カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

二度目のポニョ

2008-08-16 | 映画

 大橋のぞみちゃんの歌声を聞くとついつい合わせて歌いたくなるのだが、そして実際にいつのまにか口ずさんでいて家人に煙たがられる(恐らくいつも歌詞が違うためではないだろうか)のだけれど、やはりこの曲は単純ながら名曲に違いないと思っている。お盆なので親戚が集まっていろいろなことが行なわれたが、詳細は省略するとして、地獄の釜の蓋が開くといわれるので、そのことが直接に関係がないにせよ、墓などには近寄れないということなので、姪っ子がポニョを観たいと言っているらしくて、おおそれはナイスな心掛けではないかと思われ、二度目のポニョを楽しむことが出来た。
 田舎の映画館で(長崎のステラ座は閉館するというのに)生き残っているのが不思議な感じのする某所に行ったが、一回目よりたくさんのお客が来ており、評判が上っているらしいことが伺えた。人が並んでいるのは普段は迷惑に思うが、この映画館の経営のことなどを勝手に考えると、非常に喜ばしいことのように思える。映画館はどんな田舎でもひとつぐらいは生き残ってもらいたいものだ。
 さて、先ず最初に少なからず驚いたのは、一回目より格段に子供にウケているらしい空気だった。前回観た時は客が少なすぎた所為もあるが、ほとんど子供の笑い声は聞こえなかった。宮崎映画らしい人物のドタバタ描写に反応する子供の声が聞こえて、宮崎先生よかったですねと心の中でつぶやいたのだった。もちろん既に興行的に成功したことで精神的にも落ち着かれたことだろうし、やはりなんといってもおおむね好評であるということで流石に宮崎監督であるという不思議な現象が続いているわけであるが、何より子供にウケたかったというのは、恐らく宮崎監督自身の正直な願望だったとも思われ、所期の目的が遅ればせながらも達成できているという時代を作り上げているという点でも、この人はやはり天才であるということが証明された訳である。
 僕も今回は二回目だから、最初の衝撃的な感じからは距離を置いて、だいぶ余裕を持って見ることが出来て、やはり絵がきれいだし、おかしいなりにこんな筋でもまあいいかというような気分にもなり、ポニョが寝てしまうと僕も一緒に睡魔に襲われたりして、さらに楽しく鑑賞することが出来た。この世界観はやはりどうにも説明は不足しているにせよ、あってもいいものとして認知したということになったのかもしれない。いろいろ言ってみたところで、宮崎監督には女に強くあって欲しいという願望が人一倍強いらしいし、竹熊さんの言うように、彼は本当に話の筋などというものはどうでもいいと考えているのかもしれず、場面場面は妙に印象に残り、つい最近観たと言う事もあるにせよ、ほとんど細部逃さず映画を覚えていたのであった。子供時代に楽しかったという体験が描かれているということもよく分かって、また見ることが出来てよかったという満足感も残った。下の息子は姪っ子がこの映画を観て失望するに違いないと心配していたようだけど、姪っ子は見終わって楽しかったといった。どの程度そのように思ったのかは僕には分からないにせよ、じわりと子供心を捉えていっていることは間違いの無いことなのであろう。これでもうしばらくすると、また作品を最後のつもりで作ってくれという世論が形成されていくに違いなく、宮崎駿はまたどこか遠くの宿に逃げ出して構想を練ることになるのかもしれない。売れなければ本当に困ることになるにせよ、売れることは今の宮崎監督にとって、本当にいいことなのかどうかは分からなくなってしまった。お元気なうちはいつまでも求め続けられる存在ではあるだろうけれど、そう簡単に死ぬこともままならない人生の後半期に入ってしまったのではないか。好きなことを続けられる人が、必ずしもしあわせなのではないようにも思えて、勝手な僕の空想に過ぎないにせよ、人というのはままならないものだとも思うのだった。これの何十分の一でも他の才能ある作家のもとにこの幸運のかけらが舞い降りてくれたら、バランスとして、さらに多くの人がしあわせになれたであろう。しかし天才という存在は凡才のそれとは違うものなのであるから、たとえ獰猛な世論の波に食いつかれてしまったとしても、そうそう強靭な翼がもげていないことを切に願っているのである。
コメント
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