カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

2008-08-19 | 読書
敵/筒井康隆著(新潮文庫)

 傑作の声がよく聞かれる作品で、まあ、いつかは読むだろうとは思っていた。読みやすい小説ではあるけれど、断片を細かく区切ってあるので、時々拾い読みして、結構読むのに時間がかかってしまったようにも思う。その細かいところももちろん面白いのだが、いわゆる「敵」の存在が匂いだしてから、徐々に後半への狂気へ流れていくところは、なかなか圧巻という感じで引き込まれた。前半の読書スピードと後半の読書スピードは、僕の場合明らかに違うような気がした。
 日記を細かく書くと、なんだか日記のために日常を送っているような錯覚に陥ることになることもあるし、実際そういうことになっているような人もいるようだけれど、実際にはいくら細かく書いたところで、日記は日常には追いつけない。ブログのようにネタを追い求めるという気分にはなるかもしれないが、それは書くべきかどうかなどと逡巡するからそうなるのであって、あることを素直に書き、かつ連想に遊べば、ほぼ書くものは尽きない。しかし儀助の書く(というか筒井の書く)自らの日常は、実は日記的なようでいて、かなり日記とは違う。小説なんだから当たり前だという指摘も出そうだが、まあ確かにその通りで、あったことを細かく書いているように見えて、それはかなり空想的な演技なのではないかとも思われた。
別にそうであってもいいにせよ、僕にはこの老人的生活のリアリティがやはり感じられないということがあったのかもしれない。それは僕自身がまだ老人ではないということもあるだろうけれど、儀助という人物が、またかなり特殊なような気がする所為もあるかもしれない。
 僕は仕事柄というか、立場上というか、それなりに年寄りの男性とは話をする機会の多い方なのではないかと思われる。僕のような若輩者に素直に自分の心情を語るような人はいないのかもしれないが、それでもお年寄りといわれる人たちがどのようなことを考えているのかということは、割合実感として理解しているようにも思う。それは社会認識的にどのようなものであるとかいうような確固たるものではないのかもしれないが、儀助のような老人(しかし75なので、若い老人だが)は、それでもかなり特殊の部類の人物であることは間違いがない。いや、むしろ男としては理想形のような、ちょっと出来すぎた人物のような気もする。そこのところが、なんとなく共感の少ない人物になってしまっている原因なのかもしれない。
 しかし儀助の幻想には、なんとなく共感できるから不思議な感じはする。男の寂しさや欲望ややせ我慢は、ともすると同時に快感の伴うこともあるだろうことは実感としてあるようである。今自分の欲望を果たしてしまいたいというものより、ここを我慢してしまうことの方が快感が深まるというのは、想像としてよく分かる。自制をきかせている自分自身に対しても快感を伴う。それは他から見ると単なるやせ我慢にすぎないようなたわいないことなのかもしれないが、本人の満足感はことのほか高いものなのである。僕がこのような老人生活を送るようになるのかどうかはまったく不明にせよ、ひとつの参考になるということはあるかもしれない。しかし今でも愚痴の多い性格だから、このように一見平穏に暮らす事など出来ようもなさそうだが…。
 ちょっとというかかなり違うのだとは分かっているが、シャマラン監督作品の映画的な世界も連想された。現実とはかなりかけ離れた不条理社会の方が圧倒的なリアリティを持ち始め、いつの間にか逆転してしまう。その境目さえもいつの間にか分からない。混乱しているくせに、不条理社会の方が本当の世界なのではないかとも思えてくる。そこのあたりの描き方は見事で、シャマラン監督と大いに違うのは、それでも読む者に破綻を感じさせない作品世界の構築のされ方であろう。正直な内面社会の表れなのか、虚構のあこがれ社会への逃避なのかというのはよく分からないが、このサスペンスは僕には恐ろしかった。自分で選択しているようで、しかし結局は自分自身方が囚われて逃げられなくなっているのではないか。老いというのはそういう心情を含んでいるのか。その時になってみないことには僕が何を考えるかはわからないことだが、恐れるより先に諦めてしまおうなどとも考えてしまった。やせ我慢するような若さのあるうちの幻想であるとうそぶいて、その時を待つことにしよう。
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