カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

寛容さの対局の世界を描くと   沈黙―サイレンスー

2017-12-27 | 映画

沈黙―サイレンスー/マーティン・スコセッシ監督

 遠藤周作の原作を読んだのは、高校生くらいの時だったと思う。衝撃を受けて宗教の恐ろしさが身に染みた訳だが(作者の意図とは違うかもしれないけど)、そういう作品をまた映画で観るなんて、まったくマゾ行為だと我ながら思った。しかしながらなんでまたそんなに前の作品を今なんだろうという疑問もあったが。
 予想通り大変に気が重たい拷問の続く映画だった。それ自体を評価にしてしまうと、とても見る気になんてなれないだろう。観た方がいいとは思うが、事実、それでいいのかどうか。
 さらにクリスチャンの母を持ちながら何の信仰心も無い上に日本人である僕という立場からすると、この話の細部にはいろいろと言いたいことや考えさせられることがある。そういうのを語りだすと感想どころではないし、映画の本筋から外れてしまうだろう。映画自体はキリスト教の信仰についての話だが、考えようによると、やはり宗教の独りよがりな話かもしれない。それは監督の意思を素直に読み解くという事を越えて、複雑に観る者に与えてしまう偏見のようなものだろう。また現代の時代性を考えてみても、この不寛容な江戸時代というものが、場所によっては存在するかのような気もする。それならそういう場所については、本当に放置することがキリスト教にはできるのだろうか。いや宗教を挟まなくとも、はっきり言って近代民主主義にそれが出来るのだろうか。
 含んでいるものは複雑だが、ストーリーは単純だ。日本に布教しに行って迫害に会い棄教してしまった宣教師を探しに(そのことを信じられずに)、危険を承知で二人の宣教師がまた日本に赴き、そうしてその現実の厳しい迫害を目にする。彼らにとってのキリスト教は絶対的なもので、そうであるからこそ日本の迫害の現実は、厳しかろうと何か希望の持てるところのあるものだったのかもしれない。当時の航海のありようからすると、一方通行だっただろうことは予想されることで、いくら楽天主義者であったとしても、事実上自殺に行くようなものである。そこまでは時代性から分かり得ないということは多少は言えようが、宗教的な精神の強さがあるが故の、ある意味での過信があっての無謀さであろう。しかしそれは、おそらく想像以上に強大な力の違う一方的な迫害なのであった。
 そういう背景そのものも、実は一方的な見方であるが、当時も今も、少し分かりにくいもののように思える。もう昔のことなので、分かりようもないだろうし。さらに原作もそうなのだが、事実と混ざっている事柄があることから、何か史実をもとに作られた話のような印象も受けるが、基本的にはフィクションである。そこのあたりはつくりの上手さがあってのこともあるが、だからこその弊害もそこにある。
 映画の中で印象的な人物としてキチジローという人がいる。キリシタンのようだが、踏み絵を何度も踏み、いわゆる裏切りながらも信仰を捨てない人物である。ある意味では現実的な人なのかもしれない。狡猾さもあり哀れであり、そして憎むべき悪魔で、取るに足らない唾棄すべき人である。しかし僕がこの映画を観てもっとも教訓的に感じたことは、ある意味では自分なりに純粋に生きているこのキチジローという存在こそが、もっとも近づいてはいけない人生の罠だと思う。出会わないで生きられた人間は、それだけで幸福と言えるだろう。しかし残念だが、そのような人間は現実に存在する。そのことに気づきながら、人々はどのように生きているのだろう。
 恐ろしい作品を観て、今後のことを考える。後悔する前に身につけておきたいものである。
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