カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

がんばれ桐生一高

2008-08-07 | 時事

 甲子園に出場している群馬の桐生一高の野球部員生徒がわいせつ容疑で逮捕されたというニュースは知っていた。それでそのまま辞退せず出場するということになって、いい学校だなと思っていたらこのようなニュースが出た。
http://www.yomiuri.co.jp/sports/hsb08/news/20080807-OYT1T00019.htm?from=rss&ref=mixi 
 甲子園に出場するような名門高校だからニュースになったにせよ、野球で勝ち上がって出場の権利を得たチームが出場するのはものすごく当然のことだ。むしろ辞退するという行為の方が無責任で異常な行為である。今までそのような行動をとってきた高校があったということの方が、一部のものに対する未熟で愚劣な暴力行為であったと思うが、やっと日本もまともな人が増えて当たり前の正常な感覚の常識人のいる教育者が育ってきたのだと思っていたのに残念だ。苦情を言うような人の方がかなり精神的には未熟な人に違いないのに、何故そのような人に配慮をするような子供の態度をとるのだろう。本当に悪かったのは罪を犯した人(生徒)の方であって、その被害をマスコミによって受けそうになっているのは出場している野球部員やその関係者だ。その人を非難するのは傷口に毒をなすりつけるような非道な趣味を持っている人たちなのではないか。僕らが世論として守るべきものはそのような弱者であって、傲慢で卑劣なクレーマーではない。
 彼らの存在が時折起こる残忍な殺人事件などの引き金になっている可能性もありうるとも思う。一つの犯罪が、その所属する団体や社会まで過剰な反応を引き出す効果があると分かれば、個人の恨みや欲望を満たすだけの愚劣な行為が、社会的な反抗の象徴になったり、テロ行為として英雄視(または嫌悪でも同じようなものだが)されたりしやすくなる土壌を育てているのではないか。秋葉原の無差別殺人事件でも、ほとんど明らかになっているのは、彼の本当の動機は女にもてなかったという単純なものにすぎなかったという真相である(それは個人にとって深刻であったにせよ)。しかしまわりが勝手に格差社会のひずみから生まれた社会問題のように囃し立てるようになって、似たような事件を誘発させる結果になっているように見える。この責任をだれも取ろうとしない無責任は助長されて、責任の所在さえない弱い立場の人が追い込まれるような社会がまともであるというような世界に住むことは、たとえ今は関係のない部外者である立場にある人たちにとっても住みやすいものではありえない。一般大衆のレベルが政治のレベルともいうが、このレベルの大衆社会が、結果的に日本の将来まで阻害することは、ただの悲劇を超えた不幸なのだと思うのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年も夏フェスには行かない

2008-08-07 | 音楽

 夏フェスというものがあるらしいことは噂に聞く。僕の住むような田舎にそのような習慣はないのだが、そういう習慣のある地域はいいものだなあと思わないではない。しかしそれなりに暑すぎるので、やっぱり出かけていきたくないという気分もある。いろんな人が来ているので、そういうのをあちこちで楽しむというのはよく分かるが、時刻表を見ながら乗り換えるようなことが苦手な人間にとって(生活上そのような必要がないし)、受動的に順番通り聞いていた方が楽なような気がする。
 しかしながら以前は夏になると野外でロックを聴くということはあった。自分が演奏するということもあるが、友人が夏祭りなどに出るのを観に行くということが多かった。小さい町の小さい祭りでロックをやることはかなり寂しいこともあるのだが、仲間内なので恥ずかしいなりに立ち見をして体を揺らす。若いからできたんだろうなあ、なんて今になって思う。もちろん今の方が大人だから恥ずかしさを感じなくなったことも多いので絶対できないとは言えないかもしれないが、そもそも出向いて観るということもないのである。
 しかし夏フェスというものは想像でしか知らないにせよ、山の中とか少なくとも自然の中で大音量に体を預けて草むらなり土の上でシートやらゴザやらを敷いて、時々ペットボトルや水筒からお茶など(別に炭酸飲料でもいいが)を飲んだりして、背中にリュックを背負って、中にはもしもの雨のための合羽などが入っていたりするような鑑賞態度なのではないかと思われる。冒険家のような非日常が楽しめるような気がするし、わざわざ日本まで来て山の中にやってきて、さらに早朝から演奏するようなけだるい気分でもありながら半分やけくそにならずに頑張っている外国人を眺めるような親しみ深いような慈悲深いようなそういう若者の祭典を楽しむということなんだろうか、などと考える。
 ジャズフェスというのが大分高原であるが、季節がいつだったか忘れたが、友人たちと一緒に行った記憶があって、その時はバーベキューをその辺でやりながらジャズ演奏を聴くというスタイルだった。ジャズバンドなんてほとんど知らないし、演奏されている曲もほとんど知らないから、そういう気楽な感じというのはそれなりに好ましいというのもあって解放感もあって、気分は良かった。当然ビールやらなんやら飲んでいい加減な態度であっても、ステージ上の人たちは特に文句も言わない。ジャズの人たちというのはやたら技術の高い人が多いらしいなということはよく分かって、そういうものを演奏して特にイエーイというような盛り上がりよりも、分かる人に拍手をもらいさえすれば満足というような態度の人が多くて助かるのだった。ロックだと盛り上がらないとそれなりにバンドマンも客も落ち込んでしまうものだが、気楽にやれるというのは強みではないかとバンドマン経験者の僕は思うのだった。
 ライブ映像というものを時々観るが、スタジアムのようなところと、広場のようなところで演奏している感じが少し違うのはなんとなくわかるものである。外とはいえ、スタジアムはその場を巻き込むような音の感じがあり、野外では森に音が吸い込まれていくような、少なくともその場だけでこもる感じがない。たぶん夏フェスでの演奏はそういうものじゃないかとも想像するわけだが、遠くにいてもなんかやってるなあというということでえっちらおっちらやってくると、やあなんだか盛り上がってるじゃん近くに行こう、というのが理想だなあと思う。まあ、管理上は何かの仕切りはあるだろうけど、森を歩いていると音が聞こえてきて、行ってみると別世界だった、なんていうようなライブだと楽しそうだとは思う。やっぱり体力のあるうちに一度は行ってみたい気がしないではないが、やはりあまりにも遠い地方でのイベントなので、願いはかなわないまま一生は終わるのだろうなと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする