カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

移動の自由は、誰にでもあるものだろうか

2017-12-16 | 境界線

 日本人は、基本的にどこにでも移動できることが当たり前であるという感覚があると思う。ただし言葉の壁があって、そう簡単に外国に移住しようとは考えないだけのことである。しかし過去には多くの日本人が、仕事を求めて国外に移住した例はある。中には自ら望んで北朝鮮に行った人たちだっている。その場合は、騙された、という事にはなろうが。しかしながら純粋に新天地を求めて、ハワイや南米、東南アジアに旅立つ人々は居た。そうして日系人として、いまだに現地で二世三世にわたって暮らしを続けている人達がいるのである。
 そうではあるが、ヨーロッパの移民問題などを見ても、現代の日本人には、まったくの共感や関心も薄いのではないだろうか。過去との隔たりもあることだし、その意味さえもよく分からない。もちろん僕だってよく分かっているとは言えない。新聞などでの情報以外のことを知っている訳では無い。
 更に基本的には、宗教的な問題ともとらえている人は多いのではないか。内戦など国内情勢が不安定で、難民として脱出する人だって多いことだろう。しかしながらその中に混ざって、経済的に出国を果たす人々も、大変な数にのぼると考えられる。民族紛争や政治的な難民であれば、道義的にヨーロッパの国々の人たちは、基本的には当然のこととして受け入れている。問題視している一番は、恐らく経済的な移民の方で、さらにその数の多さという事があると思われる。保護や職を求めて、新天地で暮らしたい。そうした思いに応えるだけの許容を越えた数が、本来の難民の枠を超えてやってくる。そのことに対する不寛容が(ある種の感情のもつれが)、問題を複雑化させている。難民で無い正規の移動であれば(それが可能であるのかは国によっては違うだろうとはいえ)、問題視する人は多数ではあるまい。
 さらにヨーロッパ人の声の中に、自国のことは自国民で立て直すのがスジではないか、というものがある。ヨーロッパの多くの国だって、過去には戦争で疲弊し、困窮を極めた歴史を抱えている。しかしその先祖は、難民として国外に逃れたのか。それは現代の目線が混じってのものであるが、ひとつの言い分ではあろう。もちろん難民が生まれている国々の多くに、西側の介入があって複雑化している問題もあるのだが…。
 やはり距離のある国々の問題として、遠い感覚はあるだろう。しかしながら東アジアは、やはりそんなに移動が元々自由では無くて、そして日本は島国である。ちょっとしたきっかけで、日本に難民が押し寄せるという要素は、まったく無いとは言えない。いや、バランス感覚として、その均衡があんがい簡単に破られる日が無いとは言えないだろう。
 移動の自由が無いというのは、想像もできないくらい不自由なことなのかもしれない。自国で立て直すことが可能であれば、彼らだって移動は必要で無いはずなのだ。さらに自由な国で生まれたならば、身勝手に移動したってそもそも咎められたりしない。生まれた国によって差別を受けても仕方がないとされるのが、ヨーロッパの苦悩の大きな問題なのではなかろうか。
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