映画「グリーンブック」は、なかなかいい映画だったという印象を持っていた。素直にお勧め映画として紹介したとも思う。しかしながら後に、この映画に対する黒人側からの批判のある事を知った。
物語は、黒人ピアニストが、まだ黒人差別の残る南部を演奏ツアーで回る際に、イタリア系の白人の運転手を雇う。黒人ピアニストは様々な迫害を受けるが、そのたびにこの白人が助けてくれる。そういう白人目線の黒人救世主の映画だということらしい。さらに差別意識のあった白人が、そのように可哀そうな立場の黒人を見て、自らの差別意識を改善させるという意味もある。要するにいずれにせよ白人目線でご都合主義的に史実を利用したということもあるようだ。さらにこの黒人ピアニストの遺族は、事実以上にこの白人運転手との友情を美化して描いていると批判したとも言われている。さらにこの作品はアカデミー作品賞を受賞したのだが、その受賞の席で、他の賞をとった黒人監督のスパイク・リーが、憤慨して席を立ったともいわれている。また、多くのツイートで受賞の不快感を表明する人が絶えなかったともいう。
リー監督の「ブラック・クランズマン」を観ると、確かに黒人差別のホラー的な立場がよく理解できる。それはなるほどという黒人ならではの表現だが、その暴力的な要素は、黒人のためであるとも思える。しかし白人はそんなことは批判しないだろう。それも内在している差別だといわれたら、まあ、そうかもしれないが。
また違う映画だが、黒人であること自体が凄まじいホラーだという「ゲットアウト」というサスペンス・ホラー映画もある。これを観ると、確かに黒人に生まれてアメリカで生活するだけで、ずいぶん恐ろしい感覚があることが身に染みる。そこがホラーとして面白いわけだが。
さて「グリーンブック」だが、なるほどそのように黒人の多くが怒るのだな、というのが、やはり改めて意外である。それは、黒人差別の心情を、それなりに素直に描いているからだ。自ら黒人の差別意識を隠さない移民白人が、黒人と初めて近くで接することによって、その誤りに気付かされていく。そうして有能な黒人ピアニストではあるが、ちょっとスノッブすぎるきらいのあるインテリ男を、なんとなく柔らかくするような友情も良く描いている。差別を助長するものでも無いし、白人の優位性をあらわす意図がにじんでいるものでも無い。いつまでたっても白人は理解していないと感じるその黒人意識は、批判のための批判のようにも思える。差別を特化するその被差別意識は、なかなかに溶けがたい頑固なもののようにも感じられる。
差別が改められるべき偏見だというは、当たり前すぎる正当性がある。誰もそのことに批判できるものはいない。そんなことは単なる無知なる故の愚かさに過ぎないし、現代の人間としての原罪のようなものだろう。批判そのものはだから、被差別意識者の当然の権利ということなのだろう。しかし、今後の歴史がどうあるべきかということも考える必要があって、そのような批判も、差別の歴史の過渡期をあらわすものであるかもしれない。結果的に批判する側が有利であるようなものでは、差別是正など望めないのではないか。現代社会は、そのような病理を抱えたままである、という意味があるのかもしれない。これは黒人差別だけの問題ではない。あるいは日本人においても、なのである。