カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

愛すべきは前田山

2015-06-10 | 雑記

 四国のローカルドキュメンタリーで、前田山という力士をやっていた。戦争をはさんだ時期に活躍した人らしく、知らない。というか、そういえば朝青龍の引退のときに話題になった人だというのは、このドキュメンタリーを見ながら思い出した。
 四股名の由来は、練習中に怪我をして悪性の骨髄炎にかかり、右腕を切断するかというところまでなったところを、数度にわたる懸命の手術の甲斐あって、回復した。その医者に恩義を感じ、その名前(前田和三郎)をとって改名した。
 乱暴者だったらしく、親方が3回も破門を言い渡したという。相撲の取り口も激しく、タブーとされている横綱相手であっても張り手をするなど、前田山の張り手旋風などと言われたらしい。だた、激しすぎたために相撲の取り口として張り手を禁止すべきだ、という議論まで巻き起こしたらしい。
 長く大関を務めたが、戦後に横綱に昇進。しかし休場も多く、横綱時代の通算成績は24勝27敗25休。勝率は471 。歴代横綱で唯一の5割以下の勝率であるばかりか、当然ながら史上最弱横綱と言われている。ただ、通算勝率は666で、大関時代は7割近く勝っていたこともあり、弱かったわけではない。
 前田山が何と言っても人々の記憶に残ったのは、その引退にまつわるエピソードである。初日に勝ったのちに5連敗を喫し、大腸炎を理由にそのまま休場したのだが、休場届を出した足で病院には戻らず後楽園球場へ。来日していた大リーグの投手と握手し、日米野球の試合を観戦した。まずいのはこの時の写真が新聞に取り上げられ、非難が殺到。急遽休場を解いて横綱の土俵入りと千秋楽への取り組みを希望したが却下され、そのまま引退勧告を受けてしまい受けざるを得なくなったということのようだ。後に朝青龍が休場してモンゴルでサッカーをしたために非難を集めた事件の前例として話題になり、それで僕も名前をなんとなく聞いたことがあったようだ。
 何とも不名誉でしょうがない人のようだけれど、後進の指導では定評があり、横綱朝潮を育てたほか、持ち部屋(高砂部屋)の力士が幕内最多を占めるなどした。さらに初の外国人力士高見山を入門させ育てた。これより門戸が海外に開かれたわけで、現在のモンゴル人力士たちをはじめ多くの人から死後にも慕われる存在である。もっとも高見山が初優勝したのは、死後一年足らず後の事だったという。
 高見山というと僕が子供の頃の大人気者力士で、なるほどその親方さんだったのかと改めて感慨深い。また、朝青龍の引退の時の日本人世論というのは見苦しく嫌だったが、あの時外国人だから日本人のようにルールを守れないのだというようなことをいう人がいて、もう少し前田山を見習ってものを言って欲しかったものだと思った。日本人だってダメな人はダメで、しかし愛すべき人物はいる。そういう人が生きていられる社会こそが誇れるものではないかとも思う。そうしたら日本の自殺率もいくらかは下がるのではなかろうか。
コメント
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