがよかったです。


 食べ終わったら、海童神社。クジラの骨で鳥居が模してある。


 一応お参り。安全でありますように。


 その裏の鯨見山展望台にも上りました。鯨を追い込んだ入江なども見えました。周りは椿の木だらけで、資生堂さんなんかに卸しているそうです。

 ということで観光は終了。お世話になりました。

 でもまあ時間はまだたっぷりあって、船着き場の売店は店休日だそうで、歩いて別の場所におみやげを買いに行きました(すでにあちこちで買ってはいるんだけどね)。



 漁港の街も中に入ると結構入り組んでました。通りは狭いんですよね。


 ターミナルが鯨賓館ミュージアムにもなってます。ちょっと見学して時間つぶして、地元の盟主佐田の山関の展示品なんかもありました。



 サヨナラ上五島。


 で、すいーっと長崎港に帰ってきたよ。




 皆さん、お疲れさまでした。

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なぜか龍馬。 そして海岸

2020-11-14 | 散歩

 あそこに立っておられるのは誰ね~。
 っということで、坂本龍馬ゆかりの広場なのである。銅像の彼は祈りをささげており、その方向というのが、亀山社中所蔵の木造船「ワイル・ウエフ号」が遭難した沖合に望んでいるのである。
 当時難破した船の破片がこのあたりに流れ着き、そういうものを集落の人が隠し持っていたこともあったのだという。


 釣り場としてもよさそうなところでした。実際釣りから帰ってきている人もいたみたい。魚はもってなかったような気もしたけど……。


 この後僕らもここで記念撮影しました。坂本はんは、いろんなところで銅像にされたとバイね。人気のあらす人は、あっちこっちで使われらすバイ。


 単に波に洗われただけの岩だけじゃなく、切り出されたり崩されたりしたのもゴロゴロと転がっておりました。


 まあ、そういう石の多いところというのを銘記しておいてください。


 それで、運転手さんが、このあたりの小さな集落を見てくれってことでやってきたのは、赤尾地区。石を使った家づくりのものが残っているのだということでした。 
 ははあ、なるほど。



 細い通りの両脇に、なんというのかな、下のところだけは石を板にして使ってますね、その上は木造の建物であるようです。



 それにしても建物のあいだの間隔が狭い。密集住宅の上、小さい路地が縦横にめぐってます。子供のかくれんぼには、最適の場所かもしれないです。


 こういう風にして、石文化が生かされているんでしょうね。


 さて、またちょっと移動しまして砂浜にやってきました。


 蛤浜海水浴場です。名前の通り以前はハマグリがたくさんいたんだそうですが、今はほとんどとれん、ということでした。
 仲間の一人が、以前子どもさんと一緒に来たことがあるそうで、本当にいつまでたっても膝の高さくらいの浅い海が沖の方まで続く、いわゆるとんでもない遠浅の海岸なんだということでした。今回は誰も水着も持ってきてないし、半ズボンでもないし、チャレンジする人はいませんでした。大人だもんね。


 カラスがたむろって何かつついてまして、近づいたら、打ち上げられた魚でした。食事を邪魔してすんませんでした。



 これは満ちてきているようで、もう少し引いたら、もっと砂浜の臨場感がうまく撮れたかもしれません。



 ということで、ホテルに入って食事です。温泉施設は、今夏の台風で壊れて、まだ復旧がかなわないということで、少し残念でした。高台にあるリッチな感じのホテルでしたが、コロナ対策もあるということで、時間入れ替え制の食事となりました。


 まあしかし、料理はこじゃれてて美味しかったです。


 いろいろお話はできて、いつの間にか大音声だったことと推察いたします。楽しくてよかったですが……。


 そうして二次会は部屋飲みで、ここに来る前にスーパーで買い出ししておいたものをガツガツ食い直し飲み直ししたのでした。まあ、よいところで就寝出来て、体力的には助かりました。

 ということで朝になり、同室の人は朝風呂ということで、僕は朝食前の散歩に向かいました。
 近くに野球場があるようでした。


 奈良尾というのは上五島の南側にありまして、しかし空を見ると東の空に太陽が昇ってきてまして、一瞬方角が分からなくなりました。
 まあ、入江が入り組んでいるので、そういう錯覚に陥ってしまったのでしょう。とにかく入り江がいくつもあって、漁港がそこにいくつも点在して、本当に面白いところだなあ、と思います。


 なんか偉い人なんだろうか。


 奈良尾の集落。


 泊まっていたホテルです。


 朝食もいただきました。


 後に知ったところによると、ふるさと観音公園というそうです。


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上五島を行く 頭ヶ島教会

2020-11-13 | 散歩
 訳あって、上五島に行ってきた。
 出発は長崎港。


 女神大橋をくぐります。このあたりから高速船のスピードが上がってきました。


 あのあたりが神ノ島あたりだろう。


 高速船って思ったより揺れて、とても船内を歩いて回れない。とてもじゃないけど本も読めない。会話も二対一でないとどうも難しい。つまりやることないので弁当を早々に食べた。



