暴力はイカン、という認識は誰にでもあるものと思う。それを堂々と肯定するような人は、そんなにいない。いたとしたら問題なはずだ。そのはずなのに、実際問題としたら、躾などで叩くなどの体験的な話で、いわゆる体罰的なことを肯定している人は多いように思う。体験的に必要だったと、そう感じている人が多いというか。
昔はよく殴られたなどと懐かしく話す人もいる。教師や先輩はもちろん、親からもけっこう殴られたらしい。さらに指導的な立場になって、愛の鞭を振るわなければならない場面を語る人もある。子供を叱る際、どうしても必要だったという話はよく聞く。ひとの子供だから勝手にしても関係ないが、聞いていてなんとなく座りが悪い。一所懸命の気持ちは分かるのだが、なんとなく不幸なことだったように感じるからだろう。
確かに殴られても仕方のない人はいるにかもしれない。そのような怒りをぶつけたくなる人というのはある。また、跳ねっ返りの年頃の子供など、静かに叱ったところで言う事を聞くはずが無い、という思いもあるだろう。ちゃんとして欲しいという強い願いが、肯定の正当さを、感情的に担保するのかもしれない。それはいつの間にか暴力の範囲から外れて、そうではない何か、に具体的に変化するような心持があるのかもしれない。
人間の中に暴力的なものがあって、だから暴力のような行為は存在する。そのこと自体を否定してもしょうがない。いわば人間の人間たる属性だ。しかしながら問題は、やはりそれでも肯定していいのかどうか、かもしれない。特に教育的な場面で、肯定せざるを得ない体罰というのはあるのか。さらにいうと、人間的に仕方なくても、やはり最終的には咎められることでは無いのか。
解決策としての暴力は、やはり肯定の根拠にはなりえないのではないか。人間的に仕方ないという感情がある事と、実際になされた暴力に対しての対応は、だから別のものだろう。いわゆる犯してしまったものは、責任を伴うものだということだ。そして、それは過ちになるという事だろう。
もちろんその重さには、判断の必要なところだ。全部退場というのも一つの選択で、それは連鎖の抑止には必要なことかもしれない。それでも無くならないという考えもあるが、その都度それは厳しく判断するのも、また必要なことになるかもしれない。特に組織としての規則であれば、そう決めるなら例外は作らない方がいい。厳しいことだが躊躇をすると、信用そのものが失われる。暴力を肯定する人は、その信用を自分に問わない人なのではなかろうか。