カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

歴史観は俺のでかまわない   俺の日本史

2015-06-22 | 読書

俺の日本史/小谷野敦著(新潮新書)

 日本の歴史に特に興味があるわけではないが、考えてみると確かに大河ドラマなどの影響を受けて、それなりの歴史観をいうものを自然にもってしまっているらしいという気はした。しかしながらそんなに熱心にドラマを見続けてきたわけでもないし、実にざっくりとそういうことなんだろうということくらいは、ドラマなどを通じて知っていたかもしれない。特に戦国時代と信長秀吉家康というのは、ちょっと何度も見すぎていて、役者が変わってもそれなりにすぐに呑み込める。さらに幕末のこととなると、やはりいろいろブームもあって知っているような気分はある。ドラマを見ていても、この部分は違うんではないか、などと毒づいたりしている。本からの知識もそれなりにあるらしい。
 そういうことなんだが、それで私生活が特に困るということは無いが、しかし人間というのは厄介なもので、歴史というものをどうしても物語のようにとらえてしまうというのはあるようだ。確かに重要な人物の存在があって、歴史的な事実というのが、あたかもその意思を含めた物語めいた展開をする場合もある。しかしながら時々歴史のイフ問題というのがあって、もしこうならどうなっていたかなどと語られることがある。しかしながら歴史というのは書き残した人がいるから残っているに過ぎないわけで、起こったから仕方がないといえば身もふたもないが、必然なのか物語なのかはもともと何の関係もない。誰かが良かったりすぐれたりしたから歴史が動いたというより、なんとなく偶然でそうなってしまったようなことは多い。徳川幕府の誕生なんかでもそう思うことがあって、いろんな人がどういう訳か裏切って徳川の側について、なんだか奇跡的に勝ってしまって、戦国の人の世の戦いばかりに明け暮れるのにも相当みな飽きていたのか、確かにそれなりにやり方は合理的にうまく運びすぎて、徳川の世は長く続いてしまった。普通に歴史を読んでいると、なんだかそんなような気がする。でもそれではやっぱり面白くもなんともないので、何とか意味があるように読みたいだけではないのか。
 また作家の描き方の人気度というのがあって、また経営者のような人が歴史書から出来事を抜粋したりして、あたかも経営的な視点として歴史を語ったりする。まあ、自慢の仕方もそのほうがかっこいいというのは確かにあるが、しかしあとからそんなことを言ったとして、死んだ人たちが反論しないから成り立つ話だけのことではないか。また経営が上手くいっているのはいいことかもしれないが、何も歴史的に良かったことから学んだ哲学が成功を維持している訳ではなかろう。そうして組織が疲弊して、調子のいい人が退くと、普通にまた悪くなったりよくなったりする。それだって歴史であって、良し悪しとはやはり何の関係も無かろう。
 まあ、そういう無常観で歴史をとらえる人というのはどれくらいあるのかは知らないが、そうであってもそれなりに歴史は面白いというのがあるだろう。好き勝手に語っていいかどうかはともかく、事実を読んで感心したのなら、いろいろと語りたくなるのが歴史というものかもしれない。
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