カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

志ん魚、ふたたび   の・ようなもの の・ようなもの

2017-12-17 | 映画

の・ようなもの の・ようなもの/杉山泰一監督

 もちろん有名な森田芳光監督デビュー作の、その後を描いた作品。というのは僕のようなコアなファンに対する説明で、一般の人には何のことやらわからん話かもしれない。
 師匠のそのまた師匠の十三回忌に一門会をやることになるが、スポンサーの依頼で、その当時の弟子であったが失踪している志ん魚(しんとと)というのを探すことになる。やっとのことで探し出すが既に落語とは縁遠い何でも屋をやっており、話をするのは断られる。しかしこれは一門にとって大問題であるようで、何とか取り繕ってもらおうと奮闘させられる志ん田(しんでん)の格闘を描いている。
 元になっているお話の主人公は、もともとものすごく話が下手で、実際の役者さんも、本当に演技をしているのか疑わしいほどの大根役者であった。今でもあまり変わらない感じはあるが、これはどうにもならないという感じが映画の土台を支えており、何とも言えない可笑しみと悲しみを誘うのだった。僕は高校生くらいの時にその映画を観て、そんなに面白くも無い話であるはずなのに、すっかりのめり込んで何度も観た。いわゆる映画にはまり込むきっかけになった作品といっていいかもしれない。一般の人が面白がって観るような作品では無いと思うが、マニアックに人を引き付けるようなところがある。なんとなくつかみどころは無いが、面白いのである。その後僕は落語も聞くようになり、そのバカバカしさに翻弄される。それはいいが、とにかく不思議な作品なのである。
 で、年を経ての続編だが、助監督をしていた人が作ったようで、確かに森田作品のような感じはある。なるほどたくさんのオマージュのある作品なんだろうな、と思う。ただし、森田作品とやはり違うのは、やはりちょっと説明的なところかもしれない。そういう距離感はやりすぎるとシラケるし、まったくやらないと訳が分からない。そういうものが、やはり一番難しいところかもしれない。
 落語というのはある種の演技なんだろうけど、役者の演技が上手いからといって、落語の話が上手いとは言えない。その逆もしかりだろう。喋りだけなのに特殊な芸能であるのは確かで、やはり噺家の人が話さないことには、いわゆる落語らしい可笑しみは少ない。話自体が面白いから、ある程度はその話の力で笑わせられるという事はあるんだけれど、やっぱり話者が誰かという事と、その話しぶりにこそ価値があるという事だろう。志ん魚役の伊藤克信という役者さんは、失礼ながら個性が強すぎて演技が上手いとは言えない人なのだが、確かにこの落語の面白く無さに、味があるような気がしてならない。それが映画というものかもしれないが、映画全体に流れる不思議なトーンになっているのである。でもやっぱりある程度は人を選んでいて、普通の映画のつもりで観ていると、素直に面白くは思えない人もいるような作品なのかもしれないが…。
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