 写真じゃよく分からないが、水しぶきが上がって虹が出ていた。とにかく激しい。


 頭ヶ島大橋をくぐった。


 有川港に到着。



 いわゆる下五島には一時期毎年行っていたが、上へは行く機会が無かった。奈留には葬式で行ったことがあるので、今回でだいぶ征服感は増すように感じる。

 龍馬がマスクしてた。


 車に乗って、まず向かったのが頭ヶ島。
 先ほどくぐった橋を、今度は渡る。


 右側と左側でだいぶ波の高さが違う。北の方の波が荒いようだ。


 向かいに見えるロクロ島ってところから石を切り出して、教会を建てる石にしたんだそうだ。それは後程確認する。
 旧空港でシャトルバスに乗り換えて現地へ向かう。


 たぶん世界遺産になったために、いろいろ配慮があるんだろう。
 僕ら以外にもたくさんの集団観光客がいました。
 そうして着いたよ、頭ヶ島教会。確かに石造りである。


 信者さんたちのカンパなどの資金を投じて、さらに自分たちでも石を運んで、十年の歳月を要して作られたのだそうだ。大変な苦労があって、破産した人もいたらしい。そういう苦労がありながら、残っている信者さんは高齢の上に少ないのだという。
 石垣の組み方も変わってました。


 門柱なんかは日本的で、和洋折衷なんである。


 壁面の波の飾りも説明受けたが忘れてしまった。まあ、小さい教会だけど、荘厳でモダンなのだ。


 こじんまりとしながら、皆でコツコツ建てていったんでしょうね。


 マリア様もしつらえてありました。


 建物下の方には大きな穴が開いてました。
 通風孔で、湿気を逃すためなんでしょうね。野生動物が入ってこないのかな、とも思いましたが、人間が頻繁に出入りすると、面倒で住まないのかもしれませんね。


 ステンドグラスは木枠ですし、写真撮れなかったけど、室内の天井は船底を模したような作りになってまして、なかなかに凝ってました。ツバキの花らしきものが飾りに彫られてましたが、なぜか花弁が四枚(実際の椿は5枚)なのは、やはり十字架を模したものなのだそうです。


 運ばれてきた石には数字が振ってあります。間違わんごとかな。



 ということで、やっぱり立派であります。


 近くには信者の墓地がありました。


 ロクロ島を望む側はきれいな砂浜なのでした。


 ザザーン。


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命は尊重されるべきだが

2020-11-12 | ことば

 Black lives matter というのは、現在は一応「黒人の命も大切だ」という訳文で定着してはいる。というのも、僕が見る限りの報道では、そのように言われているからである。
 もちろん当初は少なからぬばらつきはあった。「黒人の命(は)(も)」の併記もあったし、「黒人の命だって大切だ」「黒人の命を尊重しろ」「黒人の命を粗末にするな」というのもあったそうだ。意味として一番近いのは、「黒人の命を粗末にするな」という気はする。この運動が始まった理由として、黒人が簡単に殺される上に、殺した(白人)の罪が問われないケースに不満があるという背景があるからだ。それも繰り返し繰り返しそのような事件は繰り返され、なかなかに改められているようには見えない。まるで沖縄の米軍兵の日本人女性への暴行事件のような感じでもあるが、話が複雑になるので、米国の話に戻そう。それは現在でも厳然と残っている、黒人差別への怒りである。
 村上レディオで村上春樹が、これは「黒人だって生きている」って訳したらどうだろう、と提案していた。なるほど、そうかもな、とその時感じたのだが、いささかやはり文学的すぎるかもしれない。白人に対して、黒人は白人同様に生きている人間であることを分かってもらわなくちゃ、という感じだろうか。
 過去からの代表的な事件を振り返るにあたり、確かにそのように黒人の命は、あたかも軽んじられ、犠牲になっているように見える。その怒りが渦のように広がりを見せ、行き過ぎて暴動めいた略奪まで起こっている。明らかに行き過ぎである。
 問題は、そういう風に黒人を中心とした人たちが怒り、暴徒化してしまったことで、黒人の命は尊重される方向へ向かっているのかということだ。ここまで運動が広がり、認識を新たにするように求められているにもかかわらず、まだ事件は繰り返されるのか。
 聞くところによると、白人たちは、暴徒化する黒人たちを見て、さらに黒人に対する恐怖感を強めてもいるのだという問題があるのだそうだ。特に白人警官の立場によると、不審な黒人を検挙しようとする際に、何か奇妙な動きをするだけで、過剰に白人に対して憎悪を含めた反抗をくみ取ってしまい、恐怖に駆られて過敏反応をしかねないことがあるのだという。結果的にそれは幻想で、疑いのある人物が丸腰だったりする。またそういうもっともらしい理由を用いて、過剰に強がって毅然とやりすぎる警官もいそうだという複雑さがある。それこそが差別だが、そういう人たちが混在すると、それがいったい悪意なのか憎悪なのか恐怖なのか、判然としなくなってしまう。結局は、黒人の命はまた失われてしまう。
 皮肉なことだが、始まりは確かに正当な怒りや公平さを求めるものだったとしても、受け止める相手側にとっては、黒人偏見の恐怖感を強めるものになっている可能性が高くなっているということだ。もちろん運動の中心的な考えには、共感に値する真摯なものがあるにせよ、その広がりが大きくなるにつれ、過剰に間違ったものを含んでしまうという悲劇である。
 やはり議論は、対立軸のみで語られるべきものではない。争点としては致し方ないことであったとしても、暴力的な圧力が議論をゆがめてしまう結果になりかねないということだ。もちろん、その意見を言える自由さえ失われる場所もあることを考えると、こういうものが正常なのかもしれないのだけれど。
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家族と恋の駆け引きと女性のしあわせ   ストーリー・オブ・マイ・ライフ/私の若草物語

2020-11-11 | 映画

ストーリー・オブ・マイ・ライフ/私の若草物語/グレタ・ガーウィング監督

 ちょっとお話が重層的になっていて、時間軸が前後して語られる。後に自分たちのことを小説として語られていることが分かり、そうして自分たちのヒストリーそのものが、小説の原型であることが分かってくる。原作を詳しくは知らないわけだが、ちょっとした味付けあるようで、古典的名作が、ずいぶん現代風によみがえった作品になっているのではないか。そうして恋の行方は二転三転と残酷だが、含みがあることとはいえ、さわやかなラブストーリーとしても楽しむことができる。南北戦争で、なおかつ男女の偏見などの残る時代性がありながら、女性として正直に生きようとする若い女の子たちが、闊達に、しかし深く悩みながら、自分たちの生き方を模索していく成長物語である。
 男女の出会いの何気ない事件が、実にうまく表現されている。人というのはこのように恋に落ちるのだ。そうして楽しい経験を経て、それは確信に変わっていく。しかし相手を知るにつれて、相手の事情も呑み込めていく。自分たちが付き合っていくためには、自分の事情も含め、自分自身の何かを変えなければならない。相手にはそのままでいてもらいたい上で、自分は努力が必要だ。そういうことを、つまり男たちは模索するのだ。時代性としては、女のしあわせは結婚にしかないと頑なに指導するおばさんを象徴として、女の犠牲なしに人々が生きていくことなどできないという前提があるのかもしれない。自分の好きなことをして生活の糧にしていこうとすると、まずは結婚をあきらめるという選択からやらなければならないのかもしれない。女のしあわせのすべてが結婚にあるわけなんかないとは、信念としてしっかりと持っている。でも一人で居続けることというのは、女としてとてつもなく寂しいことなのだ(男だって一緒だとは思いますが……)。恋の葛藤ややり取りは、そのような女性的な生き方の葛藤と相まって、強がったり頼ったり、自在に揺れ動く。恋愛というのは相手がある事であって、自分が決断するからすべてが自分の思うようになるわけではない。そのタイミングで、人生そのものが大きく変化してしまうかもしれないのだ。
 実に見事な構成を持った、非常に楽しい家族物語である。軸にしているのは、このお話の原作者のようだが、そういう古典的な作品をさらに大きな視点でもって、新しい物語に仕立て上げた力量は見事なものである。悲しさと裏腹に楽しさもある。僕は思わず見終わってすぐに見返して観てしまった。確かに物語の予感は、ちゃんと語られていた予定調和でもあったのだ。まったく見事の一言で、楽しくしてやられました。
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黒人は怒ってもいいのか

2020-11-10 | culture

 映画「グリーンブック」は、なかなかいい映画だったという印象を持っていた。素直にお勧め映画として紹介したとも思う。しかしながら後に、この映画に対する黒人側からの批判のある事を知った。
 物語は、黒人ピアニストが、まだ黒人差別の残る南部を演奏ツアーで回る際に、イタリア系の白人の運転手を雇う。黒人ピアニストは様々な迫害を受けるが、そのたびにこの白人が助けてくれる。そういう白人目線の黒人救世主の映画だということらしい。さらに差別意識のあった白人が、そのように可哀そうな立場の黒人を見て、自らの差別意識を改善させるという意味もある。要するにいずれにせよ白人目線でご都合主義的に史実を利用したということもあるようだ。さらにこの黒人ピアニストの遺族は、事実以上にこの白人運転手との友情を美化して描いていると批判したとも言われている。さらにこの作品はアカデミー作品賞を受賞したのだが、その受賞の席で、他の賞をとった黒人監督のスパイク・リーが、憤慨して席を立ったともいわれている。また、多くのツイートで受賞の不快感を表明する人が絶えなかったともいう。
 リー監督の「ブラック・クランズマン」を観ると、確かに黒人差別のホラー的な立場がよく理解できる。それはなるほどという黒人ならではの表現だが、その暴力的な要素は、黒人のためであるとも思える。しかし白人はそんなことは批判しないだろう。それも内在している差別だといわれたら、まあ、そうかもしれないが。
 また違う映画だが、黒人であること自体が凄まじいホラーだという「ゲットアウト」というサスペンス・ホラー映画もある。これを観ると、確かに黒人に生まれてアメリカで生活するだけで、ずいぶん恐ろしい感覚があることが身に染みる。そこがホラーとして面白いわけだが。
 さて「グリーンブック」だが、なるほどそのように黒人の多くが怒るのだな、というのが、やはり改めて意外である。それは、黒人差別の心情を、それなりに素直に描いているからだ。自ら黒人の差別意識を隠さない移民白人が、黒人と初めて近くで接することによって、その誤りに気付かされていく。そうして有能な黒人ピアニストではあるが、ちょっとスノッブすぎるきらいのあるインテリ男を、なんとなく柔らかくするような友情も良く描いている。差別を助長するものでも無いし、白人の優位性をあらわす意図がにじんでいるものでも無い。いつまでたっても白人は理解していないと感じるその黒人意識は、批判のための批判のようにも思える。差別を特化するその被差別意識は、なかなかに溶けがたい頑固なもののようにも感じられる。
 差別が改められるべき偏見だというは、当たり前すぎる正当性がある。誰もそのことに批判できるものはいない。そんなことは単なる無知なる故の愚かさに過ぎないし、現代の人間としての原罪のようなものだろう。批判そのものはだから、被差別意識者の当然の権利ということなのだろう。しかし、今後の歴史がどうあるべきかということも考える必要があって、そのような批判も、差別の歴史の過渡期をあらわすものであるかもしれない。結果的に批判する側が有利であるようなものでは、差別是正など望めないのではないか。現代社会は、そのような病理を抱えたままである、という意味があるのかもしれない。これは黒人差別だけの問題ではない。あるいは日本人においても、なのである。
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復讐する理由と結末   よこがお

2020-11-09 | 映画

よこがお/深田晃司監督

 若いイケメン美容師に髪を切ってもらう謎の夫人がいる。これが最初はミステリとして提示される。お話は前後して、というか過去に遡ったものが進む。主人公の女性は訪問看護のナースで、ある訪問先の家族と非常に良好な関係のようで、娘に勉強を教えたりなど、かなり懇意にしている。子供のいるドクターとも、近々結婚する予定になっているようだ。そういう中にありながら、ちょっと意外でショッキングな事件に突然巻き込まれてしまい、どんどん状況が変化してしまうのだった……。
 自分自身としては、何の落ち度のある話では無い筈なのだが、まったくかかわりのない話では無いため、打ち明けたいが、あえて明かすことではないという助言に従って、秘密にしておいたことが、後々大きな問題として、どうしようもなく膨らんでしまう。完全に孤立し、苦しめられ、そうして復讐心へと心が変わっていく。そういう展開が、静かながら、しかし大きなうねりをもってつづられていく。観ている方も、その主人公の受ける、大きな不条理である仕打ちにショックを受けながら、まるで自分が傷つけられているような感覚に陥るのではないか。そうしてなされるその復讐の顛末にも、さらに二段底があるかのようだ。
 妙なお話ながら、下手なホラーより恐ろしいものがあるかもしれない。人はちょっとした関係性において、ここまで貶められることもあるのかもしれない。そうして、それは安易に這い上がることのできるものではないのかもしれない。見終わった後に、その癒えない傷の深さに、そのまま沈み込みかねない映画である。
 僕は個人的には、このあらがうことの難しい問題の、発生当時の初期行動に、やはり問題を大きくするものがあったようにも思う。それは、ミスとは言えないミスなのかもしれないが、そうであるからこそ、その後の大きな展開に、自ら後悔することになるようにも感じる。自分の力ではどうしようもないことに、巻き込まれて行って、さらに大きな裏切りを受ける。それは、もとにあった好意が裏返った妬みなのだ。そしてその攻撃を受けた自分自身が、もっと大きな妬みのような、どろどろした感情に捕われてしまうのだ。
 気分の良くなるような映画ではないが、映画を観たという醍醐味が味わえる作品だ。嫌な気分になるとしても、いい映画は観るべきなのである。
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トランプさん旗色悪くなったなあ

2020-11-08 | 時事

 事実上バイデンの勝利のようだが、混乱はしばらく続く様子だ。アメリカ大統領選というのは、遠くの日本から見ている分には面白おかしいイベントだが、わかりにくいうえに不合理なものである。単純に得票数で争えばいいものを、各州の総取り合戦のようなことをやっていて、しならない人には意味不明だ。そういうのは後進国アメリカの生の姿でもあり滑稽な茶番なのかもしれない。もっとも都市部のカルフォルニアとかニューヨークなどは、誰が出ても民主党の代表が勝つことが明白で、そういう基礎的な票が100くらいある民主党のあり方に反発する民意が、田舎の反逆として共和党を支えている背景がある。だから見た目にはクレイジーだけど、アメリカ全体の民意を表しているのはトランプのようなアメリカ感情主義のような田舎臭さにあるわけで、彼らは実際には純粋には虐げられた民意に近い感情を素直に投影しているに過ぎない。これは日本の日本人の誇りが一番だというようなものをアメリカに置き換えたようなものであって、少しは愚かな感じもないではないが、素直で純粋さのある民意である。それを悪意をもってあおっているのはマスコミであって、多くの人は別段クレイジーなのではない。
 もっともバイデンが大統領になったからといって、すぐに何かが変わるわけではない。イメージとしてトランプのような面白さが見えなくなるだけのことで、大変な中でのらりくらりやるだけのことだろう。なお年齢から考えると四年後以降もそんなに簡単なわけでもないわけで、ほんとに頑張ってもらわないと困るわけである。日本ではうまく検証できていない問題があるように思うが、オバマ大統領時代の宿題が世界の混迷を深めたというアメリカ世論があるわけで、また先送り問題を四年間で積み上げるようなことになると、日本にとってもそれなりに変な影響を受けることになるのかもしれない。隣国に深刻な問題を抱えている地政学的な立場が山積で、なおかつ自国だけで解決ができない日本のジレンマが表面化するかもしれない。一応財政出動はしばらくじゃぶじゃぶなんで景気がよさそうな塩梅になっているけれど、どこで転換点が出てくるかという薄氷の上を歩いているようなものなのかもしれない。
 さてさて、そういうわけで、もう先を歩いていくよりないが、それでも日本は首相を日本人の民意として投票で決めることができない国である。そういうことも、考えて欲しいなあ、と個人的には思うところである。
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爆弾の降るまちに住み続ける   娘は戦場で生まれた

