カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

見た目が肝心とは限らない

2015-06-13 | 境界線

 動物が進化の過程で目を獲得したのは、実は植物との関係があるらしい。普通は遺伝子というのは種を超えて混ざったりはしないのだけれど、とにかく地球の長い歴史においては、そんなことも言っていられないくらい変なことが起こりうるようだ。
 植物は当たり前だが光合成をする。恐らくこれと大いに関係があって、太陽の光に反応する遺伝子というのが当然ある。いわゆる光に対するセンサーの役割をすると考えられており、その光に反応する遺伝子が、何らかの出来事で動物の遺伝子と混ざった可能性があるのだというのだ。それまで動物というのは繊毛などに触れたものを、大きさとか適当に判断して食ってしまっていたのだろう。言い忘れたが、動物の元とみられる微生物の世界がやっぱり始まりになっていて、微生物には動物と植物が混在していて、そういう原始的な生き物というのは、まだまだ植物と動物との境界が緩いのかもしれない。
 進化というのは遺伝情報の書き換えで起こるという。しかしながら基本的に極端に遺伝情報が変わるということは考えられないのだが、やはり長い年月においては、変わることがある。人間として生きていると、どうしてもそういう実感が伴わないわけであるが、変わった情報を持って生き残った方が、現在生きている現実に過ぎない。特にその情報が優れていたからということは関係が無くて、いくら人間のように生物上上位の(他の生物からは脅威の)位置にいるからと勝手に考えてみたところで、それは何も優れていることの証明にはならない。
 そうではあるが、目を獲得してその機能が向上したことは、限りなく運が良かったのかもしれないとは思う。動物の中でも比較的人間というのは目が良い生物で、そのために、例えば顔などの識別を可能にし、多様化したのではないかとも思われる。たとえば人間とはほとんど機能的には似た生物であるネズミであっても、人間から見るとほとんど区別がつかないくらいに皆似ている。要するに彼らは視覚で仲間の個体を区別していないのかもしれない。
 もっとも目が良くて目に見えることを貴重な情報とするために、比較的見えることに頼りすぎてだまされやすいということはある。百聞は一見にしかずと言ったりしているが、その一見のために誤った判断をする人も多い。サルや犬は毒キノコを食わないといわれるが、彼らは食べられるものを嗅覚に頼るためだといわれる。自分の口にするものの危険さえわからないような生物というのは、果たして本当に優れた生き物と言えるのだろうか。
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