カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

もっと内なる世界の表現

2015-06-15 | net & 社会

 コスプレというものは知らなかったわけではない。コスプレイヤーという人たちがいるらしいというのも聞き及んでいる。というか、特に検索している訳ではないにせよ、時折目にする。アニメか何かの二次元の世界の人を現実の三次元の人間で演じる世界なのかな、という見当くらいはつく。実際にそうらしいし、アニメだけでなくゲームだ、という話も聞いたことがある。ゲームって言ってもアニメじゃないんだな、とちょっと不思議だが、要するに二次元なんだろう。またはそれに派生するフィギアもあろうから、ともかく人間社会とは別の世界の住人のまねをすることと、そうしてそれを写真にとることが大方の目的のようだ。
 コスプレというのは確かに日本でも大流行りのようだが、諸外国でもそれなりにウケは伝播しているらしいことも見て取れる。米国はもちろん欧州やロシヤなどでも愛好家はいるようだ。もともと彼等には仮面舞踏会やハロウィンなどの仮装文化がある、という解説も読んだことがある。もともとはそういう刺激はエロとの関連もあって、根強い人気があるという。もちろん子供が遊びでやるという側面もあろうが、倦怠期を乗り切る工夫なのだという話もある。なるほどとは思うが、勝手にやればよろしい。
 しかしながら日本のコスプレというのは、圧倒的に女性市場ということらしい。女の人の多くは化粧をするので、もともと個人の技術力があるらしいこともあるが、仲間と一緒にキャラクターになり切って、さらにそのアニメだがゲームだかの場面と同じようなポーズをとって写真に納まるというのが楽しいようだ。プリクラよりよりオタク的に深い世界なのかもしれない。そうしてふだんの姿のギャップも含めて、違う世界に浸ることが大切らしいということのようだ。
 女性の方が変身願望が強いのだろうか。もしくはより合理的に具体的な考えがあることが土台になっているのではなかろうか。女性の方が男性より現実的だといわれるが、この現象はその考えを矛盾なく写す鏡ということなのだろうか。
 ネット社会での露出の多いコスプレは、いまだに男性目線のエロものが多いにせよ、実際のコスプレイヤーの愛好している写真というのは、もっと個人的に小世界で共有するのを目的としたものであるようだ。それは多くの人の共感などは必要としていないようにも見える。年齢層には幅があるにせよ、一種の彼女らの青春の姿という感じさえある。いつかは卒業するかもしれないけれど、今はこの世界にかけているような、そういう切なさも含んだ文化であるらしい。
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阿漕なこと

2015-06-14 | ことば

 やり方がずるいことなどを指して「阿漕(あこぎ)なことをする」などと非難する。また、あくどいという意味などでも使われるようだ。
 もとは三重県の阿漕が浦の逸話がもとになっているとされ、昔そこが禁漁区であったものだが、再三にわたって密漁をしてとらえられた漁師がいたという。そういうわけで、もともとはしつこい様を指して「阿漕なこと」と言っていたものらしいが、なんとなくしつこいニュアンスは薄れて、禁を破るような悪さというような意味が残ったのかもしれない。
 しかしながら僕ら音楽愛好家としては、この阿漕なことといわれると、要するにアコースティックギターを連想してしまう。そういう人はあんがい多くて、アコギを弾くことを阿漕なことをするといったことのある人が、それなりにいる。たいして面白くもないのだが、どうしても言ってしまったり連想したりして、変である。
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見た目が肝心とは限らない

