カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

なかなか雷は落ちない

2008-08-11 | 散歩

 雷がゴロゴロ鳴っているのになかなか雨粒は落ちてこない。しかし時々道行く車が濡れていたりする。ごく局地的に落ちてはいるらしい。こうした局地的な集注豪雨を降らせるのは、長く雨が降らない所為もあるだろう。子供の頃にあった7月23日の水害の年も、まったく空梅雨のまま暑い日が続いていたことをよく覚えている。長く暑い日が続くと大雨が降りやすくなるのだろう。
 雷が鳴るとそれなりにおっかないのは確かだが、近くに落ちないものかという期待が少しばかりあるようにも思う。僕は目の前の木に雷が落ちるのを一度だけ目撃したことがあるが、たまがって腰が抜けてしまったものだ。夜だったが、轟音とともに昼間より明るくまわりが見渡せて、ものすごくシュールな気分になった。気がつくと杉の木だったと思うが、メラメラと炎が上がってメキメキ枝が音を立てていたが、いきなり大雨になって火事にはならなかった。いつまでも耳がキーンとなっていて、現実に戻るのにしばらく時間がかかった。そのあとどうやって家なり仲間のところに戻ったのかまったく記憶がない。覚えているのは本当にその雷が落ちたという前後のことだけで、なんでその時山の中にいたのかということさえ、今となってははっきりと思いだすことはできない。
 しかしそういうおっかない体験をしているにもかかわらず、雷に打たれてみたいような、そんなはかないような希望もある。雷に打たれることで人間に何か大きな変化がもたらされるような、そんな気がするのかもしれない。
 やはり子供の頃に雑誌か何かを読んでいて、雷に打たれて生き残った人というような特集記事があったように思う。多くの人はあたり前だがそのまま亡くなってしまわれるようだが、中には雷に打たれながら生きながらえる人がいるらしいのである。特に目を引いたのは、二度も雷に打たれて、一度目は失明し、二度目にまた視力が戻った人というのがいるらしい。なんだか凄いが、どのようなショックでそんなことが起こるのだろう。僕は視力が悪いので、雷に打たれて視力が戻るというのは、ものすごく得なのではないかと思ったりした。その前に失明するなんてことは置いておいて、都合のいいところだけは体験したいのである。さて、実際に雷に打たれる人がその悲惨な目に遭いながら再生するという体験に、なんとなく惹かれるものを感じていたのだろうかとも思う。僕にも雷が落ちて生まれ変わるような体験ができるのではないか、という根拠のない希望は、そういうことで植え付けられているように思う。そうして今だに雷がゴロゴロ鳴りだすと、なんとなくウキウキして窓の外を眺める。派手にピシャーとなったりすると、本当にうれしくなってくる。あの雷が今にも近くにやってきて、僕の上にも轟くと、ひょっとして奇跡の体験ができるのかもしれない。しかしやはり僕には雷は落ちずにこうやって無事に生活が送れている。もちろん感謝すべきことだとは重々わかっているにせよ、なんとなく残念なような気がするので、僕はあくまで雷に何かを期待してすがって生きているのかもしれない。
コメント
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