カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

深くは考えないから上手くいく

2017-12-20 | 掲示板

 別段奇をてらって言っている訳では無いのだが、ものごとは、基本的にあまり深く考えない方がいいと思っている。はっきり言うと、物事を深く掘り下げて考えようとすることは、多くの場合害悪をもたらすものであるとさえ思う。
 石橋をたたいてわたったり、後先考えずに先走るというのも、程度問題である。そういう場合が、あるにはある。しかしながら特に、多くの人は、何かの対象について、少し掘り下げて考えることを推奨する考えに縛られているように感じる。
 僕はある団体に長く所属していて、ある一部の先輩から、本当に口を酸っぱくして言われたのは、物事を何回も掘り下げて深く考えろ、という事だった。その当時は僕もそれなりに素直なところもあったので(ところもあったというだけだが)、まあ、そうかもしれないと考えたりして、うんうん唸りながら深く掘り下げて考える訓練をしていた。そうして考えて出した答えというものに対して、さらに疑問が投げかけられて、大抵は思うようなことが出来たためしは無かったが。
 まあ、反省すべきところは僕にはあったとは思うが、それが僕の人生において、特に意義深い糧として蓄積されたという覚えがない。結局僕なりに考えなおして、失敗が積みあがっただけのことであるようにも思う。さらに考え直して思ったことは、やっぱりそんなに深く考える必要は無かったな、という実感かもしれない。むしろもう少し考え方の方法のようなものに工夫して、単純とまでは言わないまでも、シンプルに素直に考えるという事がもっとできたと思っている。
 もちろん考え方の目的に対して、一方に良いことであっても、必ずしも他方にとって良いという事ばかりでは無い、という事はある。そういう一種善良な多方向性をもった結論というのは、結局害が無いばかりか、意味のないものにしかなりようがないという事はある。そういうものが、本当にやるべきことなのか、という事に対しては、かえって疑問がわくという事はある。そもそも労力を費やすべきことなのか。根本に立ち返ると、そういうことになる。
 今は何というか、それなりに走りながら考えるという感じはあるかもしれない。やる前にあれこれ考えてからスタートするより、ちょっとくらいスタートした後になって考えた方がいいように思う。それは必ずしも浅い考えであるという事では無くて、そういう風に考えないと、ちっとも現実的ではないという事かもしれない。やりだして気付くことというのはたくさんあって、そういうものはやっぱり何か走り出さなければ分かり得ないものなのではないか。分かり得ないものを走る前に考えてしまうと、やっぱりその分のロスが大きすぎて、修正するのが難しくなったり、失敗と確定するまで気づかなかったりするように思う。やる前の自分なりの深い考え方の達成感は、物事を見誤る原因になりかねない。自分の見方を曇らせることになりかねない。危ないのは、そのような素直さに対する自分の強さのようなもので、自分をあまり強く保たないためにも、現実を素直に見る余裕があった方がいいと思う。
 ある程度深く考えすぎないようにすることは、精神衛生上も悪くない。深く考えてない自分が悪いのではなく、そういうものだという割り切りに自分を置くことかもしれない。そういうルールの中に自分がいる。だから考えきれないのではなくて、考えていないだけのことなのだ。それは能力とは関係ないから、自分を責める材料にもなりえない。
 深く考えないことで前に進んでいけることは多いと思う。ただでさえ問題はたくさんだし、個人の能力には限界がある。そうしてやっぱり、一ミリでも前に進んだ方が、見えている風景は違うだろう。考えないで行く方が、視界は良好なのである。
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