2015-06-13 | 境界線

 動物が進化の過程で目を獲得したのは、実は植物との関係があるらしい。普通は遺伝子というのは種を超えて混ざったりはしないのだけれど、とにかく地球の長い歴史においては、そんなことも言っていられないくらい変なことが起こりうるようだ。
 植物は当たり前だが光合成をする。恐らくこれと大いに関係があって、太陽の光に反応する遺伝子というのが当然ある。いわゆる光に対するセンサーの役割をすると考えられており、その光に反応する遺伝子が、何らかの出来事で動物の遺伝子と混ざった可能性があるのだというのだ。それまで動物というのは繊毛などに触れたものを、大きさとか適当に判断して食ってしまっていたのだろう。言い忘れたが、動物の元とみられる微生物の世界がやっぱり始まりになっていて、微生物には動物と植物が混在していて、そういう原始的な生き物というのは、まだまだ植物と動物との境界が緩いのかもしれない。
 進化というのは遺伝情報の書き換えで起こるという。しかしながら基本的に極端に遺伝情報が変わるということは考えられないのだが、やはり長い年月においては、変わることがある。人間として生きていると、どうしてもそういう実感が伴わないわけであるが、変わった情報を持って生き残った方が、現在生きている現実に過ぎない。特にその情報が優れていたからということは関係が無くて、いくら人間のように生物上上位の(他の生物からは脅威の)位置にいるからと勝手に考えてみたところで、それは何も優れていることの証明にはならない。
 そうではあるが、目を獲得してその機能が向上したことは、限りなく運が良かったのかもしれないとは思う。動物の中でも比較的人間というのは目が良い生物で、そのために、例えば顔などの識別を可能にし、多様化したのではないかとも思われる。たとえば人間とはほとんど機能的には似た生物であるネズミであっても、人間から見るとほとんど区別がつかないくらいに皆似ている。要するに彼らは視覚で仲間の個体を区別していないのかもしれない。
 もっとも目が良くて目に見えることを貴重な情報とするために、比較的見えることに頼りすぎてだまされやすいということはある。百聞は一見にしかずと言ったりしているが、その一見のために誤った判断をする人も多い。サルや犬は毒キノコを食わないといわれるが、彼らは食べられるものを嗅覚に頼るためだといわれる。自分の口にするものの危険さえわからないような生物というのは、果たして本当に優れた生き物と言えるのだろうか。
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老化しない生物

2015-06-12 | HORROR

 アメーバという生き物がいる。アメーバ状の物質という言い方をすることもあるが、目に見えるような生物としてはいないようだが、微生物として生きている。
 以前アメーバが人を食うというような映画があったと思うが、まあ、そういうことは考えにくい。赤痢アメーバというのがあるようだからまったくの無害ばかりではなかろうが、おおむね人間社会とはそう関係なく、なんというか、グニャグニャと生活されているようである。
 アメーバというのは実に不思議な生き物で、鞭毛や繊毛を持たず、仮足という体の一部を伸ばして移動する。仮足がなんであるのかという説明も難しく、体のどんな部分であっても伸ばせる。主に他の細菌類などを食べるわけだが、口があるわけではない。移動にも使う仮足を伸ばして細菌を包み込み、そうしてそのまま消化をする。要するにやはりどの体の部分であっても口や消化器官に変化できるということだ。
 ちなみにアメーバはギリシャ語の「変化」という意味を語源としているらしい。
 単細胞動物で、分裂して増えるわけだが、基本的に自分の体の一部が分かれているだけのことで、それは個体として果たして別のものと数えていいのかはわからない。何しろアメーバは老化するとは考えられていない。元の一つのアメーバが分離して増え、それぞれが自分の体の一部だからだ。そう考えると実に数億年にわたって生き続けている生物かもしれない。なかなか侮れない優れた生き物と言えるかもしれない。
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勉強してもらおう

2015-06-11 | ことば

 子供の頃に親の買い物について行って、よそのおばちゃんが店の人に「もっと勉強せんば」と言っているのを聞いて、少し驚いた記憶がある。いわゆる「まけろ」という意味だとは知らなかったのだろう。店の人も「はあ、それでは勉強させてもらいます」などと言っている。ちょっと面白いな、という感じだろうか。
 確かに勉強は「勉め強いる」と書いてある通り、頑張ったり無理をしたりするようなことを指している言葉である。学校に行って勉強する様子は、学問を修めるために、勉め強いる様子であることから、恐らくのちに転じて、学問を修める様子そのものが「勉強」という言葉になったのかもしれない。子供の僕に知りようがないことだが、もともと無理を言ってまけさせるようなことの方が、由緒正しい表現なのかもしれない。実際に勉強という言葉が今の意味の勉強になったのは、明治大正期であっただろうとは言われている。それまでの日本人が勉強をしなかったわけではなかろうが、勉学という意味で、学校などが定着した後に、勉強をするという意味がそのまま通じるようになったのではなかろうかということだ。
 いろんな学校があっても良いことではあるにせよ、そういう意味ということであれば、学校が楽しいところというのは、そもそもの矛盾がありそうなものだ。つらさや苦しみがあっても、耐え忍んで無理して頑張るところであるから、勉強は勉強という言葉になったのだろう。
 ちなみに英語の場合でも、study となると learn より努力の意味の度合いが強いようだ。そういう勉強が楽しくないとは必ずしも言えないものの、やはりその苦労の方に、より重点が置かれている言葉なのであろう。
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愛すべきは前田山

2015-06-10 | 雑記

 四国のローカルドキュメンタリーで、前田山という力士をやっていた。戦争をはさんだ時期に活躍した人らしく、知らない。というか、そういえば朝青龍の引退のときに話題になった人だというのは、このドキュメンタリーを見ながら思い出した。
 四股名の由来は、練習中に怪我をして悪性の骨髄炎にかかり、右腕を切断するかというところまでなったところを、数度にわたる懸命の手術の甲斐あって、回復した。その医者に恩義を感じ、その名前(前田和三郎)をとって改名した。
 乱暴者だったらしく、親方が3回も破門を言い渡したという。相撲の取り口も激しく、タブーとされている横綱相手であっても張り手をするなど、前田山の張り手旋風などと言われたらしい。だた、激しすぎたために相撲の取り口として張り手を禁止すべきだ、という議論まで巻き起こしたらしい。
 長く大関を務めたが、戦後に横綱に昇進。しかし休場も多く、横綱時代の通算成績は24勝27敗25休。勝率は471 。歴代横綱で唯一の5割以下の勝率であるばかりか、当然ながら史上最弱横綱と言われている。ただ、通算勝率は666で、大関時代は7割近く勝っていたこともあり、弱かったわけではない。
 前田山が何と言っても人々の記憶に残ったのは、その引退にまつわるエピソードである。初日に勝ったのちに5連敗を喫し、大腸炎を理由にそのまま休場したのだが、休場届を出した足で病院には戻らず後楽園球場へ。来日していた大リーグの投手と握手し、日米野球の試合を観戦した。まずいのはこの時の写真が新聞に取り上げられ、非難が殺到。急遽休場を解いて横綱の土俵入りと千秋楽への取り組みを希望したが却下され、そのまま引退勧告を受けてしまい受けざるを得なくなったということのようだ。後に朝青龍が休場してモンゴルでサッカーをしたために非難を集めた事件の前例として話題になり、それで僕も名前をなんとなく聞いたことがあったようだ。
 何とも不名誉でしょうがない人のようだけれど、後進の指導では定評があり、横綱朝潮を育てたほか、持ち部屋(高砂部屋)の力士が幕内最多を占めるなどした。さらに初の外国人力士高見山を入門させ育てた。これより門戸が海外に開かれたわけで、現在のモンゴル人力士たちをはじめ多くの人から死後にも慕われる存在である。もっとも高見山が初優勝したのは、死後一年足らず後の事だったという。
 高見山というと僕が子供の頃の大人気者力士で、なるほどその親方さんだったのかと改めて感慨深い。また、朝青龍の引退の時の日本人世論というのは見苦しく嫌だったが、あの時外国人だから日本人のようにルールを守れないのだというようなことをいう人がいて、もう少し前田山を見習ってものを言って欲しかったものだと思った。日本人だってダメな人はダメで、しかし愛すべき人物はいる。そういう人が生きていられる社会こそが誇れるものではないかとも思う。そうしたら日本の自殺率もいくらかは下がるのではなかろうか。
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楽しむのはつらいことに勝つためだ

2015-06-09 | 感涙記

 スペイン人のテニス指導者が、日本の子供にテニスのコーチをするドキュメンタリーを見た。基本的に楽しんでプレーする工夫をする訳だが、その理由としては、テニスを続けてやっていくためには、楽しんでやった方が苦しみに耐えられるから。要するに長く練習に耐えられる精神力を作るためになるということかもしれない。恐らく日本の練習とは真逆の発想なのだが、これは大人にもためになる話ではないかと思った。
 テニスの練習ではたくさんのボールを使う。ボールを使い切ったら、皆で散らばってしまった玉ひろいをしなくてはならない。子供たちは蜘蛛の子を散らしたように走り回って素早くボールを集めようとする。恐らく日本人のコーチからは、ぐずぐずするな、とか、急げとか怒られながら、これまで玉集めをしていたのではないか。それなのにこのスペイン人コーチは、玉集めするときに「走るな」というのだ。それぞれに歩いて集めるように指示する。これに子供たちは面食らってしまって「おいおい、走るなだって…」というように、全員動揺して戸惑ってしまう。まったく訳が分からない。いったいこの人は何を言っているのだろう。
 真意としては、メリハリのようなことらしい。いつも集中してかえってその集中力を切らすより、テニスのゲームがそうであるように、長時間の戦いにおいても対応できるように、集中と弛緩をうまく利用して、精神力を鍛えるというか、そういう考え方を学ばせようとしているらしい。
 また、親に対しては、試合から帰ってきた子供たちに、勝ち負けの結果を最初に聞くなとお願いする。子供たちがどういう考えで試合に臨み、そうしてそれが上手くいったかどうかが大切で、ゲームの勝ち負けはあえて重要ではないという。きっぱりと結果はどうでもいいことと言い切るのだ。親たちはあんぐり、という感じ。試合に勝つために練習しているのではないのか。試合に勝つことはいいことではないのか。
 また、いわゆるチャンスボールというのがあって、確実に点を取りにいけるようなボールが来たら、今までなら確実に慎重に万全を期してミスをしない、という指導を受けていたようだ。まず、どのボールが自分にとってチャンスなのかという見極め方もあるが、その後自分がそうだと思うに至ったチャンスボールに対して、ミスをしていいから思い切りいくように指導する。これにはまた子供たちが目をぱちくり。もっともミスが許されない場面が、もっとも自分に自由がある場面なのだ。まったく真逆の教えと言っていいだろうが、その意味は確かに理解できるものではなかろうか。勝負というのは、自分が見つけるもので、そうして冒険して掴むものなのだ。
 他にもテクニック的にはいろいろあったが、変わっているというより、日本人というのを今一度考えさせられる思いだった。強い人間を育てるというのは、単純な厳しさなのではないのかもしれない。たった一週間のコーチで、本当にがらりと変わるものなのかは分からない。しかし、やはり子供たちは自発的に練習をしているように見えたし、楽しんでいる。きつい練習がつらくなくなったのだ。そうして何より、これを見ていた日本人の若いコーチがショックを受けているのがよく分かった。ある意味で一番価値観が崩されたのはこの人ではなかっただろうか。これまでもいい人だっただろうけれど、これまで以上にいい指導者になって欲しいものだ。
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偉大なり「北の宿から」

2015-06-08 | 音楽

 録画していたカバーズという番組を見た。サリューというひととさかいゆうという人を連続で見たが、共に知らない。しかしながらお二人とも、なんだか凄まじく歌が上手かった。声の出し方が調子いいのかもしれないし、やはり結構歌いこんでおられる。そうしてコントロールができているということなんだろう。
 ということでは感心したのだが、面白かったのは、共通の話題として若いころに聞いた「北の宿から」の影響力の話だった。なるほど、あれはそんなにすごい歌だったんだな。
 「北の宿から」のことで覚えているのは淡谷のり子で、淡谷はこの歌が大嫌いだったらしい。「着てはもらえぬセーターを、涙こらえて編んでます」なんて馬鹿みたい、とおっしゃっていた。確かにそれは言えていて、僕も確かにバカだと思ったのだが、それを本気で指摘している人というのは、やはり可笑しい。
 そう思って滑稽な歌だと思っていたのだが、考えてみるとこれは僕もよく覚えている。演歌というのは好きではないのだけれど、この歌が嫌いかといわれると自信が無い。久しぶりにネットで聞いてみると、驚くほど隅々まで覚えている。なんだ、まじめに聞いていたのかな、と思った。
 また、寅さんでも都はるみはマドンナになっており、ほとんどこの歌がインスピレーションになっている。歌姫はこの歌一つでやはり一世を風靡したのだ。楽曲がいいというだけでなく、やっぱりこの歌い方にあって、自分と歌が一体化した世界というのが力強いのではあるまいか。
 歌が好きな人というのは、やはりある程度正直に生きていないといけないのかな、とも思った。これはいい曲だが、演歌の世界でない人が、素直に影響を受けたとは言いにくい感じもしないではない。そういうことを考えさせられたのだった。
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中途半端がいい状態

2015-06-07 | 掲示板

 「村上さんのところ」を読んでいて面白いなと思ったエピソードは、村上さんは明日の仕事の時に聞くCDを何枚か準備して仕事を終えるのだということだった。これが楽しいということなんだが、なるほど合理的なところが見られる方法だな、と思った訳だ。作家の仕事がどういう感じかというのはあんまり実感が無いけれど、具体的な仕事内容より、仕事をしているときにかける音楽を選別しておくというのは、それなりのモチベーションアップの方法かもしれない。それにポイントは、それが楽しいということである。選ぶのも楽しいし、恐らくそれを聴くのも楽しい。要するにすんなり仕事に取り掛かれるということなんだろう。会社の仕事でこれをやれる人というのはそんなに多くないかもしれないけれど、例えば朝一のコーヒーカップを洗って机の上に置いておくとか、別に自分なりにアレンジできる儀式のような気もしないではない。
 学生さんの勉強などもそうだが、途中で休憩に入るときなど、ちょっとキリの良いところまで頑張るという人は多いのではないか。そうして一段落して気分よく休憩に入ったり仕事を終えたりするというのは、それはそれで悪くないような気もしないではない。しかしながら人間というのは厄介で、そういう具合にキリよく物事を済ませてしまうと、また何かを始めるときになかなか調子が出ないものなのだ。いわゆるやる気が出ないというやつで、しばらくうだうだしたような気分になってしまう。ようやく調子が上がるまで、なかなか時間を要するということになってしまう。仕事が出来たり勉強が出来たりするような人は、休んだり区切りをつけたり終えたりするときに、あえて途中で、いわば中途半端にした状態で物事を残すように心がけるといいらしい。そうすると、また手を付けるときに、比較的に早い状態で集中力を回復することができるらしい。
 明日やることの準備というのは、要するにすでに明日の始まりのようなものである。さらにそれが自分なりに気分の良いものなら、安易に楽しんで取り組むことができるのではないか。
 ということで仕事は残っているけど、さっそく今日から気分よく放り出して帰ってしまいましょう。
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なるほど、そう来たかワールド   ボトルネック

2015-06-06 | 読書

ボトルネック/米澤穂信著(新潮文庫)

 パラレルワールドのSFミステリ作品。というか、主に心理劇になっていて、謎解きはもちろんあるけれど、若い世代の人間の心の葛藤を描いている作品といえるだろう。僕なんかは若くないからほとんど忘れてしまったが、こんな葛藤がある人間もいるんだな、という感じだった。
 パラレルワールドということで、自分のいる世界から、生まれてこなかった姉が存在する世界に迷い込んでしまう、という展開になる。姉はいるが自分はいない。それだけのことのように見えるが、しかしそのことで、わずかながら違った世界になっていることが徐々にわかっていく。要するにそれは、姉の影響力で変わるところと、自分の影響力で変わっているところということになる。銀杏の木の有る無しや、両親の関係や、恋人の存在などが実に大きく異なっている。パラレルワールドなのだから、それは当たり前のことなんだが、しかしその対比が明らかにされていくにつれて、主人公はどんどん追い込まれていく感じなのだ。謎解きが進むカタルシスがありながら、衝撃のラストの展開に、思わず唸らされるという寸法だ。なるほど、後味はともかく、なかなか面白い話である。
 文章は、いわゆるラノベ風で、僕のような人間には、逆に取っ付きにくい感じもあるが、若い人には読みやすいのかもしれない。しかしながら内容的には、構成もしっかりしているし、アイデアもなかなかという感じかもしれない。僕にはちゃんと謎が自分自身で解けなかったところもあるのだが、まあ、細かいところは抜きにすると、だいたいの衝撃はちゃんと受けたように思う。要するに楽しめた訳だ。考えてみると子供の考える社会の事なので、ちょっともどかしく感じられるだけのことで、そういうことも含めて、見事な力量で書かれていることも分かる。普通に大人が読んでも、差しつかえることは、まず無いだろう。
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死後は医学部へ

2015-06-05 | culture

 医学部の学生の必修として、人体解剖がある。要するに医者の卵としては、必ず解剖を経験しなくてはならないのだそうだ。当然といえば当然なんだけれど、以前は困ったことに、この解剖をするための体が恒常的に不足していて、それが医学部の悩みだったらしい。
 ところが、である。そういう話は今は昔。現在は献体をする人がずいぶん増えて、どこの医学部でも解剖する体が余っている状態になっているんだとか。さらに献体数は増えていて、今度は医学部に設置している納骨堂が満杯になって、拡張を余儀なくされているのだという。こういうのは嬉しい悲鳴と言っていいのか分からないけれど、なかなかバランスとして困ったことではあるのかもしれない。
 一つには啓蒙が上手くいって、理解者が増えたというのはあるだろう。いろいろと考えられるが、文化的な抵抗感が弱まったり、現実的に偏見が取り除かれたりしたということかもしれない。
 そうしてもっとも大きいのは、死んだ後にも人々の役に立てるという思いの人が増えたということがあるだろう。大変に素晴らしいことだし、尊い考え方だと素直に思う。死んだ後も献身的な気持ちを持てるということが、現在生きている自分自身の満足感にもつながっていると考えるような人が増えているらしい。将来の医学の進歩に寄与でき、引いては知らない誰かの命を助けることのお手伝いができるということに繋がるということだ。それは間接的であるにせよ、間違った考えではない。
 しかしながらちょっと引っかかるのは、家族が居るらしいのに、納骨まで頼む人が多いということかもしれない。解説としては、大学などのちゃんとした機関で後々まで管理してくれることの安心感があるのだという。死後に家族を煩わせることもなく、心配が少ないということらしい。
 いい話と、ちょっと寂しいような話が混在しているような気がするが、生きている人間の考えていることは、やはり世相を映すということなのかもしれない。
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期待は実現化するか

2015-06-04 | 雑記

 バイオコークスという燃料が話題になることがある。原料が植物なら何でもよく、比較的短時間の加工で作成可能ということで注目を集めている訳だ。今までの課題として、普通のバイオマス燃料ではカロリーが足りず、良質の製鉄のために必要な1500度の高温にするまえに燃え尽きてしまうということだった。そのようなバイオマス燃料にさらに圧力をかけ加熱することで、高いカロリーを出すバイオマスコークスになるという。おもしろいのは加熱する際に、比較的低温で行うことで良質のコークスになるということだった。実際に石炭のコークスに一定の割合バイオマスコークスを混ぜて製鉄を行う実験なども行われており、結果としても良好だったということだ。
 そういうことで期待の集まる燃料ということなんだが、詳しく知らないのでそのあとは憶測にならざるを得ないが、要するにこのバイオマスコークスという燃料が期待されるのは、次世代のエネルギーとして、いわゆる比較的クリーンな印象と、現在の化石燃料や原子力エネルギーの代替たりえるのか、ということなのではなかろうか。もちろん候補としての一つであろうが、それはどれくらい現実的なのだろうか。
 はっきり言えそうなのは、そんなに近い将来に代替候補として有力なのかというのはやはり未知数なのだろう。バイオコークスの材料になる木材などは、マレーシアなどから輸入するか現地で生産するといわれている通り、国内生産ではまだまだ採算ラインに乗らないのだろうと思われる。石油などの化石燃料は高騰のトレンドが今後も変わりそうにないし、資源なので数十年先の話にしろ、いずれは枯渇する。もっとも石炭の採掘可能埋蔵量は150年以上といわれているので喫緊の課題ではないが、こちらはCO2の排出問題ということが残る。バイオコークスは植物由来ということで、計算上の事とはいえ、排出量を0にしてもいいとされる。多少まやかしめいたやり方には違いないが、日本のように原子力を止めているような国にとっては、大変においしい話である。
 ということで期待の大きさで、多少の話のゆがみがありそうなのではあるが、有力でないわけではない。もっともそういうことで研究費がもっと出ると、さらに短期間で研究が緒に就くということなのかもしれない。
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ヤングかベビーか

2015-06-03 | ことば

 ヤング・コーンという食べ物がある。単に育ちの早い段階のトウモロコシのようだが、大きな実をつけるために要するに摘果して余ったものという感じかもしれない。しかしこれがそれなりに旨いので、これも商品として成立しているということだろう。僕も好きですけど。
 ヤング・コーンの方が一般的に普及しているとは思うけど、ベビー・コーンという呼び方も聞かないではない。そうなると、やっぱり少し気になるわけだ。どっちが正当か、ということではなくとも、どうしてそうなるんだろう、ということだ。
 Youngでもbabyでも検索すると引っかかるので、あちらでもどちらでもいうもののように感じるが、どちらかというとベビーの方が優勢らしいとは見て取れる。これは感覚としては分かるわけで、ヤングではそれなりに大きくても言えそうな感じがするからだ。摘果するくらいの大きさは、一律にヤングなのかということに、日本との違いがありそうだ。また、恋人にもベイビーと言ったりするお国柄においては、ベビーの方がニュアンス的にかわいいとか、おいしそうというのと相性がいいのかもしれない。
 じゃあなんで日本だとヤングなんだろうということになる。これは日本だとベビーだと、もう少しトウモロコシと違う形でもいいのではないかというのがあるんではないか。カエルの子がオタマジャクシみたいな。
 また、普及する時期というのもあるのかもしれない。あんがい以前からあるように思うので、今の感覚からすると少しダサい感じのヤングでよかったのかもしれない。先取りのみずみずしさの、まだ若いトウモロコシというイメージの方が、その当時は良いと考えた可能性がある。
 トマトなんかだとミニトマトとかベビートマトというのは聞く。やはりあちらだと主流はcherry tomatoらしい。これも日本でもいうが、見た目がサクランボのようなトマトというのがまずあったんだろうとは予想できる。日本だとサクランボだとかえって誤解しそうだし、ミニとかベビーの方が、これはしっくりくるということなんだろう。
 しかしながらヤング・コーンというのを皮付きのまま買うと、家にかえって剥いていると、本当に芯が小さくなって残念な気分になる。剥いたのを買ってくる方が、精神衛生上はいいような気がいたします。
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日本の個人主義を変えたのは…

2015-06-02 | culture

 山村留学制度というのがある。短期のものもあるが、もっと長くという要望が強く、一年間というのが主らしい。都市部の子供たちが、文字通り山村にある小中学校へ通う。住まいは共同の大部屋など。学校から数キロ(決して近くない)徒歩で通うようだ。携帯やゲームなどは無いが、子供たちはそれなりに、そういう環境に慣れて楽しめるということのようだ。田舎の子供だってゲームくらいはするだろうから、ある意味で本当に特殊な環境だ。都市部の子供というだけでなく、それなりにこれに共感する親や教育関係者がいるということではないか。
 都市部の子供たち本人にだけいいということではないという。こういうことを受け入れられる地域の力もあるだろうし、何より子供と離れることにより、親子関係がより強くなるようなことを言っていた。子供との連絡のやり取りは手紙のみ。何気ない文面の葉書が、家族の宝物になった、などとコメントがあった。地域の行事など親がはるばる訪れて、一緒に体験できたりもする。一年間、親子とも貴重な体験を積めるということだ。
 見たのはテレビ番組でのことだが、リポートしているアフリカ人は感激していたのだが、これを見たニュージーランド人、フランス人、イタリア人はそれぞれ嫌悪を感じたようだった。第一は子供が可哀そうに見えるようだ。さらに親子が離れ離れに暮らすことが、まず考えられないということ。判断力がまだない小中学生というのが、特に信じがたいということらしい。ひいては日本人は、個人に干渉しすぎることがこの取り組みに見て取れるのが嫌なようだった。日本人全体への非難まで展開する意見が多数出ていた。
 そういう熱くなる彼ら(彼女)を見て、面白いものだ、と思うとともに、やはり西洋文化の偏見の強さや刷り込みの強さというのを見て取ることができた。彼らの価値観は、絶対的に正しく、個人の感情は偏見に満ちているということだ。自分の子供を大切に思うことと、このような日本的な取り組みというのは、実に何の関係もない。それでも痛烈に批判することを躊躇しない。根本には日本人に対しての差別意識があるのだろうが、そのことにさえ気づきもしていない。日本にある取り組みだとはいえ、実際には探せばどこの国にだって、似たようなことをやっているのは見つかるはずである。多少は文化的に違うやり方だろうにせよ、日本人は個人主義だから、それらのことに干渉することは無いだろう。それが分からないで、日本人を見ているに過ぎないのである。
 もちろん、日本の学校というのは、個人に干渉しすぎるというのは正しい。勉強を教える場所なのに、生活態度などを一緒にみたりする。学校が居心地の悪い自意識の強い人間にとっては、それらのことは、単なる苦痛でしかないだろう。それは僕も感じていたことではある。しかし、このような学校のありようは、恐らく日本的な脚色はあっただろうにせよ、西洋の文化を模倣したものが基本だろう。現代では日本的な変化を遂げて根付いているものの、日本人が集団生活ができるようになったのは、実に近代的な変化なのだと思われる。もっともそれは、当の日本人ですら、すでに忘れてしまったことではあるんだろうけれど…。
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ドーナツは高くていい?

2015-06-01 | 時事

 高級品が売れているという。景気の良い話であるが、それはドーナツのことらしい。以前にも高級ドーナツを売っていた時期があったらしいが、その時は失敗して撤退したらしい。しかし今の状況として、普通の価格帯の倍の値段の商品の動きがよく、さらに高級路線を拡大する方針なのだという。高い=おいしい、という図式なのかはよくわからないが、消費者の動向としては、甘いドーナツをちょっと贅沢して食べたい、ということと、それくらいのことにお金をかけることのハードルが下がった、つまり景気が良くなっている、と言いたいらしい。
 しかしながら、何もかもが高級価格帯でヒットするのかというのは別問題だ。飲料メーカーの紹介もあったが、コーヒーやお茶、水なども続々と高級路線の商品の開発が進んだ。最初は少し動きもあったというが、やはり低価格帯の商品へと、消費動向は戻ってしまったという。考えられることは、日常的に買うような商品としては、やはりベーシックに安いものを手堅く消費する人の方が、多数派だということだ。また、いくら高級への差別化を図るといっても、低価格帯の商品でも、そこそこの高級感やそれなりの水準の高さがすでに確保できているという見方もあるだろう。つまるところ価格は抑えたうえで、量を調整するなどの企業努力をする方が、手堅く強いトレンドなのだろう。
 しかしながら考えようによっては、特に水などの商品というものは、以前は買ってまで飲まなかったのではないか。コーヒーのような嗜好品であっても、特に僕のようなふだんはあまり飲まなかったような人間にとっても、今はあちこちで手軽にふんだんに目にするようになった実感がある。そうして購入する回数においても、実感として手軽に増えているということが言えるのではないか。要するに消費量の拡大である。価格帯が抑えられている現実は、売れなくなったというより、拡大しながら消費を伸ばしていることかもしれない。
 また高級なドーナツの問題でも、やはりそのような「甘いもの」に対する需要自体が拡大して差別化されている現象の一つのようにも思える。たまに寄るコンビニなどでも目に見えて種類が豊富になっていると感じる。僕は自分のために買うことが無いだけのことで、身近な人がこれらを購入する機会も目にしている。コンビニの商品動向というのは実感としてかなり有効そうで、これらの商品の変化が、他の競争を促し、ドーナツの高級化とリンクしているように思われる。恐らく本当に景気が悪くなると、コンビニの経営が先に悪化するのではあるまいか。
 ということで、何が高級化して景気が良くなるのか。それはやっぱりよくわからんです。
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