カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

妖怪はいたるところにいるわけだが

2015-06-16 | culture

 妖怪のことは、外国人にはよくわからんところがあるらしい。Ghostっぽい場合があって、例えば釜だとか履物のようなものが変化したものだとか、馬などの動物が変化したようなものがある。しかしそれらはあくまで幽霊だし、タヌキやキツネが化けるような場合は死んでいるとは限らないし、ウワバミのような大蛇は、やはり幽霊ではない。
 悪い場合だけとは限らないし、特に悪さをしないというのも多い。座敷童のような家につくようなものは守り神のようであるし、fairyっぽい種類とはいえるかもしれない。しかしやはりfairyだと妖精ということになるんで、ニュアンス的にはちょっと違う。だいたいあの蝶のような羽の生えた小人であるとか、キューピッドのような子供的な姿というのは、やはり宗教的な幻想がもとにありそうで、日本のものとは違う。じゃあ日本の妖精とはなんだということになると、イメージ的には宮崎駿的な森のモノノケということなんだろうか。
 monsterが一番近い感じもするが、ちょっと限定しすぎかもしれない。落語などの世界にでてくる(特に上方)天狗や鬼などは、かなりモンスター的なもののようだ。しかしながら恐らくだが、特に天狗のようなものというのは、日本人が見た外国人から派生したもののように感じられる。その姿の恐ろしさから、勝手に怪物を想像したのではないか。しかしながらこれが妖怪の一種かというと、それなりに議論もありそうな感じもする。桃太郎のような人間なんだかどうかも怪しいものは、妖怪なのかも怪しい。竜宮城の住人も、あれは魚たちの変化の姿であろうから、果たして妖怪と言えるのだろうか。
 基本的に妖怪的なのは、やはり河童などのようなものだろう。さらに水木しげるの影響力は大きくて、鬼太郎の世界観が主な妖怪のイメージの基礎になっている気がする。また、アニメのポケモンとか今はなんだっけ? 妖怪ウォッチのようなキャラクターというのがあって、これは既に恐ろしさよりかわいさが主体であって、僕からすると少し違和感がある。まあ、妖怪に伝統が必ずしも必要でないという考えもあろうから、古い考えは邪魔にはなろうけれど。
 しかしながら要するに、生活の中の戒めのようなものに、妖怪のかかわりは深い。神様との対話において妖怪がいるというより、人間の驕りに対して妖怪がいるという図式である。人間はある意味でその存在自体が忌まわしいものだが、自分自身ではそのことを感じにくいということがある。しかしわけのわからない妖怪のような存在が居て、ふだんはただいるだけだから何のかかわりもないくせに、何か人間的なエゴが見えると関わってくるような恐怖がある。自制になるわけだが、そうなると日本の妖怪は、日本人の良心の姿ということにもなりそうだ。良心がある種の醜かったり恐ろしかったりする妖怪であるというのがなかなかのセンスだと感心するが、それは自意識の中の遠慮のようなものかもしれない。
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