カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

無意味な死の報復   シャトーブリアンからの手紙

2016-03-16 | 映画

シャトーブリアンからの手紙/フォルカー・シュレンドルフ監督

 ナチス占領下のフランスの史実を描いた映画。監督の名前がドイツ人っぽいな、と思っていたら、あの「ブリキの太鼓」の監督さんらしい。鰻を食べるのに抵抗を持つようになる名画(そういう映画ではないが、多くの人がそうなってしまう恐ろしい映画だ)だが、反戦映画と反ドイツ的な意味あいの強い作品であったので、それなりに意味深な関係と考えていいかもしれない。もっともドイツ人だからこそ、ドイツのことを悪く描くフランス映画を作るという行為をしてしまうものかもしれないとは思う訳だが。日本にもそういう知識人とか文化人といわれる人は多いものだし。結局反戦モノというのは、そういう背景を大切にしたがる人がそれなりにいて、現代人に意味を問うという行為も含まれている。そうしてこの映画には、少なからずそういう匂いのするという感じは、断っておく必要がありそうだ。そんなに悪い映画ではないのだけれど…。
 統治下のフランスにおいてドイツの将校がフランス人の共産主義者に殺害される。これにヒトラーが激怒したとされ、報復として150人の人質の(おもに政治犯。要するに反ナチを殺す理由が出来たということだろう)処刑が命じられる(結局は48人だったようだが)。物語は、その処刑リストを作るということに、それなりの葛藤がありながらどうにもならなかったという話がつづられることになる。ドイツには反抗しつつも、占領下の事情があって従わざるを得ない。従うが、反抗心が無いように見せて、さらにその反抗心がフランス民衆に及ぼす影響も心配しながら行われていたのだということなのかもしれない。
 映画的に面白いと思ったのは、そういうどさくさに紛れて、同胞のフランス人こそが、自分の私情を挟んで、いわば気に入らない人間を平然とリストに加える作業をしていたらしいことも描いたことではなかろうか。他の抵抗は、史実的にはあったのかもしれないが、どうも現代的な視点もあるような感じもあって、ちょっといただけないものはあった。結局戦後に英雄化したのだろうけれど、当時にそのような英雄的なところが無い方が、さらに無残で無意味な方が、反戦モノとしては良かったとは思われる。でもまあそれでは現代人にはまったく意味が伝わらないだろうけれど。
 また、ドイツの兵士の中にも気の小さい者はいて、処刑するに当たっては、葛藤があったということも描かれている。これは当然だろうと思われるが、日本だったら相当殴られた上に、下手をすると殺されていた可能性もあるだろうとは思われた。ドイツ人にも良心があるということかもしれないが、そんなことはどの国の人でも当たり前だ。しかしそれが許されたかもしれないというのは、戦時下のヤクザ社会ではどうだったのだろうか。まだ精神病の扱いさえ不透明さがあるわけで、このような個人主義が、精神の救済の理由とされる西洋の思想のようなものも感じる。日本の過酷さとは、やはり別のものがあるのかもしれない。
 政治犯などの収容所の様子や、処刑する人間をリスト化する様子と、またその銃殺までを淡々と描いた作品であるが、基本的には政治的抵抗の意味のボタンのかけ違いが生んだ戦争の悲劇である。そのような人間の無意味な死があるからこそ、戦争が愚かしいという意味は少なからず伝わる。そうして時間は後戻りはしない。事実は事実として確定していて、過去を振り返る人間しか、そのことを考えることは出来ない。映画という記録は作り物だが、今生きている人間には意味のあるものだ。そういうことを考える上では、反戦ものを観るという人に、その意味の捉え方を問うということがなされる訳だ。人間はそういうものにも金を払って観るということが、僕には大変に興味深いのであった。
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無人駐車場が不便であり続ける訳

2016-03-15 | 雑記

 月極駐車場というがあちこちにある。そのために「月極」という大金持ちというか、もの凄い不動産を持った人物がいるのではないかと思っていた、という話がある。まあ、小ネタ話なんだが、30年くらい前から聞いた覚えがあるので、定番のジョークと考えていいだろう。それよりも、「月極(め)」という語源に、そのような契約や取決めに端を発するところがあるために残った言葉というところが面白いとは思う。契約制度のない時代から、事前契約的な考え方を改めて字面で分かるようにした、という感じの使い方に、事前契約者でない者の駐車を阻む意味がちゃんと見て取れるところが凄い言葉なのではなかろうか。
 ところで仕事の折に車を使って移動して、駐車場を使うということはよくあることだ。地元の田舎では時間制の有料駐車場は存在しないが、よその町はそうではない。車を止めないことには仕事にならないから利用するが、これが結構厄介でもある。特に知らない場所で駐車場を探すのが難儀だし、目的地近くだからと思って停めてみて、もっと近くに駐車場があるのも口惜しい。またちゃんと客用の駐車場があったりして、駐車料金程度なのにひどく損した気分になったりもする。
 また最近はカードや携帯なんかで支払をすることが増えて、小銭の必要性があんまりない時間が続くことがある。そういうときにうっかり駐車すると、結構苦労する。いまだにお札を受け付けない駐車場というのがあって、さらに五千円や一万円札に未対応というところが多い。コンビニなどで特に不必要でも買い物してみたり、近くの自動販売機などで飲料物を買ったりする。それらの商店や自販機と結託して商売をしているのではないかという疑いもあるわけだが、実際はどうなのだろう。考えてみると時間決め駐車場の設備で様々なお札に対応する機能というのは簡単にできることだろう。商売の結託であえてしていないという可能性もあるにはあるが、それ以外にも理由があるのではないか。
 そのような駐車場は、地主や不動産の管理会社があるに違いないが、彼らにも考えがあるはずである。基本的に連絡先が書いてあるが、無人であるというのが一つのキーなのではないか。さらに夜間のトラブルは出来るだけ避けたいことだろう。故障なら仕方がないが、釣り銭問題は、あんがい厄介なのではないか。
 たとえば自動販売機であれば、定期的に補充をすることがある。その時に釣り銭なども補充できる。他の補充に回っている車もあろうから、トラブルに対応する体制もとりやすいかもしれない。また少額取引なので、いざというときもトラブル額が小さいとも考えられる。
 駐車場の釣り銭切れはどのように考えたらいいか。下手に一万円札に対応すると、釣り銭切れの可能性も大きくなりそうだ。さらに無人だから、高額の金が仕込んであることが分かると、盗難のリスクもあろう。要するに駐車場のトラブルには、緊急対応がそもそも難しいからこそ、リスクを減らしている可能性があるのではないか。また、車で移動することを考えると、要するに用事があってそこで利用し、その後にも何か用事が控えている可能性がある。駐車場を釣り銭切れで出られないということが明確になったならば、それなりに管理側にも責任が問われる可能性がある。駐車場のトラブルで遅刻をし、仕事上の契約などに支障が出たなどということになれば、どのように賠償したらいいのかという話にも発展しそうだ。駐車場の管理という点で考えると、あんがい厄介な問題がそれなりにありそうである。無人で何事も無いからいい商売になるわけで、さまざまな金銭に対応するサービスを充実させることで新たなリスクが生まれるならば、あえて手を出す方が馬鹿げている。客からの要望は聞こえてはいるものの、そこは客に不便さを我慢してもらうより無いと考えているのではなかろうか。
 勝手な想像だが、やはりこれからも駐車場支払い問題は、そのまま放置されるのではなかろうか。
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病気の人は病院へどうぞ   ブルー・ジャスミン

2016-03-14 | 映画

ブルー・ジャスミン/ウディ・アレン監督

 詐欺まがいの投資で金を集めて成功している富豪夫婦だったが、結局夫は警察に捕まり自殺する。主人公の妻はヤンキーで労働者階級の今は離婚して彼氏のいる妹の家に居候する。富豪生活から転落して働かざるを得ず、資格を取るために勉強しながら紹介された受付の仕事をする。一気に転落生活に陥ったこともあってか、妄想癖があり独り言がたえない。市販の鎮痛剤を常飲しているようだが明らかに神経症か精神病の世界で、さらに性格障害もあるようだ。そのような病的な女ながら男を引き付ける魅力があるらしく(西洋人なので僕にはいまひとつその魅力が分かりにくい女優さんである。演技は素晴らしく上手いけれど…)、男から言い寄られながらもピンとくる人が無かった(むしろ迷惑だ)。そういう中で気分転換に妹と共にパーティに出かけると、姉妹ともどもちょっといい感じの、お互いに好みの男に言い寄られることになるのだが…。
 物語の展開はちょっとしたミステリー仕立てになっており、なぜこのような病的な女になってしまったのかも、基本的は分かる。イライラするような嫌な場面が続くけれど、そういうところを笑ってしまおうというコメディで、さすがにいつも通り監督の性格の悪さが出ていて、ファンにはそれなりに納得のいくところであろう。確かに面白くない訳ではないのだが、ちょっと痛くてかわいそうな感じがあって、素直な僕にはとても笑えない感じである(ここは笑うところである。念のため)。妹はまともなのでそれなりに楽しいのだが、病気の女だと自業自得な感じもするし、そもそも早く誰か医者に連れて行けよ、という感じがいつまでもつきまとう。周りにいる人は異常性に十分気付きながら、もともとの性格の悪さもあるからイライラしながら放っておくという感じである。まわりの頭が悪すぎるところは面白いけれど、主人公だけがどうしても笑えない感じだ。ネタバレになるけど、こういう調子で物事が上手くいくはずはないのだが、そのもとの引き金を引いてしまったのは、実は他ならぬ自分自身だったというのが凄いところかもしれない。不幸な人間のサイクルが分かるような感じで、人間には愛が大切なんだな、なんて陳腐な感想も持った。
 まあ、物好きな人には話のネタに観てもいいかもしれない。
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大船の鰺寿司

2016-03-13 | 散歩
 かっちゃんのお父さんが好きだというので、大船で鰺寿司を買った。駅とかあちこちで売っているらしいが、確か大船に工場があるはずだという。それなら行こうということになった。
 大船は松竹の撮影所があったところで、多くの映画がここで撮られたはずである。そういう気分がまた、このまちのいいところで、いたるところで俳優さんたちが飯を食ったりした。そういうことで人気のある店も多いらしい。車からの風景だったけど、商店街のようなところもけっこう人がたくさんだった。駅からまっすぐ行った突き当りが撮影所だったそうだが、今は女子大になっていた。
 さて大船軒という弁当屋のような工場は見つけたが、日曜である。ここで売ってないのかな、と思ったら喫茶店があった。上がって聞いてみると注文は出来るという。



 おねえさんが電話で何やら言って、そうして外に出て駆けて行った。工場に鰺寿司を取りに行くのだという。まあ、大変だな、と思いながら待っていた。
 おみやげとは別に鰺寿司を買ってあったようで、おすそ分けで食べてみた。酢でしめた味が上品で、確かに美味だった。長崎にはバッテラがあるが、当たり前だがかなり別物だ。電車と共に生まれた駅弁がルーツらしい。大きな工場が出来たり、このようにおみやげの定番になったり、鰺が地域を潤したということなんだろう。



 それにしても大船も、こじんまりしたまちだった。関東というのは、というか、鎌倉からこのあたりは、印象としてはそれなりに広いくせに、なんとなくこじんまりしてますね。武士の町は質素だったのかな。
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鎌倉通って送ってもらった

2016-03-12 | 散歩


 二十代の中盤に一度行ったことがあるはずである。しかしほとんど記憶が無い。確か集まりには遅れていって(たぶん電車か何かに乗り遅れたのだ)、大変に恐縮して酒をたくさん飲んだのではなかったか。そうして二度目の鎌倉である。映画でよく見るまちなので、覚えが無いわけではないけれど、まあリアルとしては新鮮であった。
 江ノ電が海も街も通っている。ちんちん電車より大きい感じだから、なんとなく危なっかしい。しかしそれだからいい風景というのはある。通りの人も写真を撮っている。乗っている人も写真を撮っている。これは生活の足でもあり、観光の目玉でもあるのだろう。



 大仏さんは工事中ということでパスしたが、鶴岡八幡宮の通りも工事中。まちを整備して、さらに観光で稼ごうって魂胆だな。まったく健全で良いことです。



 ほんとに観光の人が多くて、近くに大都会がある古い町というのは、大変に魅力があるものらしい。まあ、歴史も確かにあることだし、同級生の漫画家の谷川文子(ペンネームだけど)も住んでいるらしいとは聞いたことがあるし、さらに養老先生だって住んでいるらしいじゃないか。そういえばブラタモリでも見たな。気分はそれなりに高揚するであります。



 鶴岡八幡宮では結婚式もやってた。なんだか大声で宣誓文のようなものを新郎が読み上げていて、みんなで拍手喝采だった。末永くお幸せに。








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早期の復旧が仇になることも

2016-03-11 | HORROR

 阪神淡路大震災の時の検証番組で見たのだが、震災後電気が復旧してから、火事の火があがる現象が起こったことが分かっている。通電火災といわれるもので、地震で建物が壊れるということだけでなく、さまざまなものが倒れたり壊れたりしている。電気の復旧は早い日常生活回復のためには待たれることではあるのだが、しかしそのような状態で電気が復旧してしまうと、電気ストーブなどの熱を持つような電化製品もまた動き出してしまう。どのような状態でそうなるのかというのが問題で、または壊れてしまった電化製品などがショートして点火するようなことも起こるのかもしれない。多くの倒壊した家屋の元に下敷きになっている人の救済が行われている中で、あちこちから同時多発的に火の手が上がる。非常に恐ろしいことだが、そういうことが過去には現実に起こってしまったことなのだ。
 ライフラインとしての電力は命綱である。しかし部分部分のいわば局所で回復させるようなことが災害時にきめ細かくできるのかというのは、大変に難しい問題のようだ。建物が倒壊して行方の分からなくなっている人が多数いるような状況下では、何を優先させるべきなのか。またそのことをだれが判断したり、または事前にどこまで決めうることなのか。
 災害の教訓はたくさんあるが、すべての課題が解決可能な問題では無い。台湾の地震においても、危険の認識がある建物であっても、事前にどれほどの対策が出来るのかという課題は残った。ことはやはり起こってから、次善の策として対処していかざるを得ないことをやるしかないということだろう。災害を100%防ぐことは不可能だ。人間の存在は小さいということを、自覚するより無いのだろう。
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伊勢原VS大村