2020-11-07 | ドキュメンタリ

娘は戦場で生まれた/ワアド・アルカティーブ監督

 ドキュメンタリー映画。内戦下のシリア・アレッポで、反政府にシンパシーを抱いている学生であった女性が、最初はスマホでその空爆の惨状を撮りためていく。そのうち彼女はジャーナリズムを志すようになり、医者と知り合い恋に落ち、結婚する。反政府軍の拠点になっているらしいアレッポの街で、犠牲者を救うことで反政府の機運に加担している夫にシンパシーを抱き、空爆におびえる日々にありながら、そののち妊娠してしまう。そうして生まれてきた娘とともに、いつ爆撃で命を落とすか分からない日々におびえ、しかしどうしても反政府的な心情を捨てきれないまま、アレッポから安易に抜け出せなくなってしまうのだった。
 恐らく政府軍とロシヤ軍のクラスター爆弾などの空爆を受け続けるまちに、人々はとりあえず日常的な生活を送ってはいる。通りで将棋のようなゲームに興じている人もいるし、買い物をしたり学校へ行ったりしている。時代からいって、恐らくアラブの春といわれる民主化運動の流れを汲んで、人々は強権をふるう政府からの解放に期待を抱いていた、という背景があるのだろう。西側社会から見るアラブの春にもいろいろあるのだろうが、雪崩を打つようにアラブの国々が民主化していくような幻想の中にあって、シリアのアレッポという街の現場にあっては、このような悲劇が繰り広げられていたのだ、という話なのだ。
 人間死んでしまえばおしまいだ。いくら崇高な理想があるとはいえ、銃の前に丸腰(に近いものを含む)の人間が、その道理を説いて道が開くか。立場もあり、自分たちの方が人道的な、そして民主的な正しさがあるという信念はある。しかし、武力に勝る政府軍(ロシアの支援を受けている強大さがある)に、ただ死傷者を治療しながら籠城し続けられることには限界がある。だからこそメディアを通じて、世界にこのリアルな惨状を流し続けるよりない。確かにそれは命がけで、信念の上では尊いことなのかもしれない。でもこのドキュメンタリーを見る上では、子供を抱えたままでこれでは、無謀すぎる上に、ちょっと馬鹿げた賭けに意地を張っているようにも見える。
 それでも本当に窮地に立たされ、死を待つばかりで、逃げ出すことも困難に立たされる状況になり、その後悔の念も素直に語られている。本当に死を前にした人間は、ただその死の前に後悔するよりないのだ。
 そういう意味では、意地を張り続けていることも含めて、人間的な物語である。そうしてそのために、戦争(内戦だが)の悲劇を余すところなく伝えている。ただそこには、子供たちを含め、多くの犠牲が積みあがるだけの毎日なのだ。それを見て何を思うか、遠くにいて何を思うか。問われているが、それにこたえる術を、我々はもっているのだろうか。
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バニーはどうして消えたのか   バニー・レークは行方不明

2020-11-06 | 映画

バニー・レークは行方不明/オットー・プレミンジャー監督

 アメリカから移住してきたレーク親子だったが、はじめて預けた保育園で、娘のバニーが消えてしまった。母親は当然慌てふためくが、保育園側は、そもそも娘は預かっていないと主張する。警察を呼んで捜査が始まるが、移住してきた娘の持ち物や痕跡すら消えてなくなっていることが明らかにされていく。そもそも娘のバニーは実在するのか、それすらもあやふやで分からなくなる。母親は未婚の母で、幼いころから空想癖があり、バニーという想像上の友達がいたことも、兄の証言によって明かされる。何か異常性のあるのは確かだが、娘のバニーの存在も含めて、いったい誰が嘘をついているのか、もしくは誰かが狂っているのか、段々と分からなくなっていくのだった。
 古典的な名作映画なのだが、現代人が観ても、それほど古さは感じないのではないか。確かにモノクロで、社会状況は今と違うことは見て取れる。出てくるアパートの怪しい住人もいるし、誘拐事件の目的は分からないまでも、変質者による事件は起こっている様子だ。その上で、観ているものや警察の捜査の進行が、誘拐そのものの怪しさへと進んでいく。そうして最後は一気にどんでん返しが起こるのである。どんでん返しが起こってから、少ししつこいが、しかしこれはこれで結構怖い。
 まず、最初から娘の姿が一切写されない演出なので、観客も主人公同様に、ひどく混乱の中に投げ出されてしまう。いったいなぜ、このような目に会わなければならないのか。しかし見ているものは主人公ではないので、その混乱を客観的にも俯瞰できる。観ているものは、主人公の女に同化していいのか、警察ともども疑えばいいのか、分からなくなるのだ。
 考えてみると、以前からこの映画の題名だけは知ってはいた。しかしながらなんとなく見ることは無かったし、この度たまたまBS放送がされなかったら、ずっと見過ごしたままだったかもしれない。なんとなくやっぱり見てみようかという気が起こり、そうしていわゆるアタリだったわけだ。他人の評判ばかり気にするのも良くないが、古典的名作というものは、評判通り観るべきということなのであろう。
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生贄の事実は呪われている

2020-11-05 | culture

 イーストウッド監督作に「リチャード・ジュエル」という映画がある。実話をもとにしたもので、爆弾テロの第一発見者で多くの市民を助けた功労者としてヒーローになった男が、逆に犯人である可能性を示唆されたために立場が転落してしまう物語を描いている。
 この映画は公開時に激しいメディア批判にさらされた。その理由は、映画の中で女性記者が、自分の性的な魅力(いわゆる寝た報酬として)で警察から情報を聞き出す、という場面がある。これがステレオタイプ的な女性を貶める表現だとして批判されたわけだ。さらにこの女性記者は、実在の人物を実名でモデルにしており、本人はすでに亡くなってもいて弁明する機会がない。同僚記者からは、このことは事実ではないとされている。
 イーストウッドのインタビューがあって、もちろんこの批判にも触れており、表現の自由があり撤回しない旨と、実在の人物とは言え、十分にありうるエピソードとして取り入れたと語っている。要するにフィクションではあるわけだ(事実は誰も知らないが)。
 メディアによって貶められた人物を描いた作品が、映画によってメディア人を貶めている作品でもあったわけだ。そういうことがあってはならない、ということだろう。
 確かに本人が亡くなっているとはいえ、家族は存命であろう。映画の主人公のリチャードも亡くなっている。当人たちがこの世にいないからこそ出来た作品であるとも言え、史実をもとにした作品を作る難しさを感じさせられる。メディアによって否応なく多くの人から攻撃を受け、苦しめられた個人の名誉を回復するような意味合いもありそうな映画が、そのメディアを批判する意味合いとはいえ、結果的に故人を貶める作品になってしまった。
 しかしながら、本当にこの映画を炎上させた問題は、やはりこれが女性をそのようにとらえている社会批判であるという正当性だろう。そのような偏見に対する男性批判も含まれている。女性が自分の性を使って何らかの情報を引き出すなどの行動は、人間としての能力を補うために女性を使ったと捉われかねない。いわゆる男性より劣った面を強調しているという考えがあるのかもしれない。さらに男性社会だからこそ、そのような女性性を使えるわけで、そのような社会が正常ではない、ということでもあるかもしれない。
 その影響があったのかどうか、映画としては、実際には地味ではあるとも思えたが、興行的には失敗した。でもまあ太平洋を挟んだ国に住む、僕のような人間だって観た訳である。女性を辱める目的を読み取ったかといわれたら、それはちょっと分からないけど、少なくともメディアの人間の狡猾な姿であるとは認めたし、それによってリチャードさんを地の底に落とした代表的な人間として嫌悪したのは確かである。
 しかしながらこのような批判炎上というのは、要するに何かを守るために、さらに誰かを批判させる土台があってのものである。史実をもとにしなければ、表現の自由としてそのようなエピソードがあったとしても、個人が嫌悪するのみであったことだろう。運動のための題材にされたわけで、映画の主人公と同じく、スケープゴードにされたものだといえる。まさに呪われた史実の連鎖ともいえるだろう。
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狂っているのは誰だったのか   へレディタリー継承

2020-11-04 | 映画

へレディタリー継承/アリ・アスター監督

 祖母の葬儀から物語が始まる。映像は静かに進行し、しかし何か場面場面に意味深なものがありながら、そのつながりが上手くつかめない。チャーリーという娘が、窓にぶつかって死んだ鳥(鳩?)の首をハサミで切って持ち去ってしまう。ある日、マリファナ・パーティに行くのにかかわらず、無理に妹を連れて行くよう母に言われ、しぶしぶ連れて行ったのだが、そこで妹はアレルギーのあるナッツ入りのケーキを食べてしまう。慌てて病院に連れて行こうとするのだったが……。
 とにかく、その変な違和感が終始付きまとう。別段怖い映画ではないが、その妙な気持ち悪さと、精神がゆがんでいくようないびつな人間関係が、徐々に家族の溝を深めながらぶつかりを見せていく。誰かが狂っているのか、現実がおかしいのか、その境がよく分からない感じだ。夢の出来事なのか、本当に心霊現象が起こっているのかさえ、分からなくなる。そうして後半にその謎は明かされることになる。
 観ている間は、おそらくこれから起こるだろうホラー映像におびえながら、その訳の分からない進行に付き合っている。間違いなく何かが起こるはずで、前半にその伏線のひかれた物事で、恐怖体験があったことを確認している。そうして確かに異常な世界に突き進んで、後戻りできないところにどんどんと付き合わされていく。妹がカギだった話は、意外なことに違う人間に焦点が移されていく。そうしてこれは、確かな意味は分からないまでも、家族としてつながっている物語だったのだ。いや、家族だけの問題だけでも無いのだが。
 傑作という評価の高い作品だったので、ホラーなら好んで観ないのに無理をしてみた。昼間の場面が多く、特にショックで恐ろしい映像は少ないが、一定の恐怖感は味わえる。そうしてむしろ見終わった後に、何か妙な動揺の余韻が、長く心に残るのである。なるほど、そういう意味では、傑作という声に同意できるだろう。よく考えてみると、荒唐無稽な物語であるはずなのに、妙なリアリティと意味不明な意味を、後で考えざるを得ない。確かにつながりはあったのだが、何か分からないものは随所にある。様々な演出を試みて、その心理の内側が現わされていくのだが、そうして結果的に壊れていく何かが、仕組まれているものだったことに打ちのめされていくのだ。本当に変なものを観てしまったということに、長く憑りつかれて考えさせられるのである。
 映画の題名と、母と娘らしいポスターの映像から想像していたホラー映画とは、まったく違った印象を残した。いい意味で騙されてしまったわけで、それは同時に、映画を観ることの喜びでもある。ハッピーになる娯楽作ではないけれど、このような作品に突き当たることがあるのが、映画体験としての醍醐味だろう。この変な気分を、ぜひとも多くの人に伝承させてみたいものである。
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次に切り替えるよりない(僕も)

2020-11-03 | 時事

 改めて大阪都構造の住民投票の否決は、残念だったという印象。僕はほとんど維新の会にはシンパシーは感じていないが(何しろ住人ではないし、知事のコロナ対策の発言には感心しない)、今回の結果をもって、維新の会の在り方自体が大きく変わりそうだ。それに大阪都構造はやるべきことが満載で、大いに期待できた。それが、大阪市が無くなることで、住民サービスが低下するとされる一連のデマでつぶされたというのが、やっぱりテロに弱い、住民の考える能力が足りないことが露呈して否決された形だ。大阪や他の都市の住人の頭の質がそう変わらないことは間違いないので、結局は日本人の愚かさがよく分かる結果だったということだろう。
 そもそもは、大阪市の職員の給与だけが突出して高かったり、行政サービスがコストのわりに悪い、という話だったのだ。今回の結果は、そういう部分を容認する、という意味なので、住民は我慢して高い税金を納めるようにさせられたわけである。愚か者の選択とはいえ、残念である。それにこの結果に喜んでいるんだから、救いようのない何とかである。
 とまあ、いつの間にかここまで書いていて、ふと、なんでこんな文章になったのだろう、と思った。一つはこのニュースを見て、大阪に同情してしまったというのがあるのだが、やはりこの結果を市民がどう受け止めているのか、というインタビューを見たせいも大きいかもしれない。反対が僅差とはいえ上回ったのだから当然だが、大阪市が無くならなくてよかったとか、住民サービスが守られてよかったとか、賛成派でも改革は進むのだからよいだとかいうコメントだった。いったい彼らは何を血迷っているのだ、という感じだろうか。ある野党議員は、コロナ禍に住民投票をするという愚行を批判していた。それって何の関係もない感想である。まあ、彼らには何もできないのだから、そう言うのだろう。
 要するに、そんな茶番をみせられて血が上ってしまったというのが真相だろう。我ながら馬鹿げているが、それが人間というものだ。結果として取り返しのつかない愚行が歴史として残ったというだけのことである。それはこれまでの政治とそう違うものではない。大阪がダメなら他もダメだという象徴的な出来事に思えてしまったのもいけなかった。他では上手くいくことだってあるかもしれないのだし。
 そもそもこの大阪都構想に、いったい何を僕は期待していたのだろうか。何か、このことで、未来的な希望を感じていたことも確かだろう。実際に知事と市長という行政上のトップを独占しながら、改革が道半ばで、今の制度の上でやっていくことには限界があるということが明確だからこそ、この構想を再度持ち出して、勝負をかけたのだ。大阪の住民がそのことを分からなかった筈は無かろう、と思っていたわけだ。結果的には分かっていなかったみたいだし、理解もしていなかった。もっとも既得権益が、一生懸命デマを流して抵抗した成果が出たわけで、それも左翼的なマスコミが加担さえした。一部間違いを認めたところもあったそうだが、流れはそのままであったようだ。分からないのなら、ちゃんと勉強したうえで、ふざけ半分に批判してはならない。残念ながら、そういうことに流される人がいるのだから。
 おっと、まだまだ熱は冷めないようである。もうこれは、切り替えるよりないが、分かっている人が皆無なのではない。何しろ票は拮抗していたわけで、既得権益が、これでやり放題になったということでもない。どちらもやりにくくなったということもできるわけで、それくらいは、ましである。そうして、この議論はまだ終わることは無いだろう。そうしてまた、出る人が出てきて頑張ればいいのだ。まあ、それも他力本願だけれど、政治なんだから仕方ないのである。
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政治のことは、嫌な気分にさせられるのか

2020-11-02 | 時事

 大統領選出の陣営のやり方については、おそらくものすごい批判の応酬なんだろうけど、それよりも何よりも、やっぱり一般人たちの方のやり取りの方が凄いことになっているらしくて、ほんとに反対陣営同志路上で喧嘩したりしている。向こうでは玄関や車なんかに陣営のマークなんかつけて応援していたりするんだけど、そういうのが嫌な人は、嫌がらせしたりしないんだろうか。お隣は共和党だから、ゴミでも捨てとけってな喧嘩も起こるのではないか。対決姿勢を明確化して単純にして、賛成反対をやりあって、ドン、と数で決めちゃうという政治スタイルだからこうなっている訳で、一時期は英米などのこのようなスタイル確立こそ民主主義の形であるという議論があって、日本も本気で二大政党制を作ろうという機運が高まったが、結果的に有権者の多くは、あっち行ったりこっち行ったりする人たちの方が多数派なので、極端な方に人が集まりすぎて、一大政党でも成り立つような形になってしまった。将来がどうなるかまでは分からないが、どっちの陣営であろうと、ある程度の連立を組んで、それなりの期間を安定化させるような形に今後もなりそうな塩梅である。考えてみるとヨーロッパや、その他の一定多数ともいえる国々は、連立政権が当たり前なのであって、日本は近視眼的に英米だけを見て世界の民主主義だと勘違いしただけのことだったかもしれない。
 さて、そういうことではあるんだが、いわゆるミュージシャンとか、芸術家であるとか文芸の世界などの人たちが、政治的な発言をするべきではない、という機運というものが、漠然と日本の方が強い気がする。要するに人気稼業なんで、政治的なスタイルがあるからその作品が愛されているわけではない。好きな作家などが嫌いな政党を支持していたりすると、ファンとしては複雑な気分にならざるを得ない。まあ、それはそうだが、いわゆるアーティストの性格が良いとかいうような問題は、生活を共にしていない他人であるファンとしては、本来は何の関係もない。まあ、政治的な発言は、少なからぬ生活に影響が及ぶ場合もあるから、特に嫌な気分にならざるを得ないということはあるが、それでファンをやめてしまうというのなら、それはそれで仕方がないことだ。
 というのも、アメリカなどのミュージシャンやロックスターというのは、本当にそういう人たちがごまんといて、口々にそれぞれ政治的な発言をバンバンやっている。このあいだ何かの雑誌でインタビューがあって、インタビュアーがちょっとその人の支持政党とは別の意見をにおわせただけで、お前は考えが狂っているとか猛烈に反論しだしたりしておかしかった。内容はどうでもよくて、反骨精神として保守的なものは全部クソみたいなものだということらしい。まあはっきり言って頭のよさそうな人ではそもそも違うだろうし、バカだって美しい曲はかけるのだという若者への希望にはなるかもしれない(ならないかもしれないが)。そういうのはやはり有名だから、それなり影響力がありそうだから、煙たい気分になるのかもしれないが、しかし政治のことを考えていけないことは無いわけだし、基本的には制限できる類いのものではないが、やっぱり一定の賢さのようなものが求められて、そういう話になっているのかもしれない。本来はもっと大声で言いたいと思っている人が、口をつぐんでいるかもしれない。そういう風に考えると、誰も政治的な発言をしないという空気に従っているかもしれない日本の芸能の在り方というのは、やっぱりちょっと妙な圧力社会の表れである可能性もある。そうするとちょっとした発言であってもかえって目立ってしまって、変な風に叩かれたりしてしまいそうだ。英米社会はクレイジーだけど、日本のそれはホラーなのかもしれない。
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変で難解だけどそれなりに面白いです   泳ぐひと

2020-11-01 | 映画

泳ぐひと/フランク・ペリー監督

 もう50年以上前の作品。主演のバート・ランカスターが、最初から最後まで海パン一丁でいることでも有名で、でもそうだからといってエッチな作品なのではない(グラビア・アイドルではないし)。郊外にある恐らく高級住宅地が点在するところで、庭にプールのあるお宅を泳ぎながら伝い歩いて、自分の家まで帰ろう!って言いだして、実行するお話。本当にそれだけの話なんだけど、自宅に帰るまでのいくつものプールで泳ぐために、そのそれぞれのお宅での会話に妙なドラマがあるという、今となってはカルト映画として有名な作品。まずは観てもらってそのまま感想を述べるのも結構だけど、実際にその謎を理解できる人は少ないだろう。正直言って、何かの含意があるとは見て取れるものの、いったい何が言いたいのかはさっぱり分からない映画だった。だからつまらない作品だというのではなくて、不思議な味わいを経て、なんとなくその違和感がじわじわ来て、ラストもなかなかにショッキングだった。
 訳が分からなかったと先に言ったけれど、その解釈には僕なりに自信がないだけのことで、恐らくは当時のアメリカ社会の、金持ちや階級社会的なものと、没落した悲劇を描きたかったのではないかと思う。調子が良ければ水泳の姿とはいえ裸同然でいるからこそ、リッチで力強く、また調子のいい余裕もかえって伝わるのだけれど、もちろん無一文で裸だと、寒々とみじめなのだ。そのコントラストを強調するために、このような演出を選んだのだろう。
 ところで原作となったジョン・チーバーの短編も、ネット上で読むことができた(今の時代は素晴らしいですね。さらにあの村上春樹訳で本も出ているらしい)。これを読んでさらに驚いたが、割合その解釈は正しいのかもしれない。もっとも映画のように馬が出てくるわけではないし、会話などもまったく違う。少年も出てこないし、途中一緒にプール巡りをする女性もいない。しかし、基本的な路線は、原作の中にも見て取れた。なかなかに難解ながら、なるほど映画も素晴らしくなるわけである。
 ということで、ちょっと変な映画には違いないが、それなりに含みと余韻の残る文学的な作品といえるかもしれない。まったく変だけど、観てソンは無い筈です。
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