甲子園に出場している群馬の桐生一高の野球部員生徒がわいせつ容疑で逮捕されたというニュースは知っていた。それでそのまま辞退せず出場するということになって、いい学校だなと思っていたらこのようなニュースが出た。
http://www.yomiuri.co.jp/sports/hsb08/news/20080807-OYT1T00019.htm?from=rss&ref=mixi
甲子園に出場するような名門高校だからニュースになったにせよ、野球で勝ち上がって出場の権利を得たチームが出場するのはものすごく当然のことだ。むしろ辞退するという行為の方が無責任で異常な行為である。今までそのような行動をとってきた高校があったということの方が、一部のものに対する未熟で愚劣な暴力行為であったと思うが、やっと日本もまともな人が増えて当たり前の正常な感覚の常識人のいる教育者が育ってきたのだと思っていたのに残念だ。苦情を言うような人の方がかなり精神的には未熟な人に違いないのに、何故そのような人に配慮をするような子供の態度をとるのだろう。本当に悪かったのは罪を犯した人(生徒)の方であって、その被害をマスコミによって受けそうになっているのは出場している野球部員やその関係者だ。その人を非難するのは傷口に毒をなすりつけるような非道な趣味を持っている人たちなのではないか。僕らが世論として守るべきものはそのような弱者であって、傲慢で卑劣なクレーマーではない。
彼らの存在が時折起こる残忍な殺人事件などの引き金になっている可能性もありうるとも思う。一つの犯罪が、その所属する団体や社会まで過剰な反応を引き出す効果があると分かれば、個人の恨みや欲望を満たすだけの愚劣な行為が、社会的な反抗の象徴になったり、テロ行為として英雄視(または嫌悪でも同じようなものだが)されたりしやすくなる土壌を育てているのではないか。秋葉原の無差別殺人事件でも、ほとんど明らかになっているのは、彼の本当の動機は女にもてなかったという単純なものにすぎなかったという真相である(それは個人にとって深刻であったにせよ)。しかしまわりが勝手に格差社会のひずみから生まれた社会問題のように囃し立てるようになって、似たような事件を誘発させる結果になっているように見える。この責任をだれも取ろうとしない無責任は助長されて、責任の所在さえない弱い立場の人が追い込まれるような社会がまともであるというような世界に住むことは、たとえ今は関係のない部外者である立場にある人たちにとっても住みやすいものではありえない。一般大衆のレベルが政治のレベルともいうが、このレベルの大衆社会が、結果的に日本の将来まで阻害することは、ただの悲劇を超えた不幸なのだと思うのである。