カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ご兄弟ですか?

2008-08-21 | ことば

 今日は珍しく小琳ちゃんも一緒になって散歩に行った。犬の散歩をしている人は多くて、道行に挨拶を交わす。犬同士も挨拶に鼻を近づけたりするが、怒って駄目だったりいろいろである。杏月ちゃんはこの挨拶がうまくいかないといつまでもクークー鳴いて悲しそうである。小琳ちゃんは終始知らん顔で、実に対照的である。
 なんというテリアか忘れたが、立派な顔立ちの黒いテリアを連れたご婦人が道端で休んでいる。正確にはこのテリアちゃんが動かなくなっているようだ。しかし杏月ちゃんが近づくと反応して、ちゃんと挨拶を交わしてくれた。少し歩く気になったのか、ちょっとだけ一緒に歩く。おばさんは「そちらはご兄弟ですか?」とおっしゃるのだが、小琳ちゃんはミニダックスだし、杏月ちゃんはシュナウザーとトイプーのあいの子母親とマルチーズの父親をもついわゆる何とかいう混血である。まあ、写真にあるとおりゴミのような風貌である。僕はしばし意味が分からず、いや、必ずしも血のつながっている意味として言っているのではなく、兄弟として育てているという意味なのかどうかなどと思案して、結局何とも返事が出来なかった。御婦人という人たちの多くは、こういう自然体で難しい質問をさらりとされるので、むやみに挨拶を変わすのはよくないことかもしれない。
 兄弟で思いだしたが、意味としては二匹とも雌なので言うとするならば姉妹なのかもしれないが、日本語としては特にそのように言わずとも、兄弟という表記で必ずしも間違いではない。しかし人間の場合あきらかに男と女の混在している場合には、表記として兄弟と書くことに何らかの誤解を生じさせるような気がしないではない。特に僕のように六人兄弟で男四人女二人の混在している状態にあるような立場の者にとって、僕の兄弟などと書くと単純に男数名の兄弟を連想する人が多いように思われて、別に嘘をついているわけでもないけれど、誤解させてしまっているのが事前に分かるままで黙っているのは、なんとなく気がひける。できれば最初から詳しく説明してもいいのだが、このようなことに時間を割くと、話の本文と著しく逸脱してしまいかねないし、まあ、正直言って面倒である。したがって最近はひらがなであえて「きょうだい」と書くことが多くなったのだが、この間ある機関紙に原稿を依頼されて、たまたま「きょうだい」(自分のではない)と書かざるを得ない場面があり、そのような個人ルールにのっとって書いて提出した。すると事務局から電話があり、このひらがな表記のままで本当に良いのかという確認があったのである。実際に対象となっている人たちには、実に多様に男女が混在しており、そのように書かざるを得ないと考えたという理由を説明して、そのままの表記にしてもらった。後でふと思ったのだが、簡単な漢字をひらがなのままに書くと、なんとなくしまりがないというか、はっきり言って知性が欠けるような不安があるのかもしれないとも思ったが、やたら微妙な漢字の多くなったワープロ変換社会においては、むしろひらがなで書くという人の方が、はるかに知性的であると個人的には感じている。
 そういえば以前米国からの留学生と話をしていて(日本語)、やはり兄弟の話になって、日本語で兄弟や姉妹とこだわるのは封建主義の表れでないかというような事を言われたことがある。なるほどあちらでは弟であるとか兄であるとか、ましてや妹や姉ということは特に表面的にはこだわらないらしい。彼には妹がいるということだったが、英語で話すときはsisterとだけ言って特に姉であるとか妹であるとか説明することは少ないのだという。ましてや言われた方がどちらかなど問いただすことは皆無で、女の兄弟がいるというだけの話以上に興味を持つのは日本人ぐらいだと言っていた。いや漢字文化である中国だってこれはこだわるはずで、日本人ぐらいだという考えは偏見であるとは思ったが、特に抗議することなく、そういう話に妙に感心した。
 ついでだが、第何代大統領などと必ず日本では言うが、あちらにも必ずしもそのような表現がないわけではないらしいが、何代目の大統領であると考える米国人はほとんどいないだろうということでもあった。しかし日本では新しい大統領が誕生すると必ずと言っていいほど第何代の大統領の誰それという。考えてみるとおかしな話であるが、大統領は代々受け継がれている地位ではなく、ただ単にその時代の誰がやったのかということの方が重要なのだという話なのだろう。これは確かに日本人には大統領制は最初から理解できない制度には違いないなあ、などと思ったのだった。
 まあしかしだいぶ話は遠くまで来てしまったが、小琳ちゃんと杏月ちゃんはきょうだいではない。ましてやきょうだいのようでもない。小琳ちゃんが年上だが、そのような序列があるわけでもない。しかし力関係はあるようで、これは僕らがどうこう言って教育するたぐいの問題でもない。いわゆるペットなのだが、しかしここまで生活の一部として家族と一体化していると、そのように言うのもなんだかニュアンスとして正確でないものも感じる。彼女らはいったい何といえば一番いい存在なのだろうか。また、そのようなニュアンスを伝えるにはどのような言葉がいいのだろうか。単純に我が家族といってもいいが、家族の一員と言っている他の家庭の犬のような存在なのかはよく分からない。これは僕の偏見かもしれないが、あえて家族と言っている人たちは、妙に進歩的な(と考えている)考えをひけらかしているようで、なんとなくそのような人たちと同じ意味での家族と言っているわけではないのだとも言いたくなるのである。まあ、これは別の機会に書こう。めんどうくさい。
 しかしながらだいぶ秋めいてきて涼しくなり、朝の散歩は非常に快適で気持ちが良かった。このまま残暑などに戻ることなく過ごしやすい日々が続くことを切に願うものである。
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