2016-03-10 | 散歩

 かっちゃんちで目覚めた後、ブログをUPしたりなぞなぞUPしたりして時間つぶして、まあ、せっかくだからご近所探索でもしようかという気分になった。なんでも町内清掃か何かの日だったらしく、多くの人々が通りの掃除したり草取りしたりしている。最初は表通りを歩いていたが、この掃除の人たちの前を僕のようなよその人間が歩くのは邪魔になろう。ということで住宅街の路地に入ると、知らないまちだからなんとなく迷ってしまった。
 まあそれでもかまうもんかと思っていたら、以前運動会の時に寄ったことがある中学校らしきものが見えた。一応行ってみようと思って学校を一周するとかっちゃんから電話があった。何処だというから学校というと、かっちゃんも犬の散歩に出ているらしい。なんとなくお互いに見えるらしい風景を目印にして合流しようということになったが、時折住宅の陰に隠れて目印のマンションのような建物が見えなくなる。まあ、電話もあるし何とかなるだろう。
 伊勢原というのはわがホームタウンの大村と同じくらいの人口のまちらしく、市が対抗して運動(スポーツ)の参加率を競ったことがあるらしい。チャレンジデーというやつですね。その時は大村が勝ったということだが、自慢になるんだろうか。私鉄沿線の田舎町ではあるが、なんとなく大村とは違うような佇まいである。どっちが都会なんてことも意味は無かろうが、田舎らしくていい感じである。

 さて、確認でまた電話でもするかな、と思って前方を見ると、犬を連れた人を発見。無事合流することが出来た。よかったね。
 喉が渇いたというからコンビニに行くと、犬連れているので待つという。店に入るとかっちゃんの上の娘さんがバイトしてた。「わー、おはようございます」といわれてどぎまぎしてしまったよ。朝早くから偉いね~。学生さんは大変である。
 まずかったと言われるラーメン屋をやり過ごしてまた路地に入って線路沿いを歩いて、こんもり高い木が並んでいる神社などを歩いて回る。あちこち少し小高い所に小さな神社がたくさんあって、その周りに住宅や田んぼや畑がある。畑で作業しているおばあちゃんなんかもいて、天気が良ければ富士山も見えるんだけどな、という、のどかな散歩道だった。
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神奈川ビール工場

2016-03-09 | 散歩

 バスに乗って向かった先というのは、実はアサヒビール工場。新松田の駅から360円。田舎道を酒匂川沿いに走って、橋を渡って反対側の斜面を少し登って広いところに出たら、ビール工場だったという感じ。

 九州には日田のサッポロだとか、博多のアサヒには行ったことがある。だから厳密にビール製造工程を知らない訳ではない。まあ、忘れていることもあろうから、勉強にならない訳ではあるまいが…。
 この日は土曜で、実際には製造は行われていないということだったが、2時半の予定では、結構人が集まっていた。社員旅行の団体があるようで、まあ、そういうツアーなんかもあるのかもしれない。大きい会社の計らいとはいえ、これだけの人数を常時受け入れているというのは、まあ、結構なサービスですよね。そういうのは料金に転嫁されていると考える必要はあるんだけれど、それならば参加しなければ損である。
 最初にビデオを見て大きな班を二つに分けて、工場見学にいざ出発。エスカレーター登って大きなタンクなんかを見て回った。設備はでかいが仕組みというのはあんがい単純で、麦とホップを煮て発酵熟成させて濾過するということになる。ビールというのは古くからある飲み物らしいから、まあ、ビールに限らずではあるんだが、人間が単純ながら工夫して楽しむアルコール飲料の王道的なシンプルさがあるということなんだろう。しかしながら大量生産しないと日ごろ飲めるような価格にはならないだろうし、政府はアルコール度数が少ないのにかかわらず酒税を強化したりするので、製造メーカーは苦労しながら作るより無いのかもしれない。結果的に日本では巨大な飲料メーカーでなければ、このようなビールは事実上製造できないのかもしれない。
 アサヒとしては日ごろも鮮度の良さを謳っており、東京は多摩地区まではこの神奈川工場で賄い、東側は茨城工場と分けているらしい。僕は知らなかったが、ニッカウヰスキーも買収してたんだね。それもドラマの前だったそうで、なかなかやりますな。
 ということでなかなか工場見学は楽しかった。そうして出来立てというのを試飲させてくれる。われらがU田くんは、本日は製造が休みだというのに出来たてだというのはおかしいのではないかと異議を呈していたが、まあそんなことは気にしないで頂くことにいたしましょう。
 一応三杯までか、時間として20分という制限があるらしいが、確かになんだか新鮮そうで旨いので、改めて本当に感心してしまった。宣伝に加担するというような小さな料簡無しに、文句なしに見事に旨いビールだった。

 ところでしかし、実は昼を取らずにここまで来ている。日本酒も少し飲んだが、夜になるまで飯を待つべきなのか。特に再三のことだがU田くんが一緒にいる。彼としてはもう限界ということは間違いなく、帰りのバスの時間なんかを確認するまでも無く、工場が併設している焼肉のレストランに滑り込むことになった。そこでもさらにビールを食らい。一度一杯だけ焼酎に浮気したものの、やはりまたビールに戻って飲み続けた。確か時間制限はあったはずだったが、どんどん飲むので特に不満があるわけでは無かった。制限があった方がいい場合もあるし、当然トイレには何度も行くから、飲むけど体は清らかなような変な感覚のまま、食ったり飲んだりした。
 結局バスはもう無いということで駅までタクシーだったけど、トイレの事情があるんでそれで良かったのではないかと思った。かっちゃんちに戻っても何か食わせてもらったが、とにかくたくさん飲んだらしくて爽やかだった。いや、もう怪しかった。(たぶん、つづく)
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まつだ桜まつり、らしかった

2016-03-08 | 散歩

 週末に出張だったので、足を延ばして朋友かっちゃんちに遊びに行った。せっかくだから小山からもU田くんも参加した。土曜の昼前には伊勢原に着いて、それじゃちょっと遊びに行くか、ということになる。


 また小田急に乗って新松田という駅を降りると、ちょっと懐かしいような狭い駅通り商店街がある。目的地にはバスで行くらしく、連絡にはちょっと時間があった。ぶらぶらするとブラスバンドの演奏の音が聞こえる。駅からも見えたが、山の方では桜祭りをやっていて、それに関連づけてなのか、酒蔵でイベントが開かれていた。中澤酒造というこじんまりとした、しかし酒蔵らしい古いつくりの蔵の中で演奏がなされ、そうしてその前の広場にちょっとした売店と試飲会なんかが開かれている。そのまま出てきたのですきっ腹で、しかし飲み比べだからちょっとだけだという感じで飲んだら、ちゃんと酔っぱらった感じになった。蔵開きはまだなんだろうか。よくは知らんが、リュックを背負ったような、僕らよりは先輩らしい集団が結構集まっていて、時々若い人もいない訳ではないが、まったくいい感じでコンサートを楽しんでいた。かっちゃんの話では他にも酒屋があって、行ったことはあるということだった。古い宿場町なんだろうと思うが、東京あたりから遊びに来る人が居るんだろうか。昔ながらの感じなのに、集まっているのは遠いところからかもしれないな、というよそ行き感の漂う雰囲気だった。

 
 山の方の桜の花のピンク色と、菜の花の黄色のコントラストが美しい。梅の季節とは思うがこのあたりはこういう早咲きの桜があるらしく、そうして看板などを見るともう散りだしているということだった。シャトルバスなどの運行もあったようだけれど、僕らの目的は別である。古い街並みのロマンス通りとかなんとか名前がついており、昔ながらの美容室なんかもあって、まったくいい感じだ。店の名前もモダンなのか古いのか、よく分からない風情のあるものが多かった。ぶらぶら歩いて駅に帰って、やってきたバスに乗ると床が木だった。まったく嬉しくなっちゃうね。僕ら以外の若い客も床をパシャパシャ写真に撮っている。

 料金はスイカでいいらしいので、これも観光風情ということかもしれない。こちらのミニ観光は九州の田舎より集客はいくらか望めるのかもしれないですね。僕らはたまたまだけど、ちょっと矛盾した言い方をすると、シケてていいところだな、と思ったことだった。(つづく)
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絵の値段をちょっとだけ考える

2016-03-07 | 境界線

 モノの値段というのは、時々なんだかとても不思議に思える。その代表的なものに絵画の値段というのがある。知らないんだから不思議も何もないが、絵には歴然と値段がある。いや、あるように見える。あるんだがあるように見えるという感覚が、そもそも不思議だ。売買されるから値段はある。しかし僕はそもそも買わないし、正確にいうと、その値段の正当性というようなものが、分からない、ということの意味かもしれない。
 出版される画集のようなものなら、買ってもいいと思うし、実際に買うこともある。しかし絵として額縁に飾られているようなものだと、ちょっと抵抗がある。もちろん値段が高いというのがあるし、買って飾るという行為に、かなりの抵抗があるという感じかもしれない。いただいたものならいいが(これも厳密にはいいとは言えない感覚はあるが、とりあえずは脱線するので無視しておく)、自分で買うのがどうか。正当な値段の感覚を知らないのに買っていいものか。金持ちでもないのに買ってしまう自分がどうなのか。それが一番の抵抗感だろうか。でも複製の類なら買ってもいいな。本物なら買いたくない。
 絵が高いのは、画家で食っている人が少ないからではないかと思う。たくさん描いてたくさん売るような人がいれば、それでいいという問題でもなさそうだ。いや、似顔絵のような商売もあるから、そのような生き方をする人が居ない訳ではない。要するに絵を買うような、ちょっとパトロンのような存在が少ないからこそ、一部の画家は食っていけるのではないか。多くの人が売買に参加するようなマーケットになると、画家の数も増えるだろう。しかしながらそれでは金を持った人が、絵を買わなくなるような気もしないではない。そういうバランスの様なものに、やはり参加しづらいものを感じる。
 絵の値段は僕の感覚からは高いと思ったが、それは絵をかく側からすると必ずしも当てはまらないものがあるという話は聞いたことがある。絵をかく時間と値段を考えると、実は時給換算しても、かなり絵は安いということも言われる。また絵の世界というのはそれなりに複雑で、画廊のような絵を取り扱う業界があって、いわば絵の売買の値段のかなりの部分を、中抜きしてしまうという現実があるようだ。絵をかく画家が手にする金額は、だから今も昔もそんなに多いものではないということらしい。もちろん大家といわれる人ならともかく、画家で食っていると思われるような画家であったとしても、大部分の画家は、やはりそれほど食えてないということかもしれない。
 実際に歴史的に有名なゴッホであっても、生前には一枚も売れてないし、ゴッホの援助をした弟も、ゴッホの絵で食えたわけではない。絵を描いたり関わったりしていた人たちが死んだ後に、この絵を扱って売買した人々によって、その絵のために多くの金が動いただけのことである。それは、現代的には価値のあることかもしれないが、絵描きにとっては大変に不幸なことだ。それでも絵をかいてしまうような人が居るからこそ、こういうことはこれからも起こりうることである。
 つまり絵の値段というのは、実際にはその作品そのものが売買されているとはいえ、それを取り扱う手数料というか、営業の方に値段の価値がある可能性がある。金を払うからその値段であるということは言えるが、それは同時に他にも欲しい人が居て、たまたま同じ時間軸で、そういう思惑が重なったためとも考えられる。誰も欲しくなければ絵の値段なんてやはり無いも同じだ。欲しいと思わせられるような営業があってこそ、その絵の価値は変動していく。それは本来その絵がもっているはずの魅力であるはずだが、結局は共有してそのことを理解されなければ意味を持たない。それが値段のほとんどの意味なのだ。
 結局絵の値段というのは、きわめて人間的な欲求がもとになっている。しかし買う人にとっては、壁紙を選ぶように金を払ってもいいのである。そうであるならその壁紙との選択において、僕は選ばないだけのことなのである。答えは見えたが、やはりちょっと不思議は消えない。結局その気分にならない自分が謎だからだ。自分が殻に閉じこもっているだけのことなんだけれど、そういうことから自由になれない自分の境遇を呪うより無いのかもしれない。
 まあ、だからとって特に僕は不幸なわけでもない。それが僕と絵の距離の問題ということなんであろう。
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呪いの連鎖の訳   最後の命

2016-03-06 | 映画

最後の命/松本准平監督

 原作は中村文則の小説。少年時代に強姦を目撃したことがトラウマになった二人の人間を中心とするドラマ。そういう設定はミステック・リバーみたいだけれど、こういう性嗜好というのは、あんがいそういうものなのかもしれない。もっとも悲惨な体験をしたから、自分も必ずそうなるとは限らないのが人間の面白いところではあるが…。親から叩かれて育った子供は、自分が親になったときについ手が出てしまうということも言われている。いわゆる暴力の連鎖である。霊感の強いといわれる人は、実は家庭内に暴力がある場合があるというのも、ごく普通の話だ。まあ、脱線なんだが、そういう恐ろしさがよく分かる映画ではある。
 いちおうミステリー仕立てで謎が解き明かされる展開だが、謎解きがメインという訳ではない。暴力の連鎖でさらに殺される人がいるというのは困ったことであるが、そういう体験をしたというのは稀有なことではあるだろう。事実も強姦であろうけれど、事実より大きな心の問題に発展するようなことがあるようにも感じられる演出だったのは、よかったと思う。異常な人々が異常なことをして、さらに子供まで巻き込んでしまうというのが、後になって考えるとよく分からないのだが、目撃されて子供を殺してしまわなかったことが、のちの犯罪の連鎖になったかもしれないと思うと、これは一種の呪いのようなものかもしれないとは感じた。邪悪なものはだから時を越えて連鎖を続ける。考えてみると中東問題なんかも、このことの拡大版みたいなことかもしれない。そういうことを言っている訳でもなかろうが、どこかで連鎖を断ち切る努力をしなければ、どうにもならない。
 この監督の渾身の演出ではあろうけれど、後半になってもの凄いテンポの鈍い展開になって、映画の方も恨めしくなった。物好きな人は観てもいいのではないでしょうか。
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新鮮さの差ではないらしい

2016-03-05 | 

 テレビ見てたら、生食用の牡蠣と加熱用の牡蠣の違いを説明していた。違いは水質の差で、要するに沿岸の栄養豊富な水域で養殖された牡蠣は加熱用に、比較的沖合の栄養価の少ない水域で養殖されたり、一定の除菌というか事実上の絶食状態にする水槽に何日か移されたようなものが、生食用として出荷できるということらしい。
 そうであるから鮮度という点ではまったくどちらにも違いは無いが、値段の上では生食用がいくらか高めではあるらしい。鮮度や味の問題ではなく、燃料代や手間がかかるということか。
 僕も勘違いをしていたが、消費者の多くはこの事実を知らないために、生食用がより安全という思いで買っている人も多いということだ。さらに残念なのは、生食用を生で食べる分には安全のためにそれでいいとは思うが、鮮度の問題と思って生食用をフライにしたり蒸したりして加熱処理して食べたとすると、加熱用の牡蠣より数段味が落ちてしまうということだ。栄養価が少ないために味の方も幾分淡白であるせいで、あくまで味が落ちても生で食べるというリスクと安全性のためにあえて生食用に生産しているということで、絶対生でなければ美味しくないと思っている人なら仕方がないが、生だから牡蠣が美味しいということでは無いということになるんだろうか。
 さらに生食をする習慣は欧米から伝わったもので、恐らく水質の差などがあるのかもしれないが、日本の厳しい基準からすると、そもそも生食はあえて新しく生産し直す体制を作ってきたとも考えられる。まあ、漁師さんなどは以前から生で食べるようなことはしていたかもしれないが、習慣としては新しすぎることなのかもしれない。
 また、加熱して食べることにあまり熱心じゃなかった可能性もある。実際に日本では古くから加熱して食べる方法がいくつもある。ダシとしても濃厚な美味しさがあるので、そのような素材として重宝していたということもあるだろう。
 また、料理の歴史が当然長い中国においても、最初から生で食べる習慣はまったく無い。干して戻したり、さらに揚げたりする調理法は、ずいぶんたくさんあるようだ。よくは知らないけれど欧州においても、恐らく加熱調理の仕方はそれなりに多いのではあるまいか。
 結局推測にすぎないが、生で食べるような方法というのが、多少酔狂として楽しいということもあろうし、またヨーロッパのワインと一緒に食べるということにも、面白さと美味しさがあったということかもしれない。牡蠣の品種も違うことだろうし。
 確かに個人的には、酢牡蠣も好きだが、酒蒸しも好きである。単純に焼いても美味しいけど、いつまでも食べていたら多少は飽きる。中国で食べた牡蠣の卵とじもそれなりに旨かったし、やっぱり広島のカキフライは立派でごちそうだった。小長井のトイレが無い牡蠣焼き小屋で、若いころに食べた牡蠣というのはそれなりに楽しい思い出である。何度かあたって苦しい思いもしてきたが、人間ががめついのか、また牡蠣を食べてしまう。縁が切れない食べものということなんだろう。
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赤い河のそばは彼らの土地   赤い河

2016-03-04 | 映画

赤い河/ハワード・ホークス監督

 BS放送を録画していた。ずいぶん前にこの作品が大傑作であるとした文章を読んだ覚えがあって、確か廉価版を購入したこともあったように思う。しかしそのまま行方が分からなくなって、つくづく縁のない作品だと諦めかけていたが、このように再放送の機会があってやっと見ることが出来た。探し求めていたわけではないけれど、20年以上忘れながら気にかけていた作品と言えるかもしれない。
 西部開拓史時代に、牛飼いが牛を引き連れて現地人の土地を荒らして棲みつき、しかし牛が増えたが新たな売り先を求めて苦難の大移動を成し遂げ、しかし仲間割れして身内同士殺し合いになりそうになって和解するストーリー。かなり端折ったが、まあ、そんなようなものだった。
 今となっては信じられないような蛮行を繰り広げるわりに、何の罪の呵責も感じていない感じが、時代を映す鏡としていいのかもしれない。白人も襲われるが、だからといってその復讐でまったく関係のない現地人を簡単に打ち殺す。また仲間であっても気に入らなければ殺してしまう。弱肉強食が西武時代だったということかもしれないが、ちょっとなんだこれは、という違和感がぬぐえない作品ではある。当時はこれが痛快な娯楽だったということがにわかには信じがたいが、それだけ僕も現代病に洗脳されているということなのかもしれない。
 最初は圧倒的に主人公と思われていたジョン・ウェインが、どんどん凶悪化して仲間外れになり、カッコいいだけの優男モンゴメリー・スイフトが、もっといい奴になって、そうして結局西部開拓時代であっても女は昔から強かったということで大団円を迎える。変なお話しながら、なかなか面白くはあるのだった。大傑作だと思う人がいてもいいが、やはり時代に埋もれるべくそうなった作品だったのかな、とは感じた次第である。そういう時代もあったのだな、ということで確認のつもりで見る分にはいい作品かもしれない。
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地球って、あんがい資源があるんだな

2016-03-03 | 時事

 原油安の問題というのがある。基本的に日本に住む日本人の立場からすると、原油安自体の恩恵の方が圧倒的に大きいので歓迎すべきはずだが、国際的なトピックとしては、必ずしもそうではないという考え方である。
 米国は石油の最大の消費国であるから、シェールオイルの恩恵もあって最大の産油国に躍り上った。これが恐らく原油の価格へ与えるインパクトがもっとも大きい背景だろう。
 そうして消費国として大きな影響力のある中国の経済の鈍化と先行きのくもりがあげられる。これからも消費が伸びない訳ではなかろうが、思ったよりすぐにはたくさん必要ないということか。
 今までは需要が減れば、OPECが減産するなど、生産調整をすればよかった。これまでの原油高の背景は、むしろこの調整が上手くいって割高に保っていたということもいえる。さらに米国は輸出も可能になったわけだが、あくまで割高だったから余力を生んでいる訳で、安売り合戦に参加するとコストの面で競争力があるわけではない。
 それでも根強く供給過多になる背景は、需要を見越して増産を続け、そうしてそれがやめられない産油国の事情がある。石油というのはあらゆるエネルギーの中でも、比較的扱いが易しく安全性が高いというのがまずある。そうして効率よく高カロリーで、大きな力に変換するのに都合がいい。そうしていくら高くなったからといっても、比較して他のエネルギーよりやはり安かったということもあって需要が伸びた訳である。そうすると産油国は、下手に他の産業を育成するよりも、手っ取り早く外貨を獲得することが出来る。とれさえすれば売れるのだから、国自体の財政も安易に原油に頼る体制が出来上がる。
 いくら需要が下がったからといっても、しかしながら需要と供給のギャップは、単に全体の1~2%程度に過ぎないのだが、先物など投機的な資金が紛れ込んでいたために、価格は高値の時代から7割も落ちてしまった。結局この小さいギャップを調整するために減産をすると、実はこの隙間に別の産油国が入り込むという事情がある。中東の政治情勢が不安定なところは、一時期輸出が止まっていたのだから、この隙間を狙ってかえって増産の構えを見せているところも多い。そうすると現在輸出が堅調である産油国は、価格が下がっても減産できなくなっているというジレンマに襲われている。損を覚悟で顧客を確保せざるを得ない訳だ。
 結局そういう事情を汲んで、投機マネーは行き場を失って逃げていく。堅調に原油は売れているのに、価格だけは下がってしまうトレンドが出来上がっているということだ。
 損が出ていても減産が出来ないのだから、需要が伸びない限り解決は無いという図式になってしまった。さて、これから伸びそうな地域とはどこだろう。
 皮肉なことに、財政や将来性があまりない日本のような国は、これで少し息継ぎができている。だたそれでも、一気に死ぬかじわじわ死ぬかだけの問題とも言われている。聞くところによると、車の給油で、安価なところを探し求める意識は低下したといわれる。いつまで無意識でいられるのか、それは今のところ誰にもわからない。
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詐欺だけど人助け   夢を売る男

2016-03-02 | 読書

夢を売る男/百田尚樹著(幻冬舎文庫)

 自分の本を出版して売りたいという欲求にあわせて、自費出版に毛が生えたような手法で著者に金を出させ急成長する企業、主にその出版社で働く敏腕部長の活躍を描いた作品。まず、文学賞などを設けて原稿を集め、落選した人間に惜しい作品なのでぜひ会社として出版したいが、自己負担もあるということで金を出させるのである。ほとんど詐欺まがいのやり口だが、小説とはいえ、なるほどという説得力がある。そうしていくつかのモデルで出版に至る経緯を描く。しかしライバル会社が登場し、同じような手法でありながら、さらに顧客獲得に容赦が無い実態を知る。そこで起死回生の奥の手を使うことにするのだが…。
 このやり口の汚い敏腕部長は、過去には大手の出版社の編集者として働いていた経緯があり、実は、本に対しての愛情が人一倍強いということも後々明らかにされる。金儲けのために詐欺まがいの商法に手を染めているようでありながら、現状の出版事情の何もかもに精通している。そうして、本当にこの現状を憂いながら、本の出版という夢の事業を、形はどうであれ実現させているということが、段々と分かっていく。基本的にはコメディなのだが、著者自身が置かれている立場も、文中でしっかり皮肉ってみたりしている。つまるところ売れなくて素晴らしい作品というのは歴史的にも存在することは無く、残るものは必ず何か優れたものがある。時々くだらない作品も売れたりはするが、後世に残ることはやはり無いのである。
 面白く読んだわけだが、もちろんこれは僕自身にも言及されていると考えられる文言も多い。昨今の出版事情は、厳しいを通り越して、ほとんど不毛化している。いまどき小説などというマイナーな文化に接しているような人間というのは、実はほとんど存在していないのだ。僕も実はほとんど読まないが、そういう僕であっても、平均的な日本人の数倍は読んでいるかもしれない。そうであるのに、文学賞に応募する人間は、年々増えているのである。読むべき人間は居なくなっているのに、読まれるべきだという作品を書く人は増え続けているのだ。出版まで至らなくても、ブログのようなものに記事をせっせと書くような人間もごまんといる。さらに毎日更新する酔狂さだ。まさに僕のことだが、そういう人間がいるからこそ、このような詐欺まがいの出版社が生きていけるということなのだ。
 批判され揶揄されている立場ながら、まったくその通りだと思う。このような歪んだ社会が日本には存在し、多くの人は指摘すらしないが、放置しているのが現状なのだ。騙される人間が悪いということは必ずしも言えないが、気分良くだましてくれることで、お金はかかることかもしれないが、実は出版が人助けになっているということも言える。まったく妙なコメディだが、創作物語とは言いながら、現在の出版を辛辣に描ききっていることは、それなりに意義深いのではあるまいか。
 さて、このような作品を読んだ後、お前はこれからどうするんだと問われると、まあ書いちゃうんだから仕方ないよな、というのが正直な思いだ。自己顕示欲が強い? まあ、そうだろう。エゴの塊? うーん、ま、そういうこともあるな。でもまあブログがあるのに、自己負担して出版するかと言われたら、フツーにNOなんだけれど。そのあたりは度々ブログには書いてきたとは思うんだけど、たぶんこの本のような見方を一般の人がするとすると、やっぱりちょっと違うのかもしれないとは思う訳だ。当たってるけど違うことも多い。人間というのはそれくらい変で、ちょうどいいと思いますけどね